モニカ・ボンヴィチーニ インタビュー (4)

抗う彫刻、抗う言語
インタビュー/アンドリュー・マークル

IV.


Wallfuckin’ (1995/96), b/w video on monitor, sound, amplifier, speakers, drywall panels, aluminum studs, bricks and mortar, white paint, door, 250 x 310 x 330 cm, duration 60 min. All images: Courtesy Monica Bonvicini and Galerie Max Hetzler, Berlin.

ART iT 作品に個人的なことが混ざってくるのを避けているとのことですが、それこそまさに、あなたの彫刻作品における、正確でほとんど計算されたイメージの証明となるものかもしれません。そうした作品にも詩的、もしくは感情的な側面はあるのでしょうか。もしくは作品は完璧に計算されたものであるべきでしょうか。

MB そうですね。正確であるべきだと考えています。先程話したように、ひとつの本質的な要素を取り出すために、さまざまな考えを混ぜ合わせる。その結果として自分の感情が半分近く混ざり込んでくるのは好ましくないし、すべての作品が必ずしもそうあるべきではありません。作品によっては、親近感を感じるものもあるかもしれませんが、いったん展示してしまえば、それらはすべて開かれて公共のものとなり、もはや自分に属しているわけではありません。作品は異なる解釈にも開かれているのです。

ART iT 「me」や「prozac」といったテキストドローイングは、そうした言語の使用において、ほとんど風刺的だと言えると思います。

MB どうでしょうか。たしかにあれらのドローイングと彫刻は異なります。ドローイングは継続的に行っていますが、ときどき自分がやってきたことが信じられなくなります。乱雑なものがあれば、きめ細かで完璧なものもあり、集中できるときもあるし、できないときもある。たしかにドローイングは私にとってより身近なものなのでしょう。彫刻作品のほとんどについてはわたし自身が作っているわけではありません。
わたし自身は、例えばどんなねじや素材を使うのか、なにが可能で、なにが不可能かといった問題について考えることにより多くの時間を費やしています。だからある時点でもはや、わたし個人とは結びついていませんし、そうでなければなにも決められないと思います。

ART iT ここまで話してきた政治性、権力、言語といったいくつかのテーマが関係しているものとして、ロンドン・オリンピックのコミッションワークがありますが、アーティストとして、オリンピックのようなイベントの知名度や、そのビジネス、政治性という側面を、どのように扱っていますか。

MB たしかに、ここまで話してきた権力構造について、なぜ自分がそれをしているのか、それが一体なんであるのかについてわたし自身が正確に知らないということを話す良い事例ですね。メディアでは今回のロンドン・オリンピックのプロジェクトの予算は210万ポンドだと伝えられていますが、コンペティションで公表されていた予算は100万ポンドで、実際に作品に掛かる費用も同じです。残りの約100万ポンドがどこに消えてしまったのか、わたしにはわかりません。実際には、公表されている額の半分以下の金額で制作をしていますし、それが公のお金であるにも関わらず、なんの答えももらっていません。もっと予算が欲しいということではなくて、わたしの名前で制作をしている、わたし自身の作品であるため、きっとひとびとはそのことを聞いてくるでしょう。だから、それはわたしにとって知る必要のある情報なのです。
オリンピックだからということで、このコンペティションに参加したわけではなく、予算が大きいこと、恒久的に展示される作品であることが参加した理由にあります。こうした大きなプロジェクトや、かつてオスロで制作した「She Lies」(2010)といった作品は、展覧会へ向けて制作する作品とはずいぶん異なります。パブリックアートを制作するのは好きではないし、一般的にはパブリックアートが好きではありません。それに、こうしたコミッションだけをやるようなアーティストにはなりたくない。しかし、まだ作られていない巨大な空間や場について考えなければいけないという大きなプロジェクトをたまにやることには興味がありますね。恒久的なものについて考えなければならないので、異なるアプローチや、普段に比べて完全に大きな予算が必要とされます。また、従来、こうした注目度の高いコミッションは、そのような資金を上手く扱えると未だに考えられている男性アーティストが獲得しがちなので、女性アーティストとしてこうした大きなプロジェクトに取り組むことも重要だと考えています。


Top: Run (2010), permanent light sculpture for the London Olympic Park 2012, mirror-polished steel, glass, LED, three letters each approx 900 x 500 x 120 cm. Bottom: She Lies (2010), styrofoam, concrete pontoon, stainless steel, reflecting glass panels, glass splinters, anchoring system, size above sea level 1700 x 1600 x 1200 cm.

