椹木野衣 美術と時評92:新型コロナ禍と「Don’t Follow the Wind」— そして「見に行くことができない展覧会」だけが残った

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特定廃棄物埋立処分施設(旧フクシマエコテッククリーンセンター)の様子、福島県双葉郡富岡町。撮影=筆者(以下同)

 

新型コロナウイルスによる感染症の蔓延で、またたくまに世界がこんな状態に陥るとは、いったい誰が想像しただろう。もっとも、兆しがなかったわけではない。いつ起きてもおかしくないパンデミックによる危機が破局的なものとなる危険性については、かねてから鳥インフルエンザの変異可能性などを通じて繰り返し指摘されてきた。実際、2009年には新型インフルエンザの世界的な蔓延が発生している。私自身この時、翌年2月の大学の入試で、新型インフルエンザに感染してやむをえず決められた日時に来校できなかった受験生のため追試験用の問題が作られて対応に当たったので、おぼろげに覚えている。それくらいの記憶しかないのだから、今回に比べれば影響はだいぶ限定的だったのだろう。実際、今ほどマスクの着用が徹底されていたかというと、そこまでの記憶はない。マスクが手に入らないこともなかったはずだ。ましてやトイレットペーパーの争奪戦が起こることなど想像だにしなかった(それは1970年代のオイルショック以来なのだ)。医療的な対応として手際よく発熱外来も併設されていたから、国の政策ももっと迅速だったと思う。また既存の抗インフルエンザ薬であるタミフルがある程度まで有効であったことから、一時的に不足状態があったものの、服用した罹患者は順調に回復し、日常生活が毀損されるほどのことはなかった。

それがこれほどわずかな期間のうちにこんなことになるとは。本当に驚異(脅威?)的な感染能力である。ヒトからヒトへだけでなく、ヒトからモノ(ドアノブ、手すりなど)を介してもヒトへとうつるから、感染者数は爆発的に増えて、たちまち医療機関がいっぱいとなり、医療崩壊に至ってしまう。にもかかわらずワクチンも特効薬もない。これさえあればという予防法も治療法もまだない。高齢者や持病を持つ者のリスクが高いとされていたけれども、若く持病のない者も死んでいる。潜伏期間が長く、大半と言われる無症状の感染者は徹底して「運び屋」として使い倒し、弱い者には容赦なく襲いかかる。そして人間にとってもっとも命の持続に欠かせない呼吸を不全に陥れる。しかもあれよあれよという間にだ。人は食べ物や水がなくてもある程度は生きられる。しかし息ができないのはどうにもならない。誰が劇症化するかの因果関係も不明だ。いったん回復しても再度感染が陽性と出る例も相次いでいる。感染の恐れがあるから近接した看病も、傍らで死を看取ることも、亡骸に触れて最期の別れをすることもできない。他人のものであれ自分の顔であれ、手で触れるのがこのウイルスの伝播に大きな役割を果たしているからだ。しかし顔を触れるのは他者や自己の確認にとって、もっとも大事な所作ではなかったか。それが禁じられる。しかも手はヒトに道具を与え、文明を生んだ起源となる器官ではないか。それが敵となる。自分の手が信じられないというのは、自己認知のうえでも自己慰撫にとっても、きっとなにがしかの弊害を生むだろう。本当にこのウイルスの悪しき性質を挙げれば切りがない。

