アン・ミー・レー インタビュー(3)

風景が語り出す歴史に耳をすませば
インタビュー / アンドリュー・マークル
Ⅰ. Ⅱ.


Damage Control Training, USS Nashville, Senegal (2009), from the series “Events Ashore.”

Ⅲ.

ART iT これまでのキャリアを振り返ったとき、各シリーズにそれぞれ固有の要素があると感じますか。もしくは、類似した主題を一貫して撮影してきたことで精通するに到ったものがあると思いますか。

AML 以前得意だったこともあれば、未だに得意なこともありますが、風景の中に広がる人間の活動を捉えることは自分の長所のひとつだと考えています。「陸上の出来事」では中間的な距離をとりました。展覧会ポスターに使用した消火訓練の写真は、海兵隊員の放水訓練を至近距離から撮影しているために、それほどスケール感が出ていません。これは私にとって新しいタイプの写真です。または、ふたりを同時に撮影すること。これは必ずしも得意ということはありませんが、必然的だと感じていました。こうしたイメージが全体像をつくりだします。主題があまりにも巨大かつ重要なので、非日常的な出来事が折り畳まれた壮大な風景が自然に立ち上がってくるわけではありません。至近距離のポートレイトという視点や中距離の写真を重ね合わせる必要がありました。

ART iT 「29 Palms」のネガティブな空間や空っぽの空間の使い方が印象的でした。

AML 「29 Palms」も砂漠で撮影したのですが、私には砂漠の空虚さを受け入れ、そこに意味を与える必要がありました。より具体的に言うと、このシリーズでは、風景の雄大さとその前景に写る海兵隊の細かな活動の両方を呈示する方法に挑みました。あまり遠すぎると、風景がわかっても海兵隊の活動がわからない。あまり近すぎると、海兵隊員は把握できるけれど、風景の広大さを逃してしまう。そこには完璧な距離というものがあり、それを突き止めるのに時間を費やしました。
また、写すべき適切な身ぶりを見つけ出すという問題もありました。身ぶりはとても重要です。どこかプンクトゥムのようなものとして機能する身ぶりにはあまり関心がないのは、それをプンクトゥムだとした時点でほかに行くところがなくなってしまうからでしょう。それとは別に、撮影の前後を示唆したり、その運動を拡張し、持続するような身ぶりもあります。そのような持続性には惹かれるものがありますね。もしくは、「これまでに見たことない」と感じさせるような、どこかぎこちない身ぶりがありうる一方で、ありふれた写真の中に、想像通りの爆弾を投げる身ぶりが写っていたとして、それは経験を正確に写し取っているとはいえ、驚くことはありません。しかし、人は不得意なことや未体験のことに挑戦したいと考えるものではないでしょうか。「29 Palms」を制作した後、私はある種の感情の投資と距離を調節する必要を感じました。カラー写真を使って制作するのもそれまでとは異なりました。私は自分が白黒写真で物事を描写するのに優れていると思っていて、それは、ネガティブな空間とポジティブな空間を切り分けることですが、カラー写真は同じようにはいきません。それは別物ですね。

ART iT 自分の写真の中で、物語性というものには意識的に取り組んでいますか。

AML それが物語性かどうかわからないけど、写真とは常にフレームの外にあるものを示唆するものです。フレーム外の事柄を示唆することができればできるほど、興味が湧いてきます。
例えば、「陸上の出来事」には、仏僧と海兵隊員がベトナムに停泊する米海軍病院船内の患者待合室で並んで座っている写真があります。写真に写されているのはそうした状況ですが、フレームを越えて、仏教の思想や宗教の構造に対する軍隊の構造について考えていくことができます。仏僧も海兵隊員も制服を着て、頭を剃っている。けれど、彼らは真逆のところにいます。写されたものだけに集中することもできるかもしれないけれど、この写真はフレームの外側にあるものを考えるよう迫ってきます。ここでまた、客観性と主観性の間に形成されたはかなきものが動きはじめるのです。

