椹木野衣 美術と時評 80:「水のかたりべ」展—橋と梯子、埋もれた狩野川台風

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「千歳橋南條よりにたまった流木」 石井俊司撮影 1958年 狩野川資料館所蔵 写真提供:国土交通省中部地方整備局沼津河川国道事務所

 

クリフエッジ・プロジェクトは、東日本大震災後の2013年に結成されたアートプロジェクトで、従来の現代美術の手法にとらわれることなく、歴史、郷土、地質学、地学などを総合し、多方面から災害とアートの関係について過去にないかたちで可視化する活動である。伊豆地方で過去に起きた災害に的を絞り、それらのあり方/見え方についてアートを介在させることで「アップデート」する発表を継続的に展開している。中心となるのは美術家の住康平で、2015年には1930年に起きた北伊豆地震をめぐり、最初のまとまった成果となる「半島の傷跡」を、断層の跡が今なお残る伊豆半島、丹那盆地周辺一帯(静岡県田方郡函南町)で公開した。これから紹介するのは、今年開催された2回目の大きな発表(*1)で、今からちょうど60年前に発生した狩野川台風をめぐる「水のかたりべ」展である。この台風は1958年の9月26日から翌27日にかけ、伊豆半島の天城 を水源とする狩野川上流の山地一帯を中心に大規模な鉄砲水や土石流を生じさせ、流域に甚大な被害をもたらした。なかでも修善寺町(現在の伊豆市)と大仁町(現在の伊豆の国市)は併せて853人を数える死者・行方不明者を出し(*2)、人と土地に容易には消えない「傷跡」を残している。

もっとも、この傷跡は現地を訪ねても、はっきりと明示されているわけではない。そもそも、翌1959年に日本列島を襲った伊勢湾台風と比べた時、狩野川台風についてはほとんどなにも知られていないと言ってよいのではないだろうか。クリフエッジ・プロジェクトの特徴のひとつは、伊豆地方に限定することで、誰もがすぐに思い出す関東大震災や阪神淡路大震災、東日本大震災などではなく、ある意味、その影に隠されることで長く眠ったままでいる災害が、実は日本列島の各所で起きていることに気づかせる効果だろう。言い換えれば、クリフエッジ・プロジェクトが扱うのは、教科書に載るような「歴史」ではなく、しかし「郷土研究」の枠で収めてしまうには、地域にとってあまりにも甚大な意味を持つ災害である。彼らの試みには、歴史と郷土とのあいだに存在するこうしたあいまいな領域にアートの手法を通じて入り込み、より多くの人が関わることができる歴史の余地として展示(=expose 引き延ばす)し、可視化する働きがあると言えるだろう。

 


狩野川資料館外観 写真提供:クリフエッジ・プロジェクト(以降特に記載のないものは全て)

 

会場となったのは国土交通省が管理する伊豆の国市の狩野川資料館だが、ここは外部からの視察などを除けば、普段は地元の人でも訪ねることがないような施設である。というよりも、そのような資料館があること自体、現地でもほとんど知られていないのが実情だろう。先に触れたような甚大な被害を地域にもたらしたにもかかわらず、なぜ、そのような状態なのか。運営予算の問題、また指定管理者等の不在などに加え、国土交通省の所蔵「資料」として保存管理されてきたことが、かえって地域の人たちとの距離をつくってしまっていることがあげられよう。いまひとつは、狩野川台風のもたらした被害があまりにも悲惨であったため、当時を知る人にとっては思い出したくない、語りたくないトラウマになっているのではないか。他方、後にできた狩野川放水路への信頼からか、また災害の象徴から防災の象徴への転化なのか、同地域では「防災」の名のもとでは狩野川台風が多くの場で語られるとも聞く。だが、災害の「記憶と記録」が広く語り継がれる機会は少ない。

関東大震災や伊勢湾台風であれば、歴史に消し難く深く関わるがゆえに、これらを巡る語りや再考は、いくら当事者が口を閉ざそうと、社会自体が閉ざすことを許さない。こうして、歴史的に大きな自然災害と、(あえて言えば)マイナーな自然災害とのあいだには、単に量的な問題に還元できない本質的な差異が生じてしまう。前者は時を経過するほど歴史的に突出して(前後を省いて)記述されるようになり、後者はまったく逆に、ますます忘れられ、やがて存在しないも同然になってしまう。クリフエッジ・プロジェクトの提示する問いとは、このような差異は、多大な犠牲者を出す(一人の死者も数万人の死者も当事者にとっては数字上の区別でしかない)災害について、はたしてどれほどの意味を持つのかという呼びかけでもある。

