『ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館』関連企画 ダヤニータ・シン講演会

東京都写真美術館は総合開館20周年記念として『ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館』を開催。現代社会のさまざまな問題を示唆するとともに、写真や写真集のメディアとしての新たな可能性を切り拓く写真家、ダヤニータ・シンの初期の代表作から最新作までの幅広い表現形式を通じて、その詩的な美しい世界を展示空間に実現した。

本稿は2017年5月20日に実施されたダヤニータ・シンによる講演を東京都写真美術館の協力のもと、ART iT編集部が編集、掲載している。

 


〈ミュージアム・オブ・チャンス〉より 2013年

 

『ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館』関連企画 ダヤニータ・シン講演会

 

まず、私自身の極めて主観的かつ個人的な写真史の話からはじめましょう。私にとっての写真史は1843年、私が写真の母とみなしているアナ・アトキンスからはじまります。彼女はトルボットから写真を学び、また別の人物からサイアノタイプを学びますが、その後、自分自身で何かをつくりだすべく、写真を創造的な領域へと持ち込んでいきました。実際、1943年に彼女は写真史における最初の写真集『Photographs of British Algae』を刊行しました。これは誰もが認める事実ですね。彼女はイギリスの海藻のサイアノタイプをつくり、13版の写真集を作成しましたが、各版をつくるたびに新しいイメージを付け加え、デザインだけでなく、写真集の販売も彼女自身が手がけていました。彼女は写真をロー・マテリアル(素材、材料)として使うアーティストだったと言えますね。

続いて、私の人生に大きな影響を与えたもうひとりの女性、母親のノニー・シンのことを話しましょう。母は写真アルバムに取り憑かれていて、子どもひとりひとりになんらかの出来事があるたびに撮影した写真でアルバムをつくらねば気が済まない人でした。彼女のつくったアルバムには、ネザーソープ侯が父の経営していた農園に視察に訪れたときの写真や彼女自身の結婚式の写真が入っていて、ほかにも、妹のアルバム、漁師のアルバム、家族のアルバムなんかがありました。もちろん、私のアルバムもあります。長女だったので誰よりもたくさんの写真を撮られました。母は撮影した写真を額装して壁に飾るだけでなく、アルバムにまとめたり、テーブルのガラスの天板の下に入れて、それを常に入れ替えたりしていました。このように母は写真の持つ触覚的な要素に気づいていて、私も写真とはそういうものだと思いながら育ちました。

 


Left: Anna Atkins Cystoseira ericoides (1843). Right: Anna Atkins Polysiphonia violacea (1843). Both: In “Photographs of British algae, Part I” (1843). From The New York Public Library


〈リトル・レディーズ・ミュージアム−1961年から現在まで〉2013年

 

母は父と結婚したときに家のあちこちからたくさんの女性の写真を見つけたそうです。それらの写真を使って母は父のためにアルバムをつくり、「ノニーと結婚するまでのガールフレンド……だと願っています。ここにあるすべての写真はぞんざいに箱の中に捨てられていました。少しは写真に敬意を払いなさい!1960年)」と表紙に記しました。私は母が撮影し、父が彩色した父の写真をずっと自分の部屋に飾っていました。母はバングラデシュ出身で父はパキスタン出身だったので、結婚なんて到底許されないことだと思われていました。母は父のためにつくったそのアルバムの各写真の裏に「(誰それは)ドイツ大使と結婚したけど退屈そう。私の夫と結婚していたらもっと幸せだったのに」などと記していました。そして、母はアルバムの最後のページに自分自身の写真を選んでいますが、おそらく自分こそ父が生涯最後に愛した人だったということでしょう。少なくとも私が生まれてくるまでは。母は彼女自身の母親の写真も撮影しています。母は7歳のときにボックスカメラをもらってから、その虜になり、バングラデシュがインドから分離独立するときでさえ、カメラを手放さなかったそうです。ほかにも、母は警察官だった彼女の父親も撮影していますが、母親を父親そっくりの格好にして、男装の麗人として撮影した写真も残っています。

