PARASOPHIA オープンリサーチプログラム03 ドミニク・ゴンザレス=フォルステル「M.2062 (Scarlett)」(2)

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All images: Dominique Gonzalez-Foerster, M.2062 (Scarlett) September 6, 2013. Parasophia: Kyoto International Festival of Contemporary Culture 2015 Open Research Program. Photo: Tadashi Hayashi. Courtesy: Parasophia Office © the artist.


「Fiddle-dee-dee」、「Taratata」。これは、スカーレットが好きな言葉です。映画の中で何度もこの言葉を耳にします。彼女がちょっとイライラすると、こうやって言うのです。
最初、私はとても可笑しいと思いました。でも、その後、彼女の性格を研究しようと思って映画を見始めると、その言葉は私がまったく好きではない何かを露にしているような気がしました。
この夏の間ずっと、私は彼女という人物に没頭しようとしました。スカーレット・オハラという役柄だけでなく、ヴィヴィアン・リーが演じるスカーレット・オハラという人物に。そこには女優と役柄との間の緊張感が含まれています。そこで、例えばヴィヴィアン・リーが出演する映画を全て見て、各映画の中に彼女の中にスカーレット的な部分を見つけることが出来るかなどということをためし、そして、その二人が共通して持っているものが何かを理解しようとしました。結果、私はヴィヴィアン・リー自身の中に、スカーレット的な部分があるのだと思っています。それは、どこかウィットに富んでいて、クレイジーで、意地悪な部分であり、攻撃的な態度で、彼女が出演しているどの映画にも見られるものです。今回、私は初めて役柄のために女優自身について研究しました。これまで、私は演じるというアイディアを研究するということを考えたことすらありませんでした。なぜなら私が私の作品を通じて行なおうとしていることは、演技といったものとはまったく関係ないからです。どちらかというと、こうした役柄を研究することは、トランス状態の一種とも言えるもので、物事を読みながらインプットしていくことによってわかることなのです。これは私が、恐れからではなく多くの感情と共によってしか出来ないことであり、言ってみれば、部屋を理解するように役柄を理解しようと思ったのです。

私は1年ほど前から、ロンドンで『M.2062』という長期のオペラプロジェクトをスタートさせました。その最初の役は、私自身の50年後というもので、もうすでに上演されたことになるオペラについて語るという設定で、未来の作品の計画を話しました。私がこの役柄のアイディアを開始してから、何か調査すべきものがあると感じたのです。ずいぶん前、部屋の作品の制作時に部屋を通じて触れた何かがありました。私が見せた部屋のほとんどは伝記的でした。例えば、守谷のアーカスで見せた作品は鈴木清順やファスビンダーに捧げたアパートでした。これらの部屋の多くが、だれも中にいないことを除けば、非常に強い物語性や伝記的な内容でした。登場人物や伝記といった部分は完全に空間によって定義されていたのです。部屋の色、部屋の中にある物体、そしてイメージも。実際、私は人物と同化するという考え方にはまったく反対です。私にとって、主要で、最も重要な人物は見ている人であり、観客です。私はそこに、役者はもちろん、何の存在も欲しくなかったのです。そのときは、映画の作品ひとつに関しても、全役、全俳優を消し去って、背景だけ、そして空の部屋だけを保持したいと思っていました。昔、伝記を勉強するのがとても楽しくて、そこから見出される人物に魅了されたものですが、部屋の作品を作ったときは、そうした伝記というものを完全に避けて、空間が人物そのものになり得ると理解しようとしたのです。そして現在、私は全く正反対の感情を持っています。それは人物が空間や部屋、精神的な場所になるのだという事です。非常に不思議な感情です。人物——架空の登場人物もしくは映画からの影響に関係した人物、たとえば俳優が物語につよく結びついていてある種混在した人物——になりきることによって急に現れた感情で、部屋というものについてのまったく新しい論理に入り込んだ感覚で、今回は空間によって展開するものではなく、その存在によって展開するものでした。私は現在、オペラの可能性を探っていますが、その多くの登場人物は例えばフィツカラルド、エドガー・アラン・ポーやローラ・モンテスといった19世紀の人物であり、20世紀からは緑色の髪の少年や、作家のJ.G.バラードといった人物で、これら全員が、彼ら自身の音楽との関係、物語との関係やその他多くのものとの関係を通して戦ったり、議論をしたり、オペラの可能性について解釈したりします。これが、私がなんとかして少しずつ築き上げようとしていることなのです。
今年の1月に私はルートヴィヒ2世、正確に言えばヘルムート・バーガーが演じているルートヴィヒ2世になるべくアムステルダムに行きました。それが私にとっての最初の主要なキャラクターでした。ここで、私は完全に登場人物と同化するということを理解したのです。それは、私が以前同化のための媒介としての俳優の理想像を受け入れなかった時には想像できなかったことです。「嵐が丘」の中で、主人公であるキャシーが、「私はヒースクリフ」と叫ぶシーン、つまり彼女は完全な愛、完全な理解、完全な共感、完全な共有——ヒースクリフと空間、精神的な空間の共有を果たしているというシーンがあります。それが、私が登場人物の探求によって到達しようとしている空間であり、私は音楽もしくは音楽と映画の間にある関係がこの新しい空間をもたらす唯一の方法だと感じています。









スカーレットにとってなぜタラがそれほどまで重要な場所かを理解しようとする過程で、——余談ですがタラ(Tara)という地名にはアート(art)の文字が入っているのが面白いですね——私は何度も、例えば私が本当に落ち込んでいるときに、タラに戻りたいということを想像したことがありました。タラとは一体、何なのでしょうか。私はタラは、そこが何かを理解するための唯一の場所であり、またある時点では唯一の可能性でもあるような、アートのための表現のひとつであり、この場所、このタラ、このアートの瞬間の近くに来ることが、私が最も結びついているスカーレットの一部なのです。残りの部分、例えば彼女が奴隷制にまったく反対していなかったという事実や、彼女の非常に攻撃的な態度など、多くの面で私がまったく共感できない事実があることなどを、徐々に認識していきました。でも、ヴィヴィアン・リーというフィルターを通すと、話は違います。ヴィヴィアン・リーは、スカーレットからある種の距離をもたらしているのです。リーが年をとってから演じた全ての登場人物を見ると、彼女は、役柄を通じて、年をとるということがどういうことであるか——難しいことではあるけれど——理解しようとしていたように見えます。しかし、ヴィヴィアンとスカーレットが出会うとき、あり得ないオペラのために出来うる最も素晴らしいキャラクターが生まれるのだと思います。現在、私の思いは未だにスカーレットとともにあり、だからこそ『めまい』の音楽が非常に重要なのです。なぜなら、『めまい』は、役柄を作り上げることと欲望の力についての映画だからです。ときどき、『めまい』の中で起こる出来事、つまり彼が彼女をある方法で手に入れたいと思う願いを映し出す方法——それを「『めまい』のプロセス」と呼ぶことが出来るでしょう——が、私がこの「部屋」を無理矢理作り出すことによっていくつかの部分を探ろうとする際に、私自身が行なっていることと同じではないかと感じることがあります。無理矢理作り出し、探求し、見て、多重人格のシーンがなにか非常に普通で、どうしても必要なことだと理解するプロセスです。







19世紀、多くの女性アーティストが自分自身を写真に撮りました。自分たちのことをアーティストと呼ぶことはなかったかもしれませんが、衣装を身につけることによって個性を探っていったのです。ルイーザ・カザーティやラ・カスティリオーヌなどがそうであり、その後も、シンディ・シャーマン、そして今晩、ありがたくも私にこの美しいドレスを貸してくれた森村泰昌などがいます。それは、人物を絵に描いたり、彫刻にしたり、視覚的に表象するのではなく、内側から探求する可能性のような、私が美術史におけるひとつの文脈であると信じている、心理的な「部屋」の追求を通して行なうプロセスの一部であるのです。そこには内側から美術を感じ、さらには美術になりたいという強い欲求や希望があるのです。これはフランスの詩人、ランボーによって感じられた強い欲求です。彼が砂漠にいたとき、すでに詩からは完全に離れていて、アフリカをもう何年も旅していたときに最後に望んだことのひとつです。彼はだれかが、「あなたは素晴らしい詩を書いたのに、今はまったく関係ないことをしている」というようなことを言われるのを非常に嫌いました。しかしながら、彼が友人に宛てた手紙では、信じられない望みを吐露しています。その表現は私に言わせれば革命的とも言える詩のひとつの形でした。彼は1897年の万国博覧会を見ていたのですが、その博覧会のすべてに完全に魅せられていて、従って彼の最後の望みとは、彼自身を、フランスの小さな街であるシャルルヴィルとは正反対の場所に住むという体験、アデンやハラールといった場所に住むという体験や、アフリカ横断の体験が彼にどのような影響を与えたかを展示したいというものでした。この革命的な考えと直感のなかで、詩や書くことを超えた何かに向けた可能性を持っていました。彼は、詩において言語や地理の限界を探っていただけではなく、繰り返しや閉じた形式に反対の立場を取っているということが興味深く、同時期に他の作家は、当時起こっていた美術、特に印象派について書くことにとても長けていたときに、彼は店のインテリアや印刷物を誰が賞賛するかについてだけ気にかけていたことを思うと非常に面白いです。彼はすでにデュシャン的なアートに対する考えを、デュシャンに数十年先駆けて持っていました。ゾラやマラルメのような他の作家が彼らの時代の素晴らしいアーティストたちを描いているのに、ランボーはどこか遠くに自分の執筆するものを押しやってしまっていたのです。なので、彼が自分を世に見せたいと思っていたことを発見してもそれほどの驚きはありませんでした。私が思うに、これは19世紀末のラ・カスティリオーヌと共有する部分であり、彼女が多くのドレスを着て様々な人物になりきっている自分自身の姿を写真に撮らせていたとき、——これを「アート」と呼んでいたとは限らないのですが——こうしたそこにすでに存在しない、もしくは現実ではないけれども違う形でなにかが「起こっている」部屋や空間を生み出し、探求する可能性があるという直感を通して行なったようなことと共通しているのだと思います。





ドミニク・ゴンザレス=フォルステル|Dominique Gonzalez-Foerster
1965年ストラスブール生まれ。現在はパリとリオデジャネイロを拠点とする。言語から生まれるイメージとフィクションの複雑な関係を、さまざまなメディアや形式を使いながら考察するインスタレーションや映像作品で知られる。ドクメンタ11(2002)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2007)、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2009)をはじめ、数多くの企画展、国際展に参加。カスティーリャ・レオン現代美術館(2008)やテート・モダン(2008)、ディア芸術財団(2009)などで個展。近年は「M.2062」シリーズをはじめとするパフォーマンスも世界各地で発表している。日本国内でも第1回横浜ビエンナーレ(2001)や京都国立近代美術館での企画展『映画をめぐる美術—マルセル・ブロータースから始める』(2013)に参加、昨年4月にはギャラリー小柳にて『BELLE COMME LE JOUR』(トリスタン・ベラとの共作)を開催している。

http://www.dgf5.com/





PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015
2015年3月7日(土)–5月10日(日)
京都市美術館、京都府京都文化博物館ほか府・市関連施設など
http://www.parasophia.jp
2014年3月3日

PARASOPHIA オープンリサーチプログラム03 ドミニク・ゴンザレス=フォルステル「M.2062 (Scarlett)」

PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015では、同芸術祭の調査研究のプロセスを広く一般に公開、共有するためのプログラムとして昨年6月よりオープンリサーチプログラムを開催している。ここでは、2013年9月6日に京都府京都文化博物館 別館ホールで行なわれたオープンリサーチプログラム03[レクチャー/パフォーマンス]ドミニク・ゴンザレス=フォルステル「M.2062 (Scarlett)」のテキストを同芸術祭の協力のもと、ART iTに掲載する。
「M.2062」シリーズはゴンザレス=フォルステルが様々な人物に扮し、文字と音楽を用いるパフォーマンス。2012年に『Memory Marathon』(サーペンタイン・ギャラリー)のプログラムの一部として発表。4作目となる今回のパフォーマンスでは、映画『風と共に去りぬ』でヴィヴィアン・リーが演じる主人公スカーレット・オハラに扮する。




All images: Dominique Gonzalez-Foerster, M.2062 (Scarlett) September 6, 2013. Parasophia: Kyoto International Festival of Contemporary Culture 2015 Open Research Program. Photo: Tadashi Hayashi. Courtesy: Parasophia Office © the artist.


ドミニク・ゴンザレス=フォルステル「M.2062 (Scarlett)」
2013年9月6日
PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015 オープンリサーチプログラム

主な楽曲
映画『風と共に去りぬ』オリジナルサウンドトラックより(作曲:マックス・スタイナー)
ソニック・ユース「リトル・トラブル・ガール」(作曲:ソニック・ユース)
オペラ『嵐が丘』第2幕より(作曲:バーナード・ハーマン)
レスリー・ワイナー「5」(作曲:レスリー・ワイナー)
映画『めまい』オリジナルサウンドトラックより(作曲:バーナード・ハーマン)







明日は明日の風が吹く

これが『風と共に去りぬ』の
私の最後の台詞




終わりには私はただ
タラに戻りたかった



タラ

タラとは一体何なのでしょう?



何のための場所なのでしょう



不可能なオペラのための場所?



いろんな映画の
いろんな時代の登場人物が出るオペラ





私が彼女になる




心の中で感じること




リトル・トラブル・ガール
うんとうんと親密だった




ロマンスは楽園へのチケット



うんとうんと親密だった



そうして欲しいなら




いつもいい子でいてあげる




この歌をもう一度聴いたときには、スカーレットのことをたくさん考えました
「リトル・トラブル・ガール」
その始まり方
その続き方
その生み出し方
母と娘
娘と恋愛
そしてこんなオペラがあります
バーナード・ハーマンの
『嵐が丘』



ハーマンの生涯では殆ど全く演奏されなかったオペラ
彼はブロンテ姉妹に魅了されていました
愛の複雑さについてのオペラ



このオペラではまるで19世紀と20世紀が戦っているようです
でもその中でキャシーが何か素敵なことを言う
素晴らしい場面があります





キャシーが言ったこと、それは

スカーレットが言ってもおかしくないこと
どの登場人物が言ってもおかしくないこと



私はヒースクリフ

私はヒースクリフ
ヒースクリフ

私はヒースクリフ
私はレット。私はスカーレット
私はヒースクリフ
ああ、ヒースクリフ
帰ってきて
帰ってきて




ヒースクリフ

ヒースクリフで在るのが可能ということ



ヒースクリフ



戦争の話はしない
したくない
その話はしない



南北戦争についての映画



スカーレットと戦争




怪我人だらけの街を
通っていったとき



タラに戻る道のり



私なりの身勝手なやり方で



この人物の裏側には何が潜んでいるのか




理解しようとしました



勇気



喪失




タラ
























PARASOPHIA オープンリサーチプログラム03 ドミニク・ゴンザレス=フォルステル「M.2062 (Scarlett)」(2)



2014年3月3日

「青空教室」 第1回|動く|(後半)

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All images: MOMAT Pavilion designed and built by Studio Mumbai at The National Museum of Modern Art, Tokyo 2012.8.26 - 2013.1.14. Photo: Masumi Kawamura


柴原聡子(以下、SS) それでは鼎談に移ります。牧さんは中谷さん、坂口さんの発表を聞いてどのように思われましたか。


牧紀男(以下、NM) まず坂口さんの話ではライフラインからの独立を目指しているのではないかという印象を受けました。ある建築の先生が、災害後の住宅を見て、土木が担当する電機、水道、ガスが切られると建築、住宅が存在しないのだと気づいて悔しいとおっしゃっていました。そうした中で最も強いのが車です。防災のパンフレットには、災害に備えてラジオを持っていてくださいと書かれていますが実際のところ、車があればラジオを聞けるし、暖も取れるし、ライトだって点きます。実は車がすごく重要な意味を持っているのです。昔の住まいが熱源も水も自分たちの中で完結させていたものを現在の住まいは失ってしまっている。こうした住まいの独立性というものが坂口さんの話の中で非常に面白いと思いました。要するに、現在の住まいは不完全なものになってしまっている。それは坂口さん的に言えば、物理的な面であり、中谷さんの話の中にでてきた、屋根裏に先祖がいて、真ん中に物があり、一番下に私たちの生活があるという面、こうしたものをある程度外部化し、住まいが持っていた機能が失われていっている。もしかするとそれが、住まいに対する記憶であり、愛であり、「つくること」といったものが失われていくひとつの原因なのかもしれないと思いました。


SS それでは坂口さんは牧さん、中谷さんの発表にどのような感想を持ちましたか。


坂口恭平(以下、KS) 興味深く聞かせていただきました。僕は建築とは全然違うところからやっていて、先程車の話がでましたが、100Vの家庭用電源ではなく、自動車では12Vの電化システムが取られていることを指しています。路上生活者はバッテリーを元にした12V電化システムを登用することで、自家発電もできるし、インフラフリーの状態で電気が使えている。しかし、それが家にはまったく使われていません。普通、電気を引っ張ってこないと家が建てられないと考えますが、実はそうでもないのだと信じています。とはいえ、中谷さんの話を聞いて、家の持っている宇宙のようなものはまったく考えていなかったので、そういう側面からも調べてみたいと思いました。
今回の災害後に建てられた仮設住宅にはほとんど人が住んでいなかったにも関わらず、非常に高いコストをかけられて、そうじゃない場合はバラックになってしまうと聞いています。バラックと仮設住宅の間の建築というのについてはちょっと考えています。もちろんそういう意味でモバイルハウスをつくっているということもあります。


SS それでは中谷さんに話を伺い、これまでに出てきたテーマについて詳しく話していきたいと思います。


中谷礼仁(以下、NN) 実は僕も早稲田で石山修武さんの洗礼を受けた世代なので、坂口さんにはかなり共感するところがあります。もちろんずれているところもあるので、今日はそのずれた部分について3つのことを話しあうことができたら良いかなと思っています。
まずはカーバッテリーの話です。カーバッテリーというのは、要は12Vの世界。アンペアについては少し考えなければなりませんが、大きな家電を使わなければ、ほとんど12Vの枠内で収まります。ノートブックもいける。そこに蓄電技術をはめ込めば、5、6割の生活ができるだろうということはなんとなく分かります。昔、コルゲートハウスの提案者である天才エンジニア・川合健二の「200℃の世界」という論文を読んで感動したことがあります。そこには、人間が基本的に使っている熱源は、200℃までで事足りる。それをうまく回収して、循環利用すれば、ほとんど足りてしまうのに、なぜこんなにも高熱型のエネルギー文化ができたのかという問題が指摘されています。坂口さんのモバイルハウス以上に技術的な側面で可能性があるのは、そういうエネルギーの適正化という問題ではないかと考えています。まずはその辺り、坂口さんのエネルギー論のようなものがあればお聞きしたいのですが。


KS 僕はまったくエンジニア関係ではないので、12Vについて研究していたわけではありません。ですから、12Vのエネルギー論が書けるかというと、ちょっと怪しいです。しかし、実際に使っている人がいたということと、車にも使われています。だから、12V製品を生産しながら、12V電源の開発が進めば面白いと感じています。


NN 電力の問題にしても、本来であれば12Vくらいで済むものを、100Vや200Vといった政府が決めた基準の中で、我々がそれをダウングレードして使っているということですよね。これは、少し話をずらすと、『独立国家のつくりかた』で書かれていた生存権の問題、また、建築基準法の問題の重なりと似ている気がしました。つまり、生存権という問題において、12Vというものが、最低限の生活を送りながらiPhoneが使え、自分が何かを発信できるといった存在権利まで含めた電力であると。また、建築基準法に関していえば、住宅をつくりたくて建築学科に入った人がなぜか卒業して、高層ビルや大工場をつくっているということ、僕もそういう現実に違和感を持っていて、それらはすべて関係しているのではないかと思います。そういう意味で、生存権の問題と建築基準法というある種の基準、現在はそういったものの誤差やギャップがあまりにも激しいと思っています。生存権の考え方を中心に教えてもらえますか。


KS 生存権について書きましたが、これはどちらかというと、そもそも当たり前のことを考えたいということが強くありました。普通に考えてみると、お金がないと家が持てないということ自体がおかしいのですが、家賃を払うことに疑問を持っている人のほうが少ない。電気に関しても、コンピュータは12Vで動くにも関わらず、何か線引きがなされている。「電気とはこういうものである。家とは土地に定着しているものである。お金がないと家がなく、生きていくこともできない。」こうしたことはすべて連関していると思っていて、それらについてすごく当たり前に考えてみたのです。すでに実践している人を元にして考えていると、いわゆる家がなく、12Vで過ごすという生の在り方が実はこの日本にだって存在はしている。しかし、それはホームレスと呼ばれ、どうやらその見え方がおかしい。では、そういうものをどうやって伝えることができるのだろうかと、そういうことをずっと考えています。





NN 一方で、牧さんは坂口さん的な思考を持ちながら、非常に行政に近いところで日夜健闘しています。そこでは坂口さんと同じようなことを考えながらも、違うレイヤーでものを考えていかないといけないということがあるのではないでしょうか。


NM どこが違うのかよくわからないのですが、もしかして私が考えているのは、災害後というある非日常なのかもしれません。坂口さんがホームレスという言葉を使いましたが、実は災害で住まいを無くした人のことを英語では被災者[victim]ではなく、ホームレス[homeless]と言います。災害に遭い、仮設住宅というかシェルターに住んでいる人々をホームレスと呼びます。ホームレスになったときの住み方、生き方、生存の仕方に関して、坂口さんがおっしゃったところに非常に共感を持っています。
今回の原発事故以来、電気というもののもつ重要性は誰もが認識したと思います。実は電気はすべての根源というか、例えば、電気がないと今どき水も上げられませんし、熱源に関しても、ライターを持っている人も少ないから火だって点きません。電気というものが法律であり、制度であり、国家であるというようなイメージすらもっています。要するに、電気を押さえる者がすべてを押さえるという、電気の仕組みがそれ以外のすべてを決定するようにも考えられる。中谷さんが話している仕組みというものを、そういう電気という視点から考えると、どのように見えるのでしょうか。


NN まず、牧さんはオール電化の住宅に住んでいて、今回は非常に大変だったと伺っています。「千年村」で千葉県のことを調べていたときに、明治時代に地域の電力発電会社ができたとか、そういう話を知るんですよね。今みたいに発送電が一体化するのは戦争中のことです。それまでは、千葉県のある沼でメタンガスがいっぱいあるから、それを使って電力を発生させて売るとか実際やっていた。それが普通でした。つまり、場所によって異なる発生源による電気を地産地消のような形で賄っていたということです。そしてこの事実は、なぜそれができなくなったのかという問題に突き当たります。電気というものが自然的なエネルギーとして存在していたにも関わらず、あるときからそれが社会的なエネルギーになった。ここが大きな問題だと思います。今回の原子力規制委員会などの問題に関しても、なぜか社会的な問題、あるいは国家的な問題になる。原発を止めるということが、なぜ国家的な問題になるのかについては、いまここであまり考えたくないですけれども、なぜ電気が国家的なものになったのかという経緯は極めて重要です。


NM 坂口さんが話しているのは、電気からの独立、電気国家からの独立なのだろうかと考えると非常に面白いし、分かりやすいかと思います。


NN 坂口さんの場合は電気からは独立しないが、しかし、電気国家からは独立するということでしょうか。


KS そうですね。僕は12Vの生き方を選択肢として増やしたいのです。元々僕自身、原発について何もやっていなくて、たまたま3月3日に上関の原発を見てから興味を持ちはじめました。だから、そういったものに対して抵抗するというよりも、選択肢を増やして、もっと自然な在り方として電気を使えるように、12Vの生き方というものが普通に知識として存在していれば良い。そのことを伝えたいという方が強いです。独立するというよりも、電気というものも自分たちで組み合わせれば使えるようになること、それこそ電気だけじゃなくて、家まで自分たちでできたら面白いと思っているんです。家は自分たちのやり方で建つものであると。だから、建築家がつくるものとそうじゃないものに分けるよりも、建築家の職能自体もそういうところのグラデーションをちゃんとコーディネイトするようになったら面白いと考えています。


