【特別連載】杉田敦 ナノソート2021 #03「熾火の木の国へ(前)」

SESCユニダーデ・コンソラソンにある演劇研究センター(CPT)のイヴェント・スペース。講演前の様子。SESCユニダーデ・コンソラソンにある演劇研究センター(CPT)のイヴェント・スペース。講演前の様子。

 

#03 熾火の木の国へ(前)
文 / 杉田敦

 

いつか叶うだろうという根拠のない展望を抱きながら、気がついてみると、一向に実現していないという事実に驚かされることがある。ブラジル行きがそうだった。日本のほぼ真裏にあたるので、簡単に行くことができないのは仕方のないことなのだが、ポルトガルに住んでいたときは、どこかのタイミングで行くことができるはずだと高をくくっていた。けれども、結局、実現することはできなかった。ブラジル行きを望んでいた理由はいくつかある。長年行き慣れていたポルトガルとは異なるポルトガル語話者の世界、ルゾフォニアを経験してみたいというのもそのひとつだった。また、欧米や、自分のいるアジアとは異なる文化圏で、国際展を経験してみたいというのもそうだった。この連載でも触れてきたが、これまで注目を集めてきたドクメンタは、IHRA(国際ホロコースト記憶連盟)の反ユダヤ主義の定義の受け入れを、参加の条件に掲げている[1]。その結果、それまで手にすることができていた信頼や希望は一気に失われていくことになった。運営側からそのような直接の条件提示がない場合でも、ドイツのように公的資金の助成の条件として、IHRAの定義による反ユダヤ主義対策を求め、暗に規制をかけているケースもある。そのような困難な状況のなかで、もう一度、国際展が持っているであろう、本来の意義を確認しておきたいと考えていた。そして、もし可能であれば、これまで経験したことのない環境のなかでそうしてみたかった。そのような場所で、どのような人たちが、どのような想いで国際展の実現に関わっているのか。あたりまえのことを、少し離れた場所で、考えてみたかったのだ。

2017年から翌年にかけての連載では、国際展のビッグイヤーを採り上げた。当時、リスボンに住んでいたので、ブラジルまでは片道10時間程度で、日本からの場合とは比較にならないほど楽な旅程だった。ただ、反ユダヤ主義の定義を理由とした規制は、ヨーロッパでもまだそれほど吹き荒れてはいなかった。そのため、つい後回しにしてしまったのだ。明らかに、判断を誤ったのだ。いまになって、そうした経緯を明かしているのは、これまで依拠してきた、ホドロジー(路の学)という方法論においては、むしろ意味があるからだ[2]。足を向けた場所について語るだけでなく、なぜそこに足を向け、なぜ別の場所に向かわなかったのか。そうした判断を生んだ経緯も、同じように語られなくてはならない。こうしたホドロジーの考えに基づけば、誤った判断であっても、見返しておかなくてはならないのだ。

ガザにおけるジェノサイドは、同時代人としての責任を逃れられない事態だが、それを契機として、反ユダヤ主義という言葉の意味が、それまで以上に重く、政治的なものになっていった。実情への配慮が、自由な思考を制限するようになる前に、言葉の持つ本来の意味を議論し、状況の変化に動揺することがないようにしておくべきだったのは明らかだ。IHRAの反ユダヤ主義の定義が採択されたのは2016年。時間的な余裕はあったのだ。けれども、まだ時間が尽きたというわけではない。また、そうすること自体を断念するべきでもない。そんなとき、ブラジルで講演しないかという依頼が舞い込んできた。断る理由は見あたらない。晩夏の日本を発って、冬から春に向かおうとしているサンパウロに行くことにした。手配してもらった航空券は、パリ経由だった。片道、30時間以上の移動になる。およそ一年前のことである。

サンパウロでは、二回の講演が予定されていた。声をかけてくれたアーティスト、サエボーグは、パフォーマンス会場の視察のほか、オーディション、リサーチなど、過密なスケジュールと闘わなくてはならなかった。そのため、なるべく煩わすことがないように、講演の準備も含めて、可能な限りひとりで行動しようと考えていた。しかし、思い通りにはいかなかった。招聘してくれた国際交流基金は、現地の治安を案じて、基本的に集団で行動することにしたと伝えてきた。具体的な指示もあった。奪われることがあるので、街中で携帯を手にしてはならない。車内にいても、スモークガラスでない場合は、携帯を手にしないように。ガラスを割られて盗られるケースがあるのだという。われわれが到着する数週間前には、空港で銃撃があり、周囲にいた観光客が負傷するという事件が起こっている。くれぐれも、近辺の動きに注意すること……。配慮ゆえに繰り返してくれた注意喚起は、訪問者たちを怯えさせることになった。もっとも、表面上は、空港も、街中も、陽気で、朗らかな空気に包まれていた。そのため、説明された事情を呑み込むことは難しかった。もちろんそれは、短期滞在者ならではの油断であり、不注意に違いない。携えていったクロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』には、日本語版向けの序文があり、彼の訪日に尽力した、自身の招聘元と同じ団体に向けた謝辞が記されていた[3]。無事に帰国できたことを考えると、レヴィ=ストロースと同じ言葉を、何度繰り返しても充分ということはないだろう。

