笠原恵実子 インタビュー(2)

真空に詰まった軽やかな塊
インタビュー / 大舘奈津子
Ⅰ.


「TSR 14」(部分)2014年 写真:大高隆

ART iT PARASOPHIAのカタログでは、使用した写真に詳細なキャプションや、歴史的文脈を表すテキストをつけるなど、ある種の政治性を詳らかにしていますね。そのことで、今回は美学における政治性への強い関心を明らかにし、それについて観客が思考することを促しているようにも思えます。これまでの作品において、プロセスや結果を抽象化してきたことから考えると、少し踏み込んだような感じが見受けられます。京都で見せることがなんらかの影響を与えたのですか。

EK 京都市美術館に展示空間の下見に行ったとき、あの帝冠様式の建物を見て、ジグソーパズルの最後のピースがはまった様な感覚を持ちました。PARASOPHIAとは関係なく旧満州とシベリアに行きリサーチを行っていましたが、その興味の時代背景と京都市美術館のそれは全く同じだったのです。大理石で覆われた館内を歩きながら、私は時が逆回転する様な感覚を持ちました。自由度の高いカタログ制作であったこともあって、私はプロジェクトページとしてチェスボードのように「K1001K」と「TSR 14」のコンセプト背景を示唆する写真を使うことを、それも私自身が撮影した現在の写真と、当時の昔の写真を意図的に混在し使うことにしました。そして、それらの写真に添えた解説には、私的見解が入らない様に最大限の注意を払いました。作品本体ではなく、本だからこそできたことであるのは間違いないと思います。日本の近代の様相をリサーチしていた私にとって、京都市美術館で展示するという機会を得たことで、すこし踏み込んだ吐露を促されることに繋がったのかもしれませんね。ところで、今回「K1001K」で初めて磁土を扱いましたが、私は以前より磁器に強い興味を持っており、最適な形で作品に取り込めることができたと思っています。彫刻的な塑像が持ち得ている自由度とは対照的に、磁器の製造方法は精巧さを求められる規格性から成り立っており、美術における自由の幻想に対するクリティックとなります。磁器として焼成された陶器製手榴弾の欠損部分は、現在と過去、自由であることと不自由であること、といった共存しないとされる関係性を、繋ぎあわせており、自由であることの否定は自由を強く想起させると言うパラドックスを考えました。

ART iT それはこれまでと少し違いますね。笠原さんは常にこれまでに存在しない新たなシステムを作りたいと切望していると思っていました。したがって、歴史的な文脈に敢えて沿って作ること、つまり既存の不自由なシステムに飛び込むというのは少なからず驚きです。

EK 不自由であることと自由であることはコインの表裏です。自由であることを想起させる為に、その裏を使うという逆説的な考え方です。私の作品にはこういった発想が多く現れていると思います。これまで存在したことのない新しい制度を生み出せるのかと問われれば、条件付きで「はい」と答えようと思います。新しい制度は存在したと同時に古くなるものでもあります。私の想起の方法論は、新しいシステムが生み出される瞬間を創出するものです。その維持は別の問題です。ひとつひとつが本来違うものを同じもののように並列する、という先程の話に戻ります。知識と権力が結びついていた中世バロック期において、修道院が図書館を所持していました。羊皮紙に手書きで綴られた知識は、丸背の本に手綴じで仕上げられ、荘厳なバロック装飾の部屋に陳列されていました。たくさんの本の丸い背が連なりドレープを描く様は、バロック様式の本質を支える一部としてあります。しかし、ドレープの連続に埋没したそれらの本は、実のところひとつずつが違うものであり、更に本の1ページずつさえも、それぞれがまったく違う紙に身を削るようにして手書きされた様々な知識で埋められているのです。視覚的な様相だけでみれば、本の丸い背のその装飾性だけが強調され、一辺倒なスタイルにすぎませんが、その背後にある膨大な数の差異を考えたとき、統一されて見えるドレープのパターンの意味は変わるのです。一見荘厳で美しいバロックの図書館には、こういった権力の塊が見えないものとして存在しています。そういった手の内や背景は見せずに、すべての事情を中に詰めたまま、軽やかなドレープを見せている、私はこのような状態に惹かれるのです。自由と不自由の関係、既存と新しいものの関係においても、同じ様なことが言えるのではないでしょうか。こういったものの在り方は自分の作品の見せ方に大きな影響を及ぼしていると思います。

