【特別連載】杉田敦 ナノソート2021 #02「ドクメンタを巡るホドロジー(前)」


ドクメンタ15の会場風景。写真:井上文雄

 

#02 ドクメンタを巡るホドロジー(前)
文 / 杉田敦

 

本当はもっと早くこの連載を書かなくてはならなかったのだが、これまでここで触れてきた内容とも関係のある出来事が気になり、どうしても書き進めることができなかった。新たに調べなくてはならないことも、それこそ山のようにあり、どこで区切りをつけたらよいのかわからず途方に暮れてもいた。気になったのは他でもないドクメンタのことだ。このテキストがアップされている頃にはすでに会期を終えていることになるが、インドネシアのコレクティヴ、ルアンルパ[1] のディレクションする15回目のドクメンタに対して指摘された、反ユダヤ主義という批判がそれだ。日本では内容そのものを称賛する意見は数多く見られたが、反ユダヤ主義という批判を正面から検討しようという気配はあまり見られなかった。多くの論調は、運営上の問題と、展覧会そのものが提示しようとしたものを切り分けて考えようという立場に立っていた。その上で、批判を巡る経緯を簡単に辿り、運営上の種々の工夫や、参加したコレクティヴの活動に対して肯定的な印象を述べるというものが多かったような気がする。乱暴に要約すれば、運営に多少の問題はあったものの、コンテンツは素晴らしいということになるだろうか。こうした捉え方は理解できないものではないが、疑問がないわけでもなかった。何よりもまず、それは、本当に切り分けて考えることができるものなのだろうかということだ。むしろ、密接に関係し、もつれ合っているということはないのだろうか。あるいは、単に運営上の不首尾と捉えてしまうことによって、問題の本質を取り逃してしまうということはないのだろうか。いくつかの作品の表象が問題なのだというように矮小化することで、逆に、問題の再発を危惧する立場に立つ人々に対して、安易な検閲を許してしまうことになりはしないのだろうか。問いはとめどなく湧き上がってきた。またさらには、個人的な事情も関係していた。コロナ禍の高騰する航空運賃を賭して、極東の島国から出かけていくことになるわけだから、多少過敏になっていたということもあるだろう。現実的な行く行かないという判断と、何とかその判断を正当化しようという想いも関係していた。まさにそれこそが、ホドロジー的な現実を突きつけていたのだ。ホドロジー、これまでの連載のなかでも、何度か言及してきた、古代ギリシア研究における路の学という考え方のことだ。考察され記されたものが重要であるのはもちろんだが、それ以上に、先人たちの旅の経路そのものが、何かを物語っているのではないかと捉える研究姿勢のことだ。自身が置かれている状況のなかで、どこに行き、どこに行かないのか。そうした判断に基づいた結果として示される経路自体が、旅する人物の考えを明らかにするという可能性は小さくない。ホドロジーはそう考えるのだ。結論に先回りすれば、今回の場合、ドクメンタに向かうことは諦めることになった。その代わりというわけではないが、昨年末、EU加盟申請書を提出し、現在その協議に入っている、建国後まだ歴史の浅いコソヴォ共和国で開催されていたヨーロッパのノマド・ビエンナーレ、マニフェスタに向かうことにした。ここでの考察は、もちろん、そのような事情であるから、マニフェスタについても触れることになるのだが、あくまでも焦点はドクメンタにある。もちろん、実際にドクメンタを見ていないわけだから、ここでの考察は不十分な経験に基づくものでしかない。しかし、カトリーヌ・ダヴィッド[2] のときから20年以上にもわたって足を運んできた展示を見ないという判断が、決して簡単なものではなかったのは事実であり、しかもその判断は、間違いなくdocumenta 15によって引き出されたものなのだ。結局、展覧会を目にするという経験は放棄してしまうことにはなるのだが、それでもそれは、あえて継続してきた経験を手放すという別種の経験に基づきながら、ドクメンタに関する別様の考察になると考えている。ドクメンタを遠ざけてはしまうものの、けれどもそれは、今回のドクメンタの一面を語るものであり、そうすることでまたドクメンタに近づこうとするものでもあるはずだ。この屈折した想い、複雑な希望こそが、書き進めることを困難にした理由なのかもしれない。けれども、そうした取り組み難さが募る一方で、その不確かで厄介なものに手を伸ばさなければならないという義務感のようなものが昂まってきたのもまた事実だ。そして、どうやら、ようやく書き始めることができたようなのだが、いつも以上に、逡巡し、不明瞭なものになるかもしれないこともあらかじめ断っておきたい。

 


ボイスの《7000 Oaks》。カッセル大学のキャンパス内。

 

今回のスキャンダルの発端は、彼らが予定していたプレ・イヴェントとしてのディスカッションがキャンセルされたこととされている。ただ、これにはもう少し前段階があって、そのプレ・イヴェント自体、参加団体に関して、反ユダヤ主義的ではないかという疑義が提出されたことに対する反応として企画されたものだった。疑義自体は、すでに前年にいくつかのメディアで指摘があったとされているが、実際にそれらの指摘を確認することはできていない。問題が広まっていくのは、ヘッセン州の日刊紙、ニーダーザクセン・アルゲマイネがクエスチョン・オブ・ファンディング(The Question of Funding, 「資金調達の問題」の意)という名称のグループの参加を報じたことがきっかけだった。2021年12月のことである。しかし問題となったのは参加そのものと言うよりは、クエスチョン・オブ・ファンディングの実体が、カリル・サカキニ文化センター(KSCC)と呼ばれる団体だったことだ。その団体は、元々はパレスチナの文化省の支部として設立された芸術文化のためのNGOで、展示や演奏会、講演、朗読会、子供のためのプログラムなどを行ってきたのだが、幹部の多くがBDS運動に賛同していることが問題視されたのだ。BDSというのは、よく知られているように、イスラエルのパレスチナに対する抑圧を終結させるために、ボイコット(boycott)、投資引き上げ(divestment)、経済制裁(sanctions)を呼びかける運動である。ジュディス・バトラー[3] やスラヴォイ・ジジェク[4] の賛同によって、日本では無批判にそれを肯定する傾向があるが、パレスチナ人のなかでもそれに対する賛否は分かれている。ドイツ議会は、戦時下のナチスのスローガンと類似していることなどを理由に、2019年、BDS団体への資金提供を禁じるという判断を下している。ここでも断っておかなくてはならないが、バトラーやジジェクを根拠に鵜呑みにすること同様、こうした行政の議決を根拠に、反BDS対応をすべて肯定してしまうことにも危険が潜んでいる。こうした難しさを端的に示すのが、ゲーテ・インスティトゥート、ベルリンのドイツ劇場など、ドイツの公的な文化研究機関が2020年に発表した共同声明、「イニシアティヴGG5.3 コスモポリタニズム」だろう。[5] ここでは、BDSに対する明確な反対の意が示されると同時に、ドイツ議会が採択した反BDS決議を、芸術と科学、研究と教育の自由を保障する、ドイツ基本法第5条3項に反するとして否定している。BDSには反対するが、同時に、反BDS決議にも反対するというのだ。事態が複雑を極めていることがわかるだろう。とりあえずここで確認しておくべきは、件の団体が、こうした判断の分かれる運動の一方に強く共鳴している団体であると言うことだ。また、団体が名前を冠するカリル・アル・サカキニ[6] という人物にも触れておく必要がある。アル・サカキニは、パレスチナの民族主義者で、優れた教育者でもあるのだが、同時に、過激な抵抗運動を称揚したことでも知られている。また、パレスチナにおける反ユダヤという立場から、ナチスに対して期待を抱くことさえあったという人物像も広く流布している。もちろん、こうした印象すべてを受け入れることに対しても慎重にならなくてはならないが、受け取りようによってはそうともとれるような考えを抱いていた可能性を無視することも難しい。クエスチョン・オブ・ファンディングという名称は、芸術文化活動の資金援助の在り方を問おうとするルアンルパの構造改革の姿勢を端的に言い表わすものであり、実施主体の名称としてそれを掲げることは理解できないことではない。けれども問題は、その団体の実体が、BDSに共鳴する精神を抱き持つ団体であることであり、過激とも受け取れる行動を示唆する人物の名前を戴いていることなのだ。こうした事情にいち早く反応したのは、「反ユダヤ主義に対抗するためのカッセルの同盟(Bündnis gegen Antisemitismus Kassel, BgAK)」と呼ばれる組織だった。日本におけるドクメンタ評では、「カッセルの一部のユダヤ人団体」など、それ自体、人種差別的ともとれる表現で暗に示されているのがこの団体だ。中心人物であるヨナス・ドルゲ[7] によると、2009年に行われたガザ戦争に反対する集会で、イスラエルを擁護するプラカードを掲げたことがきっかけで団体が結成され、以降、集散を繰り返しつつ、数人のコア・メンバーによって運営されてきた。この団体は、すでに前年の早い段階でカリル・サカキニ文化センターが参加するという情報を手にしていたが、やがてその名称がドクメンタの広報から消え、どうやら別名の団体として参加するという情報を掴むことになる。そして年末、それがクエスチョン・オブ・ファンディングであるということが判明し、その事実をネットで公開するとともに、ニーダーザクセン・アルゲマイネを含む地方報道機関にプレスリリースを流すのである。ニーダーザクセン・アルゲマイネ紙は、発行部数20万部程度の、日本の地方紙に相当する規模の新聞だが、そこでの報道が大きく広がっていくことになる。日本のドクメンタ評でこうした経緯が軽視される傾向があるのは、こうして周知のものとなった反ユダヤ主義的団体の参加について、多くの関係者がそれを否定したことに基づいている。いや正確に言うと、否定したのはクエスチョン・オブ・ファンディングの参加ではなく、その団体が反ユダヤ主義的であるという部分についてであり、その団体を招くことが反ユダヤ主義的な姿勢を示すのではないかという疑義についての否定なのだが、そうした表明に、ドクメンタ、フレデリチアヌム美術館も名を連ねたことが、疑義そのものを遠ざけることになっていくのである。ドクメンタの監督委員会の議長でもあり、BDSに疑義を唱える社会民主党のカッセル市長クリスティアン・ゲゼル[8] は、その指摘を公然と無視し、同じくBDSに反対する同盟90/緑の党[9] に所属する、ヘッセン州芸術文化大臣のアンゲラ・ドーン=ランケ[10] も声明を出さなかった。唯一積極的に問題を捉えようとしたのは、ドーン=ランケと同じ同盟90/緑の党に所属するメディア・文化担当の国務大臣、クラウディア・ロート[11] だけだった。そうしたあまり活発とは言えない反応に、言いがかりに過ぎないのではないかというある種の期待も加わって、問題の深みを見誤らせることになっていく。多くの論調が、過敏なユダヤ系の団体が、アートに対する理解も不十分なまま、反射的に反応したのではないかという類のものになっていくのはそのためである。