NN まったく同感です。おそらく牧さんや僕なんかも、そういうグラデーションをつくる方法を構築しようとしています。それを政府に納得させるには時間がかかるけれども、例えば個人的な活動はできる。そういう意味では、グラデーションは既にもういろいろ存在していると思いますし、坂口さんのような考え方を持った人もおそらくいろんなところにいるような気がします。『独立国家のつくりかた』を読んで、ひとつ気になったのは「独立」という問題です。ゼロセンターにも行き、坂口さんの弟子であるヨネさんと一緒にいろいろとまわりました。ヨネさんは熊本大学の建築学科出身なんですよね。なんとかそういう別の方法、オルタナティヴな建築の技術を活かした活動を模索しているとおっしゃっていました。これは政府がやらないから自分でやった、自分のできる範囲でやったということからすれば、これはきちんとした憲法的理念に基づいた「代行政府」というふうに言った方がいいのではないかと。独立するというよりも、今までのシステムをもう少し柔軟に使えないのだろうかという問題の中から発生していると思うのですが、その辺りいかがでしょうか。


KS 「独立国家」とは書いていますが、僕の場合は、物事自体を変えるというよりも、同じものをぜんぜん違う角度から見ようとしているということに近いと思います。


NN 熊本には潜在的に豊かな自然、おいしい水があって、空き家があって、そこに入ってもらいたいという人もいる。そこに、独立した閉鎖的コミューンのようなかたちではなく、普通にその場に住みたいという人たちのハブとして「ゼロセンター」があるという感じが、ヨネさんの静かな活動から見えました。本だけ読んだときには、何か諍いが起きているのではないかと思って心配したのですが、現地に行って、そんなことはない印象を受けました。


KS そうですね。僕らの場合は共同体をつくるというのとは、ちょっと違うと思っています。違う角度から見た方法、視点がそこにあり、その視点に対して興味を持っている人が集まっている。でも、それは別に信者というわけではありません。今やっていることが、建築家の新しい在り方を提示できているかどうかというと僕にもわからないですが、ひとつの方法として可能性はあると思います。







SS それではここで、会場からの質問を受け付けたいと思います。


質問者1 坂口さんの本のなかに、基礎工事に対して生理的に嫌悪感を抱いたという箇所がありましたが、そこのところをもう少し教えていただけますか。


KS 僕は大学在学中に授業に出るよりも、大工さんのところへ修行に行っていたので、そのときに現場を見るわけです。そこで、建物を建てるときに土をすごく掘り、ミキサー車でコンクリートを流し込み、鉄筋を入れるのを見て、生理的におかしいと感じました。誰もおかしいとは言わないけれど、大工さんに聞いてみると、「たしかにいらないっていえば、いらないんだけど、決まりだからそのまま進めている」と言うんですよ。僕のなかでは、決まりよりも自分がおかしいと感じる直感の方を信じていて、そういうことをずっと考えていましたが、それはもちろん建築基準法だから変えられないわけです。それ自体をそういうものだとして了解するのではなく、疑問として自分のなかに残っているものが今の自分の活動、執筆に繋がっています。そのときも書きましたが、法隆寺は石の上に木が乗っているだけなんですよ。だから、そういうものも可能性としてあるのではないかと、未だに考えています。


NM 『建築雑誌』という雑誌で「動く建築」を取り上げたときに法律を調べました。*2日本の建築基準法は、基礎があることが建築であり、基礎がないもの、例えばモービルホームとか船家といったものは対象外なんです。本来住まいというのはモバイルホームもあるし、船の上に住むこともあるはずなのに、建築基準法が規定する建築、それは基礎があるものだということになっているのです。仮設住宅にも基礎はなく、丸い杭を使っています。仮設建築物という規定では、基礎がないけれど、正しくは2年経つと基礎をつけないといけない。この頃は別の法律で基礎をつけなくてもその期間を延ばせるようになりましたが、1991年の雲仙普賢岳の噴火災害のときは2年を超えるときにぜんぶ基礎を打ち直しました。これがいわゆる建築基準法の建築という定義なのではないでしょうか。
*2 建築雑誌2012年7月号 特集:動く建築—災害の間(あわい)に

NN ということは、建築の背後にあるのは、その空間というか土地を私有、所有する誰かがいて、そういったものと建築が分ち難く結びついていて、それを国家が保証するということで、そこにコンクリートの基礎が必要だということですね。


NM そうですね。ただ、坂口さんは基礎が嫌いとおっしゃいましたが、土台をつくって、その上にモバイルホームを置くという場合はいかがですか。


KS 建築を建てるための土台、盛るというのはありだと思います。ただ、その在り方が真四角のコンクリートのブロックになっているのがおかしいんじゃないかと思っているだけです。


NN あとは、川合健二式のコルゲートタイプの家を自力でつくった人がいて、そのときにそれが家ではないという理由で、水道、電気、ガスを送れないと主張する行政側と一悶着あったそうです。そういう意味では、定着しないものにはインフラを提供しないという考え方がある。世界各地で遊牧民が差別されているのもこの辺りに関係しています。これを批判して行く必要があると思いますね。日本の伝統に動かないものもたくさんあるんだから。たとえば神社に本来基礎はなかった。神社本殿の土台を見ればわかりますが、動けるようにできています。なぜかと言うと神はたまに歩き回って、みんなに幸福を与えるからです。基本的に神社は神輿を担ぐのと同じ、動くものをモチーフにしているから基礎がないわけです。しかし、動くと所有性が認められないというのは、そういった神社、神の遍在性との基本的な矛盾としてあるともいえます。


質問者2 今回の講演自体が、スタジオ・ムンバイの建物のなかで講演されているということで、この建物に対しての講評をしていただけないでしょうか。この「夏の家」はインドでつくったものをここまで持ってきているということで、ある意味モバイル化された建物だと思います。そういった視点で何かお話していただけますか。


KS 写真を数点しか見ていませんが、かなり仮設なんだと思いました。もうちょっと家みたいなもの、屋根や壁があって普通に覆われているかと思っていました。サイズの感じがあんまりよくわからないですが。


NM 私はふたつのことがいいなと思いました。ひとつは決まっていないこと。先程も照明をそこのところにはめましたが、場面に応じて自分たちで考えて、いろんなかたちで使えるのかなと。例えば、その辺りに幔幕を張ってみようかなとか、この上に電気がつけばきれいかなと考えます。要するに、何もなかったところにこういう柱がたくさん建って、それによってこの場所をどう使おうかといろいろ考えられる。自分でいろんなことができるのがいいですね。もうひとつは、あの2階の部分でしょうか。以前、パプワニューギニアの海岸に津波があり、その後訪れてみると、みんなマングローブで組んだ3階建ての家をつくっていて、なぜ3階にするのかと聞いたところ、「高くて遠くが見えた方が気持ちがいいじゃないか」と返事がありました。上に登って、高いところから見てみたいという欲望があって、あの2階建ての部分にもこの後登りたいと思っていますが、そういうところもすごくいいと思いました。


NN ここに使われているインディアン・チークはすごく硬い。日本のわれわれにとってみれば、使いたくても使えない材料で、工具も特別なものが必要でしょう。この「夏の家」は仮設と言いながら、実はかなり精度が高い建物で、特にブランコに使っている金具は、スタジオ・ムンバイの人たちが彼らの工房でつくったものだけど、極めて精度が高い。そういう意味では、インドの生活様式をかなり緻密に発揮しているという感じがして、侮れないと思いました。ただ、それが逆に弱点かなという気もします。例えば、スリランカにはジェフリー・バワという建築家がいますが、彼は日本の建物でいうと、数寄屋というか、野木を使うのが巧い。モダニズム的な平面だけど、製材していない丸太なんかを入れながら、ヴァナキュラーな巧さを持っている。バワに比べると、「夏の家」は切れ味が良すぎるのではないかという気がします。


SS スタジオ・ムンバイが最初にこの敷地を見に来たときに、今和次郎を紹介したところ、非常に気に入って、影響を受けたそうです。今和次郎は日本の民家や船小屋、そういうもののちょっとした場面をいろいろとスケッチしています。窓越しに中と外の人がしゃべるために、家の外に腰かけが置いてあるスケッチを代表のビジョイさんがとても気に入っていました。おそらく、今回窓辺の空間みたいなものがたくさんちりばめられているのはその影響ではないかと思いますが、今がスケッチした建物をたくさん訪れている中谷さんからはどのように見えますか。


NN 彼らのつくり方がわからないので比較できないところがありますが、基本的に伝統建築では図面を描かないですよね。図面があるのは設計士を食べさせるためで、そこに法的な問題や契約関係を入れることで何百万円かを設計士に払うというかたちで展開しているので、本当に家をつくるためには図面はいりません。セルフビルドで、メモ書きはするけど、図面をつくる必要はまったくありません。日本の民家も基本的には図面がありません。先程見せた船小屋は、ベルトコンベヤを道として使ったり、電信柱を船小屋のなかの柱にしたり、そういう再生産の経緯が偶然にも存在していることがとても重要です。図面を描くとそれが消えていってしまう場合がある。図面が必要なのは、契約とか裁判といった問題、社会的な問題だけなので、自分でつくろうと思ったら、そういうものは無くてもいいんだという考え方は、普遍的なテーマとして常に検討されるべきです。
この「夏の家」を建てるために寸法が入った図面がないと聞きましたが、それは、大工の腕が良すぎるのかもしれません。もうお亡くなりになった大工の田中文男さんは「堂の技術、小屋の技術」ということを言っています。これは民家のことを考えるときに非常に重要なので説明しておきますが、堂というのはお寺などの堂、宮で、小屋はバラックなど自分たちでつくれる範囲の話です。実は、日本の民家は外側は小屋の技術、つまりみんなでつくれるレベルでできています。仏間や座敷といったものをつくるときだけ大工を呼ぶんです。われわれとは逆の考え方なんですよ。これは結構重要なことで、素人とプロをどのように共存させるかというときの序列がわれわれに無意識にできているんです。





SS ありがとうございました。それでは最後に3人から一言ずついただいて終わりにしたいと思います。


KS はい。とても面白かったです。モバイルハウスにもまだ不完全、未完成なところがあるので、いろいろと参考になりましたし、エネルギーに関してもいろいろと考えていきたいと思いました。


NM 私は防災研究所というところで災害の研究をしていますが、今後30年の間に、東京や関西、西日本で大きな地震が起きる確立が非常に高いと言われています。そこでキーワードになるのは、本日の話にも出てきた「動けるかどうか」ということ。これは建築的に動けるかどうかということだけではなく、東京を離れて、他で仕事を見つけられるのかとか、「動けること」が非常に重要なことになってくるのだろうと思います。今回の東日本大震災の被災地でも人口がすごく減っています。もちろん、「千年村」を守る役割の人もいるかもしれませんが、そこから出て、別のところで新しい生活を始めることが決して悪いことではないと思うことが重要なのかなと。それが生き残る術ではないでしょうか。日本はずっとそのようにして生き残ってきましたし、今でも曳家というものがあり、これは動かせるけれども基礎がある。防災、災害という観点から見ると、戦後は災害の少ない時期だったんです。戦後に変わってきたいろんなことをもう一度疑わないといけないのだろうと思います。


NN ゼロセンターでヨネさんと話して、どういう人が定住できて、地域に溶け込むことができそうかと尋ねたときには手に職を持っている人だと言っていました。サラリーマンの方だと奥さんだけは移住できるけど、自分自身は動けない。やっぱり自分の手に、仕事としての固有性を持っている人は溶け込みやすいかもしれないと言っていたのが印象に残っています。坂口さんとはスカイプではなく、直接お会いしてみたいと思いました。


SS 今回は「動く家、仮の家」というタイトルの元に進めましたが、牧さんは移動という手段、中谷さんは千年続いている村、坂口さんはまず自分が生き延びるためのやり方をそれぞれ考え、どう生き延びていくかという、原理的な話に展開しました。生きるための術を自分で考えるということが切実な問題として私たち個人にも突きつけられているのではないか、そして、お三方の方法がそれぞれ異なるように、それぞれがさまざまな方法を見出せるのではないかと、そのようなことを考えるきっかけとなれば幸いです。本日はありがとうございました。





連続レクチャーシリーズ「青空教室」―考える、つくる、動く、またつくる
第1回(前半)|第1回(後半)|


夏の家 MOMAT Pavilion designed and built by Studio Mumbai
会期:2012年8月26日(日)–2013年5月26日(日)
会場:東京国立近代美術館 前庭
http://www.momat.go.jp/

特設ウェブサイト「夏の家」(仮)ブログ:http://www.momat.go.jp/momat60/studiomumbai/


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Lecture@Museumシリーズは、美術館で行われた講演を、関係者の協力のもと、ART iTが記録、編集したものを掲載しています。
2013年5月22日

「青空教室」 第1回|動く|(前半)

東京国立近代美術館では「夏の家 MOMAT Pavilion designed and built by Studio Mumbai」(2012年8月26日–2013年5月26日)を開催。会期中には、「夏の家」を舞台に、連続レクチャーシリーズ「青空教室―考える、つくる、動く、またつくる」が行なわれた。ここでは、同館協力のもと、ART iT編集部がレクチャーの記録を編集し、掲載する。



MOMAT Pavilion designed and built by Studio Mumbai at The National Museum of Modern Art, Tokyo 2012.8.26 - 2013.1.14. Photo: Masumi Kawamura


連続レクチャーシリーズ「青空教室」―考える、つくる、動く、またつくる

第1回|動く|
  
牧紀男(計画家)、中谷礼仁(歴史工学家)、坂口恭平(建築家など) 
9月22日(土)18:00-20:00

テーマ:「動く家、仮の家」
「夏の家」は、住まい手が自ら材料を集め、自力で建設するバラックにインスピレーションを得ています。さまざまな素材をブリコラージュすることによってつくられるバラックは、一時的な不便をしのぐ仮の住まいであるがゆえに、移動さえも可能な、軽やかな家の在り方を示しました。実際にインドから日本へ動き、期限付きの家である「夏の家」を通じて、動く家、仮の家のもつ軽やかさについて考えます。

第1回|動く|事前資料(「夏の家」(仮)ブログより)




柴原聡子(以下、SS) 今回、ここ東京国立近代美術館の前庭に建てられた「夏の家」はスタジオ・ムンバイというインドの建築事務所が手掛けています。「家とは何か」、「家を自分でつくる」ということがこの企画の大きなコンセプトの中にあり、設計と施工を同時に進めていくスタジオ・ムンバイに依頼したという経緯があります。そして、この「夏の家」を会場に、いろいろな角度から家について考える機会として、この連続レクチャーシリーズ「青空教室」を設けました。

第1回目は、「動く家、仮の家」というタイトルで、坂口恭平さん、中谷礼仁さん、牧紀男さんに来ていただきました。最初に、なぜ美術館に建てるパビリオンに「家」というタイトルをつけたかと言えば、建築関係者だけでなく、一般の方々とも考えを共有しながら建築について話し合うとき、やはり家、住まいというものが馴染み深いテーマではないかと思ったからです。「夏の家」はインドで一度建てられたものをばらし、東京まで運んで建てられている「動く家」です。また、半年間という限定された期間の「仮の家」でもあります。また、「動く家」と「仮の家」について考えるとき、災害後の住まいや、バラックと呼ばれるようなシェルターや小屋を起点にすることはできないだろうかと思いました。

それでは、ひとりずつ簡単にご自身の研究や最近の活動について紹介していただきたいと思います。牧紀男さんは京都大学の防災研究所巨大災害研究センターで、災害復興や災害後の住まいなどについて研究されています。90年代より被災地の調査を進め、日本のみならず、カトリーナ・ハリケーンの被害を受けたアメリカ合衆国南東部、スマトラ島沖大地震による大津波に襲われたインドネシアのアチェの災害後の住まいなどについても研究されています。もちろん2011年の東日本大震災後も何度も現地に入り、被災後の住まいに関するさまざまな調査をされています。



図1: 「Tribute in Light」 (出展:
http://www.flickr.com/photos/kim_carpenter_nj/6141716894/in/photostream/


牧紀男(以下、NM) 今日のテーマは「動く家、仮の家」ということです。災害と建築ということについて、物理的な建築という観点と、記憶・イメージという2つの観点からお話しようと思います。この画像は2001年の同時多発テロで倒壊したワールドトレードセンター(以下、WTC)の跡地です(図1)。

光でWTCの姿を表現するということが、2002年継続的に行われてきました。同じようなことが東日本大震災の後にも行なわれていて、気仙沼の小泉という地区では、残った基礎の上にキャンドルを立てて、かつての建物の痕跡を残しています。いくら津波で家が壊れたとしても、基礎部分は残っているわけです。これがやはり地域の記憶であり、そこに私たちの生活があったという記憶だと思います。しかし、段々と記憶の拠り所である基礎さえも取り壊されていっています。住まいに対する想い、記憶が失われていって、本当に大丈夫なのか心配です。

東日本大震災では、バラックが建たないのかということが話題になります。しかし、基礎を利用する形で仮設が建つということがあります。これは南三陸町ですが、ここでも以前建っていた建物の基礎の上に、漁師の番小屋が建っています。これは宮城大学の竹内泰先生が建てたものです(図2)。



図2: 「南三陸町の番小屋」 写真提供:牧紀男

少し前まで、私たちは災害により家を失うとバラックを建てて生活をしていました。国立科学博物館に関東大震災後の写真がたくさん保存されています。それを見ると、バラック、正確に言うと「ハット[hut]」は、災害があるたびにずっと建てられていました。1995年の阪神淡路大震災のときには、自力仮設と呼ばれる、いわゆるバラックが沢山建てられました。現在は神奈川大学にいらっしゃる重村力先生のグループはコンテナを使って建設されましたし、ブルーシートを使って建てられた集会所もありました。また、坂茂さんの有名な紙管を使った仮設住宅もありました。坂さんの仮設ではビールケースが基礎として使われています。以前はさまざまな自力建設バラック試みがあったのですが、東日本大震災の被災地には基礎の痕跡さえなくなった場所が広がっています。これまでに人が住んでいた痕跡も、今後住み続けるという意思も感じられないすごく寂しい風景です。

ところで、東日本大震災での新しい試みとしてシェルター・ボックスというイギリスにある大きなNGOが、テントが入ったコンテナを配っています。実際は住宅用のコンテナなのですが、日本では事務所や番屋、NPOのオフィスに使われていました。この画像は阪神淡路大震災の仮設建築物です。右下は行政が建設した応急仮設住宅です(図3)。



All: 図3: 「阪神淡路大震災時のバラック」 写真提供:牧紀男

関東大震災のとき、ここ(東京国立近代美術館)は皇居前広場で、東京市によるバラックが広がっていたわけです。関東大震災、戦災でも基本は自力建設の仮設建築が主流だったのですが、だんだんと行政が建設する本来の意味での「バラック」へと仮設建築の主流が移り変わっていきます。

海外の事例を挙げましょう。これはパプアニューギニアでの仮設小屋ですが、彼らが唯一必要としているのは屋根材で、ブルーシートが屋根材、仮の動く住まいをつくる上で非常に有効に機能しました(図4)。キリバスやトルコの応急仮設住宅もあります。台湾の原住民族の仮設住宅では、アイデンティティを出すために、デコレーションに竹が使われています。トルコや台湾のような地域になると、工業的なものが主流を占めるのですが、インドの場合、2000年にあった災害後に、行政がシェルターを提供するということがほとんどなく、ブルーシートのテントや廃材を使った仮住まいがつくられました。軍が提供したようなテントもありますが、これもブルーシートですね。それから、2004年のインド洋津波後のインドネシアの仮設住宅。最後に、アメリカのトレーラーハウスです。

日本のように住まいを行政が提供し、自分たちで住まいを建てないことで、助けられることに慣れてしまうことが大きな問題です。災害から復興していくためには、いろいろな大変な経験がある中で、自分たちで何かをつくっていくこと、何かをしていくことが非常に重要になります。しかし、このように提供された家に住んでいる限り、自主性が無くなり、復興が遅れてしまうという大きな問題があります。興味深いのは、60年代から80年代にスラム・クリアランスに用いられたコアハウスという手法で、東南アジアの復興住宅ではこの手法が一般的です。これは、コアとなるキッチン・トイレだけを供給して、そのまわりを自分たちでつくっていくという試みです。91年のフィリピンの火山の後の復興住宅、94年のインドネシアのフローレス島であった津波の後の住宅でも用いられました。自分たちで家をつくるということ、バラックを建てるということが、災害からの復興と再建を考えていく上で非常に重要なことだと考えています。



図4: 「パプアニューギニアの仮設小屋」 写真提供:牧紀男


SS 牧さんありがとうございました。それでは次に中谷礼仁さんにお話を伺いたいと思いますが、中谷さんは歴史工学家という肩書きで、最近は今和次郎の『日本の民家』に出てきた民家を再訪する「瀝青会」という活動を本にまとめられました。また、形を変えながらも長らく集落として存続してきた地域を「千年村」と称し、調査を始められています。一方では、アドルフ・ロースの未翻訳のテキストをすべて翻訳するという大変貴重なお仕事もされています。Twitterの自己紹介文に「Researcher of temporal architectural expression」とあり、まさに本日のテーマそのものだと思っています。


中谷礼仁(以下、NN) 紹介していただいた通り、私は歴史を扱っていますが、最近は民家あるいは村といった、どちらもそれほど有名ではない建築、建築とすらいえないようなものを追いかけています。今回のテーマである「動く」について考えるとき、「決める」ということが非常に大事になってくると思います。牧さんの話にもあったように、いろいろなコンテクストが動く中で、自分がどうやって生きるのかを決めないと何事も起こらない。「動く」ということは、結局は自ら基準を決めるということなのではないでしょうか。そのほか、東日本大震災でもいろんなものが動いてしまい、基準の喪失があったのではないかと考えています。ですので、自ら基準を決めるということが非常に重要になっている。その基準の決め方の一例として、私の考えていることの一端を紹介します。

こうした考えを持つきっかけとして、早稲田大学で建築を教えていた考現学やバラック研究で有名な今和次郎がいます。1922年、その今和次郎はバラック研究をはじめる前に5年間にわたって日本を歩いて民家を調査した『日本の民家 田園生活者の住家』(鈴木書店)を刊行しました。とても不思議な本で、柳田國男の弟子でしたから、常民、常なる民の住まいに焦点を当てていたことは明らかですが、いわゆる有名な家は掲載されず、まったく無名の家が扱われています。どこにあるのかもほとんど分からない無名の家を、自分たちで5年間かけて探し歩いて、未発表のものも含めると5、60軒ほど調べています。その中で本日紹介するのは、糸魚川沿岸の船小屋に関して2009年に再調査したものです(図5)。



図5: 瀝青会 今和次郎「日本の民家」再訪 2008年糸魚川の船小屋周辺調査

今和次郎による同地区のスケッチには画面東側に本宅、右側に船小屋が描かれています。当時は堤防がなかったので、船小屋は文字通り、船を引いてきて、自分の家のそばで船を収納するために建てられました。ですから、本宅とは明らかに構造が違っているわけです。戦前に撮影されたこの地区の写真を見ると、インドネシアかと見間違うかのようです。現在も一軒だけ残されているということで訪ねてみると、確かにかつての船小屋の雰囲気がありました。現在の同地区の航空写真を見ると、海岸沿いにバイパスを通すための堤防がつくられ、船小屋が船小屋として機能せず、転用小屋状態になっています。そこで、さらに調査してみようと学生と一緒に図面を描いて分析してみると、上から海岸、堤防と新設道があり、かつての浜があり、入会地がある。入会地というのは集落全体が共有している土地、誰も私有できない土地ですが、そこに船小屋や畑などがあり、今でも賃貸用として貸し出されて、収入は共同体全体に入ってきます。分家などもすべてこの入会地に土地を借りて、住宅を新築しています。そして、一番下に母屋群がある。こうした極めて構成的な土地の利用がなされています。この土地利用を断面的に見てみると、入会地辺りで宅地を防護していることが分かります。つまり、真ん中の土地が一番高い位置、堤防よりも高い位置にあり、それによってその奥にある母屋を守っています。これが今回の僕の話の重要点だと思いますが、ここにはどういう基準で家を設定するのかに対するひとつの考えが表れているのです。かつての船小屋がある場所では家庭菜園でブリコラージュしている人がいたり、近くの工場が倒産した際にベルトコンベアをもらってきて、瓦の下の屋根材にしたり、道路代わりに使ったりしている(図6)。