 

ビエンナーレの準備作業中のパヴィリオン・シッシロ・マタラッツォ。ビエンナーレの準備作業中のパヴィリオン・シッシロ・マタラッツォ。
同上。同上。

 

残念ながら、サンパウロ・ビエンナーレは、滞在と入れ違いの開幕だった。そのため、見ることはできないだろうと考えていたのだが、搬入や展示の作業中でよければ、会場に入ることができるという。サンパウロ・ビエンナーレは、1951年に第一回が開催されている。驚くべきことに、ドクメンタよりもその歴史は古い。継続しているものとしては、ヴェネツィア・ビエンナーレに次ぐ歴史のある国際展ということになる。最初に開催されたとき、ブラジルは、民主主義の時代を迎えていた。かつての宗主国であるポルトガルは、1933年から経済学者アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザールによるエスタド・ノヴォ(esta de novo, 「新国家」の意)と呼ばれる独裁体制が敷かれていた[4]。ブラジルも、それに倣うように、1937年からジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスによるエスタド・ノヴォが始まる[5]。しかし、1945年のクーデターによって、元宗主国よりも早く独裁政治に終止符を打ち、民主政治の時代に入っている。1951年は、ちょうどその直後ということになる。もっとも、民主主義の時代は短く、1964年になると再び軍事政権となり、1985年まで続いている。ポルトガルがカーネーション革命で民主化を実現するのは1974年。残念ながら二回目は、遅れをとってしまうのである。

ビエンナーレを企画したのは、シッシロ・マタラッツォとヨランダ・ペンテアード夫妻。マタラッツォは、イタリア系移民の二世の実業家で、父親はブラジルで財を成した大富豪だった。一方ペンテアードは、モロッコ西方の大西洋に浮かぶポルトガルのマデイラ島をルーツとする、ブラジルで裕福なコーヒー農園を営む家系の出で、共に文化芸術の後援者だった。マタラッツォとペンテアードは、最初の民主化後に渡米し、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に感動し、サンパウロに近代美術館を設立することを思い立つ。二人の願望は、マタラッツォのオフィス・ビルに間借りするようなかたちのものではあったが、まもなく実現することになる。1948年のことである。しかし、彼らの想いは、美術館を創設するだけでは充されなかった。次に計画したのは、ビエンナーレだった。美術館が主催する事業のひとつとして、国際展の開催を考えたのだ。マタラッツォとペンテアードは、サンパウロのビエンナーレが実現する前年にヴェネツィア・ビエンナーレを訪れている。彼らふたりの頭のなかには、MoMAとヴェネツィア・ビエンナーレが渦巻いていたということだろう。

最初のビエンナーレは、パウリスタ通りに建てられていたトリアノン宮殿の跡地に、仮設の会場を設営して開催された。21カ国、1,800点もの作品の展示が行われ、仮設会場であったにもかかわらず、10万人の来場者を集めることに成功している。二回目の会場となったのは、現在、ビエンナーレ財団があるイビラプエラ公園で、オスカー・ニーマイヤー設計のパヴィリオン・シッシロ・マタラッツォも完成していた。ペンテアードの尽力によって、第二次世界大戦の戦火を逃れてMoMAに保管されていた、パブロ・ピカソの「ゲルニカ」の展示を実現している。ゲルニカの効果は絶大で、来場者は25万人にも達した。ふたりの努力の甲斐があり、ビエンナーレは順調に立ち上がることになったのである。

 

搬入の完了したイケムラレイコの展示。右はアシスタント・キュレーターのレオナルド・マツヘイ。搬入の完了したイケムラレイコの展示。右はアシスタント・キュレーターのレオナルド・マツヘイ。

 

パヴィリオン・シッシロ・マタラッツォは、全長250mという圧巻のスケールで、内部には、ニーマイヤーの曲線が縦横にうねっている。建築としては非常に興味深いのだが、展示空間としてはかなり癖があるという印象で、アーティストやキュレーターは苦労することになるはずだ。訪問したときは、ほとんどの作品が搬入途中で、展示用の躯体の作業も終わっていなかった。そのため、どうしても視線は、ニーマイヤーの空間を追うことになってしまった。アシスタント・キュレーターのレオナルド・マツヘイは、苦労して、ある程度設置の完了した作品を選び出して説明してくれた。しかしそれでも、完成した状態の作品は一割にも充たないような状態だったので、ここにはこういったコンセプトのものが入る予定だというような、苦しい補足を差し挟まなければならなかった。もちろん、彼の責任ではないのだが、訪問者たちは、想像力を駆使して、完成図を思い浮かべる必要があった。もちろん、完成図というよりは、それぞれの勝手な想像図、妄想図と表現した方が適切かもしれない。けれども、ニーマイヤーの主張が際立つ空間を、未完成の作品を縫うように辿りながら、あれこれ自由に想像してみるというのも、決して悪いものではなかった。ひょっとすると、すべてが整えられた後に、解説のテキストに目を凝らしながら巡るよりも、豊かな体験になったのかもしれない。それはそれで、いろいろな想いをかき立ててくれることになった。マタラッツォとペンテアードが夢見ていたMoMAやヴェネツィア・ビエンナーレの気配を感じるためには、そのような、想像をあてにしたツアーの方が適していたのかもしれない。