 


カッセル市庁舎前のアシュロットのモニュメントを倒立させた自作の前で、解説するホルスト・ホーハイゼル。手にしているのは、アシュロットのモニュメントの写真。上はモニュメントの銘板。

 

しかし、まったく対策が考えられなかったというわけでもなかった。問題が指摘されたことに対して、ドクメンタやルアンルパの反応は迅速だった。2022年1月19日に発表された声明のなかで、彼らは、反ユダヤ主義という指摘を根拠のない中傷だとして退けるだけでなく、“わたしたちは話す必要がある! 芸術、自由、制限(We need to talk! Art – Freedom – Limits)”(仮)と題された討議を企画する。先述したプレ・イヴェントのことだ。流れ自体は自然なものとも言えたが、けれども気になったのは、その準備過程で、ルアンルパがBDSを主張する団体と討議を重ねていたことだった。そうした姿勢に対して、最初に思い浮かんだのは、BDSに反対する団体からも意見を聞いているのだろうかということだった。もちろん、討議の場を広く開くと言っても限界はあるだろうし、実際には人権など、人間の生存の根幹に関わる問題に対して、あらゆる立場を容認しているわけでないことはいまさら言うまでもない。また、あらかじめ個人的な立場を示しておけば、実際の効力に対して疑問がないわけではないが、BDSに関して敵対的な意見を抱いているわけでもない。しかしそれでも、反BDSを主張する人々を蚊帳の外におくことに対しては、ルアンルパの主張する開かれや繋がりを考える上でも、疑問を抱かざるをえなかった。反BDSの立場に立つ人々にとって、ルアンルパの事前調査がBDSを主張する団体だけからのものであることが明らかになれば、当然のことながら、排外的な印象を抱くことになるはずだ。ルアンルパの振る舞いには、そうした想像力が欠如していた。迅速に反応したことは評価できるとしても、その準備作業は、あまりにも軽率だったのだ。もちろん、BDSに対して反ユダヤ主義として疑義を唱える団体にもグラデーションがある。ドイツの極右政党AfD(Alternative für Deutschland, ドイツのためのオルタナティヴ)[12] のような極端な団体は避けるべきだとしても、BgAKや、ドイツ赤十字の看護師を務め、強制収容所に送られてからも看護師の役割を果たし、収容者を腸チフスと偽ってスイスに輸送し、多くの命を救ったとされるサラ・ヌスバウム[13] の名を冠したサラ・ヌスバウム・センターなど、ユダヤ人コミュニティと意見を交わす必要はなかったのだろうか。イヴェントがキャンセルされた直接の理由は、ドイツのユダヤ人中央評議会の議長であるヨーゼフ・シュスター[14] から、ロートに宛てられた手紙によると、内容は公開されていないが、参加者の選定に関するものだったとされている。もっとも、参加者として招かれていたアンネ・フランク教育センターのメロン・メンデル[15] や、ポーランドのホロコーストの生存者を親に持つ、ドイツ生まれで、テルアビブ・ヤッフォ大学の社会学教授ナータン・シュナイダー[16] も、招待を知ったのがメディア経由だったために、不信感を抱いていたとも伝えられている。彼らと面会し、説明し、協議する時間をとることはできなかったのだろうか。もちろん、事前協議するからといって、即座にそれらの団体や個人の意向を汲みとるべきだということを意味するわけではない。しかし、意向に沿うことはできなくても、そこに異なる意見があるということを確認しておくことは必要ではなかったのだろうか。少なくとも顔を合わせることで、そこに至るまでの経緯を共有することはできたのではないだろうか。もっとも、そこでの協議が不調に終わり、結果としては実際の経過と同じように、イヴェントが中止になるという可能性も決して低かったわけではない。けれども、そうした手続きを経ているのとそうでないのとでは、出来事自体の性質も大きく異なるものになるはずだ。ルアンルパが掲げるルンブンは、米という生活必需品を共有するためのものだ。ともだちをつくるというスローガンは、排外的な姿勢とは対極のものだ。もしそれが、ささやかな情報の共有さえ疎い、特定の団体や人物を遠ざけようとする姿勢を隠し持つものであったとしたらどうだろうか。排外的であることさえ除けば、何ら問題のない理想郷を築いてきたのは、傲慢な支配者たちが繰り返してきた行為ではなかっただろうか。最近の出来事で言えば、反移民政策を掲げるPEGIDAもまた[17]、そのマニフェストにおいて、移民排斥以外の項目は当たり障りのないものになっていた。友でなかった人ともともだちになり、必要なものを共有する。意見の異なる人と対話を交わし、情報を共有する。ルアンルパが掲げる理想は決して間違っていない。けれどもその理想こそが、ルアンルパの行動に対して最も鋭い批判を投げかけるのだ。

 


ホルスト・ホーハイゼルのカッセル中央駅の《考える石のアーカイヴ》。

 

ところで、BgAKの指摘は、多くのメディアが距離を保とうとしたように、不適切なものだったのだろうか。ルアンルパの反応と比較して、何か著しく劣るものだったのだろうか。BgAKのドルゲは、カリル・サカキニ文化センターに触れるなかで、アル・サカキニの名前を冠しているからといって、その団体を非難するべきではないとも述べている。リヒャルト・ワーグナーの名を冠した通りに住んでいるからといって、住民たちをナチス呼ばわりするべきではないという彼の主張は、むしろ冷静なものと言えるだろう。むしろ個人的には、確かにカリル・サカキニ文化センターの活動自体はまったく問題がないものの、その名称には抵抗があった。アル・サカキニは、パレスチナ民族運動を主導するなかで、ナチスの比喩を用いる挑発的な呼びかけを行ったとされている。アラブ圏の文化の発展を目的とする団体であるならば、もう少し慎重にその名称を検討するべきだったのではないかと思えなくもない。奇妙なことだが、この点に関しては、BgAK以上に、保守的な考えに囚われてしまっているのかもしれない。アートが正当性ばかりを謳うことに対しては疑問を抱かないわけではないが、それでもこの場合、団体の活動そのものには共鳴できるとしても、名称の在り方に対しては疑問を抱かざるをえない。その名を冠した団体との協議は、明らかに配慮を欠いたものだと思えてしまう。そうした状況における想像力こそが、今日のアートには求められていたのではなかっただろうか。そうした想像力こそが、種々の運動をつなぎ止める役割を果たしてくれると期待されていたのではなかっただろうか。例えば、フェミニズムを問題にした表現が、眉を顰めるような女性蔑視の発言を重ねてきた政治家の名前を冠した団体と密接な関係があるとしたらどうだろうか。環境をテーマにした展示が、環境破壊に手を染める企業が支援しているとしたらどうだろうか。そうした意識の欠如は、新たな連帯や協働を遠ざけることにしかならないのは言うまでもない。もちろん、そうした想像力は、状況ごとに異なるものになるだろう。果たして今回のドクメンタで、そうした想像力は働いていたと言えるのだろうか。ルアンルパは、抽象化された共同の米倉、ルンブンを思い描くように誘っていた。しかしそれは、その言葉が本来持っている意味に資するものになっていたと言えるのだろうか。

スキャンダルはその後、タリン・パディ[18] の作品という、目に見えるかたちで露呈することになる。しかしこの問題は、今回の一連のスキャンダルの表面的な一部にすぎない。タリン・パディの作品《Peoples’s Justice(人民の正義)》自体は20年近く前のもので、過去、オーストラリア、中国、インドネシアで展示されている。確かに指摘通り、その作品には視覚上の問題がある。けれども、同時に考えなくてはならないのは、ルアンルパのルンブンに招かれているのは作品そのものではないということだ。ルンブンに参加しているのは、あくまでも作品を生み出した団体であり、その団体が日々積み重ねてきた実践なのだ。作品は、あくまでも、そうした実践の一部としてそこにあるに過ぎない。視覚的問題に対する指摘は、象徴的で、わかりやすい。そのためそればかりが強調されてしまう。他に似たような表象が紛れていないか、スクリーニングの必要性が指摘される。そして、それに対して検閲だという批判が生まれる。また、そうした作業をコンサルタントとして行うはずだったアンネ・フランク教育センターのメンデルが、ドクメンタの取り組み姿勢を問題視して辞任してしまう……。表象の問題が膨らみ、すべてを覆い隠してしまうのだ。