ART iT 現在から振り返ってみて、初期シリーズの「Viet Nam」はどのような作品だと思いますか。

AML 二度とベトナムには戻れないと思っていたので、あの旅には浄化作用がありました。フランス系ベトナム人は80年代半ばから90年代初頭に帰国をはじめていましたが、ベトナム系アメリカ人にとってはアメリカとの関係が正常化する90年代半ばまで決して安全ではありませんでした。突然、戦争のせいで決して満足に経験できなかった子供時代や文化に立ち戻り、再び繋がるという願ってもない機会が訪れました。
とはいえ、それは私が戦争を受け入れるということではありません。それよりも、自分が知らなかったベトナム北部と繋がることに興味がありました。私の母はベトナム北部の昔ながらの家の出身だったので、それについて知りたい、そこの風景を理解したいと思いました。私がサイゴンに住んでいたとき、市内の方が安全だったので、どこかに出掛けでも、いつも日暮れまでには帰宅していました。だから、私はベトナム文化におけるそうした風景やその役割について本当に学びたかったのです。「Viet Nam」の写真にはどこか懐かしさや悲しさがあると言えますが、それはこうした感情を与えようとするもので、戦争という話題は完全に無視していました。
滞在の終わりが近づくにつれて、航空機や破壊を示唆するような凧や煙を写した曖昧な写真を撮影するようになりました。非武装地帯にも足を運びましたが、このプロジェクトの終わりにアメリカに帰国して初めて戦争を扱うべき切迫感を感じました。それから例のリエナクトメントを行なっている人々を探しはじめました。
ベトナムでの制作により時間を費やしたことで、自分自身がベトナム人よりもアメリカ人であるということに気づき、ベトナム系アメリカ人でいることの居心地の良さを認識すること、いやむしろ、自分がほかの何よりもまずアーティストであるということを認識することが重要でした。

ART iT 「Viet Nam」から「Small Wars」、もしくは「Viet Nam」から「陸上の出来事」へと移る際に、写真の構成や主題の選び方において、なんらかの飛躍はありましたか。

AMA まず、風景は常に重要なものとしてあります。先にも言いましたが、私は「ニュートポグラフィックス」に関係するすべての世代の写真家を素晴らしいと思っています。しかし、ある風景に対する人間の介入をほのめかすだけでなく、そっくりそのまま描写するにはどうしたらいいのだろうか。これは私が昔から抱えていた問いだったのですが、ベトナムを訪れてから、それが徐々にわかってきたような気がします。
実際のところ、その時点まで私は風景写真家ではありませんでした。アーティストではなく、生物学者としての教育を受け、イェール大学に進学する前は、フランスの職人組合のために室内写真を撮影する仕事をしていて、かなりいい腕をしていました。その後、ずっと室内で仕事をするわけにはいかないから、新しいことを試して見なさいと教授に言われました。そうして私は風景へと切り替えたのですが、ニューヘイブンの風景はかなりありきたりなもので、厳しい講評を何度か受けて諦めかけました。それから、おそらく自分自身の静物画を制作しようと、ベトナムの世紀末前後の画像や自分の生物学の経験を連想させる実験器具の収集をはじめ、それらを撮影する場面に組み込んでいきました。
これはベトナムを訪れたときの体験ですが、着いた途端に風景が私に語りかけてくるのがわかり、こうしてそれ以前にはわからなかったことが、すぐにわかるようになっていきました。

ART iT そのときは既に大判カメラを使っていましたか。

AML はい。フランスの室内撮影では4×5判、イェールでは5×7判を使っていました。でも、ベトナムのときみたいに、バイクに乗って走り回り、気になるものを見つけたら、バイクを停めて撮影するという使い方はしたことがありませんでした。画面は構成されていますが、成り行きで撮ったようにも見えます。自分が経験したことをカメラにも経験させたいと思っていました。そうして、自分が身体的に、感情的に体験したことを複製するために、どこにカメラを置けばいいのかがわかっていきました。