総合キュレーターを務めたのは、ベルリンの世界文化の家のディレクター、ボナベンチュール・ソー・ベジェン・ンディクンだった[6]。彼とは、帰国後、京都で偶然、顔を合わせることになった。とあるオープニング・パーティーの片隅で、会場には行ったけど、まだほとんど搬入できていなくて、しっかりと見れたのは石川真生ぐらいだったと言うと、いや、彼女の作品こそ、あのビエンナーレの核心なんだと、少し驚いたように答えてくれた。ボナベンチュールは、翌日、京都大学で開かれたパネル・ディスカッションにもパネラーとして参加していて、そこでも、同じようなことを語っていた。石川の作品のなかには、戦勝国と敗戦国、内地の人間と大和人のような、分断や対立がある。加えて、軍隊の内部やアメリカ本土での黒人差別の問題、さらには、第二次世界大戦前からブラジルに移民を数多く送り出してきた沖縄とブラジルの関係までもが濃密に立ち込めている。また、もちろんそれは、アメリカ、日本、沖縄、ブラジルという特定の国家や地域、人種についての問題に視線を向けるように促してくれるのだが、それだけでなく、世界中のさまざまな地域に遍在している、差別や分断の問題についても意識を向けさせてくれる。そうした作品であるからこそ、ボナベンチュールは、それを、ビエンナーレの核心だと考えたのだろう。カメルーン出身で、脱植民地主義の問題を一貫して見つめてきたボナベンチュールとの会話は、現地でのささやかな体験を、かけがえのないものだというように思わせてくれた。未完成な会場を、乱暴に足早に巡っただけではあったが、おそらくそれでも、核心にある何ものかに触れることができたということだろう。

 

SESCユニダーデ・コンソラソンのパフォーマンス会場を視察するサエボーグら一行。SESCユニダーデ・コンソラソンのパフォーマンス会場を視察するサエボーグら一行。

 

最初の講演は、サエボーグのイヴェントの行われるSESCユニダーデ・コンソラソンの階上で行われた。SESCというのは、Serviço Social do Comércioの略語で、直訳すると「産業による社会サービス」といったところだろうか。ユニダーデ・コンソラソン(Unidade Consolação)は、直接的には、コンソラソン地区の支部という意味になる。館内にはプールなどさまざまなスポーツ施設があり、クラブに通う子供たちが、忙しく駆け回っていた。サエボークのイヴェント会場も、本来はバスケットボールのような球技や、室内競技のために用いられる場所らしく、打ち合わせの様子を少し離れたところから聞いていると、備え付けの機材や設備をどうかわすことができるかということが、とりあえずの課題のようだった。SESCに話を戻すと、この組織は、ブラジル特有の文化、スポーツ、福祉、医療関係の事業を展開する非営利民間機関で、税金ではなく、法律で定められた企業からの拠出金によって運営されている。この制度は、非常に興味深いものなので、簡単に紹介しておくことにしよう。

拠出金の制度が整備された1940年代は、ブラジルはエスタド・ノヴォ、軍事政権だった。現在もSESCを支える重要な文化助成の制度が、そのような時期に開発されたということに、まず、驚かされる。「給与拠出金制度」と呼ばれるそれは、すべての企業を対象とするもので、従業員に支払う給与のうち、決められた割合を文化助成のために支払わなくてはならないと定めている。拠出されたお金は、当初は、職業訓練など実用性の高いもののために用いられていたが、1946年に文化・福祉を担当するSESCが誕生すると、その運営に対しても用いられるようになる。この制度の面白い点は、政治体制の変化によらず存続してきたことだ。軍事政権時に誕生した制度は、民主化後も継続され、再び軍事政権が実権を握っても、揺らぐことはなかった。1988年の、再度の民主化でも事情は変わらなかった。いやそれどころか、新しく制定された連邦憲法によって、法的な基盤をさらに強固なものとし、恒久的な制度となっている。

拠出金の規模は、現時点の比較では、日本の文化助成の2.5倍程度に達している。規模が大きいことで知られるフランスに対しては、およそ半分程度と分は悪いが、文化支援としては充実していると言えるだろう。日本やフランスの場合は、税収に基づく一般会計からの支出になるが、そうした制度に匹敵するものになっていることにも注意しておきたい。ところで、このような運営体制を考えると、SESCは、民間とはいえ、なかば公的な性質を持つ組織であることがわかる。日本の場合、行政主導の文化、スポーツ機関というと、多くの場合、イヴェント開催時には人が集まるが、それ以外は、閑散としているということが珍しくない。しかし、SESCの施設は、ユニダーデ・コンソラソンに限らず、どこに行っても多くの人が集まっている。しっかりと、掲げられた目的のために、根づいているのだ。

 

