六本木クロッシング2010展:キュレーターが語る展覧会の真意(1)

森美術館の『六本木クロッシング』展は、2004年以来3年ごとに開催され、日本のアートシーンをグループ展形式で紹介している。常に現在形のアートを提示していく「日本アートの定点観測展」とも呼ばれる企画。2004年のスタートから第3回目を迎えた今回は、「芸術は可能か? —明日に挑む日本のアート—」という根本的な問いをサブタイトルに、若手からベテランまで20組のアーティストが登場する。展覧会の仕掛人たるキュレーター3名は、この問いにどう対峙したのか? 

展示会場撮影:木奥恵三 写真提供:森美術館

いま「芸術は可能か?」を問う意味

『六本木クロッシング』展(以下RX展)では毎回、館内のキュレーターと外部からのゲストキュレーター陣によるチームが、アーティストたちと展覧会を作り上げる。今回は館側から『ビル・ヴィオラ:はつゆめ』展などを手掛けたアソシエイト・キュレーターの近藤健一が参加し、ゲストキュレーターとして、国内外で展覧会を手掛ける独立キュレーターの窪田研二、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター他で教鞭を執る木ノ下智恵子を迎えた。近藤は、今回のテーマ設定についてこう語る。


(左から)近藤健一、窪田研二、木ノ下智恵子

「芸術は可能か? このサブタイトルはアーティストグループ、ダムタイプのオリジナルメンバーで、1995年にHIV感染による敗血症で亡くなった古橋悌二が残した言葉からとっています。何もかもが可能に見えた80年代に対して、バブル経済崩壊も体験した90年代には誰もに迷いが生じ始める。こうした中で、芸術はその城の中に閉じこもらず、その外側=社会にも影響を及ぼすことでこそ成立するのではないか。そんな想いで発せられた言葉だったと理解しています」(近藤)

今回も記録映像が出展されるダムタイプの『S/N』は、古橋によるHIV感染の告白を機に生まれた、音楽、ダンス、映像、演劇、さまざまな要素を用いたパフォーマンスだ。古橋本人をはじめ、聴覚障害者、ゲイ、ドラァグクイーン、セックスワーカー、日本に生きる外国人などが本人そのものして登場し、その社会的属性を舞台上で露にしながら、個人的な——しかし普遍的な——愛のありようや世界との向き合い方を問う。近藤は、古橋の問いは当時も挑発的かつ重要なものだったとしつつ、今回この言葉を用いた意図は単なる再提示ではないと強調する。

「2010年のいま、アートなるものが以前より広く社会に浸透した一方で、アートバブル崩壊やリーマン・ショックによる影響などを経て、我々は何を考えるべきか? 日本の美術は、美術館はどうなっていくのか? そんな状況が、前述の90年代の背景や問題意識に重なるようにも思えます。であれば今回のRX展では、シーンで活躍している作家を単に総花的に紹介するより、こうした社会状況に対峙したメッセージを持つ内容にしよう、と企画陣の意見が一致しました」(近藤)


ダムタイプ『S/N』パフォーマンス風景より 1995年 Courtesy the artists
オリジナルメンバー、古橋悌二のHIV感染告白を機に生まれた作品で、今回はその記録映像が上映される。1994年初演、翌95年に古橋は敗血症で世を去る。古橋はじめ様々なマイノリティ的属性を持つ人々の告白が、美術、音楽、映像、ダンス、演劇などを内包した舞台の中で普遍性を帯びて語り始める。

展覧会を読み解く5つのキーワード

次に彼らが行ったのは、この問いについて彼らなりの答(あるいはヒント)となり得るキーワードの探索だった。美術に限らずこの数年の社会動向を視野に入れつつ、最終的に今回のクロッシング=交差の軸となる5つのキーワードが選ばれた。

・社会への言及:現代美術が本来持つもの
・越境の想像力:領域横断による可能性
・協同の意義:孤高の芸術家から開かれたコラボレーションへ
・路上で生まれた表現:ホワイトキューブの外で生まれた力強いアート
・新世代の美意識:その表現や思考

これをもとに、参加アーティスト20組が選出された。上述キーワードの順にいくつか例を挙げるなら、こういうことだろうか。出身地・沖縄の米軍駐留事情や、資本主義社会と資源の問題を詩的に(かつ痛烈に)扱う照屋勇賢。秘密めいた舞台空間で、不均衡な鏡像のように映像&実演パフォーマンスを組み合わせる雨宮庸介。美術の内向的閉塞感を打破するにはARTのpARTy化にもやぶさかでないラディカルな6人組・Chim↑pom。殴り合いさながらのボディ・インプロビゼーション・パフォーマンスを街中で敢行するcontact Gonzo。そして、虚実の判然としない寓話的トーンで山奥の教会の物語を映像化した最年少作家の八幡亜樹……。


照屋勇賢『告知―森』2010年 紙袋、糊
高級ブランドの紙袋の一面を切り取り、かつてそれらが木であった(あるいは今でも木であるという)記憶を表現する。ほか、沖縄駐留米軍に関わるある事件から想を得たインスタレーション『来るべき世界に』などを出展。


雨宮庸介『わたしたち 2010年3月19日〜2010年7月4日』 2010年、ビデオ・インスタレーション+身体
作家本人が常駐するインタスレーション空間と、その奥に掛かる楕円状の大きな鏡。しかし鏡に写るのは実は映像であり、2つの世界はズレを生じつつ同時展開する。観衆をもその一部として取り込みながら……。作家は、「私」がどこで終わり「私たち」がどこで始まるかという命題への興味を、制作動機のひとつとして挙げる。


Chim↑Pomはインスタレーション『SHOW CAKE,××××!!』や映像作品『BLACK OF DEATH』出展のほか、入口の館名を「MORI pARTy MUSEUM」に書き換えるイタズラ(上写真)も行っていた。


contact Gonzo 無題 2010年 インスタレーション 
コンタクト・インプロビゼーション(複数人が互いに体重を預け合う形で展開する即興の身体表現)とストリートファイトの融合? 「痛みの哲学、接触の技法」をキーワードに、街中や大自然を舞台に、彼らは身体で語り合う。今回はバラック風の建造物と、パフォーマンス映像とを組み合わせたインスタレーションを出展。また、同じく出展作家である宇治野宗輝とのコラボレーション・パフォーマンスも行った。


八幡亜樹『ミチコ教会』2008年 ビデオ・インスタレーション
山小屋で教会を営む老未亡人が、下山への迷いの中で生きる日々をドキュメンタリー風に描く。訪れた若いカップルの風変わりな結婚式、また教会や老女の存在自体が虚実の狭間を漂うものだが、作家は自身の作品群を「日常の予告編」と呼び、虚実の重要性に依らない価値観で制作する。

もちろんキーワードと各作家の関係は1対1ではなく、ひとりの芸術家の中に複数の要素を見ることもできる。絶えずコラボレーションを繰り返し、必然からクロスジャンルへと進み、ホワイトキューブにしばられず活動してきたダムタイプは、ここでも時代をまたいだ象徴的存在として位置づけられている。

》 続き(キュレーターが語る展覧会の真意(2) )

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《展覧会情報》
六本木クロッシング2010展:芸術は可能か? —明日に挑む日本のアート—
3月20(土)〜7月4日(日)
森美術館
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