母にとって、私は理想のモデルでした。どこへ出かけるわけでもないのに、母はただ撮影のためだけにさまざまな衣装を私に着せました。母の撮影は気が滅入るくらい時間がかかるもので、カメラはマニュアルフォーカスですらなく、歩数でピントを調整し、7歩後ろに下がっては画角を調整して撮影するといった具合でした。子供時代は美しい思い出ばかりですが、母に写真を撮られることだけがトラウマでしたね。毎年クリスマスには聖母マリアの格好をさせられて、「これがイエス様よ」とわけもわからず人形を渡されていました。また、私を楽しませようとしていたのか、父を楽しませようとしていたのか、カシミール地方の少女の格好もさせられました。要するに、母は彼女自身のファンタジーを私に投影していたのではないでしょうか。一方、妹は運悪くいつもビクトリア女王の格好ばかりさせられていましたね。妹ももう大人になりましたが、いまでも母に写真を撮られることがあるなら、ビクトリア女王の格好をさせられるに違いありません。

 


〈ダイム・メジャーズ〉2016年 展示風景

 

こうしたことは、父がまだ元気で生きていた頃の話で、あの頃は誰でも好きなだけ泊まっていけるように部屋もベッドもたくさんある素敵なあたたかい家庭でした。しかし、母が42歳のときに父が亡くなり、私たちの生活は訴訟だらけになってしまいました。というのも、男性が遺産を受け継ぐと考えられているので、私たち四人姉妹は遺産を相続できないのではないかと心配されて、数々の訴訟を起こさねばなりませんでした。あの頃はダイニングテーブルの上やベッドの周りも書類だらけ、18歳の私も大量の書類に囲まれて生活していました。とりどりの衣装の着せ替え生活から、書類だらけ訴訟だらけの生活へ。母はさまざまな書類をそれぞれ色のついた箱に入れたり、ひもで束ねたりして纏めていきました。昨年、私はそれを使って本展にも出品した「タイム・メジャーズ」(2016)という作品を制作しました。本展を準備する中で見えてきた作品同士のさまざまな連想や繋がりに刺激を受けて、「タイム・メジャーズ」の写真をゆっくり動かしてみたらどうなるだろうかと、「COファイルズ」という映像作品を友人の助けを借りて制作しました。

「COファイルズ」は、本展では2階のミュージアム・ショップの前で上映している「モナ・アンド・マイセルフ」の後に制作しました。「モナ・アンド・マイセルフ」では、これまでにモナを撮影したどの写真よりも、ぎりぎりのところまで自分がモナに近づけたように感じました。そこで、私はさまざまなシリーズからある共通点を持つイメージを集めることで、同じようにぎりぎりのところに行き着くことができないだろうかと模索をはじめました。同時に、私の人生の一部であるモナへ感謝の想いを捧げたいと感じたり、私のアーカイブはモナの一部であり、アーイシャの一部でもあるのだと気づいたりすることになりました。この展覧会のおかげで、このことにはっきりと気がつくことができました。どこか人生のかなり早い段階から明らかに設定されていたテーマとして、このような関係性があり、方法や形式を変えながら何度も取り組んできました。写真をはじめた頃からアーカイブの構築を続けてきたにもかかわらず、2011年頃までそのことに気づいていませんでした。書類などを束ねたり、布に包んだり、アーカイブは私の制作の大きな比重を占めていて、何度も繰り返し表れてくるもので消えてなくなることはありません。アーカイブは常に存在しています。「モナ・アンド・マイセルフ」と同じように、この「COファイルズ」も存在をしっかりと実感できるところまで私を連れていってくれるのではないかと思いました。写真をただ見るだけではなく、写真に耳を傾けること。編集において、調性(トナリティ)は作品全体をまとまりのあるものに仕上げてくれます。それは本展に出品している「ミュージアム・オブ・チャンス」にも表れています。

 


〈モナ・アンド・マイセルフ〉より 2013年


〈リトル・レディーズ・ミュージアム−1961年から現在まで〉2013年 Photo by Nony Singh

 