今ではもう、このウイルスが蔓延する前のあの穏やかな日々、それがもうとても昔のことのように感じられる。私自身、中国の武漢での発症事例がヒトからヒトへの感染に移ったと伝えられたのを聞いたとき、かつてのエイズ禍のようなことにならなければいいな、とおぼろげに感じたくらいだった。いったい、あれはいつのことだったのだろう。少なくとも、それでも去る12月にはまだ方々に調査や取材で動き続けていたし、ようやく年の瀬になって故郷の秩父で暮らす両親を妻や息子とともに訪ね、大晦日の茶の間にきょうだいの家族と全員が集合し、なじみの手料理と笑いを肴に酒を交わし、生まれ変わったような気持ちで2020年を迎えた。むろん、誰もマスクなどしていなかった。しかし、そんな団欒はもうすっかり過去のことになってしまった。両親は高齢で父は昨年、88歳の米寿を迎え、やはり12月には家族でお祝いを兼ねささやかな小旅行をともにした。依然、元気ではあるものの誰が無症状のまま感染者であるかわからない以上、万が一感染してしまえば、あっというまに重篤な容態に陥ってもまったくおかしくない。死んでしまうことだって大いにありうる。もしも私からうつしたとなれば、間接的に親を殺したことにもなりかねない。それならもう会わないしか選択肢はない。

当たり前のことで気づきもしなかった穏やかな親密ささえ、今では「3密」と奇妙な呼称で呼ばれ非難さえされるようになった。親密さが3密の禁から解放され、誰のもとにも等しく取り戻されるのは、いったいいつのことになるのだろう。有効なワクチンが開発される最短のめどと言われる1年先だろうか。多くの犠牲者を出してようやく沈静化するとすれば2年先だろうか。それとも、ウイルスがさらに強毒化するようなことがあれば、もっと先なのか。それどころか、新たな未知のウイルスが引きも切らず現れるようなことになれば、私が生きているうちにはもう無理かもしれない。新型インフルエンザや新型コロナウイルス感染症(COVID-19)だけでなく、このところ数年おきにSARS、MERS、エボラ出血熱、ジカ熱が発生し、なすすべもなく世界のどこかで蔓延し続けていることを考えれば、そんなことになってしまっても不思議はない(いや、想定すべきなのだ)。少なくとも、今は家にいて感染を拡大しないことだけが、人類にできる唯一の有効な方策なのだ。たった数ヶ月前まで、拡大する文明が地球規模で繋がり、日々加速し続けていたにもかかわらず、今やそれ(STAY HOME)だけが、一人一人の人間が人類に対してできる最大の貢献となった。21世紀の世界について考えるうえでの鍵に「断絶」や「分断」があったのは記憶に新しい。しかし現在起きていることは、それともまったく違っている。断絶や分断が人々を憎しみ合いへと導く悪しき回路であったのに対し、私たちに今求められている断絶や分断は、むしろ進んで推奨されている。それに、家にこもるのはもう断絶や分断でさえない。それはむしろ籠城であり、もっと端的に言えばひきこもりだ。つまりは「孤立」や「孤絶」が地球規模で求められていることになる。そういう世界では、親きょうだいや恋人、知人や友人たちに会うのにもどこかでほのかな死を予感させる。遠慮や疑心暗鬼が生じる。握手や抱擁さえはばかられるのだ。そしてそれが解除されるめどは現時点でまったく立っていない。

少しカレンダーをさかのぼってみる。新年の26日に私はさいたまスーパーアリーナでクイーンの日本公演の渦中にいた。人々は数え切れないほどのスマホのあかりを頼りに声を合わせ、熱を帯びた群衆となり歌っていた。今ではもう到底できないことだ。31日には、まだ赤坂の料理屋、菊乃井で家族と普通に食事をしていた。新型コロナウイルスのことを気にした記憶はまったくない。しかし翌2月1日に入試の準備で大学に出た際には、入り口でマスクが配られていたから、水面下では感染の懸念は着々と進行し始めていたのだろう。この2月には13日に岡本太郎現代芸術賞の授賞式があって私も賞状の贈呈のため式典に参加し登壇している。他所の式典が中止になったという声もちらほらとは聞こえていたものの、この時分はまだ自粛の機運はそれほど強くなかったのだろう。だが、帰りの車のなかで都内のタクシー運転手から感染が見つかったとの報道に触れ(例の屋形船のクラスターだ)、それから間を置かず全国で初めての新型コロナウイルス感染症による死者が出た。おそらくはこのあたりを境に事態が急激に悪化し始めたのだろう。その週末に日本橋の高島屋で開かれた「<アストロラマ>と舞踏家 土方巽」のトークイベントに足を運んだ時には、ほとんどの人がマスクをしていた。もっとも、狭い部屋に人がいっぱいで登壇者も多いという3密の典型のような会場であったにもかかわらず、命の危険につながるほどの危機感はまだなかった。その証拠に、同じ高島屋で予定されていた大阪万博「アストロラマ」にまつわるイベントはその後、次々に中止になっていった。

