「市井の山居」あれこれ 第三回

【第三回】 市井の山居と不東庵

銀座の喧騒の真ん中に、隠者の居を移した「市井の山居」も会期終了まで3週間を切りました。季節も、梅雨から真夏に近づき、草庵の趣もそれに応えるように変化しています。

今回は、銀座の「亜美庵杜」の様子のレポートに加え、細川護熙の山居、湯河原の「不東庵」の様子をご紹介します。

四方仏に飾られているのは食虫植物のサラセニア。遠い海を隔てた北米で生息している植物ですが、ユニークな形が唯一無二の茶室の雰囲気にぴったりです。

一輪差しから、何やら植物で出来た輪が下がっています。これは茅の輪というもので、文字どおり、茅の葉で作られた輪です。これは、1年のちょうど半分が過ぎた6月30日に飾り、その輪のなかを通って半年の厄をはらい、残りの半年の無病息災を願うというもの。夏越(なこし)の祓いと呼ばれる習慣です。この季節に神社に行くと、人ひとりがくぐり抜けられるような、大きな茅の輪を見ることができます。

毎週金曜日の午後には茶室「亜美庵杜」を使ったお茶会のデモンストレーションが開かれています。亭主がひとり茶室に入り、客人は縁側に座って目の前に広がる草庵の景色を見ながらお茶を飲むというスタイル。茶室の空間に人が入って初めて場が完成します。

このように、銀座の山居では、自然の移り変わりが随所に息づいています。このような時間の流れは主人、細川の本当の山居「不東庵」でも変わりません。苔のうえに一見無造作なかたちでたたずむ陶仏をはじめ、童子像や壺は、いつもは「不東庵」のどこかに置かれているものなのです。

細川護熙は60歳で政界を引退して以来、神奈川県湯河原町にある自宅兼工房、「不東庵」で制作活動を続けています。庵号となった「不東」という言葉は、昔、中国は唐の時代、三蔵法師が天竺に修行に出発するにあたって、仏法を極めることが出来なかったら、再び東方の母国の土を踏まないという彼の固い決意を表したもの。それ以来、決して揺らぐことのない強い覚悟をもって、何事にも打ち込むことを表す言葉として使われ、隠居生活という一見穏やかな暮らしの背後に潜む、細川の芸術への想いの強さを伺うことができます。

湯河原は神奈川県と静岡県の境目にある昔ながらの温泉街です。町の歴史に寄り添うように、「不東庵」の庭は、滾々と湧き出る温泉の蒸気でうっすらと曇っています。もともとは細川の祖母の持ち物だったという日本家屋の母屋の裏手には、その趣をよりいっそう引き立てるような藤森照信設計の工房と茶室があります。湯気の立つ温泉の源泉をぐるりと取り囲むように立てられた藤森建築は、ここ数年の間に建てられたにも関わらず、杉皮、銅版などの素材が奥湯河原の自然に心地よく同化して、細川の何物にも囚われない自由な制作活動の刺激になっているのでしょう。陶芸の工房の裏手には、ここ数年、頻繁に使っている絵画のアトリエがあります。ちょうど、薄暗い雑木林の影にひっそりとたたずむ小さなアトリエには、土の匂いと轆轤の音とはまた別の精神的な世界が存在します。

細川は、新聞記者、知事、そして政治家生活のさなかにあっても、ひと時も読書から離れることはなかったといいます。母屋にある書斎には名士による書がところ狭しと並び、夜、床に入るときも、布団に数冊の書を持ち込んではページを捲ることが習慣となっているとか。読書で得た言葉はやがて血肉となり、軸や書画、そしてさまざまな造形作品にまで昇華されていきます。

晴れれば土を耕し、雨が降っては書に親しむ。細川は生涯、晴耕雨読の生活を目標としてきました。「市井の山居」の終了後も、湯河原の「不東庵」では、日々移り変わる季節とそれに寄り添いながら、齢を重ねる一人の人間との静かな対話が行われていくでしょう。


■「市井の山居」あれこれ 第一回

■「市井の山居」あれこれ 第二回

「市井の山居」細川護熙展については↓

「市井の山居」 細川 護熙展

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