これまでに私はこのアーカイブを使って、本や「美術館」、プロジェクションの作品を制作し、さまざまな場所で発表してきました。アーカイブは現在も増え続けています。毎年新しいテーマが浮かんでくるわけではないし、その必要もないと思っていて、私の場合、同じ作品が常に成長を続けているという感覚があります。ですから、アーカイブは私が死ぬまで続くと思いますし、モナも私か彼女のどちらかが死ぬまではいっしょにいるし、アーイシャもそうですね。普段よりも個人的な作品の語り方をしていますが、それというのも、この展覧会自体がこのような作品の繋がりを私にはっきりと気づかせてくれたからでしょう。あるアーキビストのもとに撮影許可をもらいにいったとき、自分がアーカイブのことを真剣に考えていることをわかってもらうために、ジョゼ・サラマーゴの小説『あらゆる名前』のことを話したり、おとり捜査などではないことを伝えたりしました。すると、アーキビストの彼女は「知のモニュメントをつくりたいということですよね。どうぞご自由に」と言ってくれました。こうして、アーカイブを扱うアーキビストの存在も私の構想する「美術館」における極めて重要なものになりました。ほかにも、2011年以降に訪れた日本での出来事も重要ですが、それについては後で触れたいと思います。もしかしたら、私がちょうどそういうことを考える年齢になっているのかもしれません。いろんなことが渾然一体となり、ある作品が別の作品へと浸透し、何か別のものへと変わっていくような。

先ほども話しましたが、母は私の写真をたくさん撮りました。ちょうど15歳になる私とモナを撮影した写真も残っていますし、デザイン学校に向かう私を撮影したとき、母は誇らしげに「私の影をあなたに重ねてみたの」と言ってきました。生後半年ほどの頃の私の写真もありますが、このとき母は私を長椅子の上に置いて撮影しました。転げ落ちて大怪我するかもしれないのに、オベロイ・ホテルのプレジデンシャルスイートに泊まった証拠を残したかったのではないでしょうか。こうして考えると、私が制作した最初の「美術館」シリーズのひとつが「リトル・レディーズ・ミュージアム」になったのは当然かもしれません。そこには母が撮影した私や妹たちの幼い頃の写真と私が撮影した女性の写真が纏められています。

 


installing little ladies museum at TOP museum, from Dayanita Singh Studio

 

「美術館」シリーズについて、どのように写真をひとつの「美術館」に纏めているのか、どのように「美術館」を実際の展覧会場で開館しているのかについて話していきましょう。本展に出品している「リトル・レディーズ・ミュージアム」を例にあげますが、まず、あの構造物はいろんな方法で開いたり閉じたり、いつでも好きなように写真を入れ替えられる形式を見つけることが大事でした。また、美術館には実際に展示している作品のほかに、展示していない収蔵作品が必要です。そこで重要なのは、さまざまな異なる組み合わせが可能な集合体を編集することでした。『Museum Bhavan』の本をつくるとき、「リトル・レディーズ・ミュージアム」に「ミュージアム・オブ・タイム」という新しい名前を思いつきました。私の「美術館」だから、いつでも好きなときに名前を変えることができるのです。このような構想のきっかけは、日本に滞在するときに友人に案内してもらった京都の旅館にありました。そこでひとつの空間が幾様にも変化するのを見つけました。「セント・ア・レター」は本を展覧会にするという試みで、さらに、本棚に置くだけでなく、どこへでも持ち運べるという可能性を追求しましたが、「美術館」の構造物をつくるにあたり決定的だったのは、やはり、この京都での経験でした。