人が住むときのいろんな基準の設定の仕方があり、それをリセットしながら生きていくということが普通に行なわれていることが面白いと考えています。
今回の震災後の気仙沼の舞根という地域を訪れて、関東大震災の写真と違う印象を受けるのは、津波で全部さらわれて、基礎までもなくなっているということがありました(図7)。





Above: 図6: もらって来たコンベアベルトが道路に転用される(糸魚川調査にて)写真提供:中谷礼仁(瀝青会). Below: 図7: 2011年4月下旬の舞根。沈んだ船着き場 写真提供:中谷礼仁

先程、なぜバラックが建てられなかったのかという問題が出ましたが、自分がこうしたところに何かを建てる、バラックを建てはじめるとしたら、精神的にすごくつらいと思いました。まだ都市的インフラが瀕死ながらも転用可能なぐらいに残っていて、仲間もいれば、そこからみんなで何かをつくれたかもしれないけど、津波ですべてがさらわれたところに一軒建てるということは非常に勇気のいることだと思いました。このように大地が動いてしまうと、建築学科の教員として反省するというか、出る幕がないと感じてしまいます。それは、建築基準法はそもそも土地があり、その土地は盤石なもので、不動産としてあることが前提です。その公認された土地に、家を建てるという考えに基づいています。しかしその土地が動いてしまうということは、建築基準法の枠組みを現実が超えてしまったということです。ただし、土地が動くという考え方は気仙沼に限ったものではない。例えば液状化予測地図は昭和62年に東京都が作成し、発表しています(図8)。



図8: 液状化予測図(昭和62年作成)をもとに作成。(出典:東京都ウェブサイト 最新版は http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2013/03/20n3ra00.htm

この地図によると、僕が住んでいる場所は黄色く塗られていて、液状化の恐れがあるとされています。それから、ここ東京国立近代美術館は液状化の恐れのない土地で唯一黄色く塗られた部分だということも分かり、ちょっと驚きました。赤く塗られた場所はより液状化の危険性が高く、例えば浦安では高層ビルを建てるのに、地盤面よりかなり深くまで杭を打っています。それによって建物自体は動かないのですが、土地は液状化で動いてしまう。結局、問題はギャップです。建物自体ががっしりしていても土地が動いてしまうという別の問題が現れてくるのです。

土地が動いてしまうという問題をお話ししましたが、次に人が動くという問題を考えてみたいと思います。ロクサーナ・ウォータソンの『生きている住まい—東南アジア建築人類学』(1997年、学芸出版社)というインドネシアの住宅、生き方を扱った本があります。彼女は「人が生きるために家があるのではない。家が生きるために人がいる」と考えます。インドネシアの民家における住居の構造として、人は高床式の下で日常生活を営み、その上に物を収納する場所、倉があって、一番上に鳥がいるのだと彼女は書いています。次の画像を見ると、家が擬人化、動物化されて描かれていて、確かに家が生きているように見える。そうすると、人間はこのような大きな、「家」という生き物の中に蠢いているウイルスのようなものです。家は各層の意味が異なり、例えば中層では重要な先祖の倉をつくっていて、大事なものを入れる部屋の扉にはおっぱいが象徴化されています。このように本当に家が擬人化、擬人化というか擬動物化、擬ケモノ化されているわけです。インドネシアの民家には殯屋(もがりや)という、人間が死んでから埋葬するまでに肉を腐らせる段階を担当する建物タイプがあります。このような施設の屋根に鳥の彫刻があることはとても重要です。つまり、霊魂を空に送るための一番重要なメタファーとして鳥がいる。これはおそらく日本も含めて世界共通ではないでしょうか。さて、一番下に人がいて、真ん中に物があって、その上に霊がいる。家は固定されているけれど、人は生まれて、死んで、霊になるというプロセスで動き、そのプロセスの中で次の代に生を与える。こういうものとして住居が考えられているというわけです。これに関しては「化(ケ)モノ論ノート」という論考を雑誌『10+1』に執筆しました。今はウエブ上で公開されていますので、興味があったら訪れてみてください。さて、僕は特殊な臨界状態とされている空間が家にとって、あるいは家と人間の繋がりにとって重要だと考えています。それを拡大して考えると次のようになります。昔、人間は納戸で寝ていて、納戸は身体の人から人ならざるモノへの移行空間であり、そこで生まれ、セックスをし、死ぬ。そして、重要なのは納戸が創造活動や夢見が行なわれる場所でもあるということです。つまり、時間的移行として人間を考える。こうしたものは我々の世界に関わりないと思う人もいるかもしれませんが、人間の最小単位の居住を考えると、実はこのような納戸空間しか残りません。ワンルームにはこうしたものが全部入っている。都築響一さんの『TOKYO STYLE』(1993年、京都書院)に掲載されているのは、すべてのものがぶち込まれている納戸です。こういった状況で、家は人の生死のプロセスを動かすために存在している。

三つめは家が動くという問題について検討してみたいと思います。先に挙げたバラックの問題でもありますが、みなさんの知っている有名な家も震災復興住宅みたいなものだということを紹介します。例えば、コルビジェによって提案されたドミノハウスは、発表当時、第一次世界大戦後にフランドルの疲弊地区にむけて提案されたものです。

革命的な工法と呼ばれていますが、当時、コルビュジエ自身はこの考え方が、以降の近代建築のスタイルを決定づけるとはよもや考えていなかったかもしれません。いたって自由で「ドミノ型はそれ自体で荷重を支えているから、外壁や間仕切りはどんな材料でもよい」などと記しています。何をやってもよい、壁に何を使ってもよいという意味で、ドミノハウスもまた、震災復興住宅、あるいはモバイルハウスやハットと同じように、極限の家とは何かを考えていった結果だと考えられます。その後、ペサックの集合住宅が作られましたが、これはまさにコルビュジエの考えている通りにドミノハウス的な考え方が実現されたものです。ドミノハウスは、その後、彼が住宅を別の方向から考えるきっかけになったのではないでしょうか。つまり、土地から建物を切り離すという意味です。これが住宅と自動車の繋がりとしてのシトロアン住宅、それからサヴォア邸へと展開していく。彼は、ピロティは建物から土地を解放すると言っていましたが、実は建物を土地から解放することと同義だったのではないでしょうか。

最後に僕が現在取り組んでいることになりますが、今、人がどこに住むか、なぜ住むか、どうやって住むかということを考えるときに、自ら基準を設定しなければならないという問題に突き当たっていると考えています。そのときに、無名だけれど千年くらい続いた村を取り上げて、「千年村・古凡村調査」*1という形で複数の研究者合同で進めています。そのような場所は、集落の基盤である環境とそれに適応するための集落構造とそこで展開される共同体が一体となって、ある種の平衡状態を保っていると考えられます。地形環境、集落構造、共同体という3点から村を探し歩くのですが、どうやってそんな村を探せるのか。当初、『日本書紀』を頼りにしてみたところ、村が少なすぎて、頭を抱えてしまいました。その時、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』というぴったりの本を学生に教えてもらいました。これは950年頃編纂されたもので、朝廷が当時あった集落を記しているのです。それらを地図上にプロットし、現在も村があるかどうかを調べてみると、千年続いている村がどこにあるのか分かるわけです。今は千葉の辺りを調べていますが、東北地方で調べてみると、これだけでも千年続く村の傾向が分かります。人々は稲作ができる土地と地質が硬い土地の際に住んでいることが分かるのです。地質図に展開するとさらによく分かります。改めて考えてみると、日本の一般的な村の前面に田んぼがあり、背面に山があるという環境が人間が生きていくときに非常に重要なのだと分かります。実は坂口さんの「ZERO PUBLIC」という地図上で展開している実践がありますが、われわれも2013年辺りに千年村のプロットを全部終わらせて、公開したいと考えています。われわれがすべての千年村に行けるわけでもないので、その場所を公開することで、千年続いた村があるという事実を知るだけでも、生存は可能なのではないかと実感できるのではないでしょうか。千年村は現国家より全然古いのですから。
*1 千年村は中谷礼仁研究室だけでなく、千葉大学の木下剛先生と木下剛研究室の学生の方々、ランドスケープ・デザイナーの石川初さん、建築家の福島加津也さん、カメラマンの大高隆さん、WEBデザイナーの元永二朗さん、そのほかの方々のご協力によって成立しています。




図9: MOBILE GARDEN HOUSE スケッチ 提供:坂口恭平

SS 中谷さんありがとうございました。最後の坂口恭平さんはベルリンからスカイプでの参加になります。坂口さんは文字通り、「モバイルハウス」というものを提唱されています。ホームレスの家について調べた「0円ハウス」に始まり、社会的な土地やインフラの話に発展して、2011年には独立国家の初代内閣総理大臣と、さまざまな活動に視野を広げています。今回の「動く家」というテーマを考える上で、坂口さんを外すわけにはいかないと考え、今回はお招きしました。


坂口恭平(以下、KS) 僕はヨーロッパで2ヶ月間ずっとモバイルハウスをつくっています。その画像のようなものをスロベニアでつくり、現在はベルリンで2階建てのモバイル劇場を現地の廃材でつくっています(図9)。

モバイル劇場は実は動かないのですが、僕の場合は、実は動くこと自体はあまり目的としていません。どちらかといえば、土地と定着していないということが目的ですね。学習机の画像がありますが、これが僕の小学校時代のバラックなんです。僕はこの延長線上のまま建築家を志してしまったので、こういった簡易なもののほうが自然だったんです。だから、大学で教えてもらうこととのギャップが大きくて、すごく大変でした。そのとき、隅田川の家に出会いました。これはいわゆる路上生活者の家ですが、屋根にソーラーパネルが乗っていて、材料もそこにあるもの、ゴミを転用してつくっている(図10)。



図10: Solar Zero Yen House 写真提供:坂口恭平

僕が興味を持ったのは、土地と定着していないことと、電気がまったく違うシステムで使われていたことです。彼は12ボルトのソーラーパネルや自動車用の充電で電気をつくり、家自体は狭いけれども、周辺の空間も自分の家のようにして住んでいました。見た目はバラックに近いのですが、僕が感じたのはおそらくバラックじゃないような気がします。これも彼なりの家の在り方だということ、それによって僕の中で家の在り方の幅が少し広がりました。そこで、僕自身がどういう実践をしていくか、路上生活者と同じ方向でどういう方法がありえるかと考えたときに、モバイルハウスという考え方が出てきました。一番初めにつくったモバイルハウスはソーラーパネルを使って、下の方にはこたつのコンセントとバイクライトを使ってバッテリーに充電しています。これなら車のシガーライターを使って携帯も充電できる。僕の場合は違うかたちの家をやろうとしていました。こうしたことを東日本大震災の前にやっていて、あまり災害のためというわけではなく、土地という考え方に対して何かを喚起させようとして作品をつくっています。先程中谷さんがおっしゃった「ZERO PUBLIC」というウェブサイトは、余っている土地などの情報をアップロードしてもらい、そこにモバイルハウスを建てるということを考えています。


SS 坂口さんありがとうございました。(後半へ続く)




「青空教室」 第1回|動く|(後半)




連続レクチャーシリーズ「青空教室」―考える、つくる、動く、またつくる
第1回(前半)|第1回(後半)


夏の家 MOMAT Pavilion designed and built by Studio Mumbai
会期:2012年8月26日(日)–2013年5月26日(日)
会場:東京国立近代美術館 前庭
http://www.momat.go.jp/

特設ウェブサイト「夏の家」(仮)ブログ:http://www.momat.go.jp/momat60/studiomumbai/


関連記事
ビジョイ・ジェイン インタビュー「ものを建てる、関係を築く」(2013/02/08)
スタジオ・ムンバイについて 文/日埜直彦(2013/02/08)


Lecture@Museumシリーズは、美術館で行われた講演を、関係者の協力のもと、ART iTが記録、編集したものを掲載しています。
2013年5月15日

『MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス』連続講演会 第1回アーティストトーク

原美術館では『MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス』(2012年12月7日-2013年3月10日)を開催している。会期中には、ペドロ・コスタとルイ・シャフェスによるアーティストトークをはじめ、杉田敦、諏訪敦彦、港千尋、瀬下直樹を講師に、ふたりの作品を含むポルトガルの現代美術、映画、建築に関する連続講演会が行なわれた。
ここでは、2012年12月8日に行なわれたペドロ・コスタとルイ・シャフェスのアーティストトークを同館の協力のもと、ART iTが編集し、掲載する。




ペドロ・コスタ「火の娘たち」2012年 © Pedro Costa. ルイ・シャフェス「私が震えるのを見よ」2005年 所蔵:セラルヴェス美術館 © Rui Chafes. 撮影:木奥惠三



『MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス』連続講演会 第1回アーティストトーク
ペドロ コスタ & ルイ シャフェス(聞き手:安田篤生)




安田篤生(以下、AY) 本展は2005年にポルトガルのセラルヴェス美術館で開かれた二人展『OUT![FORA!]』を発展させた展覧会です。企画のはじまりは4年程前になり、その後、ちょうど一年前にふたりがこの空間を下見して、展示プランを練り上げていきました。本展は『OUT!』に出品されていた作品と、本展のための新作によって構成されています。原美術館はもともと1938年に個人邸宅として建てられ、再利用する形で1979年に開館し、かつて人が生活していた空間、そのような記憶を持つ空間であるということが、ふたりが展示プランを考えるにあたり、興味を持ったところではないかと理解しています。
そこで、ペドロさんへの記憶に関する質問から始めたいと思いますが、映画というジャンルにとって、記憶はいろんな意味で重要なキーワードだと感じています。今回はこれまで発表してきた『溶岩の家』(1995)、『ヴァンダの部屋』(2000)、『コロッサル・ユース』(2006)の映像を、映画館とは異なる形で見せていますよね。『溶岩の家』はかつてポルトガル領だった西アフリカのカーボヴェルデという火山群島で撮影が行われ、『ヴァンダの部屋』や『コロッサル・ユース』は、カーボヴェルデを含むポルトガルの旧植民地からの移民が生活している地区を取り上げています。こうした映画を製作するにあたり、登場人物の記憶、あるいは彼らが住んでいる場所の記憶に向かい合うという姿勢が根底にあるのではないかと推測しています。

ペドロ・コスタ(以下、PC) まず、私は展覧会のためにあえて撮影することはありません。また、一般的な映画製作とも異なり、定期的にその場所へ足を運び、登場人物と会い、話し、撮影して、その後の進め方を決めていきます。そのようにして撮影した映像を、映画や今回のような展覧会で使用します。これらの映像は私自身のアーカイブであると同時に、彼らのアーカイブでもあります。今回の映像素材は『溶岩の家』、『ヴァンダの部屋』、『コロッサル・ユース』を基にしていますが、ギャラリー3のものだけは異なり、そこでは友人のヴェントゥーラを取り上げた、現在完成間近の長編映画の素材を使用しています。
すべては記憶であり、すべては記憶でない。これは非常に広漠とした主題です。展覧会を作り上げていく過程、初めて原美術館を訪れたときに、ここは美術館ではなく家だと感じました。その家の中に私の映像とルイの彫刻が共存している。ルイの彫刻には時間を引き延ばし、遅延させる効果があり、私の映像の音には時間をなぞり、より直接的、即時的な効果があります。部屋から部屋へと音が流れ、上の階から流れてきた音が下の階で聴こえたり、またその逆もあったり、どこか幽霊屋敷みたいですね。さまざまな残像が家に残っているように、映像にもさまざまなものが映っていて、それらを関連づけることができます。何と何を繋げるのか。映画とは編集なのです。各部屋はシークエンスや物語の断片のようなもので、面白いのはある部屋で見たものを別の部屋で思い出して関連づけることです。つまり、鑑賞者自身がそれぞれ編集を行なうのです。編集は、映画制作における基本的要素のひとつで、あるものと別のものを繋ぐことで第三のものを創り出す。この第三のものは不可視で、謎めいているのです。

AY ギャラリー3の映像では、ヴェントゥーラがとても印象的な歌を歌っています。あの歌の内容と背景について教えてもらえますか。

PC 内容はとてもシンプルなもので、移民の歌です。カーボヴェルデは火山島でして、そこでは生活が立ち行かず、かつての宗主国であるポルトガルにたくさんの人々が移住しています。あの歌はカーボヴェルデの土地への郷愁や移住先のポルトガルでの過酷な生活を歌っています。ある意味ではウディ・ガスリーやボブ・ディランのような抵抗の歌とも言えるかもしれません。彼は美しい歌声を持ち、カーボヴェルデ式のバイオリンも弾くことができました。ヴェントゥーラはかつて建設業に携わっていましたが、25歳という若さで足場から落下して怪我を負い、仕事からの引退を余儀なくされました。彼は数多くの問題を抱えた落伍者ですが、同時に非常に強い人物で、私たちのヒーローでした。脆さと強さを併せ持つ彼に魅力を感じていたのでしょう。彼とは長年いっしょに仕事をしています。

AY 展示空間に関連した質問になりますが、映画館で上映するという形式は、19世紀の終わりにフランスのリュミエール兄弟が考案したと言われています。DVDをはじめ、さまざまな鑑賞方法が増えた21世紀現在も、映画は画面がひとつで、はじまりと終わりを持つという形式を保っています。一方、美術館での映像作品のインスタレーションは、そのような約束から自由で、デジタルの映像を使うことで、ループも非常に簡単になりました。今回の展示でも非常に多彩なプレゼンテーションを行なっていますが、その意図はどんなところにありますか。

PC 訂正しておきたいのですが、リュミエール兄弟が映画を作ってからしばらくの間、興行的になった後でも、映画館のような形ではなく、ギャラリーやサーカスのテントのようなところで上映していました。映画が最も商業的に発達したアメリカ合衆国だけでなく、ポルトガルや日本でもそうだと思いますが、50年代後半から60年代初頭まで、映画館は小休止を挟んで、常に映画を流しっぱなしにしていました。観客は映画の途中でも好きなときに入って、好きなときに出て行く。こうした形式を今でも保っているのはポルノ映画館くらいです。かつてはあらゆる映画がそうでしたし、現在でもそうあるべきだと思います。
今回の展示に関して、特別な意図はありません。ただ、ルイにとって、また鑑賞者にとっての素敵なギフトになればいいと考えていました。ギャラリー1の映像もそのほかの映像も、もはやそのようには存在していない映画のパラノーマル・アクティビティのようなものです。






:ペドロ・コスタ「アルト・クテロ」2012年 © Pedro Costa. :「カザル・ダ・ボバ地区」2005年 所蔵:セラルヴェス美術館. © Pedro Costa Courtesy of the artist.


AY ルイ・シャフェスさんの彫刻はいわゆる具象や抽象という見方で理解しようとしても上手くいかないでしょう。「なにかのように見えるけれども、それそのものではない」という点が興味深いです。すべての作品が幻想や想像を掻き立て、鑑賞者の記憶を刺激します。ルイさんの作品において、記憶とはどのような意味を持っているのでしょうか。

ルイ・シャフェス(以下、RC) 先にペドロが触れた時間もまた、記憶とともに重要です。映画も彫刻も音楽も時間芸術であり、時間を扱っている。もちろん時間は記憶と関係しているので、ひとつの答えとしては、作品は記憶を呼び覚ますために存在しているということです。「彫刻はそこに存在し、人々を癒す。しかし、それが済んだらいらなくなってしまうものだ」と、かつてフランスの友人が言っていました。私には自分の作品が具象的なものなのか、抽象的なものなのかわかりませんし、作品が意図するものもわかりません。制作から一年以上経ても、作品が制作者である私の理解に抗うというのは悪くないと思います。しかし、ひとつ確かなことは、私の彫刻は鑑賞者であるあなたが完成させるということです。作品は鑑賞者が見ることで存在するのです。また、作品は自分以外のだれかのために作られるのだと信じています。円環が閉じるところにアート作品は存在する。鑑賞者は私とは異なる彼自身の記憶や物語を付与して作品を完成させるのです。

AY 鉄を素材としていること、あまり色がないことがあなたの彫刻の特徴として挙げられると思います。色を使わないのはなぜでしょうか。もちろん黒もまた色であると言えますが、鉄を黒く塗り、素材の表面を覆い隠すことで鉄の重さの印象が薄れていく、もしくは一見して鉃だとはわからないようになっています。
また、とてもボリュームのある塊にも関わらず、割と細めの脚が付いていたり、少し浮いているように見えたり、天井からぶら下がっていたりする。これによって、作品が張り付いている壁やぶら下がっている天井といった空間と作品とがより一体化している印象があります。作品とその設置空間との関係はどのように考えていますか。

RC まず、色についてですが、あれは黒ではなく影の色です。私の作品は存在ではなく、不在を扱っています。矛盾しているかもしれませんが、私は彫刻家でありながら物体を信じていません。私が信じているのはエネルギーで、物体は魂があるかないか、その物体がエネルギーの触媒となりうるかどうかという点でしか考えていません。存在ではなく不在を扱うことで、不可能なものを扱う状況へと入っていくのです。影の色を使って、物体を覆い、そのものの存在を忘れさせようとしています。万が一、派手な色を使えば、そのものの存在がはっきりとしてしまうでしょう。この不在の色を用いることで、彫刻は影、煙、弱いエネルギーのようになります。興味深いことに、北斎も黒にはさまざまな黒があると述べています。
リチャード・セラも単一素材で彫刻を制作していますが、彼の場合は存在、重さ、大きさ、空間におけるものの存在を扱っており、同じ鉄や鋼鉄を使いながらも、私の場合は真逆で、存在ではなく不在を扱っています。いくつかの例外を除き、ほとんどの作品は床に触れることなく、浮遊していると言えます。

AY 美術館で展示される作品を光を当てないと見えないものと、作品自体が光を放つ、光を素材としているものの二種類に分けるとすれば、映像作品は光を放つ、というよりも、映像はプロジェクターから出てくる光そのものです。ギャラリー1、2では、同一空間にふたりの作品が並び、光がなければ見えない鉄の彫刻をプロジェクターの光で見せるという構成になっています。このアイディアはどのように生まれたのでしょうか。

RC 展示構成として、ギャラリー1は人々が他者と出会う場所となっています。「私が震えるのを見よ」(2005)は、教会の告解室や刑務所の面会室をイメージしたもので、もちろんガラスではなく鉄製ですが、面会を不可能にするバリアの役割を果たしています。この空間は、コミュニケーションの難しさ、人々が出会うことが不可能な空間となっています。作品同士でさえも、具体的な形では彫刻も映像も関係してはいません。
ギャラリー2では、ヴェントゥーラが時間を潰している映像から光が射し、別の方向からはサンルームからの光が射しています。そして、その中間には重厚な鉄のドアが宙に浮いている。ドアだけが宙に浮き、残りの家の部分を失っている。重要なのは、映像が鑑賞者の眼を彫刻に引き付けるということで、彼らは映画からの光を通して彫刻を見ているのです。






左上:ルイ・シャフェス「香り(眩惑的にして微かな) III」2012年. 右上: 「私は寒い」2005年 © Rui Chafes Courtesy of the artist. :ルイ・シャフェス「虚無より軽く」2012年 © Rui Chafes


AY 最後にふたりに言葉について、具体的には作品のタイトルについてお聞きします。ペドロさんは全部で4点ある作品のうち、ふたつの作品には「カザル・ダ・ボバ地区」や「アルト・クテロ」といった地名をタイトルに付け、残りのふたつには暗示的、象徴的なタイトルを付けています。ギャラリー1の作品には「火の娘たち」。これはフランスの小説家ジェラール・ド・ネルヴァルの短篇集のタイトルですよね。また、ギャラリー5の作品には「少年という男、少女という女」というタイトルが付いています。
一方でルイさんの彫刻には「わたしが震えるのを見よ」のように、非常に詩的なタイトルが付いています。また、自身の作品にとって言語、言葉も重要な要素なのだとおっしゃっていましたね。

PC 私にとってタイトルは重要ではありません。「アルト・クテロ」も文字通りカーボヴェルデにある村の名前で、「火の娘たち」は好きな詩人の作品であり、私の映像の場合の火とは火山のことで、そこの女性たちを扱っているから、内容そのままですね。タイトルが映画の存在する場所を映し出すのならすばらしいと思いますが、私は実際の土地や物事が起き、人々が暮らす場所をタイトルに選ぶのが好きです。
映画は映画館で上映されるときのような力を、美術館やギャラリーでは持ち得ません。脱構築という言葉は嫌いですが、このような場所では映画は脱構築されてしまいます。たくさんのものが映画から失われ、映画館での上映のように機能することはできません。このような状況では、イメージの内側へ入っていくことはできないのです。私の映像は控えめなものとなり、十分な光量も持たず、存在するためにはルイの彫刻のエネルギーを必要とします。彼の作品の不在という存在が、私の映像に光を当ててくれるのです。

RC 私の場合、タイトルは非常に重要です。鉄、火、言葉の三つを私は扱っているのです。共同体において、言葉は非常に大切なものです。聖書に「はじめに言葉ありき」とありますが、言葉には詩的な強さ、また人を生かしも殺しもする力があります。また、「百聞は一見にしかず」とも言いますが、本当は逆で、ひとつの言葉が数千ものイメージに優るのかもしれません。とはいえ、タイトルが鑑賞者の見ているものの説明になってしまうのはどうでしょうか。タイトルは彼らになんらかの詩的な方向性を与えるものであるべきです。最終的に、アートにとって最も重要なのは詩的な強さであり、映画であれ、彫刻であれ、絵画であれ、詩的な力を持っているべきでしょう。





『MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス』連続講演会 第1回アーティストトーク


MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス
会期:2012年12月7日(金)–2013年3月10日(日)
会場:原美術館
http://www.haramuseum.or.jp/




Lecture@Museumシリーズは、美術館で行われた講演を、関係者の協力のもと、ART iTが記録、編集したものを掲載しています。
2013年2月23日

「ポップアップ・マトハフ」

遠くて近い、近くて遠い、アラブと日本:アーティストの役割とは何か




Zena El Khalil (on screen), Sputniko! (at right) and moderator Deena Chalabi (at left) during Session 3 of the symposium "Pop-up Mathaf @ Mori Art Museum – Same-Same but Different: The Role of the Artist in the Arab World and Japan." Photo Mikuriya Shinichiro. All images unless otherwise noted: Courtesy Mori Art Museum.