問題となったバナーは、ナチスのプロパガンダのためのタブロイド「シュテュルマー(Der Stürmer)」のスタイルを模したもので、左側に抑圧者、右側に抵抗者が配置され、当然、問題視された表象は左側に集中している。007を先頭とした突撃歩兵のうちのひとりが、ダビデの星のマフラーと、モサドと記されたヘルメットを着用しており、その右手には、ユダヤの正装をした男性が、ハシディズムが遵守する揉み上げをたくわえ、キッパ[19] の上に「SS」と記された帽子を被り、眼は血走り、牙を剥いている……。興味深いのは、もちろん、クエスチョン・オブ・ファンディングの問題を指摘したBgAKも、これらの表象上の問題に関しては把握していたのだが、バナーに存在するその他の問題を完全に理解していたわけではないということだ。BgAKのドルゲは、親イスラエルの独立系シンクタンクによるインタヴューのなかで、問題の作品の左下にある、金歯の入った大きな髑髏のことを尋ねられ、知らなかったと答えている。[20] インタヴュアーによれば、金歯の髑髏は、反ユダヤの描写のなかでも人気のあるモチーフなのだという。当の髑髏は、先の二箇所に比べ、サイズも大きく、非常に目立つ。細部にあるから気がつかないということではないのだ。目にしていたにもかかわらず、それが問題だということがわからなかったのだ。結局つまり、スクリーニングを担当するはずだったメンデルが辞任することなくその作業を進めていたとしても、それでもそこから漏れるものがあったということは十分考えられるということだろう。そしてもちろん、これはメンデルに限ったことではない。誰が担当したとしても、そうなる可能性があったのだ。そうつまり、問題を指摘したBgAKがディレクターの任についていたとしても、そのモチーフは見過ごされ、同じように反ユダヤ主義という告発を受けることになったかもしれないのだ。

 


ロイス・ヴァインベルガーのドクメンタ10における作品。

 

タリン・パディの問題が顕在化した後のドクメンタ側の対応は、問題に対する理解の浅さを露呈している。ルアンルパはスクリーニングの不首尾を表明し、運営側は事前検閲の必要性を検討するようになる。しかし、誤解を恐れずに言えば、ある問題に取り組む活動が、その問題を広く知らしめ、共感を得るために、他の問題のステレオタイプを軽率なかたちで引用してしまうことはありえないことではない。自分自身が問題視してきたステレオタイプを、自らもまた生産してしまうということが、往々にして起こりうるのだ。こうしたアクティヴィズムが根幹に抱える問題は、その運動のコンテンツによって、生じたり生じなかったりするものではない。すべての運動に共通する問題であり、危うさなのだ。視覚上の問題の処理にばかりフォーカスしてしまうと、こうした根本的な問題が見逃されることになってしまう。ルアンルパは、そうした表象をフィルタリングできなかったことを謝罪するのではなく、むしろ恒常的にそうした表象を利用し続ける姿勢が、アクティヴィズムの根幹にあることを認め、その問題と向き合うことを呼びかけるべきだったのではないだろうか。その問題こそが、ルンブンで共有されるべきだったのではないだろうか。タリン・パディの問題は、どのような団体においても、他の問題とのインターセクションにおいて、本質的には起こりうる深刻な病巣を原因とするものなのだ。そうした事態を共有することの必要性を、自省的に表明するべきだったのだ。BgAKでさえ気づくことのできなかった表象上の問題は、彼らとの対話を遠ざけようとする姿勢のままでは、当然のことながらスクリーニングすることなどできるわけがない。もちろん、BgAKだけではそれは不十分だし、サラ・ヌスバウム・センターでも、ユダヤ人中央評議会でも、アンネ・フランク教育センターでも不十分なのだ。その解決は、問題の共有と、継続的な協議を抜きにしては実現することはできない。そして、そうした認識は、必然的に次のような問いを投げかけることになる。そのときのルンブンは、どのようなものになるのだろうか? いや、どのようにならなければならないのだろうか? おそらく現時点で言えることは、そのような状況においては、問題を指摘することができる人々は、最低限、ルンブンを共有することのできる存在として認められていなくてはならないということだろう。そうつまり、「ともだち」の対象になっていなくてはならないのだ。もちろん、ルアンルパの言っているルンブンは、米倉そのものではないはずだし、そしてまた「ともだち」も、ともだちそのものではないはずだ。そうつまりそれは、ある意味で抽象的なルンブンでありともだちなのだが、それらの在り方を、もう一度、真摯に自身に問いかけてみることこそが必要だったのだ。もちろん、そうすることが容易でないことは言うまでもないが、けれども逆に、ある意味ではチャンスでもあったはずなのだ。ルンブンで共有すべきものを凝視め、そしてそれを開くこと。「ともだち」ではないところにともだちの可能性を見出し、連携や共存を、排外的な姿勢になることから救い出すこと。そうつまり、共にいる、それだけでも意味のあるノンクロンを実現するためのチャンスになるはずだったのだ。

 


パヴェル・ハースの曲が流れる、スーザン・フィリップスのインスタレーションが広がるカッセル中央駅のプラットフォーム。

 

ルアンルパの対応は、失望させるものだった。彼らは単なる表象のフィルタリングの不首尾に、問題を矮小化させようとしていなかっただろうか。彼ら自身が抱え持つ問題に、自省的な視線を送ることを躊躇ってはいなかっただろうか。スキャンダルは継続していく。ヒト・シュタイエルは難解なメッセージと共に展示を引き上げてしまう。晦渋な彼女のテキストから彼女の主張したいことを掴みきることは難しいが、不用意な表象と、それに対する検閲の不首尾だけに対する疑義でないことだけは明らかだ。あるいは、すでに触れたアンネ・フランク教育センターのメンデルの辞任も、問題の本質が凝視されていないことを露呈させることになる。さらには、参加者有志による抗議の手紙にも失望させられた。彼らの主張から、自省的なものを感じることはできない。自身へと連続するルアンルパの問題を凝視せず、自らの窮状を訴えるだけだとすれば、オクウィ・エンヴェゾー[21] のドクメンタ以降定着してきた政治的正当性に対する意識は見せかけのものだったということになるとは考えなかったのだろうか。こうした姿勢は、資金分配や託児施設、そしてチケットの招待制など、考えられた運営上の工夫を、別枠のものとして肯定的に捉えようとする姿勢にも連続している。黒人たちの権利を抑圧したまま、裕福な生活を満喫していたWASPと、共通してしまっている姿勢はまったくないのだろうか。移民に対して自国民を優先することを説くことを除けば、美辞麗句が並べられているPEGIDAのマニフェストに通じてしまっているものはないと言えるのだろうか。排外的なルンブン、排外的なともだち。これらは見るに耐えない。もっともこうした考えにしたところで、確かに、実際に目にしてしまえば、薄らいでいくことになるのかもしれない。肯定的な印象が勝るようになり、許容するようなことになっていくのかもしれない。運営上の問題だと割り切るように制約された意識で、定型のものとは多少異なる種々の工夫の利点だけに集中することができるのかもしれない。けれども、それは耐え難い。ドクメンタに向かうことを諦めた理由は、これで言い尽くせてはいないだろうか。

 


ジャネット・カーディフとジョージ・ビュレス・ミラーの《Alter Bahnhof(「年老いた駅」)》 。

 

どこか遠い、グローバル・サウスから来たアーティストの野放しの反ユダヤ主義……。この言葉は、ドクメンタとナチスとの関係を分析する研究者ミール・レッドマン[22] のものだ。彼女の言葉は、それ自体ある種の偏見を隠し持つものだが、ヨーロッパで出会ったアート関係者のドクメンタの印象を象徴するものでもある。また、問題の多い言葉ではあるものの、読み取ることができるものがないわけではない。どこか遠いグローバル・サウスは、まだまだ啓蒙する必要があるというのもそのひとつだろう。確かに、人権やジェンダー、セクシュアリティなどに関して、少なくとも極東の小国にはまだまだ学ぶべき点がある。脱西欧中心主義と、西欧による啓蒙は、本来は別のものであるべきだが、切り離すこともまた難しい。先の研究者の言葉は、まさに脱西欧中心主義、脱ヒエラルキーを唱えたルアンルパ自身が、西欧から学び、啓蒙される必要があることを示唆している。確かに、ルアンルパのスキャンダル以降の対応は、そうしたことを裏付けてもいる。もっとも、そうではない道を辿ることが不可能だったわけではない。そうつまりこうだ。……フィルタリングの不首尾はあります。でも、だからと言ってより強固な検閲を導入するようなことはしたくないんです。相容れない意見を持つ団体から意見を聞くことはとても困難です。また、双方にとって満足のいく状態を実現できることを保証することはできません。ただし、手をこまねき、傍観しているというわけでもないのです。問題となったものを提示し、それを共有することはできます。また、軋轢そのものの存在を明らかにし、そのこと自体を共有することはできます。そうすることによって、今回のような問題を回避できるという可能性が残されているのかもしれません。そのことに希望を抱きたいと思います……。ルンブンを、あらかじめともだちだった人たちだけの集まりにしないために、ルアンルパにできることはなかったのだろうか。それとも彼らは、潜在的にともだちになりうる可能性のある人たちだけが出会うことを、ともだちをつくると言っていたのだろうか。ともだちにはなりえない人々が、ともだちになるかもしれない可能性をどのように探ろうとしていたのだろうか。おそらくそれは、インドネシアのノンクロンだけでなく、日本そして、どこか遠いグローバル・サウスの社会で、さまざまな工夫として模索され、根付いてきたはずのものなのだ。そしてそれこそが、ひょっとすると脱西欧中心主義と、世界的な人権遵守のための啓蒙を、両立させるプラットフォームになるかもしれないのだ。おそらく、ルアンルパも、似たようなパースペクティヴを抱いていたはずだ。しかしそれが損なわれてしまったのだ。いや、損なってしまったのだ。もちろんそこでの、ルアンルパの責任は大きい。また、ヒエラルキーを遠ざけようとする彼らの姿勢を踏まえれば、参加した団体やアーティストたちの責任も決して小さくない。そうした責任を意識し、凝視すること。ただし、それは、ルアンルパや関係者を非難することを意図しているわけではない。重要なのは、彼らがうまく対応できなかった問題を、共有し、共に考察を継続していくということなのだ。