私が久しぶりに企画・監修(キュレーション)を手がけた原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市)での写真家、砂守勝巳を回顧する「黙示する風景」展(本連載第89〜91回も参照)は、そんな心配の中でもなんとか無事、22日のオープンを迎えている。初日の会場で開かれたトークイベントも多くの人を集めた。だが、残念なことに本展は途中で会期を延長したものの、4月7日には埼玉県下にも緊急事態宣言が発出されたため、とうとう臨時休止となった。それでもギリギリまで開館していた首都圏でも数少ない美術館のひとつであった。この展覧会はまだ再開の余地を残しているので、会場の展示はそのままである。けれども関係者でもない限り、誰もこの展示を見に行くことはできない。いや、その関係者でさえ今は外出や都道府県をまたいでの移動は強く自粛するよう要請されている。実質「見に行くことができない展覧会」になったのだ。

 


国道6号より中間貯蔵工事情報センター(福島県双葉郡大熊町)へ向かうグランギニョル未来の車中。装置はガイガーカウンター、数値は0.71μS/h。

 

と、ここまで書いてきてようやく今回の主題に入るのだが、私もその一員であるアート・ユニット「グランギニョル未来」のメンバー(私のほかに赤城修司、飴屋法水、山川冬樹)で、揃って福島県の浜通りへと車で向かったのは、こうした一連の渦中、2月28日のことだった。同ユニットが、東京電力福島第一原子力発電所の原子炉3基メルトダウン事故で拡散した放射性物質による汚染で封鎖された帰還困難区域で開催することで「見に行くことができない展覧会」となっているプロジェクト「Don’t Follow the Wind」(2015年3月〜 以下、DFW) に参加していることについては、これまでも本連載でことあるたびに触れてきた(第5264〜6674回)。私が新型コロナウイルス感染症について他人事ではなく危機感を抱いたのは、実はこの時、東京から車で福島方面へと向かう車中でのことだった。

ちなみにDFWは東日本大震災から9年となる今年の3月11日を前に、プロジェクトが始まって以来、最大の変化の節目を迎えていた。「復興五輪」を謳う政府の政策により、帰還困難区域の中に新たに「復興拠点」が設けられ、ここに集中的な除染事業を投下することで、帰還困難区域の中であるにもかかわらず、バリケードによる封鎖が解ける一帯が3月を境に生まれることになったからだ。これは不測の事態だった。というのも、私たちは当初からバリケードで物理的に封鎖された区域、イコール帰還困難区域と考えていたからだ。また実際、国も帰還困難区域と命名するほど放射能汚染が深刻で危険な場所であるからこそ、バリケードで厳しく立ち入りを制限していたはずだ。ゆえに「見に行くことができない展覧会」にほかならないDFWの会場は、すなわち帰還困難区域の区域内ということになり、事実それでなんの支障もなかった。また私たち自身、DFWの会場は帰還困難区域の中にあるからこそ「見に行くことができない」のであり、逆に言えば帰還困難区域が解除され、なおかつその解除された区域に私たち(実行委員会、私もそのメンバーのひとりである)が設置した作品が展示されているなら、そこから順次、公開していく、つまり「見に行くことができるようになる」、と伝えてきた。だが、先の復興拠点はこの3月になると帰還困難区域であるままバリケードによる封鎖が解けてしまった。つまりバリケードで封鎖されてない、誰もが昼夜を問わず自由に行き来することができるにもかかわらず、依然として「帰還困難区域」であり続けているという、まったく新たな事態が生じてしまったのだ(ただし、居住となる「帰還」や個人による営利的な事業はできない)。加えて、この復興拠点の中に私たちが設置した作品のひとつが存在していたのである。