9月28、29日の2日間、アラブと日本のアーティストおよびキュレーターによるシンポジウムが森美術館で開催された。同館で2012年6月16日-10月28日の期間で開催された 『アラブ・エクスプレス展:アラブ美術の今を知る』の関連プログラムとして、『ポップアップ・マトハフ@森美術館—遠くて近い、近くて遠い、アラブと日本:アーティストの役割とは何か』と題された本シンポジウムは、カタールと日本の国交樹立40周年を記念して、マトハフ・アラブ近代美術館(ドーハ)およびカタール美術館庁との共催事業として実施された。

シンポジウムは一貫して、『アラブ・エクスプレス展』を検証する内容となっていた。森美術館館長の南條史生およびキュレーターの近藤健一のキュレーションにより、日本で初めてアラブ現代美術を多角的に検証する同展は、民族紛争やテロリズムに彩られたメディア報道に形作られてきたアラブ社会のステレオタイプに挑戦している。アラブ諸国のアーティスト34組による、写真、映像、絵画、インスタレーションを通じて、今日のアラブ世界における多様性を示唆するとともに、「アラブ世界」がディアスポラの人々やレジデンシーおよび国際展によって全世界に広がっている姿を提示している。

近藤は、マトハフ・アラブ近代美術館前事業戦略部長のディーナ・シャラビーとタッグを組み、展覧会に参加する海外アーティストと日本人アーティストの対談形式による3つのセッションでシンポジウムを構成。各セッションでは、対談したアーティストたちの作品に通底するテーマについて議論が繰り広げられた。1日目となる9月28日のセッションIは、「目撃者は語る」と題され、イラク生まれの写真家ハリーム・アル・カリームとアーティスト集団Chim↑Pomの卯城竜太とエリイが対談。2日目のセッションII「歴史をたどって」では、シリア生まれの写真家ハラーイル・サルキシアンと映像作家である小泉明郎が、セッションIII「キッチュなものの力」では、ベイルート在住の小説家/ミクストメディアアーティストのゼーナ・エル・ハリールとメディアアーティストのスプツニ子!が対談した。その後、すべての出演アーティストが南條のモデレーションのもと、クロージングディスカッションを行った。「遠くて近い、近くて遠い」というタイトルが示す通り、各セッションでは、活発なやり取りのなか、登壇アーティストたちの表現の共通性や相違性が浮き彫りになった。また、会場からも多くの質問やコメントが飛び交っていた。






Top: Halim Al Karim - Untitled 1 (from the Urban Witness series) (2002), installation view as presented in "Arab Express: The Latest Art from the Arab World" at the Mori Art Museum, Tokyo. Photo Kioku Keizo. Courtesy XVA Gallery. Bottom: Halim Al Karim speaks about the influence of Sumerian reliefs on his artistic practice as Ellie and Ryuta Ushiro of the artist collective Chim↑Pom look on. Photo Mikuriya Shinichiro.


セッションI「目撃者は語る」では、ハリーム・アル・カリームが影響を受けているというシュメール時代の彫刻orレリーフの写真をスライドで紹介。自らの制作アプローチを間接的な形で提示した。彼のピンボケの作風は、古代の工芸品が有する時間の作用と自らの視力の悪さにインスピレーションを受けているという。また、イラクの古代文化についてリサーチするにつれ、自分は過去と現在のはざまに生きていると感じる様になり、女性を神として崇拝していたシュメール文化に、作品も自らの女性観も影響を受ける様になっていったという。彼の作品は批判的な様相も呈している。1980年代のイラン・イラク戦争時代、フセイン政権下での徴兵制度から逃れるために3年間も砂漠に潜伏していたというアル・カリームは、その間に、人間とは何かについて新たな考えに至ったという。「Lost Seclusion of the Soul」「Hidden Agenda」「Black Rain」「Black Bread」シリーズでは、イラン・イラク戦争、フセイン政権に対する国際世論、1991年の湾岸戦争によるイラク侵攻、それに続く国際的な経済制裁へのイラク国民の怒りといったテーマを扱っている。

Chim↑Pom のメンバーを代表して登場した卯城竜太とエリイは、ゲリラ的な表現で知られる彼らの活動を、生存をかけた行為であると説明した。初期の映像作品「スーパーラット」と「ブラック・オブ・デス」を上映し、ネズミと烏は東京のような大都市環境で生存の危機にさらされている生きものを象徴しているとのこと。これらの作品は、メンバーの日々の生活に呼応する形で生まれてきたという経緯も紹介した。2011年3月11日に発生した東日本大震災と、それに続く津波と放射線被害は、Chim↑Pom のメンバーだけでなく日本社会全体に激震を及ぼし、当然のものと思われていた平穏な生活を一変させた。Chim↑Pom は、未来の世代に向けて、今回の災害を何らかの形で作品にしなければと考えた。彼らは震災の爪あとが色濃く残る福島県相馬市を訪れ、地元の人たちがアーティストと一緒に円陣を組み、、ひとりひとりが未来への希望を順番に述べていくという作品「気合い100連発」を撮影した。「リアルタイムス」では、福島第一原子力発電所から30キロ圏内の避難勧告地域ギリギリの地点まで車で乗り入れた。主要な報道機関は近づくことのなかった地域で撮影を敢行した経験を通して、映像や報道の領域における自分たちの役割を認識する様になったという。作品ではメンバー数人が防護服を着用し、発電所を見下ろすことのできる丘で、放射線のマークを赤のスプレーでペイントした、日本の国旗を彷彿とさせる白旗を掲げている。

対談では、卯城とエリイがアル・カリームの経歴に感嘆のコメントを寄せると、アル・カリームからはChim↑Pom の「気合い100連発」はシンポジウムのテーマにぴったりだとコメント。日本と諸外国は数千キロ以上離れているかもしれないが、相馬の人たちがお互いを励まし合っていた様に、世界の人々も日本人を激励している。「気合い100連発」からは、様々な違いから隔たっている様に思われる人々や社会も、不思議と一体になる瞬間があること。「差異」と「同質」は決して相反するものではないことを読み取ることができるという見解を示した。






Top: Hrair Sarkissian - "Execution Squares" (2008), installation view as presented in "Arab Express: The Latest Art from the Arab World" at the Mori Art Museum, Tokyo. Photo Kioku Keizo. Collection Sharjah Art Foundation. Bottom: Hrair Sarkissian, with Meiro Koizumi in background. Photo Mikuriya Shinichiro.


セッションII「歴史をたどって」では、ダマスカス生まれのアルメニア系シリア人の写真家ハラーイル・サルキシアンが、オスマン帝国におけるアルメニア人の大量虐殺(1915-23)について触れていた。100万から150万人のアルメニア人が殺害され、多くのアルメニア人が強制移動させられたことは、現存するアルメニア系の人々のアイデンティティの問題として、今なおたくさんの人々に影響を与えている。オスマン帝国の継承国家であるトルコ政府は、今日なおこの虐殺を公式には認めておらず、サルキシアンはこの消し去られた過去に関する作品をイスタンブールで発表してきた。空白の歴史と対峙する方法論として、イスタンブールの公立の図書館と資料館を写真におさめた「Istory」シリーズを制作。最新作「Unexposed」では、大量虐殺が行われた時代にキリスト教から強制的にイスラム教徒に改宗させられたアルメニア人についてリサーチ。新しい名前や信仰のもと、現在もトルコに暮らす彼らの子孫のポートレートを撮っている。その中には、秘密裏にキリスト教徒へと再改宗し、アルメニア人名を使っている者もいる。サルキシアンは3年間の月日をかけて、こうしたバックグランドを持つ9人のアルメニア人とコンタクトを取り、彼らの自宅で撮影を行った。彼らが本当のアイデンティティを隠し続けなければならない状況を生み出しているトルコ社会、その一方で、イスラム教徒への強制改宗に屈しなかったアルメニア人からの反発をも反映するかの様に、その姿はぼやかされている。

2005年から2年間オランダに滞在していた経験のある小泉明郎は、その間、自分の日本人としてのアイデンティティと日本社会との関係性について考える様になり、その事が作品にも影響を及ぼしているという。帰国した2007年当時、日本が保守化傾向にあるように感じたこともあり、第二次世界大戦中に編成された神風特別攻撃隊について興味を持つようになった。小泉にとって特攻隊は、日本の過去を象徴するアンビバレントな存在だ。彼らのとった行動は、完全に自発的なものとはいいがたく、かといって、時の権力に無理強いされただけとも言い切れないからだ。特攻隊の生存者の証言は、そのどちらもが入り混じった状況だったことを語っている。こうした歴史に触発されて制作されたのが「若き侍の肖像」だ。作中では、特攻隊員とおぼしき青年が、カメラ越しの両親に向かって熱のこもった別れの挨拶をしている。すると、カメラフレームの外から「もっとサムライ魂を出して」という指示が聞こえ、目の前の場面が俳優を使って演出されていることが明らかになる。青年はその後も、様々な演出指示を受けながら独白を繰り返す。同じシーンが何度も繰り返されるが、回数を重ねるたびに俳優と監督の間の緊張感は高まっていく。小泉は、夫婦が自宅で夕飯を食べながら戦争について話しをしている様子を映し出した、2チャンネルの映像作品「ビジョンの崩壊」(2011年)も紹介した。話し合いのシーンは全部で8バーションあり、夫婦の体の動きがだんだんと違和感を増していくことで、最初はごく一般的な夫婦と思われていたふたりが、実は盲目であることが明らかになる。






Top: Zena El Khalil - Xanadu, Your Neon Lights Will Shine, Skip the Light Fandango and Peace Will Guide the Planets and Love Will Steer the Stars (2010), installation view in "Arab Express: The Latest Art from the Arab World" at the Mori Art Museum, Tokyo. Photo Kioku Keizo. Courtesy Galerie Tanit. Bottom: Moderator Deena Chalabi speaks about the work of Zena El Khalil as El Khalil (lefthand screen) and Sputniko! listen. Photo Mikuriya Shinichiro.


セッションIII「キッチュなものの力」では、ベイルート在住のゼーナ・エル・ハリールと東京在住のスプツニ子! が、お互いの作品の類似性に触れていた。ポップカルチャーとの関係性、および、ソーシャルメディアや分野横断的なアプローチを通してより広い活動の場を模索している点において、ふたりはシンポジウム参加作家の中でも最も近い存在だろう。エル・ハリールは、幼少期をラゴス、ナイジェリア、ベイルートで過ごし、様々な文化に触れながら育った生い立ちを紹介。異なる文化の間で生きていくギャップを埋めてくれたのがポップカルチャーだったという。そしていま、戦争の浅はかさを露呈させ、愛とユーモアによってオルタナティブな現実を立ち上げる手段として、ポップカルチャーを扱っている。彼女にとって、ピンクは重要な色だという。ピンクにはキッチュなイメージもあるが、同時に、平和運動である「コード・ピンク」や乳がんの啓発運動である「シンク・ピンク」、ゲイプライドを象徴するピンクの三角形の様に、非暴力のシンボルでもある。エル・ハリールは、アートを瞑想の場および周囲の喧騒から逃避できる場として考えている。数千個の小さなピンを用いたコラージュ作品は、展示する場所性によって派生する意味が変わるデリケートな作品だ。誰かが作品を並べ替えることで、いつでもまったく違う物語が生まれる同作品は、レバノン地域の不安定さと1975~1990年に勃発した内戦以降のコレクティブな記憶の喪失を反映しているという。エル・ハリールはまた、何かと物議を呼んでいる宗教のシンボルをアプロプリエーションする。アラビア語でアラーと書かれた巨大なミラーボールを設置し、神の光の下、殺しあうのではなく踊ることを促したり、アラーの文字の巨大な彫刻をイタリアの教会に展示、そこでも人々が一緒に踊る仕掛けを展開した。彫刻の作品は、抗議運動の参加者たちの集合場所になっているトリポリの記念碑にインスピレーションを得ているという。『アラブ・エクスプレス展』への出品作品は、2006年の戦争の際にばら撒かれたイスラエルのプロパガンダのビラに着想を得ていて、暴力的なイメージを美的なものに変容させる方法論は、激しい内戦に巻き込まれているにも関わらず、最後まで自分の村を離れることを拒み続けた彼女の祖父から引き継がれていると言う。家の近くに爆弾が落とされるたびに、爆撃であいた穴に木を植えた祖父。いまでは成長した美しい木々が家の前のアプローチを彩っているという。緑に覆われたその路地は、「フラワーストリート」と呼ばれているのだそうだ。

両親ともに数学者である、日本人の父とイギリス人の母を持つスプツニ子! は、エル・ハリールと同じく複数の文化の間で育ってきた。ロンドン大学インペリアル・カレッジで情報工学と数学を学んでいたが、日本における女性の役割に興味を持ったことと、自らの生態に関連して生理、妊娠にまつわる問題に疑問を感じ始めたことをきっかけにアートに転向。工学を学んだバックグランドを活かして自らがサイボーグになることで、そうした問題をアート作品を通して投げかけたかったのだという。最初の作品「生理マシーン、タカシの場合。」では、女装好きでもっと女の子に近づきたいという思いから、生理マシーンを装着する男の子に扮している。科学者の力を借りて、瓶に入った血液と電極とで生理に伴う痛みと不快さを再現するマシンを作り上げ、架空の人格であるタカシとしてスプツニ子!がマシンを身につけている写真作品のほか、オリジナルのテーマソングとミュージックビデオも制作した。ミュージックビデオはTM Revolution などのポップミュージシャンやメディアアーティストであるローリー・アンダーソンに影響を受けている一方で、作品は、テクノロジーに形作られる社会的な圧力について疑問を投げかけている。スプツニ子! は、経口避妊薬が開発された当初、医者たちは薬が生理をとめることを知っていたにも関わらず、ピルを3週間だけ飲むことで1ヶ月に1度の生理のサイクルを維持できる様にプログラム。また、日本でバイアグラは5ヶ月で認可されたのに対し、4週間服用するタイプの経口避妊薬(リブロ)が認可されるのには9年かかった事実にも言及。腰の周りに回転ベルトをつけ、美しい女性の姿をしたサイボーグが、サラリーマンに寿司を振る舞う女体盛り写真と短編の映像作品で構成される「寿司ボーグ☆ユカリ」を紹介した。サイボーグはその後、回転ベルトにナイフを取り付け、男たちを皆殺しにする。最新作の「Healing Fukushima (菜の花ヒール)」は、現在も続く311の後遺症に対するスプツニ子! のレスポンスとして制作された作品。チェルノブイリで菜の花が地面の放射能を吸収することが発見されたことにヒントを得て、 おしゃれなハイヒールにアブラナの種とディスペンサーを搭載。その靴をはいて歩くたびに、地面に種が植えられていく仕掛けだ。バイオディーゼルの原料にもなるアブラナを育成することは、福島周辺の空気も浄化でき、震災で農作物を失った地元の農家の人たちに、原子力にかわる新エネルギービジネスに繋がる新たな収入源をもたらす。

エル・ハリールとスプツニ子! は、ともにポップカルチャーにインスピレーションを得ている反面、 関心のある様々な問題について熟考し、商業ベースのアーティストよりもゆっくりとしたペースで表現活動をすることができるのがアートであると話していた。




The participants of "Pop-up Mathaf @ Mori Art Museum – Same-Same but Different: The Role of the Artist in the Arab World and Japan" during the closing roundtable discussion of the symposium, with MAM director Fumio Nanjo at far left and MAM curator Kenichi Kondo at far right. Photo Mikuriya Shinichiro.


シンポジウムは、出演アーティスト全員とキュレーター(シャラビー、近藤)によるディスカッションで締めくくられた。本シンポジウムのモデレーターである南條は、冒頭でアイデンティティーの問題と、それが英語であれ現代美術であれ、「共通言語」が内包するヘゲモニーの問題をどう考えるべきかという問題提起をした。それに対し、サルキシアンは「中東アーティスト」と呼ばれることに関して、そうした分類自体が欧米基準の視点であること、アーティスト個人の活動や本質的な国際交流においては非生産的な考え方であると発言。小泉は映画監督の小津安二郎を例に取り、小津の場合はハリウッド映画がそうであった様に、アーティストはみな何かに影響されて制作を始める。その上でなお、独自の芸術表現を作り上げることができるとコメントした。一方、南條と近藤はキュレーターとして、各アーティストの独自性を大切にすると同時に、展覧会全体として観客に伝わる展示にする必要があったとコメント。彼らの率直な振り返りは、最近の現代美術が、市場と国際展に摂取される傾向にあるのではないかという点にも触れていた。









アラブ・エクスプレス : アラブ美術の今を知る

2012年6月16日(土)-10月28日(日)
森美術館

マトハフ・アラブ近代美術館共催シンポジウム、『ポップアップ・マトハフ@森美術館 - 遠くて近い、近くて遠い、アラブと日本:アーティストの役割とは何か』は、『アラブ・エクスプレス』展の関連イベントとして、2012年9月28日、29日に行なわれた。



2012年12月6日

『ス・ドホ in between』 関連プログラム【《ブループリント》の下で】トークシリーズ

広島市現代美術館では『ス・ドホ in between』(2012年8月4日〜10月21日)を開催している。トークシリーズ『《ブループリント》の下で』は同展関連企画として、同時期に開催されたコレクション展に特別展示として出品された「ブループリント」(2010年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展にてス・ドホが発表)のもとで行なわれた。
ここでは、ゲストにス・ドホを招き同館学芸員の神谷幸江が聞き手を務めた8月4日の回を同館の協力のもと、ART iTが編集し、掲載している。




「ブループリント」2010年 広島市現代美術館での展示. Courtesy of the artist and Lehmann Maupin Gallery, NewYork © Do Ho Suh


『ス・ドホ in between』 関連プログラム【《ブループリント》の下で】トークシリーズ 
ス・ドホ(聞き手:神谷幸江)




神谷幸江(以下、YK) 本日は作品のみならず、ス・ドホさんの活動や関心について伺いたいと思います。ここに展示されている「ブループリント」は、2010年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展で初めて展示された作品です。現在展示されているのは、ドホさんのニューヨークのアパートのファサードの実寸大のものです。今回はこの作品の下で実現する特別なトークの機会となりましたので、まずはこの作品についてお聞きしたいと思います。まず、この作品にも見られるように、建築的な要素はドホさんの作品の中で非常に重要な位置を占めていますが、どこから建築への興味は湧いてきたのでしょうか。

ス・ドホ(以下、DHS) 韓国からアメリカ合衆国への移動という私の個人的な歴史がきっかけになっていると思います。私はその旅の過程で、私的空間というもの、それを構成するものやその特徴について考えはじめました。どのように空間が人を規定するのか。私的なものと公的なものが出会うとき、私的空間はどのように公的空間へと変わるのか。こうした問いはすべて、韓国からアメリカ合衆国への移動によって生まれてきたものです。私的空間やその概念に興味を持ったのは、それぞれの文化がそれぞれの私的空間の特徴を有していることを、ある場所から別の場所への移動、とりわけ、韓国からアメリカ合衆国という明白な違いを持った場所の移動を経験したからでしょう。それによって、こうした概念について考えはじめました。私の考えでは、衣服というものは最小かつ最も親密な空間であり、ひとりの人間が持ち運ぶことが出来る。この考えを拡張していくと建築に至るのです。このように建築への興味が膨らんでいきました。

YK 韓国からアメリカへ渡ったことが建築への興味に際し、大きなきっかけとなったということですが、子供の頃に住んでいた韓国の実家も建築への関心を広げるきっかけではなかったのでしょうか。

DHS 私の父親は画家で、伝統的な韓国文化にこだわりを持っていました。彼は1960年代の長期間の準備を経て、70年代に伝統的な韓国の家を購入しました。私はその家で育ったのですが、韓国人が韓国の家に住むわけですから、それは一見特別なことではない気がしますよね。しかし、当時は韓国の伝統的な建物が取り壊されて、近代的な建物が建設されていく時代だったのです。つまり、私の父親は時代に逆行していたのだと言えるでしょう。どのように韓国の伝統的な家が建てられるのかを間近に見ることで、大工仕事に対する興味も生まれていきました。彼らは既に年をとっていたので、おそらくそうした家を建てる技術を持った最後の世代だったでしょう。そうしたものを見ることが出来たのは幸運だったと言えます。そのような環境で私は育ちました。別のインタビューでも話しているのですが、その家から外へ出るとき、学校へ行くときなど、家と外という世界のそれぞれの空間の違いが明確にありました。私の作品には常に移動という言葉が使われますし、私の文章にもしばしば文化的移動という単語を使います。私が実家と学校を行き来するときなどに経験していたことは、韓国社会の中での小さな移動の連続だったのではないかと思います。当時の私はまだ若い学生だったので、そのようなことに気付いていなかったのですが、どこか無意識の中で、そうした移動があったのを感じていたのだと思います。おそらくそうしたことへの興味は、私が韓国にいたときに既に種として蒔かれていて、アメリカ合衆国への移動が触媒となったのかもしれません。

YK 先程、建築と衣服の概念は繋がっているといった発言がありましたが、アーティストになる以前、服飾デザイナーや建築家になりたいと考えることはなかったのでしょうか。

DHS 実はもともと、海洋生物学者になりたいと思っていました。高校二年までは魚の研究をしたいと考えていたのですが、韓国にも日本と同じように大学入試があり、それを前に数学の成績は下がっていき、その成績ではいい大学に入ることは出来ませんでした。なぜ海洋生物学を断念して美術大学に進もうと決めたのか、実は未だに謎のままなのです。芸術的な環境に囲まれていたので、そのような決断も自然なことなのかもしれませんが。それから急いで美術大学の入試のための準備を始めました。その後、修士課程を経て、さらにアメリカ合衆国へと渡って学び続けるのですが、アーティストになることが自分の運命なのだと認識したのは、卒業後にニューヨークへと移動したときのことです。その頃、私はフリーランスで大工仕事を請け負って働いていました。学生の頃は本当に一生懸命勉強、制作するいい生徒だったのですが、自分がアーティストかどうかとか、アーティストになることを真剣に考えられているかどうかわかっていませんでした。そして、あれは1997年の終わり頃だったと思いますが、アーティストこそが自分のやりたいことなのだと気がついたのです。それは実に驚くべきことでした。