「リトル・レディーズ・ミュージアム」の写真は、何人かの女性たちの長い歳月を記録しています。今でも関係が続いている女性もいるので、そのうち「リトル・レディーズ・ミュージアム」の別のバージョンができるかもしれません。この「美術館」には、モナが養女にしたアーイシャの写真もありますし、アーイシャが養女になってから15年くらい経った頃のモナとアーイシャがいっしょに写った写真もあります。今回の展示では、「マイセルフ・モナ・アハメド」の写真を見て、振り返ると「リトル・レディーズ・ミュージアム」の中にもモナがいて、「ミュージアム・オブ・チャンス」の中にもモナがいるという感じが面白いですね。アーイシャやほかの女性たちも「ミュージアム・オブ・チャンス」だけでなく、「リトル・レディーズ・ミュージアム」の中にも入っています。本展キュレーターの笠原美智子さんの卓越したキュレーションによって、このような対話が生み出されたことに感動しました。時間をかけて見ることで、最初に見たときよりもはるかに多くの繋がりを展示の中に見出せるのではないでしょうか。ほかにも、「リトル・レディーズ・ミュージアム」には、アーイシャがちょうど二十歳になった頃の写真や、1984年頃から撮り続けているサマーラの写真などが入っています。サマーラは別のアーティストネームで夫のタルーとバンドをしています。たくさんの女性を子どもの頃から撮り続けていられるのはとても幸せなことです。自宅にも呼んでくれますし、今では友人になりました。みんなを訪ねて、何をしているのか見にいきたいですね。

 


〈マイセルフ・モナ・アハメド〉19898-2000年


〈私としての私〉より 1999年 京都国立近代美術館蔵

 

これは展覧会で「私としての私」として出品しているアシュラムの写真です。アシュラムを運営している従兄弟に誘われて訪問しましたが、子どもの頃にもよく父に連れてこられて来ていました。父はアシュラムの精神的に豊かなしつけの下で私に育ってほしいと考えていた様ですが、母は私がすでに都会生活によく馴染んでいたことや、娘と離れて暮らすことの寂しさから父の意見に抵抗しました。そんなこともあって、ここを訪れたときに、もしかしたら私はここに居たかもしれない、あの少女は私だったかもしれないと感じたのでした。1999年以来少なくとも年に一度は、このヴァーラーナシーのアシュラムを再訪しています。撮影させてもらった女の子の多くは今でもアシュラムにいるので、訪ねるたびに写真を撮っています。結局のところ、私が追求しているのは時間というものなのではないか、と。何度も同じ場所や人々を訪れたりして、なんとかして時間を留めておきたいと考えている。「タイム・メジャーズ」には、包み込んでいるものを守ろう、繋ぎとめようとしていると同時に、その布の赤い色彩が徐々に褪せていくという矛盾が表れています。時間を留めておくことは不可能です。しかし、私たちはそれを諦めないし、それは写真の持つ非常に興味深い矛盾のひとつでもあります。展覧会場の「私としての私」シリーズの中にジョディの写真がありますが、実は「ミュージアム・オブ・チャンス」の中にもその写真を抱えた女性が写っている写真があって、その女性もジョディなのです。おそらく15年ほど後に撮影したものでしょうか。数週間前にも彼女を撮影しましたが、アシュラムでの生活を続ける彼女も私の人生の一部だと言えるでしょう。

 


Museum of Chance, from Dayanita Singh Studio

 

「ミュージアム・オブ・チャンス」も、さまざまな形態に変化する構造物で、そこで展示する写真の組み合わせも変化していきます。一度に80点ほどの写真を展示することができ、構造物全体には約162枚の写真が収蔵されています。この「美術館」は展示空間であるとともに収蔵庫でもある。小さな箱型の額も入れてあって、作品を壁に掛けたいときに使うことができます。「ミュージアム・オブ・チャンス」はもともと自分のために制作したので、家の中に入るサイズだということは非常に重要です。また、先ほど話した小さな箱型の額だけでなく、家具もその中に収納できるものでなければいけません。「ミュージアム・オブ・チャンス」を制作するにあたり、家具が必要だと感じました。観客がただ写真を見るだけでなく、写真を読んだり、写真について話し合ったりするための場所が大事だと思っていたので。このように「ミュージアム・オブ・チャンス」は、そのほかの「美術館」同様、いや、そのほかの「美術館」を凌ぐ潜在的な力をはらんでいると考えています。