幸い、というわけではないのだが、該当するこの作品はすでに会場となっていた家屋の取り壊しと同時に滅失していた。しかし、滅失していたとはいえ、かつてそこに作品が存在したことは疑う余地のない事実であり、私たちはそのことを、少なくとも未来に入場できるようになった時のため、あらかじめ発行した前売り券を購入した人たちへと伝える必要があった。従ってこれに合わせ、私たちは2015年3月11日にDFWが開始されて以来初めて、ウェブサイトを改訂した。それについてはDFWのサイトをぜひ訪ねてみてほしい。だが、少なくともこの時点で、DFWはもう<帰還困難区域の中の「見に行くことができない展覧会」>ではなくなってしまった。帰還困難区域=封鎖地帯でない場所が、復興拠点というかたちで生まれてしまった以上、DFWの代名詞のように使われてきた「会場は帰還困難区域の中」と単純化して伝えることはできなくなった。もとより肝心だったのは「見に行くことができない」ことによって生じる効果(エフェクト)だったのだから、この展覧会を見に行くことができなくしているのは実質、帰還困難区域への指定ではなく、物理的なバリケードによる設置の方である。したがって以来、DFWにとっては「封鎖」こそがプロジェクトを成り立たせるより大きな条件ということに改めてなった。このような再条件付けと、新型コロナウイルスのパンデミックで都市の「封鎖」が現実のものとなったこととのあいだには、なんの因果関係も存在していない。だが、それでいて両者は「封鎖」という一語を介してより強く結び合うことになった。

だが、今回の一部解除は2020年の東京五輪を控えて国が加速させた復興政策による余波である。とするなら、DFWが当初から福島県浜通りに広がる避難指示区域の流動的で不透明な先行きそのものを前提としていた以上、こうしたことはいつ起きても不思議でないことではあった。その点で言えば、いつか帰還困難区域という定義そのものが消滅してしまってもおかしくはない。だが、新型コロナウイルスの蔓延とその余波というのは、そうした国の復興政策とはまったく無縁の未知な事態であった。実際、その蔓延は復興の象徴となるはずだった東京五輪という国家事業そのものを延期に追い込み、来年7月へと引き伸ばされた開催も現状を見る限り極めて疑わしい(IOCはすでに再延期はありえないという姿勢を確認している)。そもそも、帰還困難区域であるにもかかわらず通行が自由という奇妙な場所を生み出したのは、復興を急ぐ五輪ならではの副産物だった。しかし新型コロナウイルスはそのような奇妙な場所を生み出した東京五輪そのものを吹き飛ばしてしまったのだ。避難区域の中の「復興拠点」は東京五輪が開かれれば聖火ランナーが走り、人々がそれを讃えるための不可欠な拠点となるはずだった。しかし今この拠点は機能していない。2020年の五輪なきあと、除染を急いだ結果生まれた奇妙な場所だけが帰還困難区域のなかに残された。DFWは今回、展示を公開するには至らなかったけれども、そのような奇妙な場所が存在するようになったことを、作品があったという痕跡を示す声とともにウェブサイト(ノンサイト? それともリモートサイト?)を通じて告知した。