ART iT 毎回、どれくらいシャッターを切りますか。

AML 三脚を立てる位置を決めたら、失敗した時のために何枚か余分にシャッターを切りました。しかし、基本的には自分が立ちたい場所を正確にわかっていました。数カ所選んで、露出を変えて撮影するなんてことはなく、そういうことは滅多にありません。あちこち歩いて、カメラを置くべき場所を正確に決めました。建物の上とか別の角度からもう1枚撮影することもできたかもしれませんが。

ART iT そのような制作プロセスは、動いているヘリコプターや戦車やその他の乗り物といった軍隊の写真を撮るときにどのように機能しますか。

AML それは難しいですね。「Small Wars」からだと思いますが、最初にリエナクトメントに行ったとき、巨大な大判カメラを持って男たちの後を走るなんてありえないと思ったので、代わりに手持ちのカメラを持っていきました。自分の道具について考え直そうとしましたが、いくつかプリントにしてみて、その質にがっかりしました。雰囲気や空間の様相、その豊かさや物質性が写っていなかったのです。そこで、5×7判で撮影したらどうかと思いつきました。そして、ティモシー・H・オサリバン*1 や19世紀の戦争写真家が頭に浮かんできて、動きと自発性を抑えることに決めて、セットアップで撮影していきました。
いい学習体験になりました。リエナクトメントは夏の各月3日間しか開かれないのも、撮影に戻るまでまるまる1カ月待たなければいけないのもつらかったですね。適切な風景を見つけ出すのに練習が必要でした。例えば、リエナクトメントの参加者の再演が面白くても、風景が適切でなければ、演技が止まったときに適切な風景まで動いてもらわなければなりません。より映画監督に近づいていったのですが、それは私にとって簡単なことではありませんでした。参加者に指示を与え、中断し、変更していく。なぜなら、あなたが言ったように、私も参加者側にいるから、あまり邪魔をしたくないわけです。参加者に拒否されることもありますし、常に度を超してないか自問したり、何も起こらないときなど、できる限りのことをやっただろうかと考えたりします。うまくいったと感じることもあれば、やりきれなかった感情に背を向けることもありました。

ART iT 『他人の時間』には、ベトナム戦争時、ベトコンとともに過ごし、現在もベトナムで暮らしているヴォー・アン・カーン*2 という写真家も参加しています。彼の作品は知っていましたか。

AML ええ、もちろん知っていますし、大好きな作品です。なにかが少しだけセットアップされていて、おそらくプロパガンダとして制作されたものだとわかります。この感じが好きですね。作品の本質を問うちょっとした選言肢があり、実際、この作品は写真資料とアートの境界にまたがっています。

