【アートサイト】
李禹煥美術館|柳幸典の犬島プロジェクト

2010年、注目すべき2つのアートサイトに日本で出会えたのは幸運だった。ここ最近の日本における現代美術の観光化、イベント化には飽き飽きしていたところだったので、そのように感じたのも当然のことだろう。皮肉にもそのふたつとは直島の安藤忠雄が設計した李禹煥美術館とすでに10年近く続いている柳幸典の犬島プロジェクトで、世界で最も騒がれたアートツアーのひと目的地のひとつとして位置づけられており、瀬戸内国際芸術祭のツアーの一部にも含まれていた。そうしたコンテクストにもかかわらず、このふたつは紛れもなく素晴らしいものだった。おそらく最も優れた安藤建築のひとつである李禹煥美術館は、ふたりの巨匠の親密な対話を通して実現したものであると同時に、抑制的かつ崇高なものの典型と言えるだろう。過疎化した巨大な犬島でのプロジェクトは、今でもアメリカによる憲法や三島由紀夫といった亡霊に取り憑かれている戦後日本史という奇妙な現象に対する柳の関心というよりも脅迫観念とさえ呼べるものを証明するものである。柳による歴史を現在、一元的で単純なものと見るものもいるかもしれないが、この改修された遺構ともインスタレーションともいえるアートプロジェクトの化石または遺物の結晶化は、過去の深刻な影に対する断固たる声明なのである。
【ビエンナーレ/トリエンナーレ】
今年もまたアジア太平洋地域におけるビエンナーレ、トリエンナーレの狂騒が繰り返された。こうした言い回しは大規模な展覧会の増殖がありふれたものになり、それでもなお人気があることへの不満の現れであり、私自身もときどきそうした行動パターンに陥ってしまう。とはいえ、幸運にも今年出会えた多くの作品に励まされ、感動することとなった。
アジア・パシフィック・トリエンナーレ|オークランド・トリエンナーレ|シドニー・ビエンナーレ|光州ビエンナーレ|メディアシティ ソウル

第6回アジア・パシフィック・トリエンナーレ(APT6)
2009年12月5日–2010年4月5日
すでに6回目となるアジア・パシフィック・トリエンナーレはこの地域における由緒ある国際展であるが、私が実際に見ることができたのは今回初めてである。本展を組織するブリスベンのクイーンズランド・アートギャラリー、ギャラリー・オブ・モダンアート(以下、OAG | GoMA)は広大な地域の作品の展示、収集に対し、長期に渡って注目に値するほど献身している。本展では国際的なサーキットで何度も目にする「ビエンナーレ作品」と、北朝鮮美術の展覧会内展覧会やミャンマーのような地域からの小規模だが興味深い作品が滅多にないバランスで見られる。2011年のシンガポール・ビエンナーレの共同キュレーターのひとりでもあるOAG | GoMAのキュレーター、ラッセル・ストーラーは、ミャンマーのような国からの作品を我々が手に入れるのは、それがこうした作品を海外で見せる唯一の手段だからだと述べた。それがどれだけの関与なのか、私自身が美術館キュレーターとして保証します。
第4回オークランド・トリエンナーレ「Last Ride in a Hot Air Balloon(最後の熱気球飛行)」
2010年3月12日–6月20日
オークランド・アート・ギャラリーの現代美術担当キュレーターであるナターシャ・コンランドが企画した本展は、30人強の作家が参加した比較的小規模なものだが、ニュージーランド、オーストラリア、太平洋諸島といった周辺地域のみならず、フォーカスを当てたイランを含めた中東と地理的に非常に広範囲を扱うものであった。このポストコロニアル時代においても、芸術的想像力を刺激し続ける旅や探検の魅力(このように言うことには気が進まないが、現実でもあるだろう)における賢明な主張を教訓的な形ではなく、むしろ洗練した叙情的な形で与えていた。
第17回シドニー・ビエンナーレ「The Beauty of Distance: Songs of Survival in a Precarious Age(隔たりの美: 不安定な時代を生き抜く唄)」
2010年5月12日–8月1日
まず認めなければいけないのは、アーティスティックディレクターのディヴィッド・エリオットによる展覧会タイトルを最初に見たとき、いささか安っぽく、凝り過ぎたものだと感じたことである。サブタイトルは魅力的な人物であるハリー・スミスから取られていて、彼はアーティストかつ映画監督であり、民族音楽研究家として1920年代後半から30年代前半に「アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック」というコンピレーションアルバムを纏めている。私の考えるに、エリオットはその自由奔放な神秘主義者からインスピレーションを受けて、近年では時代遅れとされる題材である文化的多様性をはずかしげもなく擁護するという驚くべき勇敢な試み、そして、いまだ存在する知名度の高いアートイベントにおける有色人種や「身近ではない」文化のアーティストの表象不足という問題を纏めあげていた。そんなキュレーター、エリオットに称賛の拍手を送ります。
第8回光州ビエンナーレ「10000 Lives(10,000の命)」
2010年9月3日–11月7日
壮大な人道主義的声明およびキュレーターの作家主義を両立した展覧会。完璧な展示により、展覧会は乱雑かつ明瞭に仕上げられていた。(控えめに言っても、このように言われるのは至難の業であり、無秩序で悪名高い会場であればなおさらである。)詳細に見ていけばコンセプチュアルなひびが見えてくるけれども、異なる種類の才能をまとめて見られるという点において本展は非常に優れたものと言えるだろう。個人的には継続的に考え続けられる展覧会の例を他にはあまり思いつかない。2007年のDocumenta 12は例外だけれども、それはまた別の話。
関連記事: レビュー、フォトレポート part 1, part 2, part 3, part 4
メディアシティ ソウル2010「Trust(信頼)」
2010年9月7日–11月17日
印象的だった光州ビエンナーレとほぼ同時期の開催は容易ではない挑戦だったにもかかわらず、首都ソウルでの比較的地味な仕事の重要性を証明するものとなった。国際的なキュレーターチーム(キム・クララ、ニコラウス・シャッフハウゼン、住友文彦)がアーティスティックディレクターのキム・ソンジョンとともに企画したメディアシティソウルは、小規模の予算とインフラの欠如に苦しみつつも、異なる地域、文化的環境から政治的指向の強い作家、作品が多く選出され、ある共有された切迫感を表明していた。このようなことはチームでキュレーションされた展覧会では非常に珍しいことである。
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【個展】
ここでは、良いアートは予期せぬ形式言語で鑑賞者を驚かせる一方、歴史、哲学、心理学におけるなにかを教えてくれるという私の信念に基づいた注目すべきいくつかの展覧会を挙げておく。
キャロル・ボヴェ|アブラハム・クルズヴィレガス|ルイス・ヤコブ|マーク・マンダース|ポール・セック|ダン・ヴォー|ヤン・ヘギュ

