アンリ・サラ インタビュー (2)


Exhibition view of “Anri Sala” at Musée d’art contemporain de Montréal, 2011, with Doldrums (2008) in foreground and the two-channel video projection After Three Minutes (2007) in background. Photo Guy L’Heureux, collection of the Media Centre, Musée d’art contemporain de Montréal.

 

アーティキュレーションの妙
インタビュー/アンドリュー・マークル

 

II.

 

ART iT 社会の一部が街の掟に従っていた1990年代のアルバニアと、あなたのビデオ作品「Promises」(2001)では、一方でギャング文化の真似事をしたがり、もう一方では男らしく振舞うことの制限を超越したがる若い男性たちの葛藤を扱っていることについて話してきましたが、これは最近、展示室内の離れた場所に作品を設置し、交互に作動するかたちで作品を展示されていることを想起させます。2008年にノース・マイアミ現代美術館で開催された個展『Purchase Not by Moonlight』でもそのような展示がありました。あなたがそれぞれの作品の間に作り上げた複雑な関係性は、集団における人と人との関係性や、集団のメンタリティへの個人の共感あるいは反感のメタファーと言えます。

アンリ・サラ(以下、AS) そうですね、そのような要素もあると思います。そういった別々のフェーズに分かれたインスタレーションについては、作品と作品との間において鑑賞者という第三者に自らの立場を見つけてもらうことを意図しています。強いものと弱いもの、主流なものとそうでないものなどといった事物の間にある第三の立場にいることがしばしばありますよね。その意味では、フェーズに分けるということは1990年代アルバニアでの暮らしと「断裂[rupture]」という共通項もあります。つまり、意味の断裂、統語論の断裂、ナラティブの断裂、信念の断裂といったことです。言わずもがなですが、私はフランスのように数十年もの間、比較的安定しているところに住んだことがあるからそれを「断裂」と呼ぶことができるのです。安定しているところに住んだからこそ継続性というものを理解していて、アルバニアの状況と比較することができるのです。でも、過渡期と呼ばれる時代に生まれた、私より若い世代は、断裂が一種の継続ではないことをどうして理解できるでしょう。自分自身にとっての断裂が必ずしも他の人に共有されていないことを理解するためには、誰か別の人にとっての継続を経験してみる必要があります。
私の考え方や物事の経験の仕方にはこのようなことがたくさん見られます。展覧会の準備にあたって、全体の時間軸としては継続性を目指しますが、展示室の中である特定の時刻や特定の場所において作品が作動したり止まったりするという断裂が起こり、鑑賞者はまた別の方向に導かれて行きます。でもその基礎として、例えば音の調和のように、何かしら凝集性のある要素を取り入れることによって断裂があるのと同時に全体がまとまるようにしています。
2年前に『Why the Lion Roars』(2009)という、いくつかの長編映画が気温の推移に合わせて映画館で上映されるというプロジェクトを行ないました。外の天気が上映プログラムを決めるわけです。一定の天候の日には上映プログラムにも継続性が見られましたが、季節の変わり目などといった時期には上映される映画にもより大きな差異が見られました。このような断裂は新たな意味やナラティブを作り出していて、それが映画のコラージュによって強調されたりされなかったりしていました。また、一般的な映画鑑賞の仕方を基にある法則を決めました。もし90分間もの間に同じ気温が2回以上観測されれば同一の映画がそれまで再生された続きから上映されますが、もし同じ気温がその日の始まりと終わりに観測された場合——もちろん、これはよくあることなのですが——には映画はまた一番最初から上映されます。断裂がもたらす驚きと、継続性を再び見つけることとの喜びやフラストレーションの間でバランスを取ろうとしていたのです。

 


Top: Color photograph from Why the Lion Roars (2009), 41 x 52 cm. © Anri Sala, courtesy the artist and Chantal Crousel, Paris. Bottom: Installation view of publication (foreground) and digital prints (background) from Why the Lion Roars at the National Museum of Art, Osaka, 2011. Photo © 2011 Kazuo Fukunaga.

 

ART iT 展示空間における作品の調和についてお聞きしますが、あなたの作品に見られるこの継続と断裂との表現は、これまでの活動を通して充分に素材を蓄積したからこそ可能になったのでしょうか?