 


コービニアン・アップル。後に破壊される。

 

ところで、こうした姿勢は、ともするとここ最近、自分自身がニコラ・ブリオーとクレア・ビショップ[23] を巡って主張してきたことと齟齬をなすように受け取られるかもしれないので少し説明しておくことにする。ブリオーが関係性の美学を説くなかで取り上げた作家たちの多くが、共にいることで充足しているのに対して、ビショップは、真の民主主義の基盤に敵対性を据えようとする、エルネスト・ラクラウやシャンタル・ムフ[24] の理解に基づき、より先鋭化した状態を提示しようとする作家を取り上げてブリオーを批判してみせた。こうした議論が進むなかで、多くの論調がビショップに傾くことになるのだが、自身としては一貫してブリオーを擁護し続けてきた。いや正確に言うと、ブリオーの考えそのものではなく、ブリオーが拠り所にしていたエドゥアール・グリッサン[25] の理解に基づく関係性を擁護してきた。けれどもそれは、ルンブンに対立する考えを招き入れる必要性を説くという、ここで述べてきたことと矛盾しているように思われるかもしれない。しかし、そうではないのだ。共にいることは、必ずしも特定の性質に同意した人々だけの共存を意味しているわけではない。日本の地域共同体やインドネシアのノンクロンなど、アジアのコミュニティの多くは、その対象を限定するものではない。ビショップの議論は、この部分を見誤っている。グリッサンが引用するヴィクトル・セガレン[26] も、まったく異なる文化的背景の人々が共にいることの意味を見出そうとしている。確かにそこは、対立する人々が議論し、論理的な決定や調停を行うための場所ではないかもしれない。けれども、共にいるのだ。おそらく、そうすることの、そうした状態の可能性を、ラクラウもムフも見ていないのだ。むしろここでの議論は、そうしたアジア的コミュニティの可能性に照らしたとき、ルアンルパのルンブンは、ルンブンと言うことのできるものだったのか、あるいはノンクロンと呼ぶに値するものだったのかということを問おうとしているのだ。サカキニ文化センター、いやクエスチョン・オブ・ファンディングと、BgAKとでは、意見として共有できるものはないのかもしれない。けれども、見解は異なるものになるとしても、問題そのものを共有する可能性がなかったわけではないはずだ。結果はどうあれ、少なくともその可能性が検討されてもよかったはずなのだ。

 


ロイス・ヴァインベルガーのドクメンタ14における作品。

 

BgAKは、特定の政治的立場に立つ狂信的なグループと見做されがちだ。加えて、そうした理解に基づく発言には、芸術に関する知識不足を仮定しているようなニュアンスが漂っていることが少なくない。しかし、果たしてそうなのだろうか。先に触れたインタヴューのなかで、BgAKのドルゲは、ドクメンタと反ユダヤ主義の問題を遡っている。ドクメンタ初期のナチスとの関連については、レッドマンの研究を一通り踏まえた理解を示している。また、ドクメンタのお気に入り作家、ヨーゼフ・ボイス[27] についても、ナチスの兵士としての経歴だけでなく、人智学への傾倒を、ルドルフ・シュタイナーの反ユダヤ主義[28] を通して批判的に捉えている。また、documenta 12のオーストリアの作家、ピーター・フリードル[29] のキリンの作品についても、その反ユダヤ主義的性質を理由に展示に対して疑義を投げかけている。ちなみに、フリーデルのキリンの剥製は、パレスチナの都市カルキリヤにある、パレスチナ唯一の動物園から輸送されたもので、第2次インティファーダの最中の2003年、イスラエル軍の砲撃でパニックになり、暴走して命を落としたブラウニーという名を持つキリンのものだ。また最近では、2017年、アダム・シムジック[30] のdocumenta 14で予定されていた、フランコ・“ビフォ”・ベラルディ[31] のパフォーマンス、「アウシュヴィッツ・オン・ザ・ビーチ」に対する反応も忘れるべきではないだろう。BgAKは、世界経済を牛耳る金融資本を標的にしたビフォのパフォーマンスは、ステレオタイプなユダヤ人像を再生産するもので、反ユダヤ主義であると決めつけて糾弾している。ビフォのパフォーマンスは、ホロコーストと今日の移民問題を往還する視線を持つ同名の詩の朗読を核とするものだが、最終的にキャンセルされ、その代わりにフレデリチアヌムで、詩の朗読を含む、人種差別に関する討議を行っている。確かに彼らの視野に捉えられる芸術表現は、反ユダヤ主義をスクリーニングしようとするものかもしれないが、少なくとも、芸術的エンターテインメントを期待してその地を訪れる人以上に、芸術に対して希望と疑いのないまぜになった視線を送っていることだけは間違いない。

 


ドクメンタ14の会場のひとつ、ノイエ・ガレリーにあるヨーゼフ・ボイス作品の常設展示室。写真:ART iT


ボイス作品の常設展示室の隣の部屋に展示されたピョートル・ウクランスキーの《Real Nazis》。画面右下にドイツ国防軍時代のボイスの肖像がある。写真:ART iT

 

もちろん、彼らの指摘に基づいて、ボイスを視野の外に置くべきでないのは言うまでもない。あるいは、ロジャー・ビュルゲルとルート・ノアック[32] という私生活上のパートナーが、それぞれディレクター、キュレーターを務めた凡庸なドクメンタで、かろうじてある種の問題提起を実現できていたフリードルのキリンの剥製にしても、その展示を取りやめるようなことはするべきではない。また、より厳密な反ユダヤ主義のフィルターであれば、ブラウニーの前に槍玉に上がっていたであろう、カトリーヌ・ダヴィッドのdocumenta Xの100日間にわたる講演・討議、“100 Days – 100 Guests”に招かれていたエドワード・サイード[33] を阻止するようなこともするべきではない。ビフォのパフォーマンスに対する疑義にしても、そもそもビフォの思想の核心に対する誤解がある。2012年に出版された彼の著作『蜂起』には、明確に今日の金融資本主義のアクターは、特定の個人、特定の企業、特定の国ではないと述べられている。彼によれば、わたしたちは抑圧を強いられつつ、けれども同時に、多かれ少なかれ、わたしたち自身がその抑圧のアクターであるという困難な状況にある。彼にとっての敵は、あくまでも金融資本主義であり、特定の民族や国家でないことは明らかだ。そうつまり、タリン・パディが描き出した、揉み上げをたくわえ、キッパを被った人物を、念頭に置いているわけではないのだ。その意味では、BgAKの指摘はまったく的外れなものなのだ。しかも指摘を受けたとき、ビフォは、今回のルアンルパに欠けている柔軟な対応を行っている。そもそも自身に対する誤解に基づくものであることを承知の上で、ビフォは、先に触れたユダヤ人機関、サラ・ヌスバウム・センターと協議を行っている。パフォーマンスのキャンセルは、協議に基づきビフォ自身が判断したものだ。彼によれば、BgAKの指摘を認めたというよりは、パフォーマンスのネーミングがホロコーストを相対化する可能性があり、そのことに傷つく人がいるかもしれないという、サラ・ヌスバウム・センター所長のエヴァ・マリア・シュルツ=ヤンダー[34] の指摘に応えたものだ。パフォーマンスの名称は、フィリップ・グラス[35] のオペラ「浜辺のアインシュタイン」を借りたものだが、特定の物語がないという意味で共通する部分はあるかもしれないが、特別な意味が込められているわけでもない。そうしたこともあり、ビフォは、ヤンダーの指摘を受け入れ、キャンセルするという判断を下している。ヤンダーとの協議は有意味なものであったようで、代替となったフレデリチアヌムでの討議にも彼女は参加している。結局、結果としてキャンセルというかたちにはなっているが、意味のある交渉のプロセスがあり、柔軟な対応が行われたということになるのではないだろうか。

 


ドクメンタ14の際のノイエ・ガレリー。奥に、ゲルハルト・リヒターの描いたアーノルド・ボーデの姿がある。

 