ART iT でも一方で先ほどお話していた、ブラックホールに惹かれているという笠原さんもいます。

EK 惹かれていると言うよりは、知は最終的にブラックホールに行きつくという認識です。しかし、この認識は形式化したお話の結末なのではなく、毎回挑戦し、徒労し、思考した結果現れる現実の断面であり、私の作品を形式美と大きく隔てる重要な要素です。


『PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015』公式カタログより Courtesy of the artist and Parasophia Office *各写真に対応するキャプションが別ページに記載されている。例)01 舞鶴港に入校したシベリア抑留者引き揚げ船高砂丸——この港には1945年から13年間計426隻の引き揚げ船が入港し約66万人が帰還した/京都府、日本

ART iT 今回、カタログに掲載している写真は、自分で撮影したものと、著作権が切れた古い写真ファウンドフォトを混ぜています。

EK 新しい写真をあえて、古い写真に合わせたクオリティで掲載しています。

ART iT 帝国主義末期を想起させる場所やもののイメージが選択され、キャプションの情報が過去の事実や歴史を明らかにしている。にもかかわらず、写真それ自体が持つ撮影された時間というものを消し去りたかったということにはどんな意味があるのでしょうか。キャプションによって、被写体が経験した、もしくは保有するある事象の歴史を見せながらも、写真そのものが保有する時間に関しては、クオリティを同一化することによって、消すという行為なのでしょうか。

EK こうすることによって、撮影された時代に惑わされずに写っているものだけに焦点を当てることができ、時間という制度に限定される思考を揺さぶることができると考えました。昔は今、今は昔といったように、写真のイメージを自身の日常と重ねて蘇らせることができるのではないかと。たとえば、このアムール川の写真は戦争末期のものか今のものかわかりませんが、周囲の写真を見、そのキャプションを読んでもらうことで、なぜ撮影年をわからなく提示されているのかを考える契機になります。私にとっては、今の写真を過去の見せ方にしたかったのではなく、過去のものであり、史実的なものであり、私達から距離を持ったそれらを、もう一度生き返らせ、肌の上で感じることのできる身近なものにしたかったのです。キャプションは、いろいろな史実を明らかにしているものも、していないものもあります。不要と思われる情報をあえて入れたり、辞書をカットアップしたようなかたちです。これらを全部並列したら、史実と私実が混在する社会のマトリックスになるのではないかと。

ART iT こうしたキャプションをつけることで、明らかに思想を持ち込んでいますよね。

EK ええ、持ち込んでいます。でも、思想を持ち込んだ瞬間に、またその思想も等価に並列された他の意味に消されていく。それは「OFFERING」で並列されたひとつずつ異なるオファリングボックスと同じなのです。ひとつのエレメントのみに執着せずに、作品の背景や経緯、視覚的な印象から導かれる思想など、それぞれの尺度で導いてほしいと思っています。私のセオリーそれ自体は、ひとつのフィクションみたいなもので、私にとってはこれが一番嘘のないあり方ですが、唯一のものではありません。作品の単一な理解は求めていません。私も制作の過程で、いくつもの考えを出し、否定し、疑問を持ち、また考え否定する、その繰りかえしを行っています。ひとつの筋が通った解釈などあり得ません。


ともに:展示風景、PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015 Courtesy of the artist and Parasophia Office.

