志賀理江子

聞き手:住友文彦(ヨコハマ国際映像祭ディレクター)

心が思い描くもう一つの確かな現実に飛躍する

写真と出会ったきっかけは、高校の体育祭で使ったオートフォーカスのコンパクトカメラでした。体育祭の後、数枚のフィルムが残っていたのですが、全部撮り終えてからでないと店に持っていけないと思って、机の上の様子をまずはそのままの状態で、次は置いてあったコップの位置を少しずらして、そしてその次もまた少し変えて……というようにフィルムが終わるまであまり何も考えず撮ったんです。

その後、店頭でプリントを受け取って、机の上を撮ったものを見て「あれ?」と思った。いつもの机の上の様子が何事もなかったように自然に写っているのに、そのいくつかは、私が置かれた物の配置を作為的に変えていて、作られた光景だったからです。しかもその「自然さ」を強調するかのように、サービス版の写真プリントという物体が「本当にあったことの証明書」のように手の内にあった。その一連の出来事が非常にショッキングで、それ以来、わけも分からずただひたすら感情的に写真を撮る行為にのめり込んでいった。そういう始まりだったので、どこかにカメラを携えて出かけて、何かを見つけて撮影する、というような事はほとんどなかったです。俗に言うセットアップの手法で、目の前の被写体と状況を作り込んでいく事に熱中して、それを天地がひっくり返るショッキングな秘密みたいに思ってました。

ちょうどそのころ思春期で、自分の身体が思うようにならず、また意志に反してどんどん変化していくことが苦しくてしょうがなかった。だから、そういった意味でも写真によってイメージを作り込む作業は、その苦しい身体から一瞬でも抜け出して、心が思い描くもう一つの確かな現実に飛躍できたように感じていました。写真じゃないと意味が無く、例えば「絵」だと直接的に手でイメージを描く事になるから、自分の身体とイメージの距離があまりに近くて気持ち悪かったので避けていました。きっと、どんなに被写体を作り込んでも最後にはシャッターのボタンを押すだけという、イメージに「突き離され、後に現実の証明として戻ってくる」ことが重要だったのだと思います。写真の中で起こっているイメージこそが私にとっての真実で、現実の生活が嘘だと思いこむような。もちろん、同時になにか良くないことをしているような後ろめたさもあった。子供から成長していく課程で、やっと見えてきた社会や現実を避け、コントロール可能な世界に浸っているような。


「jane’s shout」(『Lilly』より)


「Steven」(『Lilly』より)

〈Lilly〉は、そういった気持ちの延長線上にある写真です。自分の内にある凶暴な感情とひたすらに向き合うような作業で、撮影の間中、沢山の人と関わったのにもかかわらず、その関わり方が非常に一方的だったと思う。自分の住んでいたアパートのビルの壁に暗幕を垂らして、三脚を据えて、そこに実際に住んでいる人々をひたすら待ち続けて「写真を撮らせて下さいと」と頼んで撮影する。自分から半径10メートルの世界から出ることはなくて、身近にいる他者を写真に撮って、その写真に様々な(カッターで切ったり、穴を開けたり、光を当てたり、など)手を加えて、全く違う架空の人物にするような、残酷な事に今は見えたりもします。

写真を通じて社会と関わること

写真を始めた後、美大に行き、卒業して、展示をしたりしていました。ある時、キュレーターの方が展示に来て「こういうプロジェクトがあるんですが、やりませんか」という依頼を受けました。初めて写真を撮るということを「活動」としてやることになり、正直どうしたらいいんだろうと思った。日常生活ではなく、ある組織から制作費をもらい、期間を決めて「作品」を作りにあえてどこかに行く。それは今までとは全く違う写真との関わり方でした。それまでは、自分の内面的な作業で作られたものを展示したりすることにあまり意味を見いだしてなかったように思います。

なので〈Lilly〉と〈CANARY〉は成り立ちが全く違います。〈Lilly〉の時点で、写真は触らずしてその人の身体をイメージとして収めるという乱暴な部分があると気づいてはいたと思うのですが、とにかく自分がどうしようもなく抱える内なる暴力を、さらに身体の中にあぶり出すような事で、逆に気持ちを落ち着かせていた部分があった。だから〈CANARY〉の撮影が始まる前に、まずはその、自分の内側でひたすらに行なっていたイメージとのいたちごっこのような循環から解き放たれて、外と繋がるための「仕組み」を作らないといけないと思ったのです。ある土地に招かれたことが、自分がずっと問題としてきた「イメージ」が持つ別の可能性を探るきっかけになりました。

その土地へ深く入り込むための地図を作る

まず、自分が訪れる地域に、逆に導かれるような「地図」を作ろうと思い、「明るい場所と暗い場所はどこか」という質問をそれぞれの地域の住民の方々にしました。その答えに書かれた場所を、一つづつマッピングして旅のルートを作り、その道中で経験したことが後に行なわれる撮影の基盤になっています。でも、その時点で撮影の内容すべてを決めるのではなく、実際の撮影現場で予測不可能な出来事が起こるように、もしくは何か他の大きな現実が訪れてイメージの飛躍が起こるまで撮影を続けることが重要でした。私や被写体が、わざと作った仕掛けがきっかけになって、誰もが予想しない逆説が現実にもたらされて、コントロール不能なイメージがやってくる。そうすることで被写体との関係が、ただ「撮る、撮られる」だけではなく、お互いの意識が交わる事実になる。構成写真としてのイメージの持つ力が、外に向かってポジティブに示されるはずだと思いました。


「毛皮を着た人」(『CANARY』より)


「予知夢」(『CANARY』より)

ブリスベン、仙台、シンガポール……街の特性にはあまり興味を持てませんでした。都市はデジャヴみたいにどこか同じ匂いがすることがあるじゃないですか。だから、いきなり「あぁ、仙台に来た」という感じにはならない。沢山の都市を訪れると、その同じような光景に麻痺してしまう。歴史は図書館などでできる限りリサーチをしますが、それよりも、今どんな人々がどんな生活をしているかとか、どんな感情や記憶を持っているかが、私にとっては重要で、それは自分で探さないと分からないことでした。なので、出来上がった地図はそこへ向かうための、唯一の道しるべでした。

※上記は以下の新刊より、前半部を転載したものです。続きを含む全文は同書に収録されます

『DEEP IMAGES -映像は生きるために必要か』
横浜国際映像祭実行委員会=編 1800円+税 ISBN:978-4-8459-0938-4
フィルムアート社 http://www.filmart.co.jp/
11月上旬、全国書店にて発売(『ヨコハマ国際映像祭2009』会場各所にて先行発売予定)

しが・りえこ
1980年、愛知生まれ。宮城在住。『Lilly』はロンドン在住時に公営団地の住民にカメラを向け、そのプリントをさらに撮影した作品で構成されたシリーズ。『CANARY』は、仙台、オーストラリア、シンガポールで住民たちに取材し、導き出された「地図」をもとに、意図や作為を越えた何かをも捕獲しながら撮影していくフィールドワーク的試み。写真集『Lilly』『CANARY』の2冊で、2008年度木村伊兵衛賞を受賞。2009年にはNY ICPインフィニティアワード新人賞を獲得している。
http://www.liekoshiga.com

『ヨコハマ国際映像祭2009』での出展作:『カナリー』スライドショー
2007年に発表された代表的な写真シリーズを、今回はスライドショーという表現形式で展示。作家独特の、イメージ、現実感への向き合い方を写真展示とは異なるかたちで体験する場となる。
http://www.ifamy.jp/programs/single/432/

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