ART iT 「ベトナム」はなんらかの形であなたの制作全体の底流をなしていると思いますか。

AML おそらくそれはベトナムではなく、政治性や軍事的な衝突といったものになるでしょう。私の人生全体に影響を与えたのですから。自分を犠牲者だと考えてはいませんが、幼い頃に考えたことで覚えているのは、「なぜ、ベトナムに生まれたのか」、「なぜ、こうした現状と向き合わなければいけないのか」といったことでした。アメリカでさえ、70、80年代はベトナムという考えがまだまだ未熟で、ベトナム戦争関連の問題が起こったとき、人々は私を見たり、居心地が悪そうにしていました。『ウェルカム・ホーム』(1989)*3 のようなベトナムを扱ったいろんな映画が公開されました。この映画ではクリス・クリストファーソンが17年間の行方不明を経てアメリカに帰還した獣医役を演じています。大学の友人たちとこの映画に行き、観終わってから激しい議論を交わしたのを覚えています。私には私自身の考えがあって、当然それはほかのみんなとは全然違っていて、「あなたにとって、これは個人的な問題だね」とか「イライラしてきた」などと彼らに言われて、腹が立ちました。あの戦争はあまりにも恐ろしく、破壊的なものだったので、ベトナム人だけでなく多くのアメリカ人にも影響を残しており、私はアメリカに残る影響を未だに感じ取ることができます。アメリカ全体になんらかの形で常に関係づけられている意識があり、それを切り離すことなどできません。
非難される兵士という考えも私には難しいものです。悲惨な出来事を犯したGIを英雄視することはありませんでしたが、戦争が終わりに近づいている頃、状況は本当に切迫していて、ベトナム南部にいた人々はみな、アメリカ人が助けに来てくれる日を待ち望んでいました。このように、私にとって米軍もまた複雑なものです。実際に複雑な方法で軍隊を調査し、混乱した状況下においても、男性でも女性でもその人となりや誠実さを備えた興味深い兵士の存在を確認し、そのような状況が決してその存在を否定しないことがわかり、安心しました。意識的に自分の決断力を放棄し、他者がすべてを決める軍隊に加わることに関して、私はアメリカ海軍と親しくなり、共同で働くようになるまで理解できませんでした。それはまさに信頼の問題で、彼らに誠実さや意見がないということではありませんが、混沌としています。それこそ私が見せたいと考えているもののひとつであり、私の仕事はその混乱を紐解くことやなんらかの解決の方法に人々を導くことはありません。だから私たちはアーティストなのだと思います。混乱を取り上げ、それを混乱のままにしておくのです。

(協力:東京都現代美術館)


*1 ティモシー・H・オサリバン(1840-1882):ゲティスバーグの戦いを含む南北戦争を撮影した写真や合衆国地質調査隊に雇われて撮影した西部開拓の写真で知られる。風景写真を考える上で、『ニュー・トポグラフィックス:人間が変えた風景の写真』でもひとつの参照項として挙げられている。

*2 ヴォー・アン・カーン(1936-):ベトナム戦争により家族で経営していた写真店をたたみ、ベトコンの覆面写真家として最前線でゲリラ活動を記録していた。2002年にニューヨークの国際写真センターで開催された『Another Vietnam』で、細心の注意を払って庭に埋めていたネガからのプリントを発表して以来、注目を集めている。

*3『ウェルカム・ホーム』(1989):行方不明で17年後に故郷に戻ってきたベトナム帰還兵を扱った映画。『猿の惑星』や『パットン大戦車軍団』などを手がけたフランクリン・J・シャフナーが監督を務めた最後の作品。ミュージシャンで、自身も兵役経験を持つクリス・クリストファーソンが主演を務めた。

アン・ミー・レー|An-My Lê
1960年サイゴン生まれ。ニューヨーク在住。ベトナムやアメリカ合衆国のみならず世界展開する米軍の活動や、戦争を再演する人々、戦争が変えた風景を大判カメラで撮影した写真作品で知られる。ベトナム戦争が終結した75年に家族とともに政治難民として渡米。生物学を専攻していたスタンフォード大学時代に写真に出会い、85年に修士号を取得した後、美術や写真を学ぶためにイェール大学に進み、93年に修士号を取得する。98年以降はバード・カレッジの教育にも携わり、現在は同校の教授を務めている。
これまでに、ボルチモア美術館(2013)やディア・ビーコン(2006-07)、シカゴ現代写真美術館(2006)で個展を開催。ニューヨーク近代美術館やメトロポリタン美術館、ホイットニー美術館、サンフランシスコ近代美術館などの企画展に参加。老舗写真集出版社アパチャーから、写真集『Events Ashore』(2014)、『Small Wars』(2005)を出版している。
http://www.anmyle.com/

他人の時間
2015年7月25日(土)-9月23日(水、祝)
国立国際美術館
http://www.nmao.go.jp/

他人の時間
2015年4月11日(土)-6月28日(日)
東京都現代美術館
http://www.mot-art-museum.jp/

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