ドクメンタの初期のナチスとの関わり、つまりアーノルド・ボーデ[36] と共に創設者とされる、キュレーターでもあったヴェルナー・ハフトマン[37] が、ナチ党員でありSA(突撃隊)でもあったという経歴、同じく共同創設者のクルト・マルティン[38] が、美術館長としてナチスの美術品収奪に関わっていたということ、運営組織の1/3を元党員らが占めていたこと、第3回目までユダヤ人作家が選考されなかったことなど、これらに自省的に研究・分析が行われる必要があるのは言うまでもない。けれども、だからと言って、ここまで継続してきたドクメンタそのものを問題視するというのは性急すぎる。確かに、そうした事実の発覚が、それほど回数を重ねていない時期のことであれば、継続自体を検討することもできたかもしれない。しかし、不幸なことにナチスの影に気づくことなく、時間は積み重ねられてきてしまったのだ。しかも、そうした時間のなかで、人種差別、反ユダヤ主義、反移民を告発するような展示も行われてきた。かつて、カッセルの市庁舎前に、1908年に地元のユダヤ人実業家、ジグムント・アシュロット[39] によって寄贈されたモニュメントがあった。ナチス時代に破壊され、「ユダヤ人の泉」、「アシュロットの墓」などの蔑称で揶揄されていたが、1986年にモニュメント再興のコンペが行われ、ホルスト・ホーハイゼル[40] のプランが採用されている。ホーハイゼルは、約12mもの高さのかつてのモニュメントをそっくりそのまま地下に向けて逆立ちさせるという大胆な作品を完成させる。2012年のキャロライン・クリストフ=バカルギエフ[41] のdCUMENTA(13)では、その作品を出展作品としてカウントするとともに、ディレクター自ら、アーティストと共に地下に潜り、パフォーマンスとして清掃作業を行っている。ホーハイゼルには、もうひとつ、カッセル中央駅に常設されている作品がある。学生たちとのワークショプを実施し、かつてカッセルの住民だったユダヤ人の名簿に基づき、個々の人物を調査し、その結果を一人ずつ一枚の紙にまとめ、その紙でひとつの石を包んで台車に載せ、《考える石のアーカイヴ》と名づけた作品を制作したのだ。それは、直接ドクメンタに出展されたものではないが、dCUMENTA(13)の際、ジャネット・カーディフとジョージ・ビュレス・ミラー[42] のiPadで駅舎をヴァーチャル・ツアーする作品《Alter Bahnhof(「年老いた駅」)》のなかで紹介されている。カッセル中央駅には、documenta Xのときのロイス・ヴァインベルガー[43] のインスタレーションも残っている。かつてユダヤ人を乗せて絶望の旅に向かった線路跡が、「植物の彼方にあるものは植物と一体化している」として、ユーデンフライ(judenfrei)、 ユダヤ人のいない状態をいち早く達成したという、誇ることのできない歴史を、繰り返しカッセルの人々に語りかけてくる。ヴァインベルガーの作品は、documenta 14でも反芻されていたが、そもそも、documenta Xのときのプラットフォームは、中央駅に行けば、あのときと同じような空隙をポッカリと空けて待っていてくれる。また中央駅では、スーザン・フィリップス[44] の作品も印象深かった。フィリップスは、テレージエンシュタット強制収容所で殺された作曲家、パヴェル・ハース[45] の曲からチェロとヴィオラのパートだけを抽出して再構成し、中央駅のプラットフォーム全体に配置したスピーカーから、特定の時間にその曲を流した。曲自体は、収容所で演奏した際、指揮をしたカレル・アンチェル[46] の手で再構成されているが、もともとの楽譜の大半は失われているという。アンチェルは、妻と子を強制収容所で失っているが、アウシュヴィッツに移送されたもののの生き延びている。ハースの楽曲を演奏する収容者のオーケストラと、指揮をするアンチェルの姿は、1944年に完成したナチスのプロパガンダ映画『テレージエンシュタット』で見ることができる。[47] 中央駅では、クレメンス・フォン・ヴェーデマイヤー[48] の《MUSTER(Rushes)》も上映されていた。長尺の作品だが、約30分の物語が3つ組み合わされたかたちで、2本までは観れるが3本同時に観ることはできないようにインスタレーションされていた。舞台は、カッセルから北に10kmほど離れたブライテナウ修道院。12世紀、ベネディクト会修道院として開設された修道院は、第二次世界大戦下、強制収容所に姿を変え、戦後は、女子更生施設、精神病院となり、現在は記念館としてdCUMENTA(13)の展示会場にもなっている。ヴェーデマイヤーの作品は、3人の少女が、3つの時代に役割を変えて介入するというもので、アメリカ軍によって解放された直後の強制収容所、更生施設を舞台にした映画の撮影、そして現在の記念館に学校の研修で訪れるという、3つのシチュエーションで構成されている。戦時下のシーンは、当然、カソリックとナチスの親和性を暗示し、また、更生施設や精神病院などの歴史は、優生政策、T4作戦や、ドイツ精神医学会のそれへの加担を想起させる。また、更生施設のシーンは、エバーハルト・イッツェンプリッツ監督[49] のTVドラマ、「バーンブレ:福祉は誰のためのもの?(Bambule: Fürsorge–Sorge für wen?)」を模しているのだが、このドラマの脚本を手がけたのは、ゲルハルト・リヒター[50] の《October》の題材にもなった西ドイツ赤軍のウルリケ・マインホフ[51] なのだ。つまり、ヴェーデマイヤーの作品は、戦後ドイツ史を凝縮したものでもあるのだが、明らかにそこには、ホロコーストが今日と連続したものであることを示そうという意図が読み取れる。また、dCUMENTA(13)を象徴するものとしては、コービニアン・アイグナー[52] の開発したリンゴの新種、コービニアン・アップルを忘れることはできない。ディレクターのクリストフ=バカルギエフは、アーティスト、ジミー・ダーハム[53] と共に、オランジュリー前のカールスアウエ公園の、桜の園だった場所の一角にそれを植樹している。ダーハムの子供時代の思い出の木、アーカンソー・ブラック・アップルも、その近くに二人の手で植えられている。dCUMENTA(13)開幕の前年のことである。アイグナーは、カソリックの司祭だったが、反国民社会主義者としてダッハウ強制収容所に送られ、そこで、KZ-1からKZ-4と名付けられた4種類のリンゴを開発している。このうち、KZ-3だけがアイグナーと共に戦後まで生き延びることができたのだが、1985年に、強制収容所(Konzentrationslager)の略記でもある「KZ」が取り除かれ、コービニアンと改名されている。また、より近いところでは、アダム・シムジックのdocumenta 14で、コーネリアス・グルリット[54] のコレクションの展示を試みたことも、上記の表現に加えることができるだろう。グルリット・コレクションは、2013年に発見されたもので、ナチスの画商であったコーネリウスの父、ヒルデブラント・グルリット[54] が収集した、退廃芸術として没収された作品を下取りしたものや、占領下のフランスでユダヤ人などから略奪したものからなり、その総数は1,500点以上にも達する。法的、政治的な問題があり、展示を実現することは叶わなかったが、それを試みたことや、コレクションの代わりにコーネリウスの曽祖父、ルイス・グルリット[54] の絵画を展示したことは、アート自身が深く、反ユダヤ的な行為に関わっていたことを自省的に示すものとして評価できるだろう。これらの実践は、反ユダヤ主義に敏感な団体にとっても、決して敬遠すべきものではなく、言説を重ねても到達することのできない理解や意識につながるものとして肯定的に評価するべきもののはずだ。

 


ジグムント・アシュロットが開発した、カッセッル市中心部から西の、フロントウエスト地区。


クエスチョン・オブ・ファンディングの展示会場。壁面には「187」の文字が残されている。写真:ART iT

 

一方、BgAKの指摘に端を発して起こったヴァンダライズが、忌むべきものであることはあらためて確認しておきたい。クエスチョン・オブ・ファンディングによって、ギャラリーとして運営される予定だったアートスペースは、カリフォルニアの州法で殺人罪を規定する数字「187」と[55] 、スペインの極右組織、バスティオン・フロンタル[56] に属し、自らをファシストであり国民社会主義者、反ユダヤ主義の擁護者と公言する、イザベル・メディナ・ペラルタ[57] の名前「Peralta」などの文字が描きつけられている。ギャラリーはその後、「187」の文字はそのまま、「Peralta」は電光掲示板で覆われるようなかたちで展示を継続しているのだが、このような蛮行が許されるべきでないのは言うまでもない。ただ、こうした暴力的な抵抗が、反ユダヤ主義の告発に限らず、あらゆる主張に基づいて引き起こされていることにも注意しておかなくてはならない。documenta 14では、アブバカール・フォファーナ[58] のアテネのスタジオが動物の権利を主張する団体によって攻撃されている。フォファーナは、インディゴで染色した羊54頭をアテネ農業大学の敷地内に放ったのだが、それに対して反対の意が示されたのだ。また、ロジャー・バーナット[59] の古代ギリシアのモノリスのレプリカもイヴェント会場から盗まれている。ホームページで犯行を認めたLGBTQI及び難民の権利を主張する団体によれば[60] 、難民支援などに優先的に向けられるべき資金が、ドクメンタで利用されたことに対して、疑義を呈したものだという。輸送されたモノリスが展示される予定だったカッセルの会場では、主人を失った台座だけが、空しく展示されていたのが印象に残っている。dCUMENTA(13)の場合はより深刻だった。先ほど述べたコービニアン・アップルは、ドクメンタ終了後の2015年に何ものかによって抜き去られている。関係者の多くは、それを、人間界に置かれた自然の、宿命的な脆弱性だと捉えようとしていたが、悪意の気配がまったく漂っていないというわけではない。幸い、アーカンソー・ブラック・アップルは元気に生育しているが、ヨーゼフ・ボイスの《7000 Oaks》を想起させるパフォーマンスで植樹された、反ナチスの姿勢を貫いた司祭の手で生まれたリンゴの若木に対する暴力は、どうしても不穏な印象を拭い去ることができない。本当にそこに、政治的な意図はなかったのだろうか。ちなみに、コービニアン・アップルは、今回のdocumenta 15で、展示会場のひとつとなったグリムヴェルト・カッセルの前にある公園に、参加団体のひとつ、Jimmie Durham & Stick in the Forest by the Side of the Road(「ジミー・ダーハムと道端の森のなかの枝木」の意)という名称のコレクティヴによって[61] 、再度、植樹されている。はたしてこのリンゴの木は、無事育つことができるのだろうか。再びdocumenta 14に戻ると、展示の翌年、アーノルド・ボーデ賞を受賞し、常設される予定だったオル・オギュイベ[62] のケーニヒス広場のモニュメントが撤去されている。この作品は、4つの言語でマタイ伝の文言を刻んだオベリスクで、他所者や難民に対する歓迎を説くものだった。クラウドファンディングでの資金調達は難航したが、結局、カッセル市の購入が決定したものの、右翼政党AfDに所属する一人の市会議員の反対にあっている。移設を受け入れなかったアーティストとの調整も不調に終わり、結局、モニュメントは解体、撤去されている。幸いにも、粘り強い交渉の末、オギュイベがオベリスクの不在よりも移設を選択したことで、2019年、ようやく、元のケーニヒス広場近くの通りでの再建が実現している。

 


LGBTQI及び難民の権利に盗まれた、ロジャー・バーナットの作品が展示される予定だった台座。


オル・オギュイベのケーニヒス広場のモニュメント。

 