ART iT “run”という単語の選択は、オリンピックという文脈に対するものでしょうか。

MB いい質問ですね。オリンピック公園に“run”という彫刻はふざけすぎていますよね。そこにどれだけの創造力や空想力といったものがあるのでしょうか。しかし、企画段階ではオリンピックについては考えていませんでした。2000年に“run”という単語の入った1970年代の曲のタイトルを収録した16ページの「Run」というエディション作品を制作しています。例えば、「Run, Run, Run」や「Running Dry」、「Run Angel Run」など。“take the money and run(金を奪って逃げろ)”という英語の慣用句が好きです。“run”という単語は、非常に多くのことを意味しており、多様な使われ方をしていて、ドイツ語やイタリア語にはありえないものです。ロンドンというのは、莫大な音楽の歴史を持っている、常に揺れ動いている、実験的な街ですよね。だからこそ、そうしたことを考えていました。
また、作品の設置場所の真向かいにアパートが並んでいて、そこに住む人々は毎日作品を観ることになります。わたしは新しくできた村で育ったのですが、そこでは本当に完成されたものがなにもなく、出会う場所がなにもないし、歴史もない。それ以前に住んでいた人がいるわけでもないので、みんなが出かける場所もありませんでした。もし、「RUN」の作品のところで、人々が待ち合わせをするなど、住民にとってその場所がある種のアイデンティティになれば、素晴らしいと考えました。

ART iT 政治的表現やアートという考え方に興味をもった別の理由としては、過去10年以上にわたる、現代美術の強い企業化があり、こうした状況下において、政治的表現とはなにかを再考する必要があると考えていたことがあります。現在は、政治的アートという考え方に対して、若干不信感を抱いていますが、そこには過去にそれがどのように機能していたかに関するある種のロマンティシズムというか、理想化があると思います。これまで制作を続けてきた上で、現代美術の規格化というものが存在していたと思いますか。

MB 規格化という言葉は好きではありませんね。それは悲しすぎます。アートにはもっとたくさんの可能性が存在していると常に考えています。今では、アーティストになるということがかっこいいという理由で美術大学に入ろうとする学生が増えています。遅かれ早かれ、こうしたことは起こると考えていましたが、アートでお金を稼いで、成功を収めて、パーティーに呼ばれたりできると信じている若者がいるというのが、ここ2年間は非常に顕著だと思います。
また、モダニズムに言及するようなある種の作品を観るのも飽きてますね。例えば、性能のいいカメラで、既にそこに存在するものの周りをただただ文字通りぐるぐると回りながら撮影しているような作品。そのような批評性は理解できませんね。例えば、映画を観に行くときには、とはいえそれも滅多にありませんが、事前に知っていたことを忘れるべきだという考え方を持っています。それはアートに対しても同じですね。必ずしも教訓的なことを探しているということではありません。ル・コルビュジエの建築の周りを撮影するなんて、うんざりするくらい教訓的ですよ。「まったく、なんでそんな若いのにそんなにいいカメラ使ってるんだよ」なんて思いました。10年前は若いアーティストがそんなことをするなんて無理だったし、わたしには彼らが今、そこから何を求めているのか、まったくわかりません。しかし、政治的に制作している生徒もいますし、全員を同じ枠の中に収めようと思っているわけではありません。政治的なものに取り組むたくさんの若い人々がいるのは明らかですし、その数はおそらく10年前よりも増えているでしょう。政治的なもの、それは現在も皆にとって重要なことなのです。

ART iT 若い人々にとって政治的なものが重要だということには同意しますが、果たして、アートは現在それに対する最良の媒体なのでしょうか。おそらくは彼らの主張を表す別の方法も見つけられるのではないでしょうか。

MB どんな理論が流行っているのかといえば、それに対するサイクルがあり、現在は再びジェンダーの問題に取り組む若いアーティストが出てきている印象があります。5年前までは、ジェンダーという言葉を使うたびに生徒は身構えていたものですが。なんらかの状況が戻るには多少時間が必要なのかもしれません。現在のさまざまな素材が混在している繊細な彫刻、そうしたものは、とりわけこのような経済危機の時代において、まったく保守的なものに思えます。このような状況がもうすぐ終わればいいですね。誰も傷つけない。そう、例えば、あなたは若いアーティストで在学中に展覧会を開く。そこではコレクターがル・コルビュジエがあれやこれやの建築で使用したのだとかなんとかのトイレットペーパーに関する美しい話なんかをしてくるでしょう。そこにはリスクなど一切ありません。
アートがとても美しいと思えるのはなにをやってもよいからではないでしょうか。自分が安全であるルールをはなから設定するなんて、まったく残念ですよね。また、明確に政治的なことに取り組む若手アーティストが、しばしば一部の批評家やキュレーターに囲われるということも感じています。


Plastered (1998), drywall panels, styrofoam, dimensions variable.

ART iT 制作しているときに、今でもリスクのようなものを感じていますか。

MB わたしは非常に野心的で、コントロールしたがると同時に、簡単に飽きてしまうところがあるので、自分の作品を繰り返そうとは思いません。自分自身のやることに驚きたいと思っています。「Wallfuckin’」(1995)というビデオ作品を作ったときのことを覚えているのです。たくさんの人がその作品のバリエーションを制作するように言ってきましたが、なにがいいたいのかわかりませんでしたね。もちろん、そうすれば作品が売れてお金が入ってくることはわかっているのですが、あのときにわたしがやりたかったアイディアのすべては、あのひとつの作品の中に込められていたので、同じことを繰り返したいなんていう欲望はまったくありませんでしたね。こうした制作態度は未だに変わりませんし、失うことはないでしょう。

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