具体的に見ていこう。会場となる資料館は国の管理と言ってもお世辞にも立派とは言い難い。率直なところ、館というより小屋と呼んだほうが実情に近い。住は今回、この資料館の内装に大幅に手を入れ、記録を扱う「資料館」というよりも、訪れた人の記憶に働きかける「展示場」としてしつらえを変えている。これは、公的な施設が外観(制度)はそのままにして、内部が変更(表現)されたことを意味する。つまり、会場という場所そのものが、公的な記録と私的な記憶が接する境界へと作りかえられているのだ。そのような境界領域に、住は主に5つの要素を配置する。ひとつは実際に被災した当時の被災物(煉瓦)、また国の管理する狩野川台風をめぐる膨大な写真から選ばれた「資料」、さらにはこの台風に関わる謎めいた造形の模型と3Dデータ、そして説明がなければ意味の汲み取れない大小の梯子、最後に別室で繰り返し上映される映像作品「水のかたりべ」である。


流失した大仁橋の橋脚煉瓦

 


「水のかたりべ」展会場風景(下2点も)

 

 

これらは順番に並んでいるわけではないが、記した順に狩野川台風という過去に実際に起きた出来事に対し、実質的な距離を置くことになる。というのも、地元住民の松本圭司を「語り部」に据える映像作品は、狩野川台風にもっとも具体的に触れているのだが、しかし逆にそれは当事者による回顧(記憶の編集)でもあるがゆえに前4者の物質性とは大きく異なる。加えて今、松本のことを「当事者」と呼んだが、そのことの事実性自体が実は大きく揺らいでいる。狩野川台風について初めて知った私のような者にとって、8歳の時に現地でその様子を見た松本は紛れもない当事者である。だが、松本のなかでは必ずしもそうではないのだ。彼は次のように語っている。

「狩野川台風については、何度もその悲惨さを耳にしてきた。一滴の水にぬれることもない自分には、それに共感をもって話に加わることなどできなかった。またつらい思いをされた方の中には、黙り込む方も多い。60年の節目を迎えるにあたり、その悲惨さを語るだけではない台風の伝え方ができないか、そんなことを考えてきた」


狩野川台風体験者・松本圭司氏 映像作品『水のかたりべ』より

 

たまたま高台に家があったために被災を逃れることができた松本は、この点では「当事者のなかの部外者」なのである。しかし、このようなことはどのような悲惨な戦争、災害でも当然のように起こりうる。ヒロシマやナガサキの被爆の現実を今に伝える「語り部」が<語る>ことができるのは、かれらが原爆で死ぬことがなかったからである。もっとも酷い目にあった者は熱線で消えてしまった。「原爆の図」で知られる丸木夫妻が絵本『ピカドン』で「爆心地の話をつたえてくれる人は、誰もいません」と「伝えて」いるのは、そのような矛盾した事態を示している。松本もある意味、そのような意味での「語り部」なのだ。

もっと言えば、松本は難なく生き延びたがゆえに「語る」動機を持ったとも言えるだろう。同じく台風を生き延びた者でも、ずっと酷い局面におかれた者には言葉で「語る」すべがなく、結局、口を閉ざすしかない。さらに先に触れたとおり松本は当時、8歳であった。その齢ゆえに記憶そのものが定かではなく、この点でも当事者性から距離を置いている。体験はしたがはっきりとは思い出せない——それが松本の狩野川台風について周囲に例を見ないほど突出した興味の持続を誘発しているとも言える。その意味でも、5つの展示要素のうち、もっとも具体的に狩野川台風についてふれる映像作品「水のかたりべ」のドキュメンタリー性を、まずは相対化しておかなければならない。

 


熊坂小学校の慰霊碑「友愛の像」。背後にわずかに覗く稜線が城山 筆者撮影

 

このような当時者/部外者、記録/記憶、物質/イメージ(映像)といった区分の相対化は今回のプロジェクトの極めて重要な成果だが、そうした図式を超えて、物質のうえでもイメージのうえでも、もっとも謎めいているのが、展示では模型と3Dデータの形で示された造形物だ。これは同地域の熊坂小学校に伝わる「慰霊碑」である。当時、同校に通う児童のうち実に78名、また教員2名が狩野川台風の犠牲になっている。この慰霊碑は正しくは「友愛の像」と名付けられ、熊坂小学校の正門の脇に据えられている。白く塗られただけの有機的な形状は、犠牲者の名前や出来事を石に刻む通常の慰霊碑とは似ても似つかない。そのことについて松本は、小学生だった当時、同じかたちの小さな像(模型?)が校長先生の机の上に乗っていたのをおぼろげながら覚えているという。

