殿敷侃「BARRICADE IWAKI」1988年 いわき市立美術館での展示風景
写真提供:広島市現代美術館(以降すべて)
私がまだ20代だった頃、生前の殿敷侃(とのしきただし)に一度だけ会って話を聞いたことがある。いつのことかはっきりと思い出せないのだが、場所は都内だったので、たぶん殿敷は展覧会に関連して上京していたのだと思う。私が京都から東京に戻ったのは1986年で、殿敷はその年の9月に秋山画廊で、翌87年9月にもかねこ・あーとG1で、続いて88年には7月に秋山画廊で個展を開いている。このうち「椰子の実のためのバリケード」(1987年)はその強烈なインパクトで記憶がおぼろげながら残っているので、その時の可能性もなくはない。しかしその後、殿敷は90年にも本格的なインスタレーション作品「SAGACHO-TV-BARRICADE」を佐賀町エキジビット・スペースでのグループ展(「Eight Individuals From East SEOUL-TOKYO-NEW YORK ART PROJECT」)で発表していて、同年にはバイリンガルの大判作品集『逆流する現実 Reversing Reality』を出版し(奥付の版元にあたる箇所が「震源地」とされているのが、のちに触れることと関連して興味深い)、これを持って各所を回っていたというから、もしかしたらその時の可能性もある。いずれにせよ私はそのとき、殿敷との再会を約束して別れたのを覚えている。
「SAGACHO-TV-BARRICADE」1990年 佐賀町エキジビットスペース(東京)での展示風景 撮影:佐藤毅
しかし翌年の91年4月に水戸芸術館で開かれた大規模なグループ展「MITO ANNUAL’91 美術とメッセージ」(出品作=「対峙する墓標」)では、殿敷はすでに体調を崩していて再会もかなわず、それから1年もたたぬ92年の2月には、わずか50歳で亡くなってしまう。私の記憶の中の殿敷は元気そのもので、少年のようにはつらつとしていたから、やはりあれは87年のことだったのだろうか。それとも自分の死期を悟った殿敷の、最後の命の燃焼に立ち会ってのことだったのだろうか。
「対峙する墓標」1991年 水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:佐藤毅
長々と記憶をたぐってみたのには理由がある。故郷の広島での初の本格的な回顧展となった今回の展覧会タイトル「逆流の生まれるところ」は、先に触れた作品集『逆流する現実』に由来する。それにしてもなにが逆流なのか。私には当時、解体された家の廃材や海からの漂着物、テレビのような生活廃棄物や廃車となった自動車、そして古タイヤなどを屋外の自然や整然とした美術館の展示室とぶつけ合わせてダイナミックに同居させるインスタレーションに、その頃隆盛を極めていたサイバーパンク的なジャンクの美学と共通の匂い(たとえば三上晴子のそれ)を感じ取りつつも、ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻から影響を受けたという殿敷が重んじているのは、役割を終えてあとは始末されるのを待つばかりの無用物を、ほとんど暴力的に再生させる行為に「逆流」というコンセプトがあるのだろうというくらいにしか感じていなかった。しかし、それではなぜそれを「墓標」と呼ぶのか−−そのことについて当時の私はまだ、考えが及んでいなかったと言うほかない。当時の殿敷がどういう境界線に立たされた美術家であったかについて、実はそれがたんにサイバーパンク的な美学やコンセプチュアルな方法論にはとうてい収まらないのを知ったのは、もっとずっとあとのことだった