「Seoul Home/L.A. Home/New York Home/Baltimore Home/London Home/Seattle Home/L.A. Home」1999年 コリアン・カルチャー・センター(ロサンゼルス)での展示. © Do Ho Suh


YK この「ブループリント」の下で海洋生物学者の話が出てくるとなんだか海にいるような気分になりますね。ドホさんは布の作品にいつも独特の色を選んでいますよね。この「ブループリント」には青、初期の「ソウルの家」(1999)には青磁を思わせる緑を使っていました。色を選ぶ上での理由や方法といったものはあるのでしょうか。

DHS まず、建築の作品を作り始めるとき、これがシリーズになっていくとは考えていませんでした。実のところ、「ソウルの家」は建築シリーズの二作目になります。一作目は大学院時代に、その後、「韓国の家」プロジェクトとなる、より大きなプロジェクトが実現可能かどうか試す目的で制作しました。ですので、「ソウルの家」はこのシリーズの二作目に当たるのですが、一般に発表した最初の作品となります。そして、その色は韓国の伝統的な家の天井の壁紙の色から来ています。私が育った家は李朝時代からの典型的な学者の家でして、学者の家の内装はとてもミニマルで、壁の色は白、天井は青磁の緑から空の青といった具合です。「ソウルの家」は天井から吊り下げる作品だったので、その天井の色を作品に選びました。そもそも学者たちが天井にあのような色を選んだのは、そうした色が空や宇宙の色に似ていて、彼らが宇宙の中心に座っていると連想するためだったのです。そのような色を選ぶのは私にとって自然なことだったと思います。

YK ドホさんにはしばしば深読みし過ぎだと言われるのですが、ドホさんがもともと絵画教育を受けていたので、こうした作品を作るときにも絵画的な色の選択というものがあるのだろうかと考えてしまいますが、そういった意識はあるのでしょうか。

DHS 残念ながらそれは関係ありませんね。主観的に色を選ぶことはありません。とはいえ、常に厳密に概念的に選択をしているわけでもありません。なにかに関係していることもあれば、ある意味気まぐれに選ぶときもあります。しかし、絵画教育を受けていたこととは関係ありません。





Both: 「墜落星- 1/5スケール」2008-2012年 広島市現代美術館での展示. Courtesy of the artist and Lehmann Maupin Gallery, New York © Do Ho Suh


YK また深読みでしたね。次に別の部屋にある「墜落星-1/5スケール」(2008-12)という作品について伺いたいと思います。これは五分の一のスケールの非常に詳細な家の模型の作品です。この作品は背後にある種の物語を含んでいるという点で、これまでの家に関する作品群のひとつの新しい展開の形ではないかと思います。このような物語を作るきっかけはなんだったのでしょうか。

DHS ずっと物語に対する興味は持っていました。これまでの作品にも物語を明確に持つものもあれば、そうでないものもありました。「墜落星」シリーズの彫刻は最終的な作品ではなく、絵本を書いたときの副産物と言ったらいいでしょうか、実はその絵本が最終的な作品となる予定でした。しかし、最終的には彫刻作品はその絵本の各章を表すものになりました。その絵本にはいくつかの章があり、今回展示されている作品は韓国の家がアメリカ合衆国の家にぶつかっている瞬間を表しています。

YK この作品は大変大きく、非常に繊細な作品ですので、制作年数が長くかかったのではないかと思いますが、制作時のことについてなにか教えていただけますでしょうか。

DHS おそらく制作を始めたのは2005年で、2008年にロンドンのヘイワード・ギャラリーにて最初のバージョンを発表しました。「墜落星」はほかの作品制作とは少し異なる、多大な労働を要する制作になりました。正直なところ、このプロジェクトは非常に単純なアイディアから始まっています。もちろん、実物大の模型を作ることは出来ません。この五分の一という縮尺はどこかぎこちなく、それでいて模型としては比較的大きなサイズです。私はどういうわけか最終的にこの五分の一という縮尺で制作することに決めたのですが、もし、六分の一に決めていたら、もっと簡単に制作できたでしょう。それは、玩具業界で扱うフィギュアには六分の一の縮尺のものがあり、細かいものなど、そのような市場からたくさん手に入れることが出来たはずです。しかし、私たちの鑑賞者としての身体と彫刻作品との関係が重要で、物質の存在を考えたときに六分の一では少し小さくて、五分の一の縮尺でいくことに決めたのです。

YK おっしゃるように五分の一の縮尺というのはどこにも売っていないサイズなので、クリップや綿棒のひとつひとつなど、部屋にあるものすべてをゼロから作っていったということで非常に大変だったのではないでしょうか。

DHS そうですね。プロジェクトのために時間やお金を費やしていくことで、大変なことだと気がつきました。実のところ、現実的ではない少し馬鹿げたプロジェクトだったかもしれません。先程言ったように、このプロジェクトは非常に単純なアイディアから始まっています。あるとき、明日からクリップなども含めた自分のすべての所有物を再制作しようと思い立ったのです。しかし、そこで気がついたのは、自分がなんてたくさんのものを所有していたのかということでした。例えば、机の引き出しを開けてみると、そこには本当にたくさんのものが入っています。当初、引き出しを開いた状態で机を制作し、そこに入っているものを見せようと考えていましたが、結果的には出来ませんでした。ちょっと手に負えませんでしたね。ご覧になって気がついたと思いますが、家具の引き出しは閉められた状態になっています。そして、すべてのものをゼロから作らなければなりませんでした。
また、ある種のリアリズムを獲得するために、本物とまったく同じ技術を模型にも使用しました。例えば、セラミック製のものはセラミック、家具は木製、床も実際の床と同じ。ある種の強迫観念と言えるかもしれませんが、再制作をしようと決めたら、出来るだけ実物に忠実に作ろうと思っていたのです。もともと、そういった非常に単純なアイディアがありました。



「墜落星- 1/5スケール」2008-2012年 広島市現代美術館での展示. Courtesy of
the artist and Lehmann Maupin Gallery, New York © Do Ho Suh



YK 「墜落星」には学生時代の部屋を再現しているものがありますが、そこをよく見てみると、宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』に出てくるガンシップとか、ドホさんも尊敬している横山宏さんがデザインしたものなど、プラモデルがたくさん積んであります。そうしたところにドホさんの造形への関心、模型やミニチュアへの関心が伺えますが、こうしたある種の趣味は自身の作品世界とどのように繋がっているのでしょうか。

DHS 小学校の頃はほかの子と同じくプラモデルが大好きでしたが、高校に入ると大学入試のこともあり、すっかり作らなくなっていました。メゾン・エルメス・ジャポンでの個展の際に来日したときでしょうか。特にこれといって目的はなかったのですが、なんとなく寄ってみた書店で横山宏先生の『マシーネンクリーガー』を見つけました。どういうものか背景は知りませんでしたが、ビジュアルに惹かれて購入しました。また、現実の生活では実現不可能なアイディアに基づく作品の企画を準備しており、私の考えを視覚化する最善の方法として模型やフィギュアをドローイングするため、秋葉原の模型などが売られているお店にも行きました。このときの来日でのふたつの出来事が模型制作に再び興味を持つきっかけになりました。
私は現在、約15個の実現不可能なプロジェクトのアイディアを持っています。例えば、韓国とニューヨークを結ぶ太平洋に架かる橋の建設のような馬鹿げたもので、空想計画と呼んでいます。そして、あるとき日本で出版されている一冊の本を見つけたのですが、日本のある建設会社(前田建設工業ファンタジー営業部)が出しているその本には、私のプロジェクトのような空想の計画を実現するために出した見積もりが掲載されているのです。一冊はマジンガーZの格納庫の建設の見積もりで、もう一冊は少年が宇宙へ旅するときに乗っている鉄道(銀河鉄道999のカタパルト)の見積もりです。ここにはある意味で私の太平洋に架かる橋の空想計画と似たものがありますね。
こうしたアイディアはおそらくみなさんの目に触れることはないでしょうし、私の頭の中に留まっているものでしょう。しかし、このようなアイディアは本当に重要で私の彫刻作品との間に非常に重要な繋がりがあるのです。だからこそ、私はなんとかしてこうしたアイディアを視覚化して発表したいと考えています。建築家がやっているように、ドローイングや模型はそのための主要なメディアでしょう。そうして、自然に模型制作に興味を持っていったのだと思います。それは必ずしも小学生のときのような趣味としての繋がりでなくてもいいのだと思っています。



「ブリッジング・ホーム」2010年 リバプール・ビエンナーレでの展示 © Do Ho Suh


YK ドホさんの作品は、近年、美術館に収まらない非常に大きな規模にも展開しています。例えば、リバプール・ビエンナーレでは「墜落星」が街の中に落ちたという設定そのままに韓国の家を実寸大で制作し、最近ではサンディエゴでコレクションとしてビルの上に家が乗っかっているような作品を制作していて、これらは美術館の作品の概念を変えるような大きさのものではないでしょうか。このように大きな作品を作るようになっていく過程で、自分の制作に変化はありましたか。

DHS そういうことはありませんね。先程約15の馬鹿げたアイディアという話をしましたが、実際、サンディエゴでコレクションされた「墜落星」もそれらのアイディアのひとつでした。私はおそらくそれらのアイディアを実現させる機会を探していたのだと思います。キャリアを積んでいくことで、招待されてプロジェクトを行なう機会が増えていき、そうした野心的なコミッションワークの機会によって、それまでに考えていたけれども自分ひとりでは実現不可能な作品に取り組むことが出来ました。これはたまたまそうなっただけで、アイディアという点において新しい変化があったわけではありません。

YK ドホさんの代表的な作品として、布の作品を観る機会は日本でも多いと思いますが、今回の展覧会では初期の作品も含めて、さまざまな制作の側面を観てもらう機会になっています。ドホさんはこれまでにもメディアを越境するような制作を行なってきたと思いますが、現在はパフォーマンスに関する作品も韓国で制作しているとお聞きしました。そのような関心の展開について教えていただけますでしょうか。

DHS これもまた意図したり、計画したりしたわけではありませんが、どちらかといえば共同的なプロジェクトへと移ってきています。また、映像や音を使うもの、パフォーマンスへの興味も高まっています。パフォーマンスといっても、人前で行なうものではなく、私のほかの彫刻作品と併せたパフォーマンスを記録したもののことです。これらもまた新しいものだと思っているわけではありません。1999年に東京のICCにて私の初めての個展を開催したのですが、そのときにまさにパフォーマティヴなビデオ作品やインスタレーションを発表しました。このとき行なったことはその後の私の作品とは非常に異なるものでしたね。私は画家として制作を開始して、絵画を離れて、彫刻も作っています。布の作品こそが私の代表作だと言う人もいますが、私はそのようには考えていません。踊りながら、ある地点から別の地点へとジャンプして移動するバレリーナのようであるべきだと思っています。なにか新しいものに試みようとしているわけではないですね。




ス・ドホ in between
会期:2012年8月4日(土)–10月21日(日)
会場:広島市現代美術館
http://www.hiroshima-moca.jp/
特設ウェブサイト:ス・ドホ in between







Lecture@Museumシリーズは、美術館で行われた講演を、関係者の協力のもと、ART iTが記録、編集したものを掲載しています。
2012年9月20日

モニーク・フリードマン展 関連企画 オープン記念アーティスト・トーク

モニーク・フリードマン オープン記念アーティスト・トーク @ 金沢21世紀美術館



: 「壁の黄色」2005年、『区域』シリーズより. 中央:「カレイドスコープ」2010-11年. All images: モニーク・フリードマン展(金沢21世紀美術館 2011-2012年)展示風景 撮影:豊永政史 写真提供:金沢21世紀美術館


吉岡恵美子(以下、EY) 今回、モニーク・フリードマンさんの作品を当館で個展という形でご紹介できることを大変うれしく思っております。というのも、フリードマンさんは、ヨーロッパのいろいろな美術館やアートスペースでの個展を何度も行い、重要なグループ展にも参加しています。また、数多くの重要な賞も受賞しているのですが、日本で彼女の作品を見る機会がこれまでほとんどありませんでした。
当館での個展以前の数少ない展示例としては、2000年に銀座のタグ・ホイヤーのスペースで展示が行われました。それからコミッションワークとして、山梨学院大学の図書館に大きな絵画作品が常設で展示されています。また、今回の展覧会に出品されている作品のひとつが、東京の在日フランス大使館のメインロビーを飾っていました。その関連として、フランス大使館芸術アタシェのエレーヌ・ケルマシュターさんが企画された『ノーマンズランド』というグループ展(2009-10年)にも参加しています。

しかし、日本において彼女のここ30年にわたる活動の全貌を知る機会はありませんでした。この場でご本人にいろいろなお話を伺いながら、ぜひこの機会に、彼女の表現や考え方のより深い部分に触れることができればと思います。

フリードマンさんは1943年にフランスに生まれました。現在はパリに在住し、パリ郊外に大きなスタジオを構えて、そこで制作を続けています。フランスのトゥールーズとパリで美術を学び、その後、一時制作を中断されていたこともありましたが、1970年代の終わりに自身のスタジオを再開し、制作活動を開始しました。
それから80年代、90年代と、常に絵画というスタイルで活動を続け、今でも絵画を基軸に制作を続けているのですが、2000年代に入った頃から、そのときどきに依頼されたスペースに合わせたインスタレーション作品を、紙、布、プレキシグラスなど、さまざまな素材を使って展開しています。
今回は、金沢21世紀美術館のスペースにおいて、彼女が軸足を置いている絵画を紹介しつつ、特徴あるこの建築空間で新作インスタレーションの制作も依頼しました。実際に私がスタジオに訪れたり、彼女が来日して対話を重ね、スペースに合わせた新作が3点、絵画作品が9点という形で展示が叶いました。
これから、フリードマンさんがどういった作品を制作してきたのか、そのときどきのアートの状況とご自身との関わりなどについても伺いたいと思います。また、当館での展示についても詳細をお聞きします。




「カレイドスコープ」2010-11年


EY まず初期の絵画などをご紹介する前に、フリードマンさんがどのようにアートの世界に入ろうと決断されたのか、そこからお話を聞かせてください。

モニーク・フリードマン(以下、MF) まずお話ししたいのは、私が何者であるかということです。私はまず何よりも自分のことを画家だと考えています。画家とは何でしょうか。それは、ある言語を適用して、創作活動をする人間です。言語と言っても、われわれが話している言葉、音楽、身振り、手振りのジェスチャーではなくて、ある特殊な言語であり、画家とは、それを使って、空間を開いていく、ある知覚を感じ取って開いていく作業をする人間のことを指しています。そして、その特別な言語によって、鑑賞する人たちの感覚の世界も開いていきます。つまり、ある意味奇跡とも言えますが、その言語を使うことで、国や言葉が違っていようと、美術作品を見る人たちは新しい感覚に対して開かれていくと思うのです。
画家になりたかったので、私は両親の了解を得て美術学校に通うことになりました。最初はフランスのスペイン国境に近い、トゥールーズの美術学校で勉強を始めました。ここはかなりアカデミックな教育をするところで、例えば、版画や彫刻、絵画、油絵を勉強する学校でした。その頃、私はふたつのことにはさまれていました。ひとつは画家になりたいという欲望、もうひとつは、画家になるという意思決定のふたつです。画家になりたいということと、画家になるのだという意思決定をすることには大きな違いがあるのです。そして、画家になるという決心を持ち続けることによって、毎日描き続けていくことができるのです。このことは強調しておきたいと思います。なぜかと言うと、絵画というのは娯楽ではなく、そこには存在を深めていく何かがあるからです。これは特に強調しておきたいことです。なぜなら、フランスにおける私の世代、特に女性がアーティストになりたいと言う場合、「いいでしょう。アーティストになりなさい。美術学校に行って勉強しなさい。」と受け入れられました。しかし、それにも関わらず、結婚して子どもができると「もう作品を作らなくてもよいのでは」と言われる時代でした。ですから、絵画というのは娯楽ではなく、絵画によって自分というものを見せる、アーティストとして証明することが必要なのだということを申し上げたいと思います。

EY 学生時代から画家になりたいという意思を固めつつ活動を始められて、その頃のパリやフランス以外の国の絵画にも影響を受けたり、展覧会を見に行って刺激を受けたりしたことと思います。具体的に影響を受けた作家や作品、ムーブメントはありましたか。

MF 当時、現代美術ではパリのさまざまな流派が知られていました。それらは確かに非常に質のよい作品に見えましたが、一方では、何か狭い、あるいは限界がある、絵の額に閉じ込められたものように感じていました。つまり、息吹とか自由な呼吸というものがないように思えたのです。
その頃、私はアメリカの抽象表現主義の作品を知りました。そこには限りない自由があり、空間と作家の間に無限の可能性があり、かつ、リリカルな息吹が感じられました。アメリカの抽象表現主義、ウィリアム・デ・クーニングやジャクソン・ポロック、ほかにも、例えばジョアン・ミッチェルもそうです。彼らの作品を私はパリで発見し、それらの自由さに影響を受けました。これは私にとって非常に大事なことでした。

例えば、バーネット・ニューマンは、ご存知のとおり、抽象絵画の作家ですが、非常に重要な問題提起をしています。つまり崇高性ということで、すばらしい色の緊密さがあります。これは人間の範囲を超えているとも言えます。つまり、見る人が絵の中に入って、それによって崇高な聖域に入る。別に宗教的な意味で言っているわけではありません。聖域に入っていくことが可能であるということを見せてくれた作家です。
ジョアン・ミッチェルも抽象表現主義の作家で、動作の力強さを見せてくれる作家です。日本人の方々の感受性で、よく感じ取っていただけると思いますが、この動作というのは、同時に動作の知性であると思います。
彼女は自分のことを「レディ・アーティスト」という呼び方をしていました。彼女はもともとアメリカ人で、ニューヨークで活動していたのですが、その後パリに来ました。パリ郊外のモネの家がある近くに住んで制作活動をしていました。非常に重要な女性アーティストであり、私の友人でもあります。そして、ジョアン・ミッチェルは、偉大な動作、力というものを示して、私に勇気を与えてくれました。彼女の絵画というのは、自分の家の庭の木々や、友人、犬などにも非常に関係しています。そして、いわゆる愛情との対話を非常に大切にしていた作家です。
せっかく友人である彼女の話をしているので、思い出を語りたいと思います。彼女はたくさん犬を飼っていました。私が制作活動の中で非常に困り、どうしたらいいか分からないとき、彼女は「あなたの犬を連れてきなさいよ」と言ったのです。実は、私は犬を飼っていなかったのですが、それに対して彼女は、「犬というのは疑いとかメランコリーのこと、それを私に渡しなさい。あなたは制作すればいいのよ」と言ってくれたのです。

EY そのほかにも、フリードマンさんがインスピレーションを受けたボナールやマティスについて伺いたいと思います。

MF 彼らについての話は、長く、多岐にわたります。なぜなら、私自身の制作活動そのものに関しての話になるからです。画家として活動するということは、対話をするということでもあると思うのです。古い洞窟絵画の先史絵画から現代に至る美術史の中で、さまざまな対話をしながら制作活動を続けていくのが、アーティストの活動ではないかと思っています。




モニーク・フリードマン展 展示風景


EY あなたのスタジオに置かれていた書籍が非常に多種多様であることに驚かされました。古い時代のものから新しい時代のもの、西洋や中国のものから日本のもの、絵画、彫刻、工芸など、様々な書籍がそこら中にありました。日常の中でこういった様々な世界と対話がなされ、作品が生まれてくるのでしょう。
さて、フリードマンさんは1970年代前半は活動を中断し、紆余曲折を経て70年代の終わりにスタジオを再開したのですが、その辺りを少しお話しいただけますか。

MF 確かに私はその時期に創作活動をやめたというか、アトリエを閉めました。1968年頃で、パリ騒動やパリ革命と言われている、フランスの社会にとっては非常に重要な学生運動の時期でした。そして、当時私も含めて多くアーティストが、アートをイデオロギーの観点から考えていました。芸術というのは何の役に立つのだろうか。人民の解放、人民の自由のためにアートが何の役に立つのか。アートは階級闘争にとって何なのかというようなことです。非常に政治的、イデオロギー的に問題を考えていました。私もそういったところに入りすぎましたが、当然ですが答えは見つからないわけです。具象絵画を描きつつ学生運動の闘士であった私は、絵に対する関心をどんどん失っていきました。そして、自分のアトリエに行くということ自体が重い試練になってしまったのです。アトリエに行くためには、行きたいという自分の気持ち、思いがなければならず、絵に対する興味がなければ行けません。自分はそういったところに陥ってしまったのです。
そのとき、私を助けてくれたものがふたつありました。ひとつは、当時の著名なフランス精神分析学者であるラカンのセミナーです。ラカンのセミナーは、自我、自分自身とは何かということについての問い直しとなりました。もうひとつはフェミニズム運動でした。「革命、思想、そういうこともいいけれども、私たち、女性というのは何なのか」という問題についてです。そうしたことを経て、再び考える新たな道具というものを私は持つことができ、アトリエに戻ることができました。大手を振ってではなく、非常に静かな形で帰ることができたのです。当時まず始めたのはデッサンです。自分の感動に基づいてデッサンをしました。大きなメッセージを伝えようとか、世界を変えようということではなくて、自分が感じたことをデッサンで描くということを始めました。

EY 今のお話を伺っていますと、創作活動の中断から再開において、先ほどのお話にでたジョアン・ミッチェルをはじめ、フランス、そして世界のいろいろな女性アーティストたちの活動や作品から影響を受け、時には勇気づけられたりされたのでしょうね。そして自分とは何か、誰かというアイデンティティの再認識、再考によって、絵画という道にまた戻ることができたように見受けられます。この、アイデンティティに対する問いは、その後も、作品を制作する上での大きな原動力や動機になっているような気がします。

MF そうですね。つまり、私は先ほど言った絵画の言語、色の言語を発見したのです。色というものは非常に難しく、また危険なものでもあります。少なくとも私にとって、それに到達するには障害を乗り越えなければなりません。そういうものが色です。私は最初、白、黒、灰色といった色から始めました。すぐさま黄色や紫色といった色に到達したのではありません。まず、自分の内部で色というものを征服していく作業が必要でした。

EY そういった作業において、常に自身の身体を用いて探求を行ったというのが特徴的だと思います。頭の中だけで考えて探求するのではなく、素材である色彩やカンヴァス、顔料やパステルなどの材料を実際に手に握り、素材と格闘するかのように、非常に直接的な動きや対話の中で色が生まれ、画面に広がりが生まれると捉えています。

MF 全くその通りです。絵の創作というのは、私にとって知的な活動だけではありません。もちろん計画や方法はありますが、それだけではなく、絵画には現実の「手」が非常に大切なのです。日本では書道というものがあるので、よく分かっていただけると思います。
絵画を描く手というのは、特殊で不思議な知性を持っています。また、素材、物質と一緒に物事をなす共謀性というものが大切だと思います。素材のおかげで自分自身、創作を豊かにしてもらえることがあると感じています。素材が語っていること、伝えようとしていることを、作家が注意深く聞くと、作品をよりよく制作することができます。
今申し上げたようなことを作家が感じ取った後に、つまり手の知性の後で、方法というものが生まれるわけです。創作活動の間に何があったか、何が起きたかを把握し、それを繰り返すことによって、どういった方法を使うかを考える段階が生まれてくるわけです。つまり、まず身体的な経験の教訓を受けてから、方法論が始まるのです。






: 手前: 「アプサント」1989年. : 「黄色いタイル床」1989年. : : 「ナージュの婦人たち II,2」1995年. : 「ナージュの婦人たち II,1」1994年


EY これは私たちが「絵画の部屋」と呼んでいる展示室11です。大きなスペースに彼女の絵画作品を一堂に集めて展示をしています。これはそのすぐ外の通路のスペースに展示をしている三連画「アプサント」(1989年)です。黄色と黄緑、その上を走る白、ピンクなどが大変印象的な作品です。これはパステルと顔料で描かれていて、今回展示している絵画の中では一番古く、1980年代終わりの作品です。これともうひとつ、展示室11の奥にある「黄色いタイル床」(1989年)という、やはり黄色を基調にした作品があります。これも同じ時期の作品です。
本展ではそれ以後に描かれた作品を主に並べています。例えば「ナージュの婦人たち」シリーズ(1994-95年)などは前の二作と少し手法が違っています。私は、「ナージュの婦人たち」から始まって今に至る手法が、大変興味深いと思っているのですが、これについてご説明いただけますでしょうか。