それにしてもなぜ慰霊碑ではなく友愛の像なのだろう。だいたい作者はいったい誰なのか。案を公募したという話もあるようだが、松本にその覚えはないという。一時は本来、台風とは無縁の像が時を経るうちに慰霊の像へと上書き(=アップデート?)されたのではないかという説もあったようだが、現地を訪ねて台座に付着する苔と泥を私自身で拭ったところ「1960年 狩野川台風殉難師弟之像」とあるのを見つけたので、慰霊の像であることにまちがいはない(事実、この像の内部には台風の犠牲となった児童と教師の名前を記した木札が納められているとされる)。またその造形はこの地域のシンボルとなっている標高342メートルの城山(じょうやま)をかたどっているようにも思われた。実際、像の前に立つと背後にはこの山が巨大な岩のようにそびえ、被災当時は見渡すかぎり遥かにくっきりと両者の繋がりがわかったはずだ。ある意味、この像の打ち消しえない物質的に確実な実在と、その存在理由のあいまいさとのあいだの関係は、「当事者の中の部外者」である松本の「語り」に似たところがある。映像作品「水のかたりべ」の中で松本がこの像について示す強い関心も、もしかしたら像が持つ同様の不明さ——体験したのにはっきりとは覚えていない=実在しているのに意味がわからない——に由来するのではないか。

 


『大仁橋 昭和33年9月28日』橋本英次撮影 1958年 狩野川資料館所蔵
写真提供:国土交通省中部地方整備局沼津河川国道事務所

 

今回の展示で急いで触れておかなければならないのは、梯子についてである。なぜ梯子なのか。これは狩野川台風で、熊坂と大仁の両地域を結ぶ「大仁橋」の熊坂側(厳密にはその取付道路)が鉄砲水で流され、孤立した橋に人々が登るために梯子が使われたことから着想している。肝心なのは「橋(はし)」と「梯子(はしご)」の関係だ。両者とも端(はし)と端(はし)を——橋では向こうの端とこちらの端、梯子では地面の端と上方の端とを— —点でつなぐことでは共通している。だが、両者のあいだには極めて大きな違いもある。立派な橋ほど堅牢に作られ、対して梯子は可動で持ち運びが楽なほど便利とされる。前者は恒久的であり、後者は仮設的だ。ところが、大仁橋よりずっと下流にあった千歳橋は、ことさらに丈夫に作られたがゆえに崩壊せず、ゆえに多くの漂流物をせき止め、そのことで巻き込まれる犠牲者をずっと増やした(映像の中で松本が語る通り、壊れやすいほうがいざという時に安心だという橋をめぐる言い伝えも水害の絶えないこの地域にはあったという)。そのような「橋」のひとつに人々が自主的に「梯子」をかけて渡るということ。そこには、今回のプロジェクトを集約する意味がある。強固なゆえにより強く閉ざされ、あるいは孤立する公的な記録という「橋」に、私的であるがゆえ移ろいやすく、つねにアップデートを必要とする記憶の「梯子」をかけるのだ。

台風と言えば、今年は異例に大きな台風が相次いで日本列島を襲った。他にも大阪北部地震、西日本豪雨、関西国際空港の全域水没、北海道胆振東部地震(震度7)による全道停電など大規模な災害が相次いだ。平成もまもなく終わる。現時点で次の元号など知るよしもないが、結果的に江戸時代に例を見る、災害の多発による改元に近い事例となってしまっている。次の御代はどんなにかなるのだろう。いずれにしても私たちは今、新たな時代へと橋をかけようとしている。けれども、今の私たちに必要なのは堅牢な橋などではなく、臨機応変な梯子なのかもしれない。

 


付記:狩野川台風の被害の詳細、および熊坂小学校の碑文の読み取りについて、松本圭司氏からのご教示を得た。記して感謝いたします。

*Cliff Edge Project「水のかたりべ」展は2018年11月 12 日〜11月23日、狩野川資料館(静岡県伊豆の国市)で開催された。

 


1. これらの前にも同プロジェクトでは2014年、住による展覧会「丹那の記憶」を開催している。これは伊豆半島の丹那盆地をテーマに制作された作品や、同地をめぐる資料によって構成された。
2. 国土交通省 河川整備基本方針 狩野川水系「狩野川水系流域及び河川の概要」、27頁

 


筆者近況:2019年1月14日に九州芸文館(福岡県筑後市)での「生誕90周年 手塚治虫展」関連イベント「スペシャルトーク、漫画と現代美術」に登壇(他の登壇者は漫画家の田中圭一、司会はキュレーターの花田伸一)。1月18日、多摩美術大学芸術人類学研究所主催の公開研究会「武甲山と語る会」にコーディネータとして参加。1月26日に、熊本市現代美術館での村上隆展関連イベントとして、講演会「『バブルラップ』と1980年代の美術」に登壇。

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