SESCユニダーデ・コンソラソンにある演劇研究センター(CPT)の壁にかかるアントゥネス・フィーリョのポートレート。撮影:サエボーグSESCユニダーデ・コンソラソンにある演劇研究センター(CPT)の壁にかかるアントゥネス・フィーリョのポートレート。撮影:サエボーグ

 

講演会の会場をチェックするために階上に向かうと、レクチャー・ルームの手前に、資料室のような小部屋があり、当日は控え室として使ってもらうという。パーテーションで区切られただけの簡素な部屋は、資料室、控え室というよりは、どちらかというと倉庫と表現した方が相応しい。けれども、注意深く見てみると、パーテーションのひとつに、壮年の人物のポートレートが掛けられている。アントゥネス・フィーリョ。彼は、ブラジル演劇界の重要人物のひとりで、自身演劇監督を務めるととともに、1982年からは、自身が設立した演劇研究センター(CPT、Centro de Pesquisa Teatral)のディレクターを務めている。今回のサエボーグのイヴェントは、その演劇的な性格を考慮して、CPTが担当することになったようだ。実は、単なる控え室、あるいは倉庫のように見えたそここそが、フィーリョが設立した演劇研究センターだったのだ。

フィーリョは、日本からも数多くの舞台人を招聘している。なかでも代表的なのが、舞踏の大野一雄だ。講演会のモデレーターを務めてくれたサンパウロ・カトリック大学の芸術学部の教授、クリスティン・グレイナーも大野の研究者だった。それ以外にも、サエボーグのオーディションの参加者や、筆者の講演会の参加者にも、彼を研究しているという人が何人かいた。短い滞在であったにもかかわらず、舞踏という特異な領域の、特定の人物の研究をしているという人と、何度も話を交わすことになったのは不思議な経験だった。舞踏というと、最初に名前が思い浮かぶのは創始者である土方巽のはずだが、当然、名前は知られていたものの、彼の研究をしているという人と出会うことはなかった。サンパウロにおける、舞踏、あるいは大野の浸透は、ひとえに、フィーリョの尽力によるものだろう。彼は、ナンシーの国際演劇祭で大野の『ラ・アルヘンチーナ頌』に出合っている[7]。そして衝撃を受け、招聘を考えるようになったのだ。国際演劇祭は1980年で、招聘の実現は1985年のことなのだが、その間、1982年にはCPTの設立がある。おそらく、研究センターの設立と並行して招聘の準備をしていたのだろう。大野の存在は、フィーリョにとって、特別なものだったのだ。

ところで、よく考えてみれば、ブラジルの身体表現といえば、サンバのような激しいダンスや、カポエラや柔術のような、独特の動きを思い浮かべるのが一般的だろう。大野の舞踏は、とりわけその晩年は、動きを可能な限り削ぎ落とし、最小限のものに昇華させようとするものだった。そのような大野の舞踏が、ブラジルという土地で注目を集めるようになったのはなぜだったのだろうか。両者の間に働く引力が、不思議なものであるように思えてくる。招聘が実現したとき、大野はすでに78歳だった。とはいえ、晩年の車椅子による公演などと比較すれば、まだまだ、身体の自由が制限されるというような状態ではない。ブラジル来訪時の映像を確認してみると、そこには驚くほど若々しい大野の姿がある。おそらく、当時の大野の舞踏のなかには、後年の特徴である深い静寂だけでなく、対極のものでもある、躍動も充ちていたのだろう。しかし、もしそうなのだとすれば、そうした大野の双極性が、ブラジルの身体表現に対しても、有意味な見地を提供することになったのかもしれない。そうつまり、躍動こそを表現するブラジルの身体表現のなかに、静寂が同居しているのではないかという視点。静寂と躍動は、大きく隔たり、対極に位置している。けれどもそれらは、入れ子状になったり、重層的、双極的なかたちで、共存しているのかもしれない。動は静に、静は動に。そのどちらかであり、また他方でもあり、あるいは両者が混濁してもいるという状態。大野の舞踏は、ブラジルの身体表現こそを考えさせるのかもしれない。だからこそ、多くの人が、彼を研究対象として凝視めるようになったのだ。

 

サンパウロ北北西、イペウナにある農業施設「コーリン(KORIN)農業ビジネス」。サンパウロ北北西、イペウナにある農業施設「コーリン(KORIN)農業ビジネス」。

 