芸術という場に対する強権的な作用は、もちろん、ドクメンタに限ったことではない。2015年のヴェネツィア・ビエンナーレのアイスランド・パヴィリオンでも、同様のことが起こっている。スイスのアーティスト、クリストフ・ビュッシェル[63] は、アイスランドとヴェネツィアのイスラム・コミュニティとの対話を通して、10世紀に建立され、ここ40年以上閉鎖されていたサンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア(慈悲の聖マリア)教会のなかにモスクをインストールした。17世紀にグラン・カナルに面したフォンダコ・ディ・トゥルキ(「トルコ商館」の意)の内部に礼拝所が設立されたことがあるものの、ヴェネツィアでは、街の中心部にモスクを建設することは許可されていない。一方アイスランドでも、専用のモスクの建設は長らく認められていなかったため、ECRI (人種主義と不寛容に反対する欧州委員会) の人権報告書で懸念が示されている。12年間にわたる粘り強い交渉の末、2013年、レイキャビクでの建設に許可が降りるが、現時点ではまだ着手されていない。こうした状況を受けて、ビュッシェルのプロジェクトは計画されたのだ。面白いことにビュッシェルの会場であるアイスランド・パヴィリオンは、ヨーロッパ最古のゲットーのあるカンナレッジョ地区にあり、ゲットーには当然のことながらシナゴーグもある。歴史的な対立が、芸術という場で束の間、ある意味での寛容と交流を手にすることができるのかもしれない。ビュッシェルの計画は希望に充ちたものだった。しかし、開幕前からテロの危険性が指摘され、ヴェネツィア当局から計画を見送るように再三、促されていた。確かに同じ年の1月、シャルリー・エブド襲撃事件[64] が起きていることを考えると、そうした対応を過敏だと決めつけることもできない。ビュッシェルとキュレーターのニーナ・マグヌスドッティル[65] は、そうした状況も検討した上で開催を決断する。けれども結局、わずか2週間で地方議会から通知を受け閉鎖を余儀なくされている。主な理由は安全上のものとされていたが、付記された理由が不信感を募らせることになった。そのひとつは、入場者が過密になることが予想されるというものだった。コロナ禍であれば理解できる理由だが、この時期のものとしては説得力を欠いていた。また、元々教会として建立されたものであるから、脱奉献されていなくてはならないというのも奇妙な理由だった。脱奉献というのは、正式な宗教施設ではなく、世俗的な施設であることが認められた状態を示す言葉で、手続き的には、地元の教区、ここではヴェネツィア教区による認定を受ける必要があった。脱奉献されていない施設は、他の宗教のために使用されることは許されず、依然としてそこは、キリスト教のための場所というわけなのだ。この脱奉献に関しては、キュレーターのマグヌスドッティルが、正式に認められていたことを示す書類を発見している。また、ビュッシェル自身も、そうした主張に対応するために、プロジェクトは礼拝所そのものではなく、礼拝所を模した芸術作品なのだというように説明している。脱奉献されていない施設は、別の宗教のために使用することはできないが、芸術作品のための使用されることは珍しいことではない。しかし、キュレーターやアーティストの努力は実ることなく、短期間での閉鎖を受け入れさせられることになる。付け加えられた奇妙な理由は、その背景に、政治的な意図があるのではないかと勘繰らせることになった。事実、当時ヴェネツィア市長候補だった、中道右派のルイージ・ブルニャーロ[66] は、明確にビュッシェルのプロジェクトに異を唱えていた。アイスランド・パヴィリオン閉鎖直後にヴェネツィア市長に、また数ヶ月後にはヴェネツィアを含む広域行政区、チッタ・メトロポリターナ(大都市)ヴェネツィアの市長にも選出されたブルニャーロは、選出後、反LGBTQ、反イスラムの姿勢を公表し物議を醸している。現在もその地位に就いているその人物の影響はなかったと言えるのだろうか。ちなみに、市長選でブルニャーロと拮抗した争いを演じたリベラル派のフェリーチェ・カッソン[67] は、ビュッシェルのモスクを合法であるとし、その存続を擁護している。少なくとも、政治的な争点が、そこにはあったのだ。

 


クリストフ・ビュッシェルのモスクのあったアイスランド・パヴィリオン。

 

こうした中止や撤去の最も規模の大きなものは、Manifesta 6のキャンセルだろう。Manifesta 6は、2006年に、キプロスのニコシアで開催が予定されていた。ニコシアは、ベルリンの壁の崩壊後は、唯一の分断都市という有難くない形容を戴いている。もっとも、分断という言葉は、ベルリンのように、わかりやすく二分されている状態をイメージさせるが、ニコシアの場合はもう少し混み入っている。地中海東奥の交通の要衝に位置するその島は、中世にはヴェネツィア共和国に統治され、その後オスマン帝国領となり、19世紀にはイギリスが統治権を手にしている。第二次世界大戦後、イギリスからの独立には成功するものの、ギリシア系住民によるクーデターを口実にしたトルコの軍事介入を招くことになり、島の北東部の占拠を許すことになる。トルコ系住民は占拠地域へ、ギリシア系住民は非占拠地域へと、それぞれ流入することになり、それ以降、地域的に分断されているだけでなく、民族的にも分断された状態が続いている。南側のいわゆるキプロスは、EUの加盟国でもあり、トルコを除く国連の加盟国の多くが承認しているのに対し、トルコの占拠した北キプロス・トルコ共和国はトルコのみが承認している。複雑なのは、イギリス統治期の軍事基地がそのまま残っていることで、東部のそれはデケリア、西部のそれはアクロティリと呼ばれているのだが、これらの区域は、トルコの軍事介入時、移動を望む住民の通行を確保するという、緩衝地帯としての役割も果たしている。キプロス、北キプロスに加え、イギリスの海外領土という第三者の立場が存在しているのだ。さらには、デケリアには、世界的な通信傍受システム、エシュロンの関連施設があり、主導するアメリカなどの運営国の姿もちらつくことになる。地理的にも複雑で、デケリアの基地内には、3箇所のキプロスの飛び地があり、またデケリア自体が遮るかたちで、グレコ岬沖の怪物で知られるリゾート、アギア・ナパ一帯が飛び地になっている。そのため、基地を跨いでアギア・ナパに向かう場合には、陸路ではなく航路になるのだという。また、北西部沿岸には北キプロス・トルコ共和国の飛び地もあり、海岸線以外は周囲をキプロスに囲まれた状態になっている。加えて、南北の境界はグリーンラインで定められているものの、その両側には国連軍が管理する緩衝地帯が設けられている。首都ニコシアの旧市街も例外ではなく、16世紀、ヴェネツィア共和国時代に建立されたヴェネツィア壁で周囲を取り囲まれた美しい星形要塞が嵌め込まれているのだが、残念ながらそこも、グリーンラインで綺麗に二分されている。

 


コソヴォ共和国首都、プリシュティナで開催されたManifesta 14の展示会場のひとつ、ヘルティツァ・スクール・ハウス。セルビア統治下でも、密かに高校を開校していた。2014年に設立された教育と文化の向上を目的としたNGO、ETEAによる、ヴィデオ作品が展示されていた。

 

Manifesta 6は、主に南ニコシアで行われる予定だったが、一部の機能を北側でも行うことで合意していた。けれども、開幕3ヶ月前になって、契約違反を理由に一方的にニコシア市から契約解除を通告され中止に至っている。Manifesta 6は、多様化する文化の問題を議論するための、期間限定の大学院クラスの美術学校としてデザインされていた。すべての資料はオンラインでアクセスできるようになっていて、残されている趣意書『アート・スクールのための覚書(Notes for an Art School)』に寄せられた3人のキュレーターのひとり、カイロ出身のマイ・アブ・エルダハブ[68] のテキストによれば、キプロスのような、ニコシアのような場所では、ビエンナーレは「傲慢な侵入者」ではなく「謙虚な訪問者」として振る舞うことが必要であり、そうすることだけが可能な姿勢だというように記されている。つまりそのテキストを読む限りでは、慎重を期していたことが推察されるのだ。しかし結果としては、決して望んでいたわけではないはずなのだが、何らかの傲慢さを感じさせることになってしまったということなのだろう。最初からわかっていたことではあるが、キプロスにとっては、北キプロス・トルコ共和国側のニコシアでの活動は、どのようなものであっても、国家としての承認を許す機運を増長させてしまう怖れがあると捉えられたはずだ。その怖れが、おそらくは最大の原因なのだろう。いずれにしても、美術教育、およびその機関に焦点を当てて、多様化する文化状況を考察し、検討しようという貴重な機会は失われてしまうことになる。