MF もちろんです。主にふたつの重要な道具があり、ひとつはパステルです。ただ皆さんがよくご存知のパステルと違って、非常に大きな塊のパステルを使っています。それまではよくあるタイプの小さなパステルを使用していましたが、あるとき私は、そのパステルを扱う業者の担当者に「今はもう20世紀だからもっと違う、より面白い、より大きいものを使いたい」と申し出ました。しばらくして彼から「あなたにぴったりのものがあったよ」と連絡があり、パステル工場で小さな棒状にする前の大きな塊を持ってきてくれました。
パステルというのは色の塊というか、色の凝縮したものと言えます。非常にきれいですが、同時にこれほど大きくなると非常に力強く、手の中で力を与えてくれるものになります。私は創作中に、何度も同じ動作を繰り返します。それによって一種の自動作用(オートマティズム)というものを自分の体の中に植え付けていきます。そして、このときから線のアラベスク、曲線のアラベスクというものを創作したいと思うようになりました。これはアトリエで生まれた考えです。あるときアトリエにひもが転がっていました。濡らしたカンヴァスの下に、そのひもを偶然に任せて置いて、ひもの痕跡をパステルで取っていくという作業をしたのです。この痕跡を取り出すという作業は非常に興味深いものでした。ひもは作家にとって目に見えません。つまり、画布の下に置いてあるので、目に見えないものの跡をカンヴァスの上に取っていくということです。これによって、私は目を覚まされました。

EY 私はあなたのアトリエで、片手でようやくつかめるぐらいの大きさや、少し使いかけた小ぶりのパステルの塊が大体の色ごとに何箱にもわたって並んでいるのを見たときに、あなたの絵画の原型というべきものを垣間見た気がしました。
そこにはいろいろな細さや形状のひもやロープ、時には小枝やつるなどもありました。こういうものをカンヴァスの布の下に置いて、その上からパステルでこすることによって、模様を浮かび上がらせるという手法を「ナージュの婦人たち」の辺りから用いています。自身でコントロールして描く線ではなく、偶然性に任せ、それを身体をもってすくいとり、浮かび上がらせた、うねるような自由な線に、そういった行為のプロセスの結果が表れています。

MF おっしゃるとおりです。






: 左から: 「灰色」2004年.「アマランス色」2004年. 「金色 1」2005年. いずれも『輝き』シリーズより. : 『季節―ボナールとともに』より5点 2010年


EY こちらは本展で出品中の「アマランス色」(2004年)という作品です。ケイトウという種類の花の名前がタイトルに付けられており、250×250cmの非常に大きな作品です。ここに細かく見えるパターンが先ほどより説明があった手法によるものです。私からの質問ですが、この手法以前には、制作をするときにカンヴァスを立てて、そこに向かい合う形で描き、この手法を取り始めてからは、縦ではなく水平に、床の上にカンヴァスを置いてご自分が覆いかぶさるような形となる、つまり、制作の向きが垂直から水平に変わっていると考えていいのでしょうか。

MF その通りです。カンヴァスを立てるのではなくて、床に平行に置いて描いています。いくつか申し上げますと、まず、私は絵画をシリーズで制作します。カンヴァスの下にひもを置くということは同じです。色は同じであったり、変えたりしますが、その痕跡を取るという動作に関しては同じことを繰り返します。しかし結果は、一点一点が全く違う絵になり、同じ絵はひとつもありません。創作活動の方式は同じです。痕跡取りをするための配置も同じです。使う素材も同じです。カンヴァスの大きさも同じです。でも結果はひとつひとつ違うのです。
そして、先ほど申し上げた動作の力強さが重要です。手の知性とともに動作の力強さなしには、ひもなどの痕跡を取っていくという作業はあり得ません。

EY 今お見せしているのは、現在展示中の「輝き」というシリーズで、それぞれ個別の色がタイトルについています。先ほどの「アマランス色」、そして「金色1」(2005年)、「灰色」(2004年)が並んでいます。
それから、今回展示している絵画の中では最新作『季節—ボナールとともに』シリーズ(2010年)から5点ほどご紹介しています。画面に見えるこういった帯のように区切られた区画というのは、これまではそれほどなかったと思います。もう一つ、このシリーズが他の絵画と異なるのは、タイトルが色の名前ではないということです。「季節」、それからボナールというフランス絵画の巨匠の名前が登場し、若干文学的なタイトルとなっています。この新作の制作にあたってのお考えをお話しください。

MF 『季節-ボナールとともに』は20点ぐらいの作品からなるシリーズです。ボナールというのはご存じのとおりフランスの作家で、私が大好きな作家です。ボナールは色の力や繊細さ、脆弱さをよくわかっているアーティストでした。そして、ボナールは手帳にさまざまなことを非常に静かな形で書き留めていました。例えば「今日、空は青い」「明日は空に雲が幾つかあるだろう」というような覚書です。そういった日々の色について、ボナールは書き留めていたわけです。つまり、色の言葉を大切にしました。ボナールはしばしば女性ヌードを描いていました。そのヌードの絵の中で構成の研究をよくしていました。つまり、絵の背景に「ダミエパターン」、日本語で市松模様や四角の模様ですけれども、そういう模様がよく見られます。それは女性が入っているお風呂場のタイルであったり、あるいは部屋の中のテーブルクロスであったりします。そのようなダミエパターンを使って、非常に微妙な色を変化させていくというボナールの手法があります。ボナールについて話し始めるととてもこの短い時間では語りきりません。

EY 素材は違いますが、ターラタンという薄い布を、絵画を描くときと同じ顔料で着色した上で、二重もしくは三重に重ねた『区域』シリーズ(2005年)でも、グリッドパターンが浮かび上がっていますね。素材が違っても共通性があります。本展で出品中の「壁の黄色」(2005年)という作品でも、長さ15mにわたって、黄色を基調に異なる色合いに着色されたターラタンが重なり合いつつ、長方形のグリッドを構成しています。このように、作品に時折現れるグリッドが非常に興味深いと思います。グリッドというのは、近代の抽象絵画の中にもよく見られます。しかしそういう隙がなく、ほかの要素の介入を許さないタイプのグリッドではありません。例えば布の作品は、布がレイヤーで一重、二重に留められていますが、きっちりと全部縫い付けられたり、壁に留められたりしているわけではありません。今回の展示にも見られるように、上の方はピン留めで、ふわっと浮き上がっている部分があり、境界線がゆらいだり、そこに光や影が介在してそのときどきで変化して見えることを、逆に強みとして持っています。見る人の側からしても、作品をいつ見るか。どういった光のときに見るか。どこから見るかによって、見え方が全然違います。この独特なグリッドの使い方について少しコメントをお願いします。

MF できるだけ簡潔に話したいと思います。正方形あるいはダミエパターンというのは、まさにモダニストのイコンです。シュプレマティストの作家にとってもそうです。ダミエ、あるいは正方形というのは非常に厳格、抽象的なものであり、固いというか、厳しい形であります。
一種の挑発と言ってもいいかもしれませんが、私はこのモダニストたちのイコンである正方形を換骨奪胎して違う形にしてきました。つまり、私の正方形、ダミエパターンは壊れやすくて、軽くて、括弧付きで女性的とも言えるかもしれません。私にとっては一種の水彩画のようなものです。パウル・クレーもダミエパターンあるいは四角形を使っていました。先ほど言ったボナールもそうです。また、モンドリアンもやはりダミエを使っています。そういったモダニストたちのイコンである、固い、厳しい形のダミエを私は自分流のダミエにしたのです。
同じように、私は「赤の部屋」(2010-11年)で、ターラタンを用いて赤に関する追求も行いました。赤というのは、美術の歴史の中でもっとも基本的な色であると思います。ここでは、私はアメリカの抽象表現主義者のマーク・ロスコのことを考えながら、この作品を作りました。「赤の部屋」では、ターラタンを私が持っている赤い顔料で着色していますが、それも私自身の手でやっています。ターラタンの布は三つの層から構成されています。
鑑賞者の方々がこの部屋に入るということは、この作品、つまり、この赤そのものの中に入るということです。色の中に、赤に入っていくということです。これはある意味で非常に肉感的とも言える経験で、赤の只中に入っていくわけです。




「赤の部屋」2010-11年


EY 「赤の部屋」ですが、画像では、なかなか力強さや、ミステリアスで肉感的な感じが伝わりにくいかもしれません。どれひとつとして同じ赤がないのです。布と布の間に空気の層があり、上から差し込む自然光や人工光がその中にも入り、さらに鑑賞者がこの中で動くことから生まれる視点の変化で、非常に不思議な視覚的、身体的な経験を得ることができる部屋になっています。色に包まれるようなインスタレーションというのは、ほかの作家も作っていると思います。でもあなたの場合は、この三次元の空間のインスタレーションが、自身の「絵画」であるという認識を非常に強く持って作られていることが特徴的です。素材自体も絵画で使う顔料とメディウムを使っています。そこに表れるにじみのような跡を含め、作家自身がコントロールしつつもコントロールできないといったせめぎ合いの中で浮かび上がってくる濃淡さまざまなターラタンの表情は非常に絵画的です。赤は極めて強い色で、いろいろな意味を持っています。鑑賞者それぞれが、その中でどのように感じ、どう反応されるか、これからの会期中、とても楽しみなところです。
これまで絵画、そしてターラタンを使った作品をご紹介しながら、グリッドの扱いが、ご自分が影響を受けた近代絵画から出発して、どのようにそこから脱却されているかということを話していただきました。その関連で、今回の展覧会の目玉となっている新作「カレイドスコープ」(2010-11年)をご紹介します。展覧会エリアにわれわれが「光庭」と呼んでいる中庭がいくつかあり、そのひとつを横切るガラスの通路に彼女が20色ぐらいの、微妙にトーンが異なる色を選び、それをフィルム化してガラス面に塗布した作品です。いくつもの色の正方形からなるといった意味では、先ほど少しお見せしたモンドリアンの格子を連想できるかもしれませんが、全く別のもので、こちらはその日の天候、太陽の位置、鑑賞者の見る場所によって姿が異なります。作品とその他の様々な要素が互いに影響を与えながら成立するインスタレーションです。
この場所で、何かこういったものを実現してほしいとリクエストしたのは実は私でした。展覧会調査のためにフランスの作家スタジオを訪れているときに、モニークさんがトゥールーズの地下鉄駅に作ったコミッションワークをぜひ見せたいということで、一緒に行きました。その場所は、地下鉄の構内に通ずるホールのようなところで、人々にとっては単なる通過点として、とどまることはほとんどない、そんな無機質な場所です。彼女が恒久設置をした作品というのは、こういった色の付いたガラスを通して差し込む光がその空間を照らし、通る人々の上や、手すりや、階段の上に落ちるというものです。画像ではよく見えませんが、床の上に少しピンクがかったり、黄色がかった色の光が落ちています。上部の天窓ガラスに2つの異なる色がついていて、そこを通して光が入ってきます。光の落ちる場所は刻々と移り変わり、雲がかかったときにはさーっと色が薄くなり、太陽が出てくるとまたピンクと黄色の濃い影を落とします。単なる移動の通過の地点でしかないこの場所に、本当に美しくて深く心に残る作品を展示されていました。それを見て、何か当館でもしていただけないかとお願いし、実現に至った特別な作品です。



MF 「カレイドスコープ」においては、鑑賞してくださる人たちの経験が大切だと思います。壁や床に色が反射、反映していきます。また、晴れのときでなくても、雨のときでもとてもきれいです。水たまりの上にあたかも鏡のように色が反射します。ここで大切なのは経験ということです。




「ざわめき」2010-11年


EY インスタレーション3点のうち、最後にお話をいただくのが、「ざわめき」(2010-11年)です。「ざわめき」の前身といえる作品は、2008年にベルギーのブリュッセルにあるエルメス財団のスペース、ラ・ヴェリエールでの「ささやき」という作品です。半紙のように薄い紙を壁に2カ所で留めていて、空調の流れや鑑賞者の動きで紙がふわりと浮き上がり、その下に塗られている色を知覚するという作品でした。
こちらが今回、当館の丸い展示室に作られた「ざわめき」です。先ほどの「ささやき」と今回の「ざわめき」とでは、受ける印象が全然違うかと思います。いろいろな要素が関係していると思いますが、そのひとつとして、下に塗られている色を今回変えたことがあるかと思います。「ささやき」では、薄い緑がかった、青でした。今回この場所のために彼女が選んだ色は薄紫です。展示室でしばらく目や身体が慣れるまで過ごしていただかないと、実際は何色なのかというのが分からないぐらいの、ごく薄い紫色になっています。
ここでは鑑賞者の動きによって紙が動き、無限の動きを見せます。今回、薄紫という色を使われたことで印象が随分変わったように思いますが、この色に決めた背景にはどういった思いがあるのでしょうか。

MF 実は、この部屋には5色の薄紫色を使っています。私にとっては、それは一種、日本の色でもあるのです。薄紫色は精神的な色でもあります。そういったことから薄紫色を日本で使いたいという思いがありました。

EY この作品が完成して面白いと思ったのは、鑑賞者が歩いていく前方には風が起きないので、常に自らの後ろで風が生まれ、追いかけるように紙がめくれあがり、ふわふわと舞っていきます。その現象は振り返らなければわからないわけです。また、逆にそうやって紙を動かしている姿を他の人が見る、そういう体験の仕方もあって面白いと思いました。従って、誰もいない無人の状況では、この作品は完成したとは言えないと思います。何人かが入って動きながら、自分で風を起こしてそれを周りにいる人たちと一緒に体験する。きっとそこで、皆さんが発する声や生まれる音といったことが「ざわめき」につながるのではないでしょうか。
当館のスペースというのは非常に特徴的で、建物の外側だけでなく展示エリア内にもガラスが多用され、多くの光が入るため、外の天気やその時の光によって展示空間の見え方が大きく変わります。作品のアイデンティティはこうでなければいけない、こう見えなければいけないとかっちり決めるのではなく、「ゆらぎ」を、作品の存在のひとつの大きな要素として併せ持っています。
「カレイドスコープ」のカラーフィルムを通し、そばの通路に展示されている「壁の黄色」(2005年)を見るとき。光の影があちこちに伝わっていくのを見るとき。「ざわめき」の作品が人々の動きによって無限の形を見せるとき。見えない、聞き取れないぐらいのほんのわずかな微細なこと、微細なものに、私たちが耳を傾け、目をこらす。そういうことを促し、どこか別の次元に導いてくれるようなフリードマンさんの展示が今回完成したということは、担当キュレーターとして大変うれしく思っております。

MF 私も心から感謝申し上げます。ありがとうございました。



(通訳:飯山雅英)



『モニーク・フリードマン展』の関連イベントとして、2011年11月23日、金沢21世紀美術館レクチャーホールにて行われたアーティストトークより


モニーク・フリードマン展
会期: 2011年11月23日(水)– 2012年3月20日(火)
会場: 金沢21世紀美術館
http://www.kanazawa21.jp/


Lecture@Museumシリーズは、美術館で行われた講演を、関係者の協力のもと、ART iTが記録、編集したものを掲載しています。
2012年2月17日

『フレンチ・ウィンドウ』展 関連企画 河本信治 デュシャンという物語の始まり

河本信治「デュシャンという物語の始まり」@ 森美術館




京都国立近代美術館『マイ・フェイバリット——とある美術の検索目録/所蔵作品から』(2010) レディメイド展示風景(一部)

マルセル・デュシャンについて詳しい人はいくらでもいます。正直、私の知識は半端だと思います。ただ、京都国立近代美術館が1987年に13点のレディメイド(1964年シュヴァルツ版)を収蔵してから20年以上の期間、デュシャンの作品を説明することは私が避けることの出来ない仕事のひとつでした。その過程で気付いたのは、デュシャンとその作品はその語り方、【どのように語るか】ということが重要なのだということでした。「デュシャンを語るということは、なにがしかのゲームに参加することなのだ」と自分で納得し、ようやく、デュシャンについて少し語れるかもしれないと思えたのが10年ほど前のことです。最初に、「本日の講演で私がデュシャンについて語ることは嘘です」と宣言することから始めたいと思います。「この黒板に書いてある言葉は嘘です」という設定なしでは、私にはデュシャンを語れないような気がするのです。本日はできるだけ正確な事実と作品情報を基に、かつその解読については個人的で恣意的にお話ししますが、その解釈の正当性については責任を持たないということをご了解下さい。

デュシャンを語り出したら切りがありません。作品の数はさほど多くないのですが、彼は20世紀美術に途方もなく大きな影響を与えています。本日は話題にする作品を限定し、レディメイド作品を中心に、1913年から1922年の間にニューヨークでデュシャンが何を成したかについて話していきます。デュシャンが20世紀美術にかくも大きな影響を与えた理由のひとつは、彼がこの時期にニューヨークに滞在していたからであることは間違いありません。
マルセル・デュシャンは1887年に生まれ、1968年に亡くなっています。フランス生まれですが、1955年にアメリカ国籍を取得しています。画家と彫刻家の2人の兄と3人の妹がいます。デュシャンが20世紀美術へ与えた影響については多くの人が語っていますが、特に有名なものにオクタビオ・パスというメキシコの詩人が1970年に書いたものがあります。「20世紀に最も大きな影響を与えた画家は、たぶん、パブロ・ピカソとマルセル・デュシャンの二人だろう。ピカソはその作品の膨大な数によって、デュシャンはたったひとつの作品、しかも、その作品は近代的な意味での作品概念を否定する作品によって」「[…]ピカソの絵画はイメージの集まりであり、デュシャンの作品はイメージについての沈黙の思考である」というようなことを彼は言っています。ここでオクタビオ・パスが言う「ひとつの作品」というのはたぶん、今回森美術館の『フレンチ・ウィンドウ展』で展示されている「泉」(1917)という作品のことでしょう。この画像はヒューストンのメニル・コレクションでの展覧会『マルセル・デュシャン:泉』(1987–88)の入り口の写真です。このように彫刻台の上に男性用便器が乗っています。



Installation view of "Marcel Duchamp: Fountain" at the Menil Collection, Houston, Texas, 1987–88

デュシャンの初期作品を画像で概説しますと、彼は1910年頃からセザンヌやフォーヴィスムの影響を受けた作品を制作しています[注1]。キュビスムの影響、特に機械をメタファーにした絵画はとても重要です。オクタビオ・パスは「ひとつの作品」で影響を与えたと書いていますが、とても大きな影響を与えた作品がもうひとつあります。「階段を降りる裸体」(1912) [注2]という作品です。これは1910年代のアメリカのアートシーンを変えるほど大きな影響を与えた作品でした。私が学生の頃は「階段を降りる裸婦」というタイトルも普通に使われていましたが、70年代半ばぐらいから「階段を降りる裸体」が定訳になっています。これが女性のヌードなのかあるいは男性のヌードなのか、という点も興味深いところです。デュシャンは1913年にニューヨークで開催されたモダンアート国際展(アーモリー・ショー)にこの作品を出品して大きな話題に、つまりスキャンダルになりました。
1913年という年は歴史的に重要な出来事が重なっています。カフカの「火夫」(『失踪者』)、ニジンスキーの『春の祭典』、カンディンスキーの『純粋芸術としての絵画』の論文が出て、プルーストの『失われた時を求めて』が始まり、フッサールの『現象学』の最初の草稿が発表されている。また、フォードのコンベアシステム(フォーディズムという大量生産のシステム)もこの年に導入されています。そしてかなり重要な出来事は、ニールス・ボーアの【原子模型】が提唱されたことです。それまでの原子模型は太陽系モデルでしたが、ボーアは全く違う概念を提示しました。そしてアイソトープの発見、放射性同位元素が存在することが主張されました。つまり物質が崩壊して変化するという概念が物理学で問題となってきたのです。この年にマルセル・デュシャンは、先ほどの「階段を降りる裸体」をアーモリー・ショーに出品しました。また、デュシャンが1915年から「レディメイド」と呼び始める、その最初の作品である「自転車の車輪」が1913年に制作されています。それから、紙片に書いた楽譜をバラバラに千切り帽子の中に入れて、それを取り出して貼り合わせることで楽譜を再構成していくという、偶然性(チャンス・オペレーション)を用いた最初の作品「音楽的誤植」もこの年の制作です。美術作品に偶然性を導入したという意味で、1913年というのはなかなか象徴的な年だと思うのです。私には1913年に19世紀的な定義の【近代】と20世紀的な【近代】との間に亀裂が生まれたという気がします。「三つの停止原器」(1913–14)も偶然性を用いた作品で、1メートルの紐を1メートルの高さから落とし、それが落ちた状態を1メートルと定義した物差としました。それから、「瓶乾燥器」(1914)、これはパリのデパートの台所用品売り場で買ってきたものです。



Left: "International Exhibition of Modern Art" alias Armory Show (1913), poster. Right: Installation view

アーモリー・ショーは1913年にニューヨークで開催されました。これはアメリカの美術家の団体(アメリカ画家・彫刻家協会、AAPS)が、ヨーロッパの最新の美術動向を紹介し、かつ同時代のアメリカの作家たちも紹介する意図で組織した展覧会です。背景にはアメリカ独自の美術を確立したいという強い愛国主義的な衝動があります。独立戦争、南北戦争を経て国家として統合されたアメリカは、19世紀半ばから独自の文化を、特に独自の芸術を持ちたいという大衆的衝動がありました。19世紀後半というのはアメリカが拡大主義、植民地主義的な対外政策を行なっていた頃です。米西戦争(1898)でキューバ、フィリピンを獲得し、パナマに対する強引な租借条約、南米諸国に対する主導権の主張など、ウィリアム・タフト大統領が進めた対外的な拡大政策と並行するようにナショナリズム的気運が高まりました。この過程は日本の近代美術の成長期ととても似ているところがあります。私がアメリカのモダニズムの芸術運動に興味を持ったのは、その痛々しさが日本の近代美術の生成期と重なる気がしたからです。
アーモリー・ショー(正式名はモダンアート国際展)には世界中の、特にヨーロッパ、フランスを中心とした作品が集められました。これは展覧会というよりも完全にアートフェアです。一般公開、大衆啓蒙、そして販売目的という要素が入っています。単純な会場構成で、出品作品には古典的な表現の絵画、彫刻から最も先鋭的なものまであり、ブランクーシ、ピカビア、マティス、カンディンスキー、ゴッホ、ゴーギャン等々の作品がありました。この展覧会は新聞にも大きく取り上げられて、大衆の間で大きな話題になりました。展覧会の中で一番の話題になったのがデュシャンの「階段を降りる裸体」でした。「トタン屋根の爆発」と呼ばれたり、この作品を真似た風刺画が出たりと、からかいの対象になります。当時の新聞や漫画も細かく読んでいくととてもおもしろいです。非具象的な絵画はすべて「キュビスト」として十把一絡げで語られたようで、アメリカの田舎のおばあちゃんが「本当のオリジナルなキュビストは私よ」と、パッチワークでキルトを作っている様子や、「キュビストがファッションデザインをして、どこがだめなの」みたいな戯画などもありました。こうした大量の揶揄やからかいが、一方で展覧会の話題性を高め、アーモリー・ショーは大成功をおさめます。



Left: J.F. Griswald, "Seeing New York with a Cubist: The Rude Descending a Staircase (Rush Hour in the Subway)," The Evening Sun, March 20, 1913. Right: "The Original Cubist," Chicago Tribune, March 20, 1913