話を戻そう。グランギニョル未来のメンバーで一路、東京から福島を目指す車中で、私たちはふと、私たち自身が新型コロナウイルスの伝搬者、つまりは運び人である危険性について初めて思い当たった。その頃、まだ福島県は新型コロナウイルスの感染者を一人も出していなかった。新型コロナウイルス感染症は宿主が無症状でも強い感染力をもつおそれがある。それなら、感染地帯である東京から一路、汚染地帯である浜通りの区域を目指す私たち自身がそこにいる人たちに感染症をうつしてしまうおそれがある。かつて心ない者が偏見から福島の避難者を「放射能がうつる」と差別する事例が見かけられたが、今度は逆に東京からの訪問者が福島の人たちにウイルスをうつしてしまうかもしれない。しかもウイルスは実際にヒトを宿主にして伝播するのだから、この恐れには十分な科学的根拠がある。その時に私たちが訪ねようとしていたのは、原発事故による被災の困難を意力に変え、私たちに会場を提供するために尽力してくれている、いわば恩人のひとりだった。万が一でもうつしてしまうようなことがあってはならない。かといって、感染対策のために防護服を着て会うことはありえない。すでに防護服は原発事故以降、放射能汚染の象徴のようなものになっていた。実際、原発事故直後の福島では防護服を着用して首都圏から来訪する政治家さえいたのだ。ヤノベケンジによる防護服を着た巨大なモニュメント=人物像「サン・チャイルド」の福島駅前への設置が大きな反発を買ったことが思い出される。だが、防護服を着て相手に会うことは、新型コロナウイルス感染症対策としては、考えられるうちでまちがいなく万全の対策のひとつなのだ。そう、防護服の意味が、福島原発事故の時と新型コロナウイルス禍のもととでは、いつのまにか意味が変わってしまっていたのだ。

 

 
特定廃棄物埋立情報館 リプルンふくしま(福島県富岡町)展示風景より。同館は、東京電力福島第一原子力発電所事故により大気中に放出された放射性物質を含む特定廃棄物の埋め立て処分事業について紹介する目的で開設された。「リブルン」の愛称は、再生・復興の想いをこめた「Re-produce」と「〜する」との造語から成る「リプる」に、親しみのため語尾に「ン」をつけたとされる(公式HPより)が、どことはなしに原子燃料サイクルとプルトニウムを連想してしまうのは穿ちすぎだろうか。写真2点目は、放射能汚染された廃棄物が何年かけて線量が下がるかをゲーム感覚で接触的に体験する展示。
*同館は新型コロナウイルス感染拡大防止のため当面のあいだ休館中。

 

原子力災害下での防護服の必要は、外から降り注いでくる放射性物質が体内に取り入れられるのを回避するためにある。けれども、ウイルスによる感染を防ぐための防護服は(医療の現場などでは外から侵入するウイルスを食い止めるためにももちろん必要だが)マスクがそうであるように、体内に潜んでいるかもしれないウイルスを体外に拡散し、他人を感染させてしまうリスクを低減するために一定の有効性を持つように思われる。「被曝」と「感染」というのは、私たちが経験した2011年と2020年の二つの破局的な事態をあらわす一対の言葉だろう。だが、それをめぐる日常的な対策は、その点でいうなら180度対照的なのだ。それで言えば、核災害では防護服もさることながら、なにより放射能の及ばない場所へと「逃げる」ことがなにより重要だった。しかし、パンデミックでは世界中にもう逃げる場所もない。核災害でも逃げることができない場合に限って「屋内退避」が呼びかけられたけれども、パンデミックで同じ「屋内退避」が呼びかけられるのは、先に触れたとおり、もっと遥かに積極的な理由からだ。結局私たちもまた、現地にある目的地の駐車場に車を停めたまま、そこから一歩も外へと出られなくなってしまった。車中への自己隔離である。しかしそれではなにも先へは進まない。考えたあげく、先方に会う前に、東京から来た以上そのようなリスクがあることを前もって電話で伝えることにした。だが、そのような感染のリスクがあるけれども、同時に、会ってくれるかどうかについての判断を相手に委ねるのにも躊躇が生まれた。このような重大な判断を相手に委ねるのは、ある種の責任放棄であり、先方に責任を押し付けることになりかねないからだ。万が一の時には、それを受け入れる主体的な意思を示した側に責任は大きく移行する。解決の難しいジレンマに陥った私たちは結局、マスクと入念な手の消毒をしたうえで先方に会うことにした。しかし、予定していたその方を囲んでの夜の飲み会は急遽、中止した。本当はこんなことがもっと早く考えておくべきことだった。しかし私たちは(少なくとも私は)この段階ではそのことに事前に思い当たることができなかった。どこか他人事だったのだ。先に、この時が私にとって新型コロナウイルスについて本当に肌身で考える最初の機会、「他人事ではなく危機感を抱いた」と書いたのは、そのためだ。