ART iT 今回の作品はそのセオリーがより強くでているような気がします。短期間で作ったせいかもしれませんが、それを観客自らが咀嚼して自らのセオリーとして会得できるのかどうか。どちらかというと笠原さんが提示している要素に導かれるような感じがするのです。

EK 確かに「K1001K」の制作は短時間でした。濃密に作り、短距離で走りきった感じがしています。いろんなタイプの作品、そして制作方法があって、集中的にでるものもあれば、普遍的にでるものもあります。思考や制作の過程を見せてもいいのでは、という提案は、PARASOPHIAの展覧会の在り方であるし、また私自身でも考えたことでした。カタログのコンセプトページはそのような結果だといえるでしょう。しかしこういった行為が、思想的なものかと問われるとそれとは関係ないと思います。生涯で作品の作ることのできる時間はあまりにも短く、「OFFERING」のように毎回10年かけて作品を制作していたら、一生のうちに展覧会が4つくらいしかできないでしょう。「OFFERING」で長距離走者の達成感を得ていますので、今回は短距離に自分の気持ちが傾いたのかもしれません。

ART iT 作品の背景やテーマが他者によって説明されることによって、教条的に見えてしまうことについてはどのように考えていますか。特に「K1001K」については近代の日本の産業のあり方がテーマのひとつとして見える部分もあり、笠原さんの意図とは別に、歴史の闇の部分に光が当たるような捉えられ方がされうるようにも思えます。つまり、語りやすいテーマでもあるからだと思うのですが、それが自由な鑑賞を妨げるものではないにしても、そうしたある方向への解釈が強くでる可能性がある作品のあり方は、笠原さんが抵抗してきたものではなかったのでしょうか。

EK 抵抗していますし、ひとつのものの見方をするように誘うような作り方は決してしていません。ただ、私は、陶器製手榴弾やそれを制作していた全国の窯業者の存在についてのお題そのものが、教条的、ひとつのものの見方、などと言う単層的解釈を連想させる質のものだと思います。極めて左翼的な反応であると思いますし、その予想もある程度していましたが、私が思った以上に自由度の低い題材であったかもしれません。だとしても、私の作品が問題にしているのはそこではありません。近代、戦争、兵器、そして陶芸という事例を扱う「K1001K」では、当然のことながら戦争の悲劇、陶芸の悲劇、芸術の悲劇、といった強いシナリオが導かれる訳で、そこから逸脱するための位相として、消失した部分を焼成し現実に在るものとし、現存するかけらを現実にないものとする反覆を試みているのです。また、あの小さな壷の様な陶器製手榴弾の形、その内と外の並存はとても重要です。釉が塗られた内、記号の与えられた外のそのディテールの差に私はとてもこだわったのですから。そしてひとつひとつの差異を消し去る様なインスターレーションの在り方も。大きなストーリーに引きずられやすい題材だとしても、そうした作品に顕われる部分、明文化しにくい「もの」に在る多層的政治に私の作品の核があります。「OFFERING」においても、明文化しにくい疑問、非常に曖昧で複雑な事柄の存在を作品化しているのです。美術にはそういった部分が絶対に必要だと思っています。それを伝えるために、噛み砕いたヒントになるような要素を入れることで嘘が入ってはならないと思います。その見極めをすることは、簡単ではありませんがとても重要です。嘘を入れ、話を作りやすくする、そうした既存の概念に乗っかり書かれたフィクションは芸術ではありません。多くの人がこういった共謀を作品の強さであると勘違いしますが、それは知性とか、美学なのではなく、装飾的に強度を与え、作品をはりぼて式に大きく見せるものなのです。しかし厄介なのは、ここでこういうことをすることでこの文脈がより強く出てしまうので抑えよう、といった機微がわかってきてしまうと、それもまた形骸化した美学をつくってしまうということです。過剰にコントロールすることなく、どういう風に作品の着地点を導くのかはとても難しいところで、私が強く意識している部分です。その着地点を考える際、私の場合は、最初に見た視覚的な原風景に戻ることが多いと思います。いつも、そこに理由があるはずだと思い、何回も立ち戻り、何回も問答をします。


「K1001K」(部分)2015年 Courtesy of the artist and Parasophia Office 写真:松本和史 *正しくは、最後のKが横向きに反転

ART iT 今回、PARASOPHIAで発表されたふたつの作品のほうが、そういう意味ではわかりやすいヒントがだいぶ提示されていると思います。ただ、笠原さんの関心はもう少し広いところにあるのではないか、つまり政治と美学の関係のようなところにでも、近代日本の歴史に関わった場所だけでもなければ、そもそも帝国主義末期の時代というだけでもない。ただ、その関心の広がりは今回の作品のテーマが強いだけに伝わりにくいかなとは思います。