なぜ、この展覧会が、この時のアメリカに必要だったかということを考えてみましょう。これはとても雑な年表ですが、およそ我々が中学校か高校で習う19世紀以降の美術史年表というのはほぼこんな感じでしょう。ロマン主義の後にクールベなどの写実主義があって、印象主義が生まれ、後期印象主義、象徴主義などが生まれて、それが線的な連続で示されて、表現主義、シュルレアリスムと繋がる。第二次世界大戦時にヨーロッパの美術家が大勢アメリカに亡命して、アメリカの美術家たちとの交流が生まれ、第二次世界大戦後にアメリカでは抽象絵画と表現主義的絵画が統合された抽象表現主義が生まれる。ヨーロッパでもアンフォルメルと呼ばれる同様な動きが生まれ、このとき初めて戦後美術、世界同時代美術というものが生まれた。第二次世界大戦後の抽象表現主義以後の美術を現代美術と呼ぶ、というお話です。かなり不完全な図ですが、およその理解はこんな感じだと思います(この説明に私が同意しているわけではありません)。このチャートの前半の部分ではアメリカの動向が明らかに欠落しています。第二次世界大戦時にヨーロッパの美術家たちが渡米するまで、ヨーロッパにおいてアメリカ美術は興味の対象ではなかったのです。
アメリカ側から当時の国内美術の動きを考えてみると、先ほど言いましたように、19世紀末にアメリカ独自の美術というものを確立したいという衝動とも言える動きがあります。そのひとつは、ある意味では保守派ですが、常套的な技法や表現を使いながら、ヨーロッパに学んだ歴史や神話世界ではなくて、アメリカの日常の光景を描こうとする動向です。アメリカ人の日常の光景を描く、それこそがアメリカ独自の美術になり得るという割と直截な動きで、ある意味では反アカデミズムと言えます。ニューヨークのロバート・ヘンライやフィラデルフィアの若い画家たちを中心に生まれた動向で、裏町の光景とか酒場、鉄道の高架下とかを描くような、「アッシュカン・スクール(ゴミくず派)」と呼ばれる画家たちがいて、その中で「ジ・エイト(8人組)」というメンバーが力を持っていました。彼らの活動の延長として、組織を拡大し、ヨーロッパ美術と自分たちの美術を同時に並べて、自分たちの立場を強化したいという願望が生まれます。
一方、ダイレクトにヨーロッパの最先端の動向と結び付き、最先端の美術表現こそをアメリカ美術として獲得したい、というとても理想主義的かつ純粋主義的な活動をしていた少数のグループがニューヨークにいました。それは写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)と、彼が私費で運営していた小さなギャラリーに集う人たちでした。その画廊は5番街の291番地にあり、「リトル・ギャラリーズ・オブ・フォトセセッション」という名前でスタートし、その後、「ギャラリー291」に名前を変え、アメリカの新しい作家たちだけでなく、セザンヌやロダンなどといったヨーロッパの先鋭的な美術を紹介していきます。両者とも、「アメリカ美術をヨーロッパの最新動向とリンクさせたい」という願望は共通しています。こうした背景があってアーモリー・ショーが組織されましたが、開催直前になって勢力を握ったのが保守派のほうです。スティーグリッツはアーモリー・ショーから完全に排除された形になりました。
スティーグリッツはドイツ系移民の親のもとで生まれたアメリカ人です。彼はドイツで写真化学、印画技術等々を学んでニューヨークに帰って来て、ニューヨークのカメラクラブに入りました。その優れた写真作品によって頭角を現し、『カメラ・ノーツ』(1897–1903)というクラブの機関誌の編集長を務め、まさにアメリカ写真の近代化に尽力した写真家です。それまでの写真というのは新しいメディアではありましたが、写真独自の美学はまだ確立されていませんでした。つまり、芸術的な表現がやりたくてもなにをやっていいかわからなかった。だから、「絵画に近い表現をすることが写真を芸術にする一番の近道だ」という一般的な了解がありました。これは特にイギリスで強かったのですが、絵画主義写真(ピクトリアリズム)と呼ばれる強い勢力がニューヨークの写真界にもありました。表現だけではなく展示方法も絵画を真似ていました。絵画の形式を模倣して写真を芸術に近付けようとする動向です。スティーグリッツはこの絵画主義写真を否定し、「写真は全く新しいメディアであるがゆえに独自の表現があり得るのだ。しかもそれは新しいがゆえに、ヨーロッパの伝統と離別することが可能であり、それこそがアメリカに新しい芸術、美術をもたらすことができる」と非常に論理的に写真家たちを説得し、理想主義的に展示活動を続けました。彼は仲間と1905年に「フォトセセッション」を結成し、メンバーのための画廊を作ります。本当に小さな画廊ですが、そこでは先鋭的な写真家たちの新しい作品だけでなくヨーロッパ美術の最新動向が紹介されました。この画廊はすぐに、ニューヨークで一番先鋭的な美術を見ることができる場所、批評家や作家たちが集まるサロン的な場所になっていきました。展示活動においても、ブランクーシと一緒にアフリカの木彫を展示するなど、かなり前衛的なことも行なっています。彼が画廊を閉めた1917年にはオキーフのアメリカで最初の個展を開催しています。展示方法もとても近代的で、フレームは非常にシンプルなもの、視線の高さに合わせた横一列の配置など、現代の写真の展示手法はたぶん、スティーグリッツとギャラリー291が創り出したスタイルだろうと思います。



Left: Gertrude Käsebier, Alfred Stieglitz (1902). Courtesy the Library of Congress, LC-DIG-ppmsca-12142 DLC. Right: Cover of Camera Notes, vol. 1 no. 4, April 1898

珍しいスティーグリッツの動画を見つけたのでお見せします、たぶん1913年頃のものです。画面ではいかにも陽気な人物に見えますが、実はものすごく生真面目で、深刻で、陰鬱で、うっとうしい理想主義者であったと証言されています。それから、『Reds』(1971)という映画の冒頭部分のクリップも見てください。ウォーレン・ベイティが監督と主演をした映画で、ジャーナリストで社会主義者であったジョン・リードの物語です。リードは有名な『世界を揺るがした7日間』(1919)というロシア革命のルポルタージュを書き、赤の広場の壁の中に埋葬されている唯一のアメリカ人です。ダイアン・キートンが演じた相手役のルイーズ・ブライアントは20世紀初めのアメリカの女性解放運動に非常に大きな影響を与えた女性です。彼女は西海岸の保守的な街オークランドから旦那を捨ててグリニッジ・ビレッジに移り、そこでジョン・リードとユージン・オニールと複雑な恋愛関係をつくっていきます。社会主義者たちやエマ・ボールドマンなど初期の女性解放運動の活動家たちが丁寧に描写されており、20世紀初頭のニューヨークの空気を伝える、とてもよくできた映画です。この映画の最初の場面は、ジャーナリストを志す彼女が、オークランドで写真を発表した時の様子です。この当時のアメリカの非常に保守的な空気がよく表れています。ヌードの写真が展示してあるだけで観客はひどく顔をしかめています。これを見るとデュシャンの作品が、「ヌード(裸体)」というタイトルだけでいかにスキャンダルの標的になったことが想像できます。これはデュシャンの1966年のインタビュー映像で、アーモリー・ショーについて語っている部分です。ここで彼は、「アーモリー・ショーの成功と『階段を降りる裸体』についての評判が、私が1915年にニューヨークに来たとき、非常に有益な形で役に立った」と語っています。

デュシャンは1915年にニューヨークに渡ります。第一次世界大戦が勃発した後の、フランス国内の好戦的な空気が嫌になったことと共に、彼は体が弱いという理由で召集免除であったがいつ召集されるかも知れない状況であり、周辺の勧めでニューヨーク行きを決めたのが実情だろうと思います。アーモリー・ショーで築かれた名声のおかげで、デュシャンはニューヨークに到着してすぐに多くの人から招かれて援助の機会を得ることができました。彼は既にパリで知り合っていたフランシス・ピカビアに再会し、彼の紹介でボストン出身の詩人でお金持ちのウォルター・アレンズバーグに出会います。アレンズバーグはアーモリー・ショーを契機に近代美術作品のコレクションを開始し、デュシャンの作品に非常に興味を持っていたそうです。両者はすぐに親しくなり、デュシャンはアレンズバーグのアパートに3ヶ月ほど住み込み、その後アレンズバーグはデュシャンのためにアトリエを借り、家賃を負担しました。その援助の代わりにデュシャンが計画している作品、いずれできる作品の所有権を譲る契約を交わしました。この写真はアレンズバーグのアパートです[注3]。それから、キャサリン・ドライヤーというお金持ちの未亡人、理想主義者で社会貢献に積極的な女性でしたが、デュシャンは彼女とも非常に親しくなり援助を受けるようになります。これは20年代半ばの写真だと思いますが[注4]、キャサリン・ドライヤーとデュシャンと、彼の有名な「大ガラス」、そしてデュシャンの最後の油彩画と言われている横長の作品「Tu m'」(1918)が写っています。この作品についてはロザリンド・クラウスが、指標(インデックス)である写真と絵画の関係について論じ、デュシャンにおける先見性、先駆性に言及した非常に面白いテキストを書いています。
1915年にニューヨークに到着したデュシャンは、パリ時代に開始した、既製品に言葉を書き込んだ作品を継続します。これは荒物屋で買ってきた雪かきシャベルに言葉を書き込んだレディメイド、「折れた腕の前に」という作品です。タイトルについて、「雪かきをして、疲れて腕が折れるその前に……」という解釈がありますが、デュシャンは後年に「そんな(意味付けする)気は全然なかった、単に言葉を書いただけだよ」と語り、タイトルに意味がなく単に言葉を選んだだけであると言っています。彼のアパートは67丁目の33番で、アレンズバーグと同じアパートです。たしか廊下を挟んだ向かいの部屋をアトリエとして借りてもらったようです。これは1918年に撮影された写真ですが[注5]、レディメイドが置いてあります。この写真に写っている「自転車の車輪」は再制作で、(本当かどうかわかりませんが)オリジナルはデュシャンがフランスのアパートを引き払った後、妹のシュザンヌが掃除をした際にゴミと一緒に捨ててしまったと言われています。



Left: Cover of The Blind Man, no. 1, April 1917. Courtesy Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library. Right: Cover of The Blind Man, no. 2, May 1917. Courtesy University of Iowa Libraries, The International Dada Archive, Digital Dada Library Collection

いよいよ問題の1917年です。アーモリー・ショーを成功させたグループの一部が、1916年末頃から2回目の大きな展覧会を考え始めました。彼らはアメリカ独立美術家協会を結成し、「1ドルの出品費と5ドルの年会費を払えば誰でも展示可能、審査員なし、無審査、賞も賞金もなし」という非常に理想主義的な原則を掲げて、翌年のアンデパンダン展の準備に入ります。デュシャンは展示のディレクターに、アレンズバーグも組織委員の一人に指名されてこの催しに関わります。アンデパンダン展オープンの1週間前にデュシャンは、R. Mutt(リチャード・マット)という偽名を使って、荒物屋で買った男性用小便器を展覧会委員会に送りつけました。組織委員の間で、「これは何だ?とんでもないものが送られてきたぞ」と大騒ぎになったようです。たしか展覧会の2日前に緊急会議を開き、どう対応するべきかという議論をしました。最終的にこの作品は、「展覧会にふさわしくない」という理由で展示を拒否されました。諸説あるのですが、「拒否されたこの作品は人目に触れることもなく会場の壁の裏側に置かれて、いつの間にか消えて紛失した」と語られてきました。たぶんこの逸話を定着させたのはハンス・リヒターだと思います。「組織委員会が不道徳だとして便器の展示を拒否して隠してしまい、いつの間にかオリジナルがなくなってしまった」という通説です。私が学生の頃にその話を読んで疑問に思ったのは、オリジナルの「泉」の唯一の写真画像と言われているスティーグリッツが撮影した「泉」の写真のことです。組織委員会で拒否されて、会場の裏に隠されてなくなったのだとしたら、「この写真は、いったい何時、何所で撮影されたのだろう」という疑問です。この顛末を調べるのは、ミステリーを読むようで結構楽しかったのです。当時でもはっきりわかっていたのは、スティーグリッツがギャラリー291でマースデン・ハートリーの「戦士たち」(1913)を背景に「泉」を撮影し、その写真がデュシャンのグループが発行した雑誌『ザ・ブラインド・マン』の第2号に掲載されて、それが最初の便器、オリジナルの「泉」の姿を伝える唯一の写真になったという事実です。このアンデパンダン展も、アーモリー・ショーと同じような形で、スキャンダラスな話題となりました。
時系列に沿って説明していきます。スティーグリッツはこの年の4月3日にギャラリー291の最後の展覧会として『ジョージア・オキーフ展』(5月中旬まで)を開催します。そして、4月9日に独立美術家協会のアンデパンダン展の内見会があります。組織委員会決議、投票の結果で「泉」を展示しないということが決まる。有名な話ですが、組織委員の一人ジョージ・ベローズが「これから先、もしだれかが馬の糞をキャンパスに貼りつけたものを送ってきたら、それも美術作品として受け入れるのか」と言ったら、アレンズバーグは、「それは仕方がないでしょう」と答えたというエピソードがあります。「馬の糞をキャンバスに貼りつけたのが美術作品か」というフレーズを改めて読み直すと、すぐに象の糞をキャンバスに付けたイギリスの作家、クリス・オフィーリの作品を思い出しました。思わず、「ジョージ・ベローズ、あなたは偉い。100年後の作品を予見している」と笑ってしまいました。1917年には二月革命、十一月革命など世界史上でも大きな出来事が起こりました。この4月9日はアメリカが対独宣戦布告して3日目になります。そして、翌日の4月10日に独立美術家協会のアンデパンダン展が一般公開されます。リチャード・マットの「泉」という作品を支持するグループは、『ザ・ブラインド・マン』第1号(1枚、片面刷りのフライヤーのようなものです)を会場で配布し、「次の第2号でいろいろおもしろい記事を載せる」と告知を開始します。翌日に協会側は「泉」を出品させないことに関する弁明を載せたプレスリリースを新聞社などに送ります。これも有名なフレーズですけれど、「たぶん『泉』は、しかるべき場所では有用なものであろうが、展覧会、美術展はその場所ではない。さらにその便器を芸術だとするいかなる定義も存在しない」というような文章を載せたのです。同日、組織委員会のこの対応に抗議して、デュシャン、アレンズバーグは独立美術家協会の委員を辞任します。この日にデュシャンは「泉」をギャラリー291に持ち込んで、数日以内にスティーグリッツが撮影をしたという証言が見つかっています。そして、スティーグリッツは数日間ギャラリー291で「泉」を展示した、と書いてある同時代人の手紙があるとも言われています(事実関係はまだ確認されていません)。でも出品拒否された「泉」がアンデパンダン展の2日目にスティーグリッツのギャラリー291に持ち込まれたことは間違いないと思います。そして5月中頃にかの有名な『ザ・ブラインド・マン』第2号が発行されています。60年代、70年代に言われていた「泉」に関する出品拒否前後の通説、「出品拒否され、パーティションの裏に隠されて、いつの間にか紛失した」というのは事実に反すると結論できます。「泉」事件(リチャード・マット事件)は、明らかにデュシャンが、たぶん展覧会の1ヶ月ほど前から計画し、出品を拒否されることを想定して緻密に仕組んだ一種の悪戯、あるいは意地悪ではないかという気がします。事前の準備がなければ出品拒否された翌日の一般公開の日に『ザ・ブラインド・マン』の第1号を発行できるはずはありません。
『ザ・ブラインド・マン』の第1号は1枚のリーフレットで、「第2号をすぐに発行しますよ」ということが書いてあるだけです。『ザ・ブラインド・マン』の第2号にスティーグリッツが撮影した「泉」の写真が掲載され、これが20世紀美術のひとつのイコンになってしまいました。『ザ・ブラインド・マン』第2号の中に、「5月25日に『ザ・ブラインド・マン』のダンスパーティをやります」という告知があり、実際に5月25日にダンスパーティが行われています。『ザ・ブラインド・マン』第2号の発行日はまだ確定されていませんが、たぶん5月の早い時期だろうと想像できます。これは『ザ・ブラインド・マン』のダンスパーティのポスターで、デザインはベアトリス・ウッドのものです。『ザ・ブラインド・マン』第2号に掲載された有名な「リチャード・マット事件」という匿名論文、たぶんデュシャンの文章が当時の女友達のベアトリス・ウッドを通じて掲載されています。終わりから2頁目に発行を支援したギャラリーの広告が掲載されています。ブルジョア・ギャラリー、ダニエル・ギャラリー、モダン・ギャラリーの3つです。前者のふたつは老舗の画廊で、ダニエル・ギャラリーは国吉康雄が初めて展覧会を開いた画廊です。モダン・ギャラリーというのは、実はスティーグリッツのギャラリー291の主要メンバーであるマリウス・デ・ザヤス、アグネス・メイヤー、それからポール・ハヴィランドの3人が、291の活動を支えるために商業活動をするために設立したギャラリーです。アレンズバーグが常連のお客さんで、設立の資金を提供したのはスティーグリッツだったという皮肉な事実があります。
そして、これがデュシャンのアトリエの中の「泉」を写した写真で、二重露光撮影でデュシャンが幽霊のように写っています[注6]。1917年頃の写真ですが、それがアンデパンダン展の前なのか後なのか確定されていません。ただ、デュシャンがアレンズバーグと一緒にアップタウンの荒物屋で便器を買ったのがアンデパンダン展の1ヶ月前という記録があります。デュシャン自身の証言や記録を調べてみると、かなり意図的な誤記や詐欺じみた補足資料に行き当たることが時々あります。



The Blind Man, no. 2, pp. 4–5. Courtesy University of Iowa Libraries, The International Dada Archive, Digital Dada Library Collection

スティーグリッツの撮影した写真に戻ります。興味深いのは、この写真では「泉」が彫刻台に乗せられていかにも彫刻らしく撮影されていることです。スティーグリッツが懸命にこの作品の解読に努力したこと、撮影のために費やしたもろもろの努力がうかがえる写真です。デュシャンとスティーグリッツとの関係は、生涯を通じて「敬して遠ざける」関係であったことは間違いありません。でも少なくとも1917年には、二人は良好な関係にあったようです。デュシャンが便器を291に運び込み独立美術家協会展の委員会での経緯を話すと、スティーグリッツが非常に憤慨して、「美術を守るため、そういう保守性を攻撃するために自分も協力しよう」と言った、とベアトリス・ウッドは証言しています。どうやらその時デュシャンは、「泉」はとある女性が男性の偽名を使って送った作品なのだと、なんとなくスティーグリッツを信じ込ませたようです。
スティーグリッツは非常に優れた写真家ですから、この便器をどう造形的に美しく撮影するかということにものすごく集中しています。カメラアイのレベルに便器の背の部分を合わせ、その形が造形的に優れているのだと彼自身を説得しようと努力しているように思えます。背後のマースデン・ハートリーの絵と便器の形状が共鳴関係に置かれている(あたかも座仏像を想起させるように)。それゆえにスティーグリッツは、このような配置で撮影をしたのだと分析する美術史家もいます。スティーグリッツの優れた写真はデュシャンの「泉」に、「工業製品や大量生産品でも、大量生産品なりにそこに造形美があるのだ」という、誤った解釈の方向性を正当化したと何人かの美術史家が書いています。スティーグリッツが自分で理解できる美意識や美学に基づき、良い「泉」の写真を撮影しようとしたことは明らかでしょう。しかしそれは、いかにも19世紀的な近代、彼の夢見た理想主義的な近代であったと思います。この写真は同じネガからトリミングされたスティーグリッツのもう1つの写真で、アレンズバーグにプレゼントされたものです。この写真では下のサインのところがカットされています。明らかにスティーグリッツは、「泉」に純粋に造形的、美学的な意味を見ようとしています。「泉」が作り出す一種のゲーム性、制度に対する攻撃性などはあまり理解していなかったという気がします。
撮影の後の便器がどうなったかという疑問が当然あります。これについてもデュシャンは非常に巧妙に、1960年代に、然るべき筋に呟いています。デュシャンの伝記作家の一人であるカルヴィン・トムキンスは、「最も考えられるのはスティーグリッツがギャラリーを閉鎖する時にゴミと一緒に捨てられたのではないか」と書いています。おそらくデュシャン自身が、そのようなことをトムキンスに仄めかしたのだろうと思います。スティーグリッツ自身が撮った「291最後の日」という痛々しい写真があります。ここの中に「泉」が紛れ込んでいた可能性は無いとは言えませんが、スティーグリッツの性格から推察して、私は「それは無い」と思います。「泉」を撮影した後のスティーグリッツは「リチャード・マット事件」でデュシャンに填められたことを理解しています。彼の几帳面な性格から推しても、ゴミと一緒に廃棄したり無自覚に紛失することはあり得ないと思うのです。デュシャンは撮影後すぐに「泉」を引き取り、どこか適当な段階でそれを処分したと考えるのが一番妥当な気がします。「最初の便器はどこに行ったのか」という疑問は、なかなか興味深いミステリーだとおもいます。デュシャン研究者たちはいろいろ細かなことを調べています。「泉」の便器が一体どこの製品なのかはほぼ確定されています。J. L. ムット・アイロン・ワークスの製品だろうと言われています。1917年当時はこの会社のショールームがアップタウンにあったそうで、これが1914年の商品見本カタログです。使われた便器も「パナマモデル」という1908年頃のものか「839Y」という1902年モデルかのどちらかだろうということです。1966年のデュシャンのインタビューを聞いてください。ここではアーモリー・ショーのとき、便器がどうなったかを彼が語っています。「ああ、あれはパーティションの間に放置され、展覧会が終わったときには無くなっていた」とはっきりと語っています。デュシャンは偽の手がかりを残すのが本当に上手な人です。

アレンスバークのサークルはニューヨークのエリート知識人の集まりでした。その中心はデュシャンであり、そこでは言葉遊びや、知的なゲームが繰り返されていました。何事かについて(それが無意味なものでも)語ることが出来ることは、知性の証明のような空気があったと思います。「リチャード・マット事件」は知識人のこうした脅迫感にも便乗したのだと思います。時代は異なりますが、ウディ・アレンの映画『マンハッタン』(1979)のニューヨーク近代美術館でのシーンを見てください。ここで1970年代のニューヨークのインテリたちの美術に対する非常におもしろいやりとりが出てきます。自分では理解できないモダンな美術作品について神経症的に言葉を垂れ流すアレン、それに対応するように、相手の主張を全て否定し、相手が嫌う作品を褒めていくダイアン・キートン。こうした一種の神経症的言語ゲームが、1970年代後半からニューヨークの美術館やギャラリーの現場で起こっていた時期があります。たぶん、アレンスバークのサークルの空気も、これと似たものがあったと思います。
「泉」においてデュシャンが何を成したのかを単純化すれば、「便器を日常の文脈から引き離して、美術という文脈にそれを持ち込んで作品化したこと」と言われています。では美術作品とはどういうものかを考えてみます。おそらく古典的な意味での美術作品はこの図の関係式に近いと思います。つまり、作家や美術家がいて、その奥深い思想や観念を本や美術作品の形にする。そして読者や鑑賞者は、本や美術作品という代理物を通じて、作者の意図や思想や観念を自分の中で再現する。どこまで忠実に再現できるかによって、読者や鑑賞者の善し悪しが決まるという関係、これが古典的な関係項ですね。ではデュシャンの場合はどうなのか考えてみます。デュシャンが便器を美術の文脈に持ち込んだ時、実は彼はそこには何の思想もメッセージも込めていないのではないか。空っぽの事物でしかない状態です。美術展という約束事の中に投入することによって、美術作品という形式だけを獲得した空っぽの事物、つまり、なにも書かれていない白紙の本のようものだと思うのです。要するに、デュシャンのレディメイドには解読すべき内容はもともと何もない。鑑賞し解読する人がそれについて語り、記述する、言説を重ねることで作品が内容を獲得し豊かになっていく。つまり、レディメイドは何も内容がない(書き込み可能な)白紙の本で、それに書き込み、意味づけ、内容を創り出すのは鑑賞者や解読者と考えてみたらどうでしょう。デュシャンのあの便器を「泉」という美術作品にしているのは、実は作者のデュシャンではなく鑑賞者ではないのか、ということです。この関係は美術作品とは言えないかもしれませんが、古典的な美術作品とは全く次元の異なる関係項ではないかと思います。つまり、作品を媒介として鑑賞者が作者と明らかな共犯関係を結ぶ、そういう作品創作の可能性がこの時に作られたのではないかという気がします。この関係項と構造は、現代の様々な局面で創作活動を透視しているような気がします。私はデュシャンのレディメイドを、書き込み可能な白紙の本、【オープンテキスト】であると考えるようになって、レディメイドを人前でとても語りやすくなりました。