こうした告発、異議申し立て、抵抗、破壊は、予期しないかたちで予期しない方角から引き起こされる。それらのすべてを前もって予想し、その対処を考えることは不可能だと言ってもよいだろう。また、展覧会やイヴェントの開催を立ち止まらせようとするもの、妨げようとするもの、傷つけようとするものは、すべてが首肯できるものではないのはもちろんだが、そのすべてを否定し無視するべきものでもない。ほとんどの場合、そこには、即座に判断しかねるものが含まれている。重要なのは、争点や、それに対するそれぞれのアプローチ、疑義、対応を、記録し、目に見えるかたちにしておくということだろう。問題はなかったというように取り繕うのではなく、ここにこういう問題が生起したということを可視化し、それと向き合おうとする姿勢を示すということ。そのようなかたちでの、意識、構造、制度の改革が求められているのだ。documenta 15における告発は、そのチャンスでもあったはずだ。問題や対応の開示という意味では、先にあげた、ドクメンタやヴェネツィア・ビエンナーレ、マニフェスタにおいても、十分な対応は見られなかった。種々の暴力的な行動は、アート関係のメディアを通して知ることはできても、当の展示会場でその経緯について知ることはできなかった。ヴェネツィア・ビエンナーレの閉館を余儀なくさせられたモスクの場合も、直後には、そこがアイスランド・パヴィリオンであったこと、けれども展示は中止されてしまったことを説明する貼り紙が残されていた。しかし、それもわずかな期間のことに過ぎず、しばらくすると、ビエンナーレとは関係のない場所であるかのように、すべての手がかりが覆い隠されてしまった。こうした対応は、結局、アートの現場のひとつである展示会場を、塵ひとつない、間違いのない、無菌状態であるかのように錯覚させることになる。そこは、他の人間の諸活動と同じように、多くの過ちをそれと知らずに含む場所であるはずだ。そのことと謙虚に向き合うことがなければ、その場所で行われるどのような問題の告発も、社会的な提言も、意味をなさないものに成り果ててしまう。少なくともその場所で、キャンセルに至ったという事実、展示中止に至ったという事実を辿ることができるようにする必要がある。そしてもちろん、余裕があるのであれば、そもそもの告発がどのようなものであったのか、それに対する対応はどのようなものになったのか、またそう判断するに至るまでに逡巡することはなかったのか、出来事のアウトラインを辿ることができる場所であるべきなのだ。そしてそれを、共有し、そのことに対する個々の意見を涵養することができる場所であるべきなのだ。キャンセルされたManifesta 6 schoolでは、先述したエルダハブが、趣意書のなかで、繰り返し、失敗することの重要性に言及している。そして、こう締めくくっている。「Manifesta 6 schoolはしなやかに転び、立ち上がり、新たな道を歩き始めるチャンスなのだ」。そのためにはまず、転んだことを自覚する必要がある。そしてそのことを共有する必要もある。ルアンルパのルンブンは、そのためのものでこそあるべきだったのだ。

 

 


 