AS 月日が経つにつれて、作品と作品との間の関係性によってより多くを語ることができるのは当然のことです。最初はひとつの作品からもうひとつの作品へと進むことしかできませんが、ある時から個々の作品が表すことだけではなく、作品と作品との間の隙間に明確な表現を見出すことができるようになります。これはもちろん展示空間の特異性に関わることでもありますし、展覧会の予算や、展覧会を作るための統語論をよりよく知ることにも関係あります。新しい作品を作っているときには、その作品が内包する論理にすっかり夢中になります。映像作品を作るときには厳格な映画製作の方法論に従いますが、それが終わると他の作品も並ぶ風景に配置して、もっと彫刻的と言える方法論に切り替えます。
音に例えると、どの作品も高周波と低周波があると考えることができます。高周波は意味や内容に対応し、低周波はより雰囲気的な、でも同じく重要な諸要素に対応します。グループ展で大抵、私の作品がそれらの高周波、つまり声を大にして叫んでいる意味や内容を基に出品されることに対して不満を感じていますが、それは多くのアーティストが言えることでしょう。私が自分の展覧会を企画するときには、作品の低周波を基にして考えます。これはもちろん喩え話ですが、「Doldrums」(2008)はスタンドに乗ったスネアドラムが他の展示作品の音響の低周波に反応するインスタレーション作品なので、その場合は字義通りだと言えますね。一見、背景に見えるものを前景に変えることによって作品と作品との間のあらゆる連関を探します。
このことは私の友人の、アルバニアの政治家で元美術家のエディ・ラマ(ティラナ市長)と行なったプロジェクト「Inversion—Creating Space Where There Appears to Be None」(2010)でより深く追求しました。このプロジェクトの基となったのは、メールを印刷したものや会議中に手元にある政治資料などに落書きをするというエディの癖です。前景と背景とを取り替えると必然的に視点が変わるのは常識ですが、私にとってエディの落書きは、その視覚的な要素のほかに、眼の前景とは必ずしも脳の前景とは一致しないことを表している点で非常に興味深いです。エディの眼と手は紙に描いている落書きに集中していても、その落書きの背景、つまり政治的な内容が彼の脳の前景にあるわけです。この脳の前景と眼の前景との差異について考えることがプロジェクトの主旨でした。

 


Top: Installation view of Inversion – Creating Space Where There Appears to be None (2010) at Musée d’art contemporain de Montréal, 2011. Bottom: Exhibition view of “Anri Sala” at Musée d’art contemporain de Montréal, 2011, with the single-channel projection Answer Me (2008) visible at right and Doldrum (2008) visible at left. Both: Photo Guy L’Heureux, collection of the Media Centre, Musée d’art contemporain de Montréal.

 

ART iT そしてもちろん、政治とは背景と前景との間で常に切り替わっているものですね。例えばチュニジアの社会的不公正は、街頭で物売りをしていたモハメド・ブアジジという男が焼身自殺を図るまで世界の意識の背景にありました。

AS その通りですね。そしてこの背景的な事件——いえ、事件ではなくて正真正銘の政治行為ですね——は、同じく背景にいた他の人たちがその政治行為を様々な文脈において展開させていく準備ができていなかったら前景に変わることはなかったかもしれません。エディ・ラマとのプロジェクトの出発点はバロック時代の画家、ニコラ・プッサン(1594–1665)による絵画作品でした。「蛇に殺された男のいる風景」(c. 1649)[注1]と呼ばれていますが、ただ男を指すのではなく、風景の中にいる男を指すという点で美しい題名だと思います。その男は風景の一部でしかなく、それは背景にある城からの眺めを想像するとより強調されます。城は政治体制の前景であり、そこからは男は見えないのですから。
私たちのプロジェクトは、この作品の背景と前景を取り替えたらその歴史はどう変わるのかという会話から始まりました。政治全般は中心と周辺との関係性として生まれるこや、ブリュッセルやワシントンといった「中心」から命じられる価値観は「周辺」に届く頃にはすっかり堕落していることについて話しました。そしてその周辺にいる一部の人がそれらの価値観に実際的な意味付けをすることに献身しても、ブリュッセルやワシントンの政治家たちはその価値観の内容が伝わることよりも、そのメッセージが正しい統語論を持って伝えられたかどうかを気にするのです。

 


Exhibition view of “Anri Sala” at the National Museum of Art, Osaka, 2011, with Doldrums (2008) in foreground and digital prints from Why the Lion Roars (2009) in background. Photo © 2011 Kazuo Fukunaga.

 

ART iT 高周波と低周波、前景と背景、そして統語論についてお話を聞いてきました。これらが成すコンセプチュアルな言語体系があなたの音楽への興味に繋がっているのでしょうか? 音楽に興味を持たれているのは、その演奏や鑑賞に一種の統語構造が明らかに見て取れるからでしょうか? それとも音楽への関心は統語論に関心を持つ前からあったのでしょうか?

AS どちらとも言えます。音楽は文字通りにも比喩的にも低周波と高周波とを併せ持っているので、ナラティブを伝える方法としてとても面白いと思います。高周波はどちらかと言えば記憶と関係していて、低周波が持つ雰囲気は体験に関係しています。例えば、メロディは大抵中くらいから高周波にありますが、コンサートに行って翌日、友達と話しているときに言葉で伝えられないのは低周波、つまり身体で感じたことです。
音と音楽はこういった特徴を、言語よりも興味深く幅広いかたちで持っています。言語は必然的に高周波に基づいているのではないかと思うのです——何度も繰り返して言うことができますし、そもそも言語とは体験そのものではなく、既になんらかの体験の訳でしかありません。音楽はどちらの側面も同時に持っています。そういう意味では「Intervista」や「Dammi i colori」は何かになる過程のドキュメンタリー、もしくは何にもなれないドキュメンタリーだと言えるかもしれません。
言い換えると、人の感情が、言語化不能な、次の日には要約を話すことはできない、一対一でしか体験できないようなことを経験するような状況を作り、それを録音し、監督することに関心を持っています。私の映像作品には、その全てを内包するイコンと呼べるイメージは滅多にありません。全体として体験しなければならないような作品を作りたいと思っています。私にとっては、その効率の悪さこそが私の表現をより明確にするのです。

 

注1  ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵:http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/nicolas-poussin-landscape-with-a-man-killed-by-a-snake

 

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アンリ・サラ インタビュー
抗う彫刻、抗う言語

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