再び1913年に戻ります。1913年はおそらく19世紀的定義での近代と20世紀的定義での近代との間に亀裂が走った年だと言いました。象徴的な事例としてボーアの「原子模型」を考えてみましょう。ボーアの原子模型はラザフォードの模型とどう違うのか。原子核の外を電子が非常に安定した軌道で、太陽系の惑星のように回っているというのがラザフォードの原子模型で、19世紀的物理学の成果です。ボーアの模型は、発光とかエネルギー変異を伴い電子が軌道を変えるというものです。つまり、電子の軌道は一定ではなく移動するので、電子の位置はこの図の雲のような形でしか表現できない。電子の位置は確率論的に存在する可能性であり雲のような状態でしか図示できないのですね。これは明らかにニュートン力学とは全く別次元の物理の世界に入ったと思うのです。たぶんデュシャンのやったことというのも、古典的な美術から全然違う位相の時空間、たとえて言えば、美術における量子物理学的な世界を示したのではないかと思います。作品の意味や在り方は、確率としての可能性でしかなく決定事項ではない、鑑賞者や解読者によって観察され語られた時に初めて作品が成立する、そういう関係項をデュシャンは示したのではないかという気がします。
デュシャンが行なったことを本来の文脈から剥奪して別の文脈に移すという行為が、そんなに異常なことかどうかを考えてみます。1929年にニューヨーク近代美術館が設立されますが、これは従来の美術館や啓蒙主義の美術館とは異なる新しいシステムでした。ではこの近代美術館というシステムは何を行なってきたかというと、美術作品が本来所属していた文脈から美術作品を切り離し、四角い箱(ホワイトキューブという空間)の展示室の中で本来の意味を漂白し、それを再配列して【近代美術史】という新しい物語として編纂していく作業であったと言えます。漂白するとはどういうことかというと、それは意味をゼロにするのではなくて、本来持っていた重層的意味や関係性を整理し、作品を単語のレベルにまで抽象化することです。だから近代美術館というシステムではコレクションが必須となります。コレクションとは作品の集積であり、意味単位の集積であり物語を語るための単語の集積ですね。多数の単語が集まり、それを組み合わせることによって展示室の中に物語が生まれる、それが近代美術史という物語なのです。これをデュシャンの文脈の剥奪と移し替えの行為と、罪の大きさはさほど違わないのではないでしょうか。近代美術館システムは制御された単一の物語を試行し、レディメイドはそれ自体が単語や言説を吸引するシステムとして機能し、複数の曖昧で多用な物語の生成を志向していると言えます。でも両者は【近代】という平面の表裏の関係、レディメイドは近代美術館システムの【影】のような気がするのです。
この図はニューヨーク近代美術館の1983年の改修工事後のコレクションギャラリーの平面図です。これはシーケンシャルアクセスといわれる非常に巧妙な展示システムです。入口から鑑賞者が入ってくると、後期印象主義から始まり、移動しながら、キュビスム、表現主義、未来派、構成主義を通って、さらにマティス、カンディンスキー、ピカソ、シュルレアリスム、ミロという形でひとつしかない出口へと動かされていく。鑑賞者は線的な動きを強制され、否応なく、近代美術史という物語を頭の中に生成していく。これが近代美術館のシステムです。これが巧妙なのは、白い四角の部屋の連続する空間があれば、世界中のどの場所でも同じ物語が再現できる、その意味でとても普遍的な言説装置なのです。みなさんは美術史の流れを線的で発展的な歴史という形で学ばれたと思います。これは近代的な歴史観ですね。マルクスまで持ち出したいような、世界は線的に変化し発展していくという歴史観です。近代美術史、近代美術館の制度はこれに寄り添っています。デュシャンが示したのはこれとは違う別の位相、例えばボーアの原子模型のような確率論的可能性の世界、物語は単一ではなく多数の物語があり得るという世界だと思います。ただ両者の関係は【近代】という平面で背中合わせの関係です。









これは私が80年代の美術を説明するのによく使う自作のチャートです。美術史を線的で連続的な発展史観ではなくて、フラットな状態に置いてみました。一種のオブジェクトデータベースのようなものと考えてください。このデータベースには任意の検索語で外部からアクセスします。例えば、文化多元主義とかフェミニズムとか、検索語は決してひとつではないし美術と直接的な関係が無くても良い、そして検索結果は美術史の外部に出力される。私がこの図で言いたいことのひとつは、80年代以降の現代美術といわれている作品の良質なものは、従来の美術史の延長の枠組み、発展的な歴史観で解読しても何も理解したことにならないのではないかということです。そうした作品においては、実は物理的な部分はほとんど重要ではない。諸要素は線的連続でも階層的関係でもなく、等価な状態で併置されている初期設定を肯定するなら、その作品と鑑賞者や作家はどのような関係項にもなり得ること、自分の立ち位置は可能性として何処かに観測されるのだということを受け入れる心の状態、関係性との共犯関係の自覚のようなものが重要なのではないかという気がします。ここで私が説明しようとするものは、20年以上前に大塚英志が『物語消費論』(1989)の中で行なった分析にとても近いような気がします。『キャプテン翼』という人気漫画がありましたね。80年代の同人誌の世界では、『キャプテン翼』の状況設定と登場人物をそのまま使いながら、本編の作者とは無関係に勝手に不特定多数のアマチュア作家たちが、本編では描かれなかったサブストーリーをどんどん描き、同人誌の世界で流通させていくという現象がありました。『ガンダム』にも同じようなことがあったそうです。これはパロディーか模倣なのか、あるいは【コピー】なのか、どう評価すべきなのでしょう。大塚英志は、他人が創り出した世界観を前提として模倣(プログラムの共有)して、非オリジナルな物語設定の下で、本編の物語世界を補完するサブストーリーの制作を、極めて創造的で生産的なものと評価しています。こうしたサブストーリー創作の活動に現代では「二次創作」という言葉を充てているようです。言うなれば、これはOSを共有した上で、アプリケーションのレベルで不特定多数の人が自由な創作行為を行なっている状態だと思えます。デュシャンの「泉」が示唆する関係項は、この状態にとても似ていると言うのは強引でしょうか。
次にお見せするクリップは2009年にテート・リバプールが行なった興味深いワークショップの模様です。テートのコレクションの中から作品を選び、美術館からリバプール市内の適切な場所に運び出して一日だけ展示するプロジェクトシリーズのひとつです。この場合はデュシャンの「泉」(1964年シュヴァルツ版)をリバプール市内のとある公衆便所に運び込み、人数を限定して招待された一般人が「泉」を中心に取り囲んで自由に語るワークショップです(別の見方をすれば、本来の文脈から美術の文脈に強引に移された事物を、本来の文脈に戻してみる=この場合は便器を然るべき便所という場所に戻すという、とても捻りのきいた挑戦的な試みです)。招待者の発言は美術作品としての便器を肯定する方向へ収斂していきます。美術館から公衆便所に場所を移した便器の美術作品「泉」は、ホワイトキューブの支援が無くなっても20世紀を代表する美術作品として受け入れられたようです。それほど強烈に、広汎に、デュシャンOSは私たちの意識の中に刷り込まれてしまったのかもしれません。またこのクリップは、美術館のエデュケーションプログラムが避けがたく内包する滑稽さとおぞましさをよく伝えていると私には思えます。





Top: Tate Liverpool, 3 Minute Wonder: Marcel Duchamp "Fountain" (2009). Bottom: 初音ミク バーチャルライブ「Packaged~恋スルVOC@LOID~ワールドイズマイン」(2010)

最近の例、といってもみなさんにはもう陳腐な話題だろうと思いますが、【初音ミク】をご存知ですね。VOCALOID2というエンジンを採用した音声合成ソフトウェアで、初音ミクという名の女の子のキャラクターが設定してあります。キャラクター画像を使った創作活動は自由にどうぞという設定のためこのソフトは大ヒットし、このソフトのユーザーが創った膨大な数の初音ミクの動画と楽曲がネット上にアップされました。そしてまさにバーチャルアイドルとしての初音ミクが生まれました。しかしそれは、プロダクションが生み出したアイドルでも、突出して優れた作曲家やデザイナーやプログラマーという少数のクリエーターの手によるものではありません。匿名的な多数のユーザー、たぶん1万人を超える人が初音ミク関連の楽曲や動画の創作、その成長(洗練)課程に関与していると推定されています。あるプログラムを共有する形で、匿名的な多数が制作/創作に関わるという関係項は、創作におけるオリジナルとはなにかという古典的な問いに、またひとつ新しい形の問いを加えるだけではなく、現代の創作についての新しい形の可能性も示しているような気がします。今お見せしているのは初音ミクのコンサートの様子です。ホログラフィを使ったステージの映像にバックバンドがライブで伴奏を付けています。ステージを囲み熱狂的にスティックキャンドルを振る大観衆、この中の何人かは初音ミクの成長の一部に関わっている可能性があります。アプリケーションレベルで創作に関わることのできる関係項、私/彼らの関与が、空虚な仮想アイドルを、さらに歌唱力が高い、より美しいアイドルへと成長させていくという関係は、これはデュシャンの「泉」と鑑賞者の関係と重なり合うものがあります。

デュシャンにはとても重要な作品がもうふたつあります。「大ガラス」と呼ばれている「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」(1915–23)、そしてデュシャン最後の作品といわれる「1. 水の落下、2. 照明用ガス、が与えられたとせよ」(1946–66)のふたつで、両方ともフィラデルフィア美術館に所蔵されています。このふたつの作品についてアメリカの研究者と同等のレベルで語ることのできる日本人研究者も何人もおられます、チャンスがあればぜひこうした方々の講演を聴いてください。デュシャンはふたつの作品のためのメモを大量に残しています。数年前に日本語訳も出ましたので機会があれば読んでみてください。ただし、デュシャンは手がかりをいっぱい残していますが、誘導的手がかり、素直に信じていいのか不安になる手がかりが時々あることも覚えておいてください。

デュシャンの「泉」にまつわる謎はまだまだあります。デュシャンの便器がなぜ90度寝かせて展示されるのか、これも話し出したら切りがないし私の手に余ります。最近、20世紀初頭のモット(Mott)金属製造会社のカタログが詳細に調査されて、その中にこのようなカタログ写真が見つかりました。ここに掲載されている水飲み機には「Fountain」というタイトルがついています。はたしてデュシャンはこのカタログを知っていたのか、知っていたと研究者は考えています。とすれば「泉」という日本語タイトルは「噴水」に変えるべきだという、30年前から一部で主張され続けている議論が復活します。また、水を飲む女の子の姿が妹のシュザンヌに似ていると思わずにはいられません。デュシャンの作品を解読する手がかりに妹との関係を持ち出すのはなかなか興味深いところですが、これも私の手に余ります、語る能力がありません。これは、デュシャンが1963年にアメリカで最初の大回顧展をパサデナ美術館(現ノートン・サイモン美術館)で行なったときのスナップ写真です[注7]。いつもは本当に難しい顔をして写るデュシャンが穏やかに笑っている珍しい写真です。「私のやったことはみんな嘘です」と言っているように思えて、なかなか好ましい、気に入っている写真です。
あらためて驚かされるのは、デュシャンが1917年に便器の「泉」、「リチャード・マット事件」を起こした時、彼は29歳9ヶ月の若さだったことです。優秀な数学者と同じように、デュシャンは20代でほとんどやり尽くしてしまうタイプの才能だったのだろうという気がします。最後にデュシャンの墓の写真です、墓碑銘は「されど、死ぬのはいつも他人」と書かれています。



Left: J. L. Mott Iron Works, "Puro" Drinking Fountain (1912). Right: Duchamp's grave in Rouen, France


注1 フィラデルフィア美術館所蔵「Paradise (Adam and Eve)」(1910–11) http://www.philamuseum.org/collections/permanent/51462.html?mulR=22180|42 「The Chess Game」(1910) http://www.philamuseum.org/collections/permanent/51656.html?mulR=23856|62 など。
注2 フィラデルフィア美術館所蔵「Nude Descending a Staircase (No. 2)」 http://www.philamuseum.org/collections/permanent/51449.html
注3 「The Arensberg apartment, c. 1918, photographed by Charles Sheeler」参照:http://www.acsu.buffalo.edu/~jconte/Armory_Show.html
注4 「Katherine Dreier and Marcel Duchamp」参照:http://www.nyartbeat.com/nyablog/2009/02/love-passion-art-nyabs-top-ten-artists-who-do-it-together/
注5 「Figure 12: Photograph of Duchamp's Studio, 1917-18」参照:http://www.toutfait.com/issues/volume2/issue_4/articles/bailey/bailey1.html
注6 「Henri Pierre Roché, Marcel Duchamp’s Studio, c. 1916-18」参照:http://www.e-flux.com/journal/view/50
注7 「Marcel Duchamp taking a break from his chess match with Eve Babitz at his retropective at the Pasadena Art Museum, 1963」参照:http://www.cabinetmagazine.org/issues/27/durantaye.php




『フレンチ・ウィンドウ展:デュシャン賞にみるフランス現代美術の最前線』の関連イベントとして、2011年6月6日、森美術館にて行われた講演会、河本信治「デュシャンという物語の始まり」より



フレンチ・ウィンドウ展:デュシャン賞にみるフランス現代美術の最前線
会期: 2011年3月26日(土)– 8月28日(日)
会場: 森美術館
http://www.mori.art.museum/contents/french_window/



Lecture@Museumシリーズは、美術館で行われた講演を、関係者の協力のもと、ART iTが記録、編集したものを掲載しています。

2011年8月22日

『マイ・フェイバリット』展 関連企画 やなぎみわ×河本信治 対談(3)

3. 避難所としての美術館:はみ出すものをすくうこと / 個人的な物語を編み出すこと



撮影:林直

YM この『マイ・フェイバリット』展というのは、ものすごく個人的なタイトルかと。これは河本さんのフェイバリットですよね?

KS このタイトルに至るまでに、少し屈折した経緯があります。英語の【Index】という単語は非常に興味深い言葉で、辞書を見ると「蔵書目録」と同じウエイトで「禁書」という意味合いがあります。【インデックス】という言葉をいつか展覧会で使いたいなとは前から思っていました。今回の展覧会は美術館の分類項目がテーマの一つであり、「検索目録云々」というタイトルは構想の最初から考えていたのです。ところが昨年の秋に、息子の本棚に、『とある魔術の禁書目録[インデックス]』(鎌池和馬著、電撃文庫、メディアワークス)というノベルズを見つけました。これを読んだら面白いし構想もしっかりしている。知の集積・体系としての教会を象徴する【インデックスちゃん】と、平凡な男の子(負の能力だけ突出し、触れると解体不能なはずの知の体系としての衣装が崩れてしまう)という、象徴的なキャラクターが登場します。何が言いたいのかというと、【インデックス】という言葉には「検索目録」と同時に「読んではいけない目録」という両義性があります。『マイ・フェイバリット』展は私が直接収蔵に関わった作品を中心に構成するつもりでした。ところが準備の過程で、そのほとんどが分類項目【その他】に類別されていることに気付きました。分類化・系統化を基軸に置く近代美術館という制度の中で仕事を続けてきた人間にとって、【その他】という分類項目を積極的に運用することは、それ自体で自己矛盾を孕んでいます。「私は【正史】の近代美術館史の物語を書くことができません」と自分で言っているようなものですから。



やなぎみわ「次の階を探して I 」(1996) Cプリント 180×720cm 京都国立近代美術館蔵

YM ちなみに私の作品も【その他】に分類されていますよね。話はそれますが、私の作品は、昔ある日本の美術館で【資料】というところに入れられたことがあるんです。その美術館では写真作品は自動的に【資料】に入るそうなのです。つまり写真は美術作品ではなく資料であるということですね。私の24mの長さの作品、あれが【資料】に入ってしまったんですよ。面白いと思うと同時に、【資料】としてどのように保存されるのかということに興味を持ちました。

KS やなぎさんの作品はメディアとしては写真技法を使っています。当然ながら技法分類でいくと【写真】に分類されるでしょう。でも、「この作品は何を語ろうとしているのか」という視点に立つと悩ましい問題に行き当たります。その作品は極めて演劇的要素、社会文化史的言及の要素など重層的な解読が可能です。でも、私の誤解かもしれませんが、美術史自体について語ったり、美術史との連続性を求めているわけではない。仮に、そういう作品を【写真】という分類項目に入れたとします。写真という分類は、19世紀末から写真関係者が営々と積み上げてきた「近代写真史」という【正史】の物語があります。【写真】に分類することは、自動的に「近代写真史」に繋げられ、その価値体系に取り込まれてしまいます。すると、やなぎみわの作品が持つ重要な要素の多くが一挙に消し飛んでしまうことになります。私は当館の【その他】という分類項目は、先輩たちのこうしたことに対する【ためらい】から生まれたものだと理解しています。これは美術館の専門性に対する「怠慢」だという批判を覚悟した上での判断だったと思います。明快にし、闇を無くしていく作業の傍らで、曖昧なものをそのまま残すことは、時間を経て誰かまた別の見方をしたときに、きちんと大切なものを見つけてくれる可能性を残すことではないだろうかと私は思うのです。

YM 『マイ・フェイバリット』に展示されているほとんどの作品が【その他】なんですか?

KS ええ、ほとんどが【その他】ですけども、【資料】という項目も多く展示されています。いずれ【その他】に分類替えされていくような資料です。それからデュシャンのレディメイドについて、これだけは収蔵したときから意識的に【彫刻】という分類項目に入れました。デュシャンのレディメイドが一般的に了解されるのは、1917年のアンデパンダン展に彼がリチャード・マットという偽名を使い便器にサインして【彫刻】として出品した事件が契機となりました。この作品は組織委員会で出品拒否されて、会場の壁の裏に放置されいつのまにか無くなった、という物語として語られています。20世紀の美術史ではこれを【彫刻】として了解されている、そして当館は近代美術館である、だからデュシャンのレディメイドはあえて【彫刻】に留めるほうが良いと考えました。実際はデュシャン自身が出品拒否された便器を抱えて、当時のニューヨークでの美術のオピニオンリーダーだったアルフレッド・スティーグリッツという写真家のところに持ち込み、撮影を依頼しました。それが自費出版した『ブラインドマン』という雑誌に収録されています。スティーグリッツのこの写真が、唯一デュシャンのオリジナルの便器の姿を残す写真なのです。その後たぶんデュシャンは、この便器を捨てたのだと思います。デュシャンはこういう自作自演で、神話というか偽の物語を作るのが極めて巧みな人です。20世紀の美術史、近代美術史の骨格の半分が、デュシャンの詐欺師同然の、一種のパフォーマンスによって構造化されているというのはとても面白いパラドックスと言えます。デュシャンのレディメイドは【その他】に分類しても良かったのですが、当館は近代美術館であり私はその中の職員だという枠組みの中にあります。この限界内に自覚的に留まることは、放棄できないデフォルトだと思います。


『マイ・フェイバリット』展 展示風景 撮影:四方邦熈 マルセル・デュシャンのレディメイド(全13点)と森村泰昌「だぶらかし(マルセル)」(1988)

YM そこが、一番の始まりですよね。そのデュシャンの壁というものが現代美術の作家(もちろん研究する人にもあるでしょうが)にとって乗り超えられない壁としてあって、結局なんかそこに戻ってします。そこでレディメイドを【彫刻】に分類するか【その他】として理解するかっていうのは、きっと作家それぞれの考え方があると思いますが。

KS 美術館員にも同じジレンマがありますね。さっき言ったみたいに、美術館員は【近代美術史】を参照することを当然のように求められるわけですが、一方で、作品を知れば知るほど、【正史】から外れた物語を見つけていきます。了解された、普遍的な「近代美術史」ではなく、個人的な、「とある美術の物語」を語りたい衝動を抱えていると思います。
展覧会の副題、『とある美術の検索目録』について少し補足説明をさせてください。デュシャン的に言えば、言葉というもの、単語はレディメイドであり、これにオリジナリティは無い。既製品である単語を組み合わせた文章、そこから生まれてくる物語にオリジナリティが主張されるわけです。でもナム・ジュン・パイクが60年代に初期のコンピュータ、電子演算装置を使って、五・七・五の音の組み合わせを全て出力した作品を作りました。そして、「私は全ての俳句を書き尽くした」と宣言しています。私はこれを、近代以降のオリジナリティ信仰に対する無効化宣言の一つの形だと理解しています。それと同じような意味で、展覧会のタイトルにオリジナルを主張することはなかなかに難しいのです(商標登録という手段がありますが、それはビジネスの領域に属します)。すでにお話ししましたが、展覧会タイトルとして【インデックス】という重層的単語を使いたかった、そして【正史】ではない、「とある美術の物語」についての可能性を考えてみたかった、という二つが重なり、『とある美術の検索目録』というタイトルが自然に生まれてきました(『マイ・フェイバリット』展の目的の一つは、分類項目【その他】に含まれる作品目録を作ることでした)。これが若者の間で人気のあるライトノベル/コミック、鎌池和馬の『とある魔術の禁書目録[インデックス]』とほとんど同じに見えてしまうことはとても悩ましかったのですが、デュシャン的援用、あるいはシュールレアリズム的デペイズマンを意識して、非難されることを覚悟であえて当初の方針どおり使うことに決めました。剽窃ではないという自信の上で、「パクリじゃないか」と問われれば、「はい、パクリです」と言い切る覚悟を決めて使ったわけです。私はこれは、一つのゲームとして許されるのではないか、と確信を持って居直っております。

YM そういうことを書いていただきたいんですけどね。

KS カタログに序論として書いたつもりですけどね。この序論、美術館のホームページに早い時期からアップしています(注2)。『マイ・フェイバリット』展では、スタッフの尽力によるHPとツイッターの運用が絶大な効果をあげ、副題に対する疑問への対応はほとんどこれが果たしてくれました。ある人がとても上手な表現で感想を伝えてくれました。「これは近代美術史の外伝を自分でみつけてくださいという展覧会ですね」、と。この展覧会の物語構造は、大塚英志が『キャプテン翼』で分析している形に近いと思います。高い人気を誇る【正史】の『キャプテン翼』があって、それから派生的に同人誌などから生まれてきたサブストーリー(いまでは二次制作という言葉が普通に使われてようです)を思い起こしてください、その範疇にあると思います。だからこの『マイ・フェイバリット』展を見るということは、近代美術史の外伝を自ら紡ぐこと、それこそ「とある美術の物語」→「個人的な物語」→だから一人称「私の物語」→「私の好きな物語」→「マイ・フェイバリット」、こういう繋がり方によって展覧会の題名は構成されています。

YM あのサブカルチャーのサブストーリーと……、ちょっとあまりにもかけ離れすぎていて、みなさん混乱されるかもしれません。実際のサブカルのサブストーリーというのは、サブのサブであって巷に溢れているものですし、近代美術というそもそもの物語を否定するところから始まっているようなところがあるので、みなさん、一体それはどういう事なんだろうって、頭の中がクエスチョンマークになったかもしれません。ただ近代美術のマイ・フェイバリットな物語をみんながそれぞれ作れるんじゃないかと、その一例として、この展覧会があるということでしょうね。

KS そうです。だからこのカタログには検索のキーが何通りか仕込まれています。ちょっと複雑すぎて説明できないですけれども、何度か繰り返し眺めていただければ、ああ、こういうコードが入っているんだというのを見つけていただけると思います。最低5つはあると思います。

YM みなさん2度、3度と言わず、4度、5度くらい展覧会に来て、それを見つけるというのも一つの優雅な楽しみといえるかもしれません。確かに、私は『ウィリアム・ケントリッジ』展は3回ぐらい観に来ましたが、3回見ても足りないですよね。実際にアニメーションということで非常に時間がかかったこともありますが、やはり展覧会というのはそういう風にして観るものだなと思います。この前のケントリッジでちょっと久しぶりにそのことを思い出した感じがしました。

(注2) 京都国立近代美術館ホームページ:河本信治「とある種別の検索目録、あるいは【その他】への誘い」
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2009/378intro.html

画像提供:京都国立近代美術館(対談風景、『マイ・フェイバリット』展)、やなぎみわ(「次の階を探して I 」)



『マイ・フェイバリット』展 関連企画 やなぎみわ×河本信治 対談 (全3回)

1. 出会いの場としての美術館:作家個人との出会い / 作品制作に立ち会う

2. パブリックスペースとしての美術館:美術館は開かれるべきか


マイ・フェイバリット——とある美術の検索目録/所蔵作品から
会期: 2010年3月24日–5月5日
会場: 京都国立近代美術館
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2009/378.html

2011年1月7日

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