ビエンナーレ以外にも、見ておきたいものがあった。けれども、冒頭で触れたように、ほとんどの時間を団体で行動しなければならなかった。スケジュールの空き時間も、食事を含めて、全員が揃っていなくてはならない。自分以外の人を巻き込むことになることを考えると、誰もが、突拍子もない提案を遠慮していたのかもしれない。その意味では、ビエンナーレのような国際展や、美術館、博物館という選択は、無難な行き先でもあった。それでも、渡航前から協議して、行ってみたいと考えていた場所があった。ファヴェーラと呼ばれるスラム街がそれだ[8]。あらかじめ招聘元に申し入れていたが、その時点では、ガイドに同行してもらうので可能だということだった。しかし、現地に入ると、調整がつかなかったのでキャンセルになったと説明を受けた。実際の理由がどういうものだったのかはわからない。こちらのことを考えて、危険ゆえの中止という判断を、呑み込みやすい理由で包み込んでくれたのかもしれない。ファヴェーラが安全な場所でないことは、誰もが理解していた。加えて、現地に着いてから、想像以上に悪化している治安についても聞かされている。リスク回避のための中止というような、実際の理由を明かされたとしても、おそらく驚くことはなかっただろう。また、そのような場所に行くことには、ダーク・ツーリズム的な後ろめたさが付き纏っていた。貧困に喘ぐ地域のモレーキと呼ばれる少年たちが、強盗や麻薬売買に手を染め、抗争に呑み込まれていく様子を描いたブラジル映画がある。『シティ・オブ・ゴッド』というその映画のタイトルは、実在するファヴェーラの名前、「Cidade de Deus」から採られたものだ[9] 。映画の舞台はリオデジャネイロなので、サンパウロではないのだが、実態としては同じような場所に出かけようというのだ。実情を知ることにどれだけ意味があるとしても、束の間の表面的な訪問にしかならないことを考えれば、躊躇しない方がどうかしている。そのためだったのか、実現できないと知らされたとき、もちろん、残念という想いがなかったわけではないが、むしろ安堵したのを覚えている。神の街への路は、閉ざされることになったのである。

ファヴェーラ以外にも、希望していた場所がいくつかあった。サエボーグは、自身の作品の内容と関わりのある農場の訪問を検討していた。招聘元は、サンパウロから北西に200kmほど離れた場所にある、養鶏施設のある大規模な農場を探し出してくれた。少し特殊だったのは、その耕畜施設が、日本人の宗教家の理念を戴いていたことだ。宗教家の名前は岡田茂吉[10]。世界救世教の教祖である。日本では、伊豆半島の熱海にあるMOA美術館の創建者としても知られている。彼の死後、分派した神慈秀明会は、同じように岡田を教祖として崇め、MOA美術館に倣うかたちで、滋賀県の信楽にMIHOミュージアムを開設している。世界救世教は、大本教から分派した新興宗教で、国内には40万人の信者が、ブラジルにもほぼ同数の信者がいるとされている。岡田は、宗教家であると同時に、早い時期から、無農薬の有機農法、自然農法に注目していたことでも知られている。賛否は分かれるが、EM菌(effective microorganism、有用微生物群)の農業や畜産への応用を推進していることも、彼の唱えた自然農法の特徴のひとつである。興味深いことだが、岡田自身は、国外への渡航歴はなく、もちろんブラジルにも行ったことはない。けれども、彼の宗教や、彼の思想に基づく自然農法は、宣教師らの手で伝えられ、ブラジルに深く浸透し定着している。

サエボーグの作品には、人間によって大規模な食料システムのなかに組み込まれてしまった動物たちが登場する。そういう動物たちの姿を実際に確認するとともに、アマゾンという豊かな自然を有しているブラジルの人々が、そのような近代的な構図をどのように捉えているのかを知ることができるかもしれない。農場訪問の目的はそこにあった。しかし、世界救世教の信者でもある生物学者の言葉を信じれば、タイミングが悪かった。ニワトリはすべて出荷された後で、訪問時は、空になった施設でメンテナンスが行われているだけだった。卵用と肉用、両方のニワトリが出荷されるタイミングがあるのは不思議に思えたが、仕方のないことだった。結局、一行は、生物学者から岡田茂吉の思想に基づく農業の説明を受け、広大で驚くほど静かな敷地内を歩き、それぞれの施設の用途や仕組みを解説してもらい、あっけなく帰路につくことになった。しかし、ブラジルでも自然農法のようなやり方が注目を集めていること、多少割高ではあるものの、岡田の農場や養鶏場から出荷されたものがスーパーマーケットなどの小売店で人気を集めていることなどは知ることができた。また、肯定的に考えれば、膨大な数のニワトリという生物の生死が、機械的に、一気に切り替えられるということを、間接的ではあるが、経験することができた。そのことには、意味があったのかもしれない。なぜならその経験は、農業や畜産が、巨大なシステムの一部であるという事実を、何よりも示していたからだ。

 

リナ・ボ・バルディ設計のガラスの家のガイド・ツアー。リナ・ボ・バルディ設計のガラスの家のガイド・ツアー。

 

筆者も、訪問を希望していた場所があった。当初、現在は公開されていないと言われて落胆していたのだが、実際にその場所まで行ってみると、スタッフがあたりまえのように開場の準備をし始めた。要望は、意外にもあっけなく叶えられることになった。外観だけでも見てみようというつもりで向かったのは、サンパウロ市街の西端に位置する、「ガラスの家(Casa de Vidro)」と呼ばれる建築家の私邸である。建築家の名前はリナ・ボ・バルディ。外見上の特徴であるガラス張りのファサードから、ガラスの家という名称で呼ばれている。彼女の設計した作品は、サンパウロ市内にいくつかある。サンパウロ美術館(MASP)は、サンパウロの中心部に位置し、観光客が集まるアイコンのひとつになっている。第一回サンパウロ・ビエンナーレの会場となり、仮設のパヴィリオンが設置されたのは、ちょうどその場所にあたる。また、市街北部には、SESCポンペイア文化スポーツ・センターがある。大規模な文化やスポーツのための複合施設は、不規則に渡された空中廊下や、コンクリート壁に穿たれた不定形の窓の外見で、建築ファンにとっては見逃せない場所になっている。