中止と言えば、私たちの今回の訪問の主要な目的は、同じ28日に申請のうえ視察を許可されていた中間貯蔵施設の工事現場の見学会への参加であった。だが、この見学会も前日に突然の延期が伝えられており、私たちはやむなく中間貯蔵工事情報センターの広報展示室のみの見学に留めるしかなかった。ところが、この展示室自体もその後まもなく、新型コロナウイルス感染症対策のため、当分のあいだの閉館が伝えられた。

 

中間貯蔵工事情報センター(福島県大熊町)の入口に掲げられた保原高等学校美術部による絵画「がれきに花を咲かせようプロジェクト」2014年2月10日掲示。中間貯蔵施設は、除染により発生した土壌等を最終処分するまでの間、安全かつ集中的に貯蔵するための施設。
*同センターは新型コロナウイルス感染拡大防止のため当面のあいだ休館中。


同センター展示風景

 

今思えば、それは美術館を始め東京に戻ると次々に関連する文化関連の施設が閉じていく前兆のようなものだった。もはや「見に行くことができない」展覧会は、帰還困難区域(避難指示区域)だけに特有のものではなくなった。そして皮肉なことに、現在の福島県浜通りの避難指示区域は、新型コロナウイルスからもっとも守られた場所となった。街はあるけれども、ウイルスを運ぶ人が住んでいないからだ。日中に作業で入っている人はいるけれども、かれらは初めからマスクや防護服を着けている。身につけた防護服は内部被曝を防ぐためのものだったが、結果的に他人へのウイルスの感染を防ぐ役割も果たすからだ。対して、今や東京こそが、展示は終えているけれども「見に行くことができない展覧会」で溢れている。いや、東京だけではない。4月16日夜、緊急事態宣言は全国に拡大された。もはや日本中、至るところ「見に行くことができない展覧会」だらけとなった。ただしDFWは、同じ「見に行くことができない展覧会」のうちでも唯一、「見に行くことができない展覧会」のまま、これまで通りに「開催」され続けている展覧会となった。新型コロナウイルスによるパンデミックは、超長期にわたって大きな変化はないと考えられていたDFWの意味も、こうして根本から変えてしまった。しかし、こういうことが起きることがDFWの核心でもあるのだ。その行く末を確実に見据えることは誰にもできない。実行委員会はもちろんのこと、国家でさえ無理なのだ。その領域はほとんど自然そのものの解読不可能性へと通じている。

 


筆者近況:ゲスト・キュレーターを務めた「砂守勝巳 黙示する風景」展(原爆の図 丸木美術館、埼玉県東松山市)は、新型コロナウイルス感染症COVID-19の拡大防止のため、4月9日より当面の間、臨時休館。作家とのトークイベントに登壇予定の「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」展(アーツ前橋)は、会期が再延長されたため(5月22日から7月16日)、イベント詳細も今後の公式発表を参照されたい。

*昨今の新型コロナウイルス感染症対応をめぐり、展覧会、イベント等も各所で一時閉鎖や延期・中止となるケースが少なからず生じています。最新情報については公式サイト等でご確認ください(編集部)。

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