EK 「形」や「もの」は残るものです。中国の長春には、満州時代に関東軍総司令部であった帝冠様式の建物があります。その建物は日本の城、天守閣の様相が前面に出た非常に権威主義的なデザインで、この建物を満州に建てた、そのあからさまな植民地主義に驚かされますが、それよりもすごいのは、その建物が現在は中国共産党吉林省委員会として、中身を変え別種の権威にとってかわられ、しっかりと継承されていることなのです。「もの」や「形」として完結してしまったもののアンビバレンスとはまさにこのようなことであり、私は「もの」のこういった両面的、もしくは多面的価値に興味を持っています。しかし、実際に私の作品にあらわれる「もの」はこの建物の様に明快ではなく、例えばキリスト教において聖人像や宗教画ではなくオファリングボックスを選択するといった、王道をはずすことがなされていると思います。もちろん聖人像を調べるほうが、圧倒的に歴史的事実や悲劇、惨劇が連想される訳ですが、それゆえに、多数に共有される標準的解釈や反応がすでに存在し、多層的解釈の可能性は閉ざされます。オファリングボックスを見てそこに興味を抱いた私の感覚は、既存の価値や解釈の筋道が与えられていない、視ることの制度から逸脱することのより可能な、そういった質のものなのではないでしょうか。更に、とても重要なことは、それらが沢山あると言うことです。たったひとつの重大なものなのではなく、いくつもある重大なものの中のひとつでしかない、という在り方で、私は絶対的価値の制度から逸脱したいのです。ひとつの巨大な彫刻作品ではなく、いくつもが同じ様に並んでいることや、形や意味は同じでも何人もの人が作った違うもの、そういうものに力を感じます。

ART iT 個々のものではなく、抽象化されたものとしての、ものの集積ということですね。

EK そうですね。教会にひとつしかオファリングボックスがなかったら私の興味はなかったと思います。それは本当に数え切れないほどあり、誰が作ったのかも知れず、そして、そのわけのわからないものを数えきれない程の人々が使っている、その事実や文脈は、私にとってとても重要でした。ひとりずつ考え方が違う人々が集まれば、その差異は等価に異質であり、唯一の価値、絶対的制度を逸脱することができる。全体をひとつに統合するのではなく、唯一のひとつを集積すること、それぞれに個別のバリエーションがある集積にこそ、私は可能性を感じています。

笠原恵実子|Emiko Kasahara
1963年東京都生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科修了後、1995年から2014年までニューヨークを拠点に活動。現在は神奈川県に拠点とする。大理石やシリコン、人工毛髪といった無機質でありながら女性的な質感も連想させる素材を用いて、冷静かつ繊細に世界を捉えた作品を制作。2000年より、世界85カ国にあるキリスト教会の献金箱を撮影した写真と、その記録を元に自ら作り出した彫刻作品で構成されるインスタレーション「OFFERING」を制作、グラーツ民族学博物館(オーストリア・グラーツ、2005)、ヨコハマトリエンナーレ2014で発表した。これまでに、『日本の現代美術1985–1995』(東京都現代美術館、1995)、横浜トリエンナーレ2001、第14回シドニー・ビエンナーレ(2004)など、世界各地の国際展や企画展に参加している。
PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015では、京都市美術館で同建築の帝冠様式と第二次世界大戦中に製造された陶製手榴弾の遺物から着想した作品「K1001K」(*正しくは、最後のKが横向きに反転)と、近代化における越境をテーマにした「TSR 14」を発表。また、新作の背景を補完するものとして、戦中の日本および満州国が製作した国策映画、ソヴィエト連邦で製作された戦後初のカラー長編映画からなるシネマプログラム「trigonometry」を構成、京都府京都文化博物館フィルムシアターで上映を行う。
http://www.emikokasahara.com/


PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015
2015年3月7日(土)–5月10日(日)
http://www.parasophia.jp/

Copyrighted Image