ボ・バルディは、イタリア出身で、第二次世界大戦後の1946年にブラジルに移住している。民主化革命の起こった翌年のことである。移住してからしばらくして、ブラジル国籍の取得を考え始めた頃、自身の手による私邸の設計も考えるようになる。ガラスの家は、移住してから最初に設計したもので、竣工したのは、初めてサンパウロ・ビエンナーレが開催されたのと同じ1951年のことだった。ブラジルの国籍も、同じ年に取得している。ボ・バルディは、1992年に亡くなるが、彼女の死後、夫のピエトロ・マリア・バルディの手で、ガラスの家の管理が行われている。彼は、夫妻の名前を冠した財団を設立し、ボ・バルディの資料の調査を進めるとともに、その整理、保管を行った。けれども、1999年にはピエトロも死去し、ガラスの家の主人は不在となってしまう。以降、運営は完全に財団の管理下に置かれることになり、遺品は、アーカイヴとして保管されるようになる。建築家や研究者など、対象を限定して、予約制の公開は行われていたが、実情としては、なかば忘れられた状態になっていた。

そのようなガラスの家が、2012年、再び注目されるようになる。ガラスの家を主会場として開催された、「The Insides are On the Outside(内側は外側にある)」と名づけられた展示がきっかけだった。企画したのは、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト。彼は、2006年からロンドンのサーペンタイン・ギャラリーの共同ディレクターを務めている。オブリストは、アーティストやキュレーター、知識人らへのインタヴューを行うことで知られているが、ブラジル人にも数多くインタヴューを行い、『entrevistas brasileiras(ブラジル人へのインタヴュー)』と題した2冊の本にまとめている。なかには、ニーマイヤーやパウロ・メンデス・ダ・ロシャ[11] ら、建築家も含まれている。ガラスの家の展示の前年には、ニーマイヤーとノーマン・フォスター[12] の対談を、リオデジャネイロで実現し、その場に立ち会っている。

ダグラス・ゴードンが発案したというタイトルを冠した展示は、ギルバート&ジョージやオラファー・エリアソン、リクリット・ティラヴァニなど、彼の企画の常連たちに加え、建築家の自邸ということからか、フォスターやレム・コールハース[13] といった建築家が招かれ、日本からはSANAA[14] も参加している。ボ・バルディの死後に設立された財団は、基金以外にも、行政や企業から広く助成を受けていたが、改修工事を賄うことはできなかった。ニーマイヤーの展示は1ヶ月あまりではあったものの、ガラスの家に再び光をあてることになった。そのことが、ガラスの家を巡る経済環境に対してよい効果をもたらしたということは推測できる。展示終了後、大規模な改修工事が行われているが、それもまた、オブリストの展示に拠るところが大きかったはずだ。改修工事は数ヶ月で終了し、その年の暮には、ガイド・ツアーによる一般公開が始まっている。

 

シルス・マリアのニーチェの夏の別荘「ニーチェの家」。シルス・マリアのニーチェの夏の別荘「ニーチェの家」。

 

オブリストは、ガラスの家の他にも、私邸を利用したプロジェクトを行っている。最初は、スイス、エンガディン地方のシルス・マリアにある、ニーチェが夏の間滞在したことで知られる別荘で、「Sils」と名付けられたゲルハルト・リヒターの個展が開催されている。1992年のことである。その展示は、小規模なものではあったが、小さな、美しいカタログを発行したことで、比較的、広く知られている。次に開催されたのは、ロンドンのサー・ジョン・ソーン美術館の展示で、1999年から2000年にかけてのことになる。「Retrace Your Steps: Remember Tomorrow(足跡を辿りなおす:明日を記憶する)」と題されたそれには、30名近いアーティストが参加している。サー・ジョン・ソーン美術館は、18世紀から19世紀にかけて活動した新古典主義の建築家、ジョン・ソーンの私邸を利用しているため、一連のプロジェクトのひとつと見なすことができるだろう。2002年には、メキシコ・シティのルイス・バラガン邸で、「Air de Paris(パリの気配)」と題された展示が行われている。バラガン邸は世界遺産のひとつだが、登録は、オブリストの展示の2年後のことである。バラガン、ボ・バルディ、ジョン・ソーンと、建築家の自邸が多いのは、他の職業に比べて、自邸やアトリエを遺すことが珍しくないということなのだろうか。2007年から2008年にかけては、スペイン内戦で暗殺された詩人、フェデリコ・ガルシア・ロルカのグラナダにある夏の別荘、サン・ヴィセンテ菜園(Huerta de San Vicente)で、「Everstill / Siempretodavía(いつもそこに)」と題された展示が行われている。1985年からグラナダ市の手で博物館として整備されてきた場所で行われた展示には、他の場所と同じように、常連のアーティストたちが名前を連ねている。ちなみにロルカは、大野一雄が崇めた、ラ・アルヘンティーナと数奇な巡り合わせがある。没年が同じというだけでなく、詩人は、ラ・アルヘンティーナを「踊る詩人」と呼んで崇拝していた。そして、2012年から翌年にかけて、ガラスの家での展示が開催される。実は、この展示を最後に、オブリストの私邸介入のプロジェクトは更新されていない。その意味では、ガラスの家での展示は、最後というわけではないのかもしれないが、最新のプロジェクトということになる。