*1 ルアンルパ|ruangrupa
2000年にインドネシアで結成されたアーティストの集団。もともとはインドネシア・マレー語で、「空間の形」の意味を持つ。ルアンルパはフォード財団やオランダのDOEN財団から資金提供を受けている。ここでの議論と結びつけることには慎重にならなくてはならないが、ヘンリー・フォードの反ユダヤ主義は有名。
*2 カトリーヌ・ダヴィッド|Catherine David, 1954-
フランスのキュレーター、美術史家。現在、ポンピドゥー・センター内の国立近代美術館の副館長。
*3 ジュディス・バトラー|Judith Pamela Butler, 1956-
アメリカの哲学者。ジェンダー研究、クィア研究、政治哲学など幅広く影響を与えている。
*4 スラヴォイ・ジジェク|Slavoj Žižek, 1949-
スロベニアの哲学者。
*5 イニシアティヴGG5.3 コスモポリタニズム|Initiative GG 5.3 Weltoffenheit
2020年12月に発表された嘆願書。多数の公立の、文化・科学機関が署名。BDS運動を拒否するとともに、ドイツ憲法、第5条3項が保障する芸術と科学の自由を制限するとして、反BDS決議に対しても反対の意を表明。ドイツ語と英語のバイリンガルで発表された。全文は下記。
https://www.humboldtforum.org/wp-content/uploads/2020/12/201210_PlaedoyerFuerWeltoffenheit.pdf
*6 カリル・アル・サカキニ|Khalil al-Sakakini, 1878-1953
パレスチナの教育者、詩人、アラブ民族主義者。もともと、キリスト教徒の家庭に生まれ、ギリシア正教の教育を受けている。ギリシア文化をはじめとする西洋文化に通じているとともに、アラブ民族主義者として、パレスチナのユダヤ人からの奪還のために、ナチスを引き合いに出す表現で物議を醸している。
*7 ヨナス・ドルゲ|Jonas Dörge, 1963-
「反ユダヤ主義に対抗するためのカッセルの同盟」の設立者の一人。
*8 クリスティアン・ゲゼル|Christian Geselle, 1976-
ドイツの政治家。社会民主党に所属し、2017年からカッセル市長。
*9 同盟90/緑の党|Bündnis 90/Die Grünen
1970年代末に結成された環境政党、緑の党(Die Grünen)を起源とし、1993年に、東ドイツの民主化に関与した市民グループ、同盟90(Bündnis 90, B90)と統合。
*10 アンゲラ・ドーン=ランケ|Angela Dorn-Rancke, 1982-
ドイツの政治家。同盟90/緑の党所属。2009年にヘッセン州議会に、当時としては最年少で当選。
*11 クラウディア・ロート|Claudia Benedikta Roth, 1955-
ドイツの政治家。同盟90/緑の党所属。
*12 AfD|Alternative für Deutschland, ドイツのためのオルタナティヴ
2013年に設立されたドイツの右翼政党。2017年の連邦選挙で最大野党になるが、21年、連邦憲法擁護庁(BfV)によって、右翼過激派に分類され監視対象となっている。
*13 サラ・ヌスバウム|Sara Nussbaum, 1868-1956
ホロコーストの生存者で、ドイツ赤十字社の看護師。カッセルで亡くなっている。フリデリチアヌムから1kmほど北東の路地に、彼女の、ギュンター・デムニッヒの「躓きの石」プロジェクトの銘板が埋められている。
*14 ヨーゼフ・シュスター|Josef Schuster, 1954-
2014年以降、ドイツのユダヤ人中央評議会の議長を務める。
*15 メロン・メンデル|Meron Mendel, 1976-
テルアビブ出身。2010年から現職。2021年からフランクフルト応用科学大学教授も兼務。
*16 ナータン・シュナイダー|Natan Sznaider, 1954-
ドイツ生まれの社会学者。1974年からイスラエル在住。
*17 PEGIDA|Patriotische Europäer gegen die Islamisierung des Abendlandes
「西欧のイスラム化に反対する愛国的ヨーロッパ人」の意。2014年、ドレスデンで設立され、反イスラム、反移民の極右政治活動を行う。
*18 タリン・パディ|Taring Padi
インドネシアのジョグジャカルタのアーティスト集団。1998年に結成。Taring Padiは、稲の先端を意味し、権力者に「かゆみ」を引き起こすことを込めたとされている。
*19 キッパ
ユダヤ人の男性が頭にかぶる、つばのない帽子。ヘブライ語の「ドーム」を意味する言葉を語源とする。
*20 親イスラエルの独立系シンクタンクによるインタヴュー
ウィーンに本拠を置くシンクタンクMena-Watch。「Mena」は、「中東北アフリカ」の頭字語で、中東および北アフリカの情勢分析を行っている。インタヴューは下記。
https://www.mena-watch.com/antisemitismus-auf-der-documenta-15-ein-skandal-mit-ansage-teil-1/
*21 オクウィ・エンヴェゾー|Okwui Enwezor, 1963-2019
ナイジェリア出身のキュレーター、美術史家。
*22 ミール・レッドマン|Mirl Redmann
文化研究者。ジュネーブ大学での博士号取得を目指している。問題のテキストは、2022年9月に『e-flux』に掲載されたもので、ドクメンタ3-5に関わり、のちに美術館、博物館の責任者も務めることになる美術史家、ゲルハルト・ボットの、未成人のときのナチ入党を問題にしている。
https://www.e-flux.com/notes/489413/on-the-death-of-gerhard-bott-and-german-art-institutions-botched-dealings-with-their-nazi-past
*23 ニコラ・ブリオーとクレア・ビショップ
ブリオー(Nicolas Bourriaud, 1965-)は、フランスのキュレーター、美術評論家。ビショップ(Claire Bishop, 1971-)はイギリスの美術史家。現在ニューヨーク市立大学大学院センター教授。
*24 エルネスト・ラクラウやシャンタル・ムフ
ラクラウ(Ernesto Laclau, 1935-2014)は、アルゼンチン出身、ムフ(Chantal Mouffe, 1943-)はベルギー出身の政治学者。
*25 エドゥアール・グリッサン|Édouard Glissant, 1928-2011
フランス領マルティニーク出身の作家、詩人、哲学者。
*26 ヴィクトル・セガレン|Victor Segalen, 1878-1919
フランスの民俗学者。海軍医師であり作家、詩人でもあり探検家でもあった。海軍医師でヌメア(現在のフランス領ニューカレドニアの首都)に赴任していたとき、数ヶ月前にヒヴァ・オア島で亡くなったポール・ゴーギャンの遺作や遺品の処理を行うとともに、晩年の彼についての調査も行っている。
*27 ヨーゼフ・ボイス|Joseph Beuys, 1921-86
ドイツのアーティスト。
*28 ルドルフ・シュタイナーの反ユダヤ主義
シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861-1925)はオーストリア、ドイツで活動した神秘思想家。反ユダヤ主義を批判し続けたが、同様に、シオニズムに対してもその在り方に疑義を呈している。そのため、反ユダヤ主義として彼を捉える立場もある。
*29 ピーター・フリードル|Peter Friedl, 1960-
オーストリアのアーティスト。
*30 アダム・シムジック|Adam Szymczyk, 1970-
ポーランド出身の批評家、キュレーター。
*31 フランコ・“ビフォ”・ベラルディ|Franco “Bifo” Berardi, 1949-
イタリアの哲学者。アウトノミア運動の活動家でもある。
*32 ロジャー・ビュルゲルとルート・ノアック
ビュルゲル(Roger M. Buergel, 1962-)、ノアック(Roger M. Buergel, 1962-)は、共にドイツ出身のキュレーター。
*33 エドワード・サイード|Edward Wadie Said, 1935-2003
パレスチナ系のアメリカ人の文学研究者。“100 days, 100 guests”では、初日にカトリーヌ・ダヴィッドと対談をしている。
*34 エヴァ=マリア・シュルツ=ヤンダー|Eva-Maria Schulz-Jander, 1935-
ポーランド出身の文化研究者。アメリカ移住を経て1967年からドイツ在住。カッセルのキリスト教・ユダヤ教協力機構の常務理事を22年間務めている。
*35 フィリップ・グラス|Philip Glass, 1937-
アメリカの作曲家。“Einstein on the Beach”は、グラスが作曲し、舞台監督ロバート・ウィルソン(Robert Wilson, 1941-) が演出した、1976年初演の4幕のオペラ。
*36 アーノルド・ボーデ|Arnold Bode, 1900-1977
ドイツのキュレーター。建築、絵画、デザインの分野でも活動。
*37 ヴェルナー・ハフトマン|Werner Haftmann, 1912-1999
ドイツの美術史家。ナチスの党員で突撃隊にも参加し、戦時下、パルチザンの拷問に関与していたことが判明している。
*38 クルト・マルティン|Kurt Martin, 1899-1975
ドイツの美術史家。戦時下、ナチスの芸術行政に深く関わり、博物館や美術館の責任者、美術作品の購入や略奪を指揮したとされている。
*39 ジグムント・アシュロット|Sigmund Aschrott, 1826-1915
ユダヤ系ドイツ人の実業家。カッセッル市中心部から西の、フロントウエスト地区を開発したことで知られる。
*40 ホルスト・ホーハイゼル|Horst Hoheisel, 1944-
ドイツのアーティスト。個人のプロジェクトの他、建築家のアンドレアス・クニッツ(Andreas Knitz, 1963-)と協働で、T4作戦で用いられた灰色のバスのモニュメントなども手がけている。
*41 キャロライン・クリストフ=バカルギエフ|Carolyn Christov-Bakargiev, 1957-
アメリカ出身のイタリア系のキュレーター。現在、トリノのカステロ・デ・リヴォリ現代美術館のディレクター。
*42 ジャネット・カーディフとジョージ・ビュレス・ミラー|Janet Cardiff, 1957-, George Bures Miller, 1960-
共にカナダのアーティストでパートナー関係にある。カーディフは初期はソロの活動も行っており、1997年のミュンスター彫刻プロジェクトは音響作品を個人名義で出展している。
*43 ロイス・ヴァインベルガー|Lois Weinberger, 1947-2020
オーストリアのアーティスト。植物を用いた表現で知られる。
*44 スーザン・フィリップス|Susan Mary Philipsz, 1965-
スコットランドのアーティスト。サウンド・インスタレーションで知られる。
*45 パヴェル・ハース|Pavel Haas, 1899-1944
チェコの作曲家。『テレージエンシュタット』撮影後、アウシュヴィッツへ移送され殺害されている。
*46 カレル・アンチェル|Karel Ančerl, 1908-1973
チェコの作曲家、指揮者。『テレージエンシュタット』撮影後、パヴェル・ハースらと共にアウシュヴィッツへ移送されているが、殺害を免れている。
*47 ナチスのプロパガンダ映画『テレージエンシュタット』
原題は“Der Führer schenkt den Juden eine Stadt” (「総統はユダヤ人に都市を与える」の意)。強制収容所の実態を隠すための偽りの模範収容所、テレージエンシュタットを撮影した1944年のプロパガンダ映画。脚本、監督はユダヤ人でテレージエンシュタットに送られた俳優であり、監督でもあるクルト・ゲロン(Kurt Gerron, 1897-1944)。ゲロンは、撮影終了後にアウシュヴィッツに送られ命を落としている。『Shoah』のクロード・ランズマン(Claude Lanzmann, 1925-2018)監督の手で、2013年に、テレージエンシュタットの一人のラビにスポットを当てたドキュメンタリー、“Le Dernier des injustes” (邦題『不正義の果て』)が制作されている。
*48 クレメンス・フォン・ヴェーデマイヤー|Clemens von Wedemeyer, 1974-
ドイツのヴィデオ・アーティスト。
*49 エバーハルト・イッツェンプリッツ|Eberhard Itzenplitz, 1926-2012
ドイツの映画、テレビの監督。『バーンブレ』は1970年5月24日に放送予定だったが、マインホフがアンドレアス・バーダーの事件に関与したため放送中止になっている。脚本は出版されている。
*50 ゲルハルト・リヒター|Gerhard Richter, 1932-
ドイツのアーティスト。
*51 ウルリケ・マインホフ|Ulrike Marie Meinhof, 1934-1976
ドイツの左翼系ジャーナリスト、活動家。西ドイツ赤軍 (RAF)のメンバーで、「バーダー・マインホフ・ギャング」と呼ばれ、銀行強盗、爆撃、誘拐などを行った。双子の娘の母でもあるが、子供から離れて活動を行い、逮捕後、シュタンハイム刑務所の独房で縊死。
*52 コービニアン・アイグナー|Korbinian Aigner, 1885-1966
カソリックの神父であり、果物栽培者(ポモロジスト)でもあった。国民社会主義の反対者で、逮捕後、1941年にダッハウの強制収容所に移送され、リンゴの栽培、および新種の開発を行った。
*53 ジミー・ダーハム|Jimmie Bob Durham, 1940-2021
アメリカのアーティスト。チェロキー族であると主張していたが、チェロキーの代表者からは否定されている。
*54 コーネリアス・グルリット|Cornelius Gurlitt, 1932-2014
1,500点を超えるコレクションの継承者。収集は父、ヒルデブラント・グルリット(Hildebrand Gurlitt, 1895-1956)。ヒルデブラントは、美術史家でありナチスの退廃芸術の正規ディーラーの一人でもあった。コーネリアスの母親、ヘレンはメアリー・ウィグマンの最初の生徒の一人だった。ドイツの風景画家ルイス・グルリット(Louis Gurlitt, 1812-1897)は、コーネリアスの曽祖父。同姓同名の祖父コーネリアス・グルリット(1850-1938)は、建築家で美術史家。
*55 カリフォルニアの州法で殺人罪を規定する数字「187」
カリフォルニア州殺人法では、大きく殺人と過失致死に分類され、殺人の刑を規定する刑法(penalty code)は「187」になっている。
*56 バスティオン・フロンタル|Bastión Frontal, 「前線の要塞」の意
スペインの極右組織。2020年、SNSでの活動から始まり、街頭デモなども行うようになる。
*57 イザベル・メディナ・ペラルタ|Isabel Medina Peralta, 2003-
フランコ主義で、ファシズムとの関係も指摘されるファランジスムを信奉し、国民社会主義の肯定を公言する急進的な右翼活動家。
*58 アブバカール・フォファーナ|Aboubakar Fofana, 1967-
マリ出身のアーティスト。テキスタイルを用いた作品で知られる。
*59 ロジャー・バーナット|Roger Bernat, 1968-
スペインのアーティスト。舞台芸術で知られる。
*60 LGBTQI及び難民の権利
アテネを拠点とする活動家のグループで、設立経緯や、構成員などはわかっていない。
*61 Jimmie Durham & Stick in the Forest by the Side of the Road
ジミー・ダーハムと8人のメンバーからなるコレクティヴ。ダーハムは開幕の前年、2021年11月17日に亡くなっている。
*62 オル・オギュイベ|Olu Oguibe, 1964-
ナイジェリア出身のアメリカのアーティスト。アーティスト以外にも、キュレーションや大学で教鞭を取るなど、多彩な活動を行っている。
*63 クリストフ・ビュッシェル|Christoph Büchel, 1966-
スイスのアーティスト。2017年のヴェネツィア・ビエンナーレ以外にも、2019年には、難民を乗せて沈没し800人以上もの犠牲者を出した漁船を移動して展示し注目を集めた。
*64 シャルリー・エブド襲撃事件
2015年1月7日、パリ11区で起こったテロ事件。風刺新聞『シャルリー・エブド』の本社が襲撃され、編集長、漫画家、コラムニスト、警察官ら12人が殺害された。襲撃後、関連した事件も起こっている。
*64 ニーナ・マグヌスドッティル|Nina Magnúsdóttir
アイスランドのインディペンデント・キュレーター。ビュッシェルとはその後も協働しており、パレルモで開催されたマニフェスタでは、インフォメーションとしてはまったく記載されていないが、ビュッシェルと共にプロジェクトを行っている。
*66 ルイージ・ブルニャーロ|Luigi Brugnaro, 1961-
イタリアの起業家、政治家。2015年からヴェネツィア市長、 チッタ・メトロポリターナ・ヴェネツィアの市長。中道右派政党、コラッジョ・イタリア( 「勇気イタリア」の意 )の党首でもある。
*67 フェリーチェ・カッソン|Felice Casson, 1953-
イタリアの政治家で、現在は上院議員。もともとは治安判事で、テロリズム、汚職、環境犯罪、諜報機関などの調査を担当したことで知られる。
*68 マイ・アブ・エルダハブ|Mai Abu ElDahab
カイロ出身の批評家、キュレーター。マニフェスタ後も、2014年のリヴァプール・ビエンナーレの共同キュレーターを務めたり、アラブのアーティストを支援するベルギーを拠点とする非営利組織、Mophradat(「語彙」を意味するアラビア語を音訳したもの)を設立するなど、多彩な活動を行っている。

 


 

ナノソート 2021
#01 女たちのテントと実験室(前)
#01 女たちのテントと実験室(後)

ART iT Archive
杉田敦 ナノソート2017(2017年6月-2018年8月)
連載 田中功起 質問する 9-1:杉田敦さんへ1(2013年10月-2014年4月)

 


 

杉田敦|Atsushi Sugita
美術批評、⼥⼦美術⼤学大学院芸術表象教授。主な著書に『ナノ・ソート』(彩流社)、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『inter-views』(美学出版)など。オルタナティヴ・スペース art & river bankを運営するとともに、『critics coast』(越後妻有アートトリエンナーレ, 2009)、 『Picnic』(増本泰⽃との協働)など、プロジェクトも多く⼿がける。2017年はリスボン⼤学大学院で教鞭をとっている。ポルトガル関連の著書に、『⽩い街へ』『アソーレス、孤独の群島』『静穏の書』(以上、彩流社)がある。

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