18:松尾邦之助と読売アンデパンダン展(2)

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あらためて確認しておきたいのは、敗戦直後、藤田嗣治や岡本太郎と深い繋がりがあり、進んだフランス美術界の事情にも詳しく通じ、おまけに思想的には著しく無政府主義に傾く人物が、日本を代表する新聞社の中枢に在籍していたという事実である。そのような人物が、帰国後、戦争を経てもなお揺るがない「画壇」を中心に、鎖国的に組織されてきた日本の美術界とぶつからないはずがない。
 
具体的な例を出しておこう。たとえば松尾は、敗戦後にヨーロッパから戻る船の中で、次のような演説をぶったとされている。少し長くなるが、『読売アンデパンダン』展の成り立ちを考えるうえで、極めて大きな意味を持つと考えられるので、どうか、おつきあいいただきたい。そして、その内容や語感について、よく心に留めておいてほしいのだ。

「われわれ日本人が、無分別な戦争に踏みきり、今日見るようなみじめな不幸な敗戦をもたらしたのは、われわれ同胞が、迷信と宗教を混同する封建人であり、個人としての独立精神も、批判精神もなく、考え方がいつも絶対で、全体主義であったという弱さが根本にあり、それが権力者にとって巧みに利用されてしまったのです。とにかく、この戦争は、権力者が天皇の名で仕組んだものであり、庶民大衆のものでもなく、そこに自然発生的な何者もなかったということに、根本的なエラーがあったのです。国民は騙され、他方、少数権力者が言論の自由を圧殺し、非合理な惟神(かんながら)政治を喧伝強制し、正直な歴史研究者の説を歪曲させたばかりか、教育によって思想を統制し、国民を騙しつづけてきたのです。」
(松尾邦之助『無頼記者、戦後日本を撃つ』、社会評論社、2006年、66頁、下線筆者)

「敗戦」を「原発事故」に、「天皇」を「原子力の平和利用」に置き換えれば、そのまま現在の状況に通じてしまいそうで、思わず下線部分を強調してしまった。あれから、日本人は何も変わっていなかったのだろうか? そう思うと暗澹たる気分になってしまう。が、ひとまず引用を続けよう。

「そうした意味で、この悲劇的敗戦は、必然当然だったと思うのです。ひと口にいってテキヤ的なウソの歴史によって、みんな踊らされたのです。政府が鳴り物入りで宣伝謳歌した日本歴史の2600年説など、わたしも騙されていた一人であり、パリ大学の卒業論文にこれを書いて、日本文学研究で有名なミシェル・ルヴォン教授に笑われました。『日本書紀』に書いてある年代が、600年引き延してあったことを、戦前一部学会人は別として、誰も声を大きくしていわなかったし、国民もそれを知らなかったという事実など、呆れた話であり、国民をあざむいた著しい一例です。日本では、西欧のルネサンス以後に育ったような合理主義も、実証主義哲学も、科学精神も全くなかったのです。」
(同、66頁、下線筆者)

日本で苦しい戦時下を経験していないから、こんな好き勝手に日本人を叩けるのだ、と言う人もいるかもしれない。けれども、たとえそうだとしても、松尾の言っていることに別段、まちがいがあるわけでもなかろう。逆に言えば、こんな当りまえのことさえ、戦時中の日本では一切口に出せなかったことの方が問題だった。そして、それは戦中、陸軍報道部によって画題から画材に至るまでを牛耳られていた日本の美術界にとっても、まったく同様に当てはまる。松尾のように、内地での戦時体制も外地への従軍も一切経験しなかったからこそ見出せる自由が、確かにあったのだ。一方、パリでの交流があり、戦争の勃発を機に松尾より早く日本の土を踏んだ藤田は華やかな戦争画の騎手となり、太郎は中国戦線に従軍して嫌々ながら上司の肖像を描かされていた。

この意味で松尾は、いわば「純正の外圧」として、占領下の故国に足を踏み入れたことになる。もっとも松尾は、真っ先に政治や経済に関心が向くタイプの人間ではなかった。滞仏時代に長く、粘り強く果たした役割は、読売新聞パリ支局長として培った、フランスを代表する多くの知識人・文化人との交流を糧に、日本人とフランス人のあいだに、真の意味での文化交流を形作ることにあった。言うまでもなく美術は、松尾にとって最大の関心事のひとつであった。もしも松尾の滞仏時代に彼のもとに集まった美術品の数々が、戦後、日本に持ち帰られていたら、相当のコレクションとなっていたにちがいない。帰国後に、松尾の大学の同窓生で、パリでも交友のあった画家の有島生馬を訪ねた際、有島に「パリから絵やデッサン類を持ち帰りましたか」と聞かれて、松尾は次のように答えている。

「絵? 冗談じゃありません。ピカソ、シャガル、デュフィー、アンドレ・ロートなどから貰った名画の数々も、みなベルリンの戦火で灰燼に帰し、身のまわりの物以外、何も持たずに風のように上陸したんです。何もないということは、気軽いものですよ。しかし、『こん畜生』と思って癇に障るのは、在欧26年間に、ジイドや、ロマン・ローランや、アンリ・ド・レニエや、その他わたしに親しくしてくれた2、30人の作家や思想家から貰った肉筆の手紙の束が、ベルリンの宿で英国の爆撃機モスクィトーによって灰にされたことですよ」
(同、154頁)

こんな松尾であるから、日本に戻り、依然、封建主義の色濃い画壇を目の当たりにした時、おのれの主義・信条にもとる旧態依然としたシステムの解体へと活動の矛先が向いたとしても、何の不思議もない。よく知られたように、戦後そのようにして画壇に果敢な挑戦状をつきつけた人物に岡本太郎がいる。帰国後、松尾と太郎が再会を果たしていたのか、そうだとして、では具体的な結びつきがあったのかは現時点ではわからない。が、太郎が中国戦線より復員後、にわかに日本の美術界を石器時代とみなし、それとの苛烈な「闘い」を宣言したことと、松尾の「思想」とのあいだには、ある種の「共鳴」があったのではないか。読売新聞社文化部と岡本太郎との関係で言えば、前回にも触れた海藤日出男との交友はよく知られ、記録も少なからず残されている。が、のちにアナーキーな美術の最前線となる「読売アンパン」という温床を立ち上げた読売新聞社本体との関係で言えば、当時、副主筆にまで登り詰めていた松尾の影響力は、決して見逃せないものであったはずだ。事実、経営陣からも大きな評価を得ていた松尾が、新聞社を主体に大きな文化事業を立ち上げようとすれば、その中身を裁量し、実際にゴーサインを出せる立場にいたのである。(続く

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