17:松尾邦之助と読売アンデパンダン展(1)

東京都現代美術館では昨年の秋より今年の5月まで、前期・後期に分け『クロニクル 1947-1963 アンデパンダンの時代』と題するコレクション展を開いている。戦後早々に始まった二つのアンデパンダン展をめぐる集中展示で、資料面も充実しており、見応えがあった。とりわけ『読売アンデパンダン(以下、読売アンパン)』展(当初は『日本アンデパンダン』)は戦後の前衛美術に関心を持つ者にとっては骨子となる主題だ。が、その読売アンパンをいったい誰が企画し、実現に至らせたのかということに関しては、本展を通じても結局わからずじまいだった。そこで展評という括りを離れ、今回から数回に分けて、ある人物について書こうと思う。その人の名は、たとえば、今年生誕100年を迎えた岡本太郎が戦前に書いた『母の手紙』のなかで、ごくさりげなく記されている。ちなみに以下は、太郎の母かの子が、パリに残る息子にベルリンから寄せた手紙の、ほんの短い追伸にすぎない。

「太郎殿 藤田氏、松尾氏はどうしていますか。かの子」
(1931年9月1日の手紙、『母の手紙——母かの子・父一平への追想』、チクマ秀版社版、1993年、89頁。)

あるいは、一平・かの子が東京に戻ってから、遠く離れた太郎へ書き送った手紙からの一節。

「日本から送ってもらい度いもの云ってよこしなさい。ゼイのことが気にかかるからこれも是非知らせて下さい。ほかにお前のおせわになる方々にもなにか送り度いがゼイのこと心配で送れナイ、松尾さんがほしいものきいといて下さい、是非是非、送りますから。」
(同、133頁。)

さらにもう一箇所引いておく。

「タベモノゼイを大変とられそうだから、松尾さんには直接送らなかったのよ。一度だけアンタの処へ送ったから、そのまま届けて下さい。アンタに別に一箱送ったタベモノと同種類なの。ワスレズに送っくれよね。」
(同、136頁。)

これらの記述からだけでは、この「松尾」という人物について詳しいことは全くわからない。けれども、今はそれで十分だ。この謎の人物が、東京美術学校で一平と同期であった藤田嗣治と並んで、かの子が息子太郎の世話を頼み、折々の手紙で気にかける程度には恩人となっていたこと、そしてそのお礼として、税金を気にかけても食べ物(おそらくは日本食に関連して)を太郎経由で送っていたということを確認しておけばそれでよい。少なくとも太郎はパリ時代、この「松尾」なる人物にしばしば顔を合わせ、なにかと面倒をみてもらっていたようだ。
 
彼の名は松尾邦之助−−−−当時、在パリの読売新聞社・特派員であった。

おおかた聞き慣れぬこの人物が、私のような戦後の日本美術について考える批評家にとってなぜ、重要なのか。結論からいってしまえば、私は、1960年代初頭に燃え盛り、戦後日本のアヴァンギャルド美術の拠点となった『読売アンパン』の仕掛け人とは、実はこの松尾邦之助ではなかったか、と考えているのだ。
 
通説では、この『読売アンパン』は、読売新聞文化部に在籍し、岡本太郎とも親しい関係にあった海藤日出男の尽力によるところが大きいとされている。事実、赤瀬川原平による著作『反芸術アンパン』を読むと、いまや読売アンパンの代名詞と言ってよい「ネオダダ」や「反芸術」の動きについて、海藤が果たした役割の大きさが伺い知れる。ほかにも、先の岡本太郎を引き合いに出せば、現在に伝えられる代表作のひとつ「痛ましき腕」(1936)などは、戦争で焼失したパリ時代の絵の再制作について海藤からの提言を太郎が受け入れ、描かれたものだ。
 
けれども、「画壇」の権威がまかり通っていた当時の美術界にあって、「無褒賞かつ無審査で、誰もが自由に出品できる」、つまり、表現にまつわるヒエラルキーの一切を排したアナーキーきわまりない展覧会を日本で実現することが、そもそも、どの時点で誰によって発案され、読売新聞社による公の事業として実現に至ったのか、ということになると、当時の資料は(新聞社にも)まったく残されていない。少なくとも、敗戦直後に社長正力松太郎以下経営陣の戦争責任の追求と社内の民主化を求めた読売争議(1945〜46)に加わることで、免職こそ免れたものの、処分上の休職を経て経済部から文化部へと移ったばかりの海藤に、その力があったとは考えにくい。その後の読売新聞社による文化事業をめぐって、海藤に大きな貢献があったことは疑いえないにしても、『読売アンパン』そのものの発起人でなかったことは確かだろう。
 
では、松尾邦之助とはいったいどのような人物なのか。そのあたりから始めよう。
松尾は1899(明治32)年に静岡で生まれた。東京外国語大学フランス語文科を卒業後、逓信省に就職。22年には留学のためマルセイユ経由でフランスの土を踏む。すでにフランスには藤田らが渡っていた。
フランスでは日仏文化交流の原点というべき『日仏評論』を独力で刊行。日仏文化連絡協会を組織して、先の藤田や石黒敬七、金子光晴らと親しく交流した。太郎が一平、かの子とともにマルセイユ港を経てパリに到着したのは30年のことだから、あるいは一家は松尾のことを藤田から紹介されたのかもしれない。
個々の交友関係はともかく、松尾について考えるときに最初に確認しておかなければならないのは、彼が単なる国際的な文化人というのではなく、無政府主義(アナーキズム)を強く支持するアクの強い人物であったという点だ。実際、松尾が読売新聞社と関係を持つのは、大正期を代表するアナーキズムの詩人、辻潤のあとを受け、パリ文芸特置員となったのがきっかけだった。松尾はその後、読売新聞社初の海外特派員となり(岡本太郎と接触があったのはこの頃のことと思われる)、さらにはパリ支局長となる。
 
在任中に第二次世界大戦が勃発したが、日本へ向かう最後の引き揚げ船、白山丸で帰国した岡本太郎や、その直前に日本郵船の伏見丸で日本に戻ることになる藤田らと違い、松尾はそのまま欧州に残り続ける。パリ支局に留まった松尾は、41年にナチスによりパリ陥落後、イスタンブールに特派され、43年にはマドリード支局長となり、ついに敗戦を迎える。最終的に帰国したのは敗戦後、46年1月のことだった。帰国後はすぐに読売新聞に復職し、7月には論説委員、さらには副主筆にまで登り詰める(ちなみに現在の読売新聞社で「主筆」に当たるのは、ナベツネこと渡邉恒雄と聞く)。その後、57年に退職。75年に藤沢市の辻堂で死去している。
 
先に触れた通り、松尾は帰国後、敬愛した辻潤が25年に創刊した雑誌『虚無思想研究』を復刊するほど、大正期の虚無主義や無政府主義思想の薫陶を受けた人物だった。実際、大正期のアナーキストといえば真っ先に名が出てくる大杉栄に一時期、パリで活動して収監された際には、差し入れのために足を運んだことがあると自著にも書いている。美術と文学を好んだ松尾はとりわけ藤田と親しい交友を結び、フランスの美術界についての詳細な知識と人脈を得ていた。革命以後の独立独歩の市民精神に由来する『アンデパンダン展』のあり方と、彼のなかの無政府主義思想が結びついたとしても、何の不思議もない。
ちなみに、『読売アンパン』が開幕したのは、松尾が帰国して数年を経た、49年1月のことだった。
Part2へ続く) 

Copyrighted Image