キャロル・ボヴェ キメリッヒ, ニューヨーク
2010年3月5日–5月1日
アブラハム・クルズヴィレガス「A La Petite Ceinture」 シャンタル・クルーゼル, パリ
2010年10月23日–11月20日
ルイス・ヤコブ「Without Persons」 アート・イン・ジェネラル, ニューヨーク
2010年9月16日–11月13日
マーク・マンダース「Parallel Occurrences/Documented Assignments」 ハマー・ミュージアム,
アスペン・アート・ミュージアム、ウォーカー・アート・センター(ミネアポリス)に巡回
2010年9月25日–1月2日
ポール・セック「Diver」 ホイットニー美術館, ニューヨーク
2010年10月21日–2011年1月9日
ダン・ヴォー「Autoerotic Asphyxiation」 アーティスツ・スペース, ニューヨーク
2010年10月21日–2011年1月9日
ヤン・ヘギュ「Voice over Three」 アート・ソンジェ・センター, ソウル
2010年8月21日-10月24日
関連記事: レビュー
【パフォーマンス/イベント】
マリーナ・アブラモビッチ|マシュー・バーニー|ラルフ・レモン|エイコ&コマ

今年のパフォーマンスといえば、ほぼ間違いなくニューヨーク近代美術館のマリーナ・アブラモビッチの大規模なパフォーマンス「The Artist Is Present」だろう。この展覧会についてはART iTに展覧会レビューを寄稿している。(To Reperform or Not to Reperform、英語のみ)ところが、マシュー・バーニーが10月に誰も想像出来ないほど大きな、アブラモビッチのエネルギーすら上回るほどの規模の最新作、21世紀グランド・オペラ「Khu」を大勢の役者、歌手、ミュージシャン等によって実現した。おそらくこのふたつを比べるのは公平ではないだろう。前者はニューヨークの美術館の中で行われ、毎日多くの観客に鑑賞され、後者は完全に戸外でわずか100人くらいの招待客のみが鑑賞した。(デトロイトの荒廃した工業地帯で、凍えるようなみぞれの中、ほぼ8時間かけて上演され、終いには肺炎になるんじゃないかとさえ思うほどだった。)「Khu」はノーマン・メイラーの長大で知られる小説「エンシェント・イブニングス」を基にした7部から構成されるシリーズの第3部の作品である。また、「クレマスターサイクル」(1994-2002)とともに始まった、バーニーによる持続的に変形、成長し続ける神話の一部でもある。クライマックスでのゴタゴタにもかかわらず、本当に驚嘆させられる経験だった。自らを殺すものは、強くなれる。
「Khu」がパフォーマーだけでなく、観客の忍耐力についてのものだとすれば、今年見たラルフ・レモン、およびエイコ&コマによるふたつのダンスパフォーマンスは身体美や筋肉運動と正確な抑制の力の崇高な証となった。
マリーナ・アブラモビッチ「The Artist is Present」
2010年3月14日-5月31日
ニューヨーク近代美術館
マシュー・バーニー「Khu」
デトロイト
ラルフ・レモン「How Can You Stay in the House All Day And Not Go Anywhere」
2010年10月13-16日
ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック
エイコ&コマ「White Dance」「Raven」
2010年5月27-29日
ダンスペース・プロジェクト
【その他】
『I Am Love』(監督:ルカ・グァダニーノ、主演:ティルダ・スウィントン)
崇高といえば、ティルダ・スウィントン。ティルダ崇拝は広く知れ渡り、今では実質的にクリシェとして用いられている。ADD(注意欠陥障害)が悪化したことで、私は今年の早い時期に映画を諦めていた。私の主たる映画鑑賞方法である飛行機内での試みも無駄だった。とはいえ、ルカ・グァダニーノ監督、そして、スウィントンがプロデューサー兼主演を務めた『I Am Love』(原題:lo Sono L’Amore)は驚きのあまり2時間ずっと口を開けたまま見終わった映画である。(ありがとう、大韓航空!)イタリア人の格調高いブルジョア妻から彼女の過去、忘れ去られた貧しいロシア人女性へと時間を逆行したスウィントンの変容はゆっくりと、むしろ物憂げに進行する。最後の10分間、彼女の顔はぎょっとするほどやつれて、苦痛と愛と誠実さでゆがみ、かつて見たことがないほどの信じ難い映画的変形を成し遂げている。過去30年間の現代の優れた作曲家の仕事をサンプリングしたジョン・アダムスのサウンドトラックは、不穏であると同時に壮大である。おそらく延々とこの映画について話し続けられるだろう。この日の終わりには、私は間違いなく官能的なこの映画を愛していた。