ガラスの家の訪問を希望したのは、それが、どのような場所だったのか、確認しておきたいという想いからだった。シルス・マリアのニーチェの別荘にも行ったことはあったが、オブリストの一連のプロジェクトの性質を知るには、もうひとつ参照点となる場所を経験しておきたかった。もちろん、シルス・マリアに出かけたのは、リヒターの展示が行われたタイミングではなかったし、ガラスの家に関しても同じなのだが、どのような場所で、芸術による介入的実践を試みようとしていたのか、実際にその場所に行って考えてみたかったのだ。展示のタイミングを逃しているため説得力には欠けるが、これらの場所での展示は、どれだけ個々の作品に集中することができたとしても、その家の所有者の影が付き纏わないわけにはいかなかったはずだ。そこには、所有者とアーティストの間にどのような関係があるのか、テキストによる明示はない。けれども、空間や空気、記憶などによる、ある意味での明示はある。そこは、ホワイトキューブのような無菌室的な空間ではない。種々のものが舞い上がり、漂っている空間なのだ。リヒターの、L版の写真の上にペイントした「Sils」は、カタログであれば、その表面を辿るだけでよいだろう。けれども展示の際には、ニーテェの塵とでも呼ぶべきものを、どうしても除去することができなかったはずなのだ。ガラスの家での展示も同じだ。そこには、ボ・バルディの、ピエトロの塵が舞い上がり、漂っていたはずなのだ。しかしだとしても、ひとつの素朴な疑問が頭をもたげてくる。それは、オブリストが選び出した場所に固有の事情なのだろうか。おそらく、そうではないだろう。そのような環境の状態は、ある意味で普遍的なものでもあるはずだ。私邸介入プロジェクトの狙いは、むしろそこにこそあるのかもしれない。

 

左から「Sils」展のカタログ、リヒターの作品の上にニーチェの言葉をのせたニーチェ・ハウスのポストカード、シルス・マリアの高級ホテル、ヴァルドハウスからの眺めを描いたリヒターの作品によるポストカード。左から「Sils」展のカタログ、リヒターの作品の上にニーチェの言葉をのせたニーチェ・ハウスのポストカード、シルス・マリアの高級ホテル、ヴァルドハウスからの眺めを描いたリヒターの作品によるポストカード。
ニーチェの家のステンドグラス。ゲルハルト・リヒターによる、ケルン大聖堂のステンドグラス作品のための試作。ニーチェの家のステンドグラス。ゲルハルト・リヒターによる、ケルン大聖堂のステンドグラス作品のための試作。

 

外から見る限り、ガラスの家は、他のボ・バルディの作品とは異なり線の細い印象だ。ガラスとコンクリート、そして鉄で構成された、ミニマリズムとも言えるそれは、サンパウロ美術館の、市街を一望できるように一階部分を吹き抜けにした大胆な構造や、SESCポンペイアの、空中廊下や不定形の窓の印象的な様相とは、まったく異なる性質のものだ。美術館やSESCの建物は、ブルータリズムと呼んでも差し支えのないものだが、あっけないほど華奢なガラスの家は、そのような印象を抱かせるようなことはなく、同じ建築家の設計とは思えないものだ。急勾配のアプローチは、どこに立っても、ガラスの家のリビングを見上げることができるようになっている。か細いピロティに支えられたガラスの箱は、まさに、空中に浮かんでいるような様子で、訪問者たちを見下ろしている。アプローチの行き止まりは折返し階段になっていて、それを登っていくとガラスの家の内部に出る。リビング・ルームに入ると、ゴードンの発案によるタイトルの意味が、即座に、胸に落ちる。ガラスと鉄骨でできたリビング・ルームからの視線は、遮るものがなく、そのまま外に連続している。それは、タイトルが示している通り、内側は外側にあると言うこともできれば、外側も内側にあると、逆向きに言い換えてもよさそうな状態だ。そこでは、内と外という分け隔てそのものが、無意味なものに成り果てている。そのような印象的な空間では、どのような展示が行われたとしても、まずその状態、内と外が相互に立場を入れ替えることができるような状況こそが迫ってくることになるだろう。もっとも、そうした印象も、建設直後と現在とでは多少異なっている。建設時の写真を見てみると、造成直後のためなのか、周囲にほとんど樹木がなく、遠くまで視線が届くような状態になっている。そうつまり、おそらく当時は、外側は外側、内側は内側と、しっかりとそこに境界があったのだ。現在の状態は対照的だ。周囲は樹木で充たされ、そのどれもが、建物を覆い隠してしまうほどに生育している。ゴードンのタイトルは、だからこそ生まれたものなのだろう。

