このインタビューは、マッシミリアーノ・ジオーニがアーティスティックディレクターを務めた第8回光州ビエンナーレの準備期間に行なわれ、2010年9月にART iT英語版に掲載されたものである。内容は同ビエンナーレを中心としているが、今回のヴェネツィア・ビエンナーレの総合テーマ「エンサイクロペディック・パレス」について考える上での参考のひとつとして翻訳、掲載する。
10,000の命(第8回光州ビエンナーレ)
インタビュー/アンドリュー・マークル
ART iT 光州ビエンナーレはアジアで行なわれる最も評判の高い国際展のひとつとして広く知られています。本展覧会(第8回光州ビエンナーレ)の準備ではどんな経験をしていますか。
マッシミリアーノ・ジオーニ(以下、MG) 21世紀の文化に関心を抱いていれば、誰もが、アジアからはじめることが重要だと考えています。先任者であるオクウィ・エンヴェゾーは自身が企画したときの光州ビエンナーレを「重要なアジアの世紀」という文脈でしばしば語っています。個人的にはこの地域の現代美術をできる限り学ぶことに試み、私の研究領域を過去、具体的には1901年から現在へと、そして、厳密にはアートではない文化的工芸品からオブジェをも含むものへと拡張していきました。「10,000の命」は、イメージの生産や消費をテーマとする暫定的な美術館のようなものにしたいと思います。この領域はとても広く、系統的なリサーチが不可能なことは明らかです。この展覧会はサンプルや実例によって進んでいきますが、現在や未来のアートに焦点を合わせているのと同様に歴史や記憶の掘り起こしも行なっていきます。
ART iT 韓国、そして広義のアジア地域における光州という文脈や、過去の光州ビエンナーレの文脈はどの程度考慮しましたか。
MG 大規模な展覧会や国際展に取り組むとき、地元の観客をやみくもに重要視するところがありますが、彼らもまたほかのどんな観客とも同じように、多くの場合、私たちが考えているよりも複雑です。地元の観客という名の下に、私たちが恩着せがましくなったり、批判的な見方ができなくなったりすることがあまりに頻繁に起こっています。展覧会には人々をどこかへ連れて行く責任もあると信じているのです。私は制作された地域をわかりやすく反映している作品には興味がなく、アートが私たちをどこへ連れて行くのかが大事で、私たちが自分自身の起源を乗り越えるのを助けてくれるものに関心があるのです。
とはいえ、光州は、私のこの展覧会に対する思考に大きな影響を与えました。今年(2010年)は、軍事政権に抑圧された1980年の民主的革命、光州民主化運動の30周年にあたります。光州ビエンナーレ自体、90年代にこの出来事を偲ぶものとしてはじまったという経緯もあり、今回はとりわけ重要なのです。私は光州の歴史と、世界中のアーティストが現在探究している関心事や主題を接続するテーマや主題を特定しようと必死に動きました。「万人譜」や英語の「10,000 Lives[10,000の命]」というタイトルを決めたのは光州の歴史と直接的に繋がっています。「万人譜」は韓国の詩人高銀[コ・ウン]による全30巻の連作詩集のタイトルです。光州民主化運動への関与の疑いで二年間投獄されたときに、彼はその連作を書きはじめ、そこには彼が生涯で出会ったひとりひとりを描いた約4,000篇もの詩が収録されています。この展覧会タイトルは、周囲のイメージが映し出す人々の人生や、イメージそれ自体の命の両方を考察する展覧会のメタファーやインスピレーションとして機能します。それ自体の命を獲得したイメージが過剰に存在している世界に私たちは生きているのです。今こそ、私たちがイメージは何を望んでいるのかと自問するときでしょう。
ART iT 展覧会の参加アーティストリストには、ジェイムス・リー・バイヤースとグスタフ・メッツガー、ジェフ・クーンズとアンドロ・ウェクアが並んで記され、興味深いですね。性質を異にするアーティストを組み合わせるのはなぜでしょうか。また、今回の展覧会はこれまでにあなたがニューミュージアムで企画した『アンモニュメンタル』(2007)や『アフター・ネイチャー』(2008)といった展覧会をどの程度踏まえたものになりますか。
MG 「10,000の命」はある程度直接的なテーマ展になるでしょう。このアーティストに注目すべきだというようなリストでしかないビエンナーレにはうんざりしているので、パブリックやアーティストにとって意味があると思うテーマ、一連のテーマを選び出すために協調的な努力を重ねてきました。また、作品制作や私たち自身にとって必須の問題に正面から取り組みたいと考えました。それこそが、私たちの代替としてのイメージや私たちが愛するイメージを創造したいという欲求を扱う展覧会を企画するという考えを刺激するのです。「10,000の命」ではそうした根本的な欲求がいかに現代の文化の強迫観念となるのかを問います。現代の文化において、イメージ制作は単純に世界の主導的な産業や世界規模の娯楽のひとつであるだけでなく、文字通り、私たちを生存させ、占有するものでもあるのです。
テーマ展が最も面白くなるのは、キュレトリアル・リサーチが予期せぬ方向へと拡張していくときだと考えています。テーマはリサーチを先導することはできるが、そこで展示される作品はそのテーマを引き受けるか複雑にしなければならず、さらにその複雑さを明らかにし、決して理論のイラストレーションへと単純化されないテーマやアートの豊かさを示さねばなりません。これがあなたが参加アーティストリストの組み合わせに感じた奇妙さの要因のひとつかもしれません。例えば、具象と肖像を扱う展覧会で、カール・アンドレの作品とカンボジアのトゥールスレン刑務所の写真を並べたら面白いかもしれませんよね。
そういう意味では、今回の「10,000の命」は『アフター・ネイチャー』と繋がっています。両展覧会はあまり正統的ではなかったり、認知の足りないようなアートの世界の作品を組み合わせたり、ある種の超歴史的、百科事典的な幅広さを備えています。もちろんどちらの展覧会も非常に個人的なものかつ百科事典の部分的なものです。しかし、それがすべてなのでしょうか。
ここで再び、高銀がインスピレーションを与える機能を果たします。彼の「万人譜」はこの世界の個人の歴史であり、すべての人生が記憶に留める価値を有すると教えてくれるのです。『アフター・ネイチャー』もそうでしたが、「10,000の命」もなにか唯一の成典を確立したり、注目すべきアーティストの名前を並べるだけの展覧会ではありません。『アフター・ネイチャー』はフィクションという概念に刺激を受けて、視覚的な小説を試みました。『10,000の命』はさらに壮大なエッセイであり、地図、カタログであり、数多くの例外で複雑化した分類となります。実は、壮大な家族アルバムと呼ぶのが一番じゃないかと思います。もちろん、それは機能不全を避けられないものとしてなのですが。
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