デリーのキラン・ナダール美術館で開催した約5カ月間の展覧会『カンバセーション・チャンバーズ・ミュージアム・バヴァン』(2015-16)では、できる限り「美術館」の写真を入れ替えるようにしていました。その空間に「美術館」が5カ月間もそこにあったからなのか、最終日にその構造物から写真を取り出したとき、その隙間を空っぽだと感じませんでした。そこで、「リトル・レディーズ・ミュージアム」にも出てくる友人とともに、何もないけれどなんらかの気配が残る空間を歩きながら携帯のカメラで映像を撮りました。そんなこともあり、イメージが何処かへ行ってしまった構造物というアイディアから「ミュージアム・オブ・シェディング」の制作をはじめました。それは自分にとって、生きるために何を必要とするのか、どれくらいのものを必要とするのかを考えることに繋がり、私はそれをイメージで満たしていくことにしました。やはり、私はイメージから逃れることはできませんでしたね。しかし、イメージをある種の建築として捉えたとき、そこには何かしらシェディングについて語るものがあると考えられるかもしれません。

 


講演会より

 

この写真には私の人生が集約されています。モナがソファに横たわり、フレームの左端に見えるのが母の手です。写真の上半分には、右から私のスタジオのベッドで寝ている女の子の写真、真ん中にはアシュラムでジャンプしている女の子の写真、左には82歳まで水泳のインストラクターを務めていたフェローザ・ヴァキルの写真が並んでいます。この3枚の組み合わせは展覧会では一度も見せたことがありませんが、長い間、スタジオにこうして飾っていました。ベッドで寝ている女の子は、ある意味私自身と言ってもいいでしょう。ひとりきりになりたいとき、私はいつもあんな風にしています。真ん中のジャンプしている女の子は、そうであったかもしれない私の姿。そして、右側の女性は私のなりたい女性の姿です。そして、もちろんモナは私を支えてくれた人であり、私がどうなりたいかに強い影響を与えてくれた人。必ずしも社会の一員になる必要はないというか、自分らしく生きていくことを教えてくれた人。ザキーム・フセインとの旅からもそうしたことを学びました。私の核となるものは写真ではなく音楽から来ていると言えるでしょう。彼は私のロールモデルのひとりです。そして、モナも、母もまたそのひとりです。この写真には写真が私の人生にもたらしてくれた経験がうまく表れていますね。制作をして、展覧会をして、本をつくる。私がやっているのはこういうことで、常に自分自身を駆り立てて、満足せずに次のことに挑戦しようと考えています。これもザキーム・フセインから学んだことです。

もう少しだけ時間があるので、『MUSEUM Bhavan』の本について話しておきましょう。「ミュージアム・オブ・チャンス」やそのほかの「美術館」を制作した後で、誰かを訪ねたときにそれを展覧会として伝えることができるような形式を探していて、「セント・ア・レター」のような蛇腹折りの小さな本が入った箱型の形式に立ち返ることになりました。それぞれの本が美術館とまではいかなくとも展覧会になる。私は常にこの本というオブジェをユニークなものにするためにどうすればいいかということを考えてきました。「ミュージアム・オブ・チャンス」の写真集を壁面に本の形式のまま展示できるようにしたり、スーツケースに入れて運びやすくしたりしてみました。そして、『MUSEUM Bhavan』では、まず製本に使う布のリサーチをはじめ、最終的に(インドの伝統技法の)ブロックプリントのインクを吸いとるために使われている布を選びました。その布を使ってそれぞれ異なる3,000個の箱をつくり、出版社のシュタイデルに送って、大量生産かつユニークなオブジェをつくることに成功しました。この本のプロジェクトと「美術館」シリーズが私の現在地をうまく表していると思いますね。

最後になりますが、笠原さんの叡智により、ゼラチン・シルバー・プリントの写真の時代、デジタルプリントの時代、「美術館」シリーズ、そして、この本の形式の作品という私のやってきたことのすべてを網羅した展覧会が出来上がりました。本当にありがとうございました。

 


講演会より|see the video about Museum Bhavan

 

 


 

ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館
2017年5月20日(土)-7月17日(月・祝)
東京都写真美術館
展覧会URL:https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2778.html

Lecture@Museumシリーズは、展覧会の関連企画として実施された講演を関係者の協力のもと、ART iT編集部が記録、編集したものを掲載しています。

 

 


 

ART iT Archive
ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館 @ 東京都写真美術館(2017年7月)
ダヤニータ・シン「円環するイメージの海を航る」(2012年2月)

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