さて、ガラスの家の内部に入ったところまでようやく辿り着いたのだが、紙幅に限りのないウェブとはいえ、そろそろ一旦切り上げることにしたい。後半部は、通常より短い間隔でアップする予定である……。

 

ガラスの家のファサード。撮影禁止の室内からの眺めに近い。ガラスの家のファサード。撮影禁止の室内からの眺めに近い。

 


 

*1 ドクメンタの行動規範(code of conduct)は、国連人種差別禁止条約の人種差別の定義とともに、国際ホロコースト記憶同盟(IHRA)の反ユダヤ主義の定義を、拘束力のあるものとみなすと明記している。芸術監督およびキュレーターのチームは、行動規範の対象外であるともされ、曖昧さも残っている。https://documenta.de/en/code-of-conduct
*2 ホドロジーについては、「#02 ドクメンタを巡るホドロジー(前)」参照(https://www.art-it.asia/top/contributertop/admin_ed_columns/232708/)。
*3 クロード・レヴィ=ストロース(2001)『悲しき熱帯 I』川田順三訳, 中央公論新社, p3
*4 アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール|António de Oliveira Salazar, 1889-1970
ポルトガルの経済学者、政治家。1932年から1968年まで、長期の独裁政権を担う。エスタド・ノヴォ自体は、サラザール後、マルセロ・カエターノの手で、1974年のカーネーション革命まで存続している。
*5 ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス|Getúlio Dornelles Vargas, 1882-1954
ブラジルの政治家。第14代(1930-1945)および第17代(1951-1954)大統領を務めている。
*6 ボナベンチュール・ソー・ベジェン・ンディクン|Bonaventure Soh Bejeng Ndikung, 1977-
カメルーン出身のアーティスト、キュレーター。2021年から世界文化の家のディレクターを務めている。
*7 ラ・アルヘンティーナ|La Argentina, 1890-1936
本名はアントニア・メルセ・イ・ルケ(Antonia Mercé y Luque)。アルゼンチン生まれのスペイン人舞踊家、振付家。
*8 ファヴェーラは、19世紀の戦いでブラジル兵が野営した丘を覆っていた棘のある植物の名前で、転じて、非認可の建造物で覆われた丘のスラムを指すようになった。現在では丘陵地以外のスラムにもこの名前が用いられている。
*9 シティ・オブ・ゴッド。2002年に製作されたブラジルの映画。原題は『Cidade de Deus』。
*10 岡田茂吉|おかだ・もきち, 1882-1955
日本の宗教家、自然農法の実践者。38歳のときに大本教に入信。13年間教団に所属したのち、世界救世教を創始している。
*11 パウロ・メンデス・ダ・ロシャ|Paulo Mendes da Rocha, 1928-2021
ブラジルの建築家。
*12 ノーマン・フォスター|Norman Foster, 1935-
イギリスの建築家。
*13 レム・コールハース|Rem Koolhaas, 1944-
オランダの建築家、都市計画家。
*14 SANAA
Sejima and Nishizawa and Associates、サナア。日本の建築家、妹島和世(せじま・かずよ)と西沢立衛(にしざわ・りゅうえ)によるユニット。1995年設立。

 


 

杉田敦|Atsushi Sugita
美術批評家。主な著書に『芸術、失われた信頼をもとめて』(水声社)、『ナノ・ソート』(彩流社)、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『inter-views』(美学出版)、『nano school』(+journal)など。共編著に『芸術と労働』(水声社)、訳書にマヌエル・デ・ランダ『機械たちの戦争』(ASCII)、フランコ・“ビフォ”・ベラルディ『蜂起』(水声社)がある。2002年から20年間、art & river bankを運営するとともに、『critics coast』(越後妻有アートトリエンナーレ, 2009)、 『Picnic』(増本泰⽃との協働)、『nano school』(blanClass)など、プロジェクトも多く⼿がけている。2017年はリスボン大学大学院で教鞭をとっている。ポルトガル関連の著書に、『白い街へ』、『アソーレス、孤独の群島』、『静穏の書』(以上、彩流社)がある。

 


 

 

杉田敦『芸術、失われた信頼をもとめて』《水声文庫》水声社、2025年
2017年から2018年にかけて、経済危機に瀕していた南ヨーロッパのリスボンを拠点を置いた美術批評家の杉田敦は、国際展を指標に、アテネ、ミュンスター、カッセル、オーフス、グラーツ、ヴェネツィア、パリ、イスタンブール、レスボス島など各地を訪れた。ギリシア美術研究におけるホドロジー(路の学)に着想を得たその歩みは、「どの展覧会に、どんなアーティストが、どのような作品を発表していた」という記述を中心とする国際展の要約とはまったく異なる批評のかたちを成すこととなった。「ナノソート2017」と題してART iTに連載したテキストに加筆、修正を施し、新たに第1章と第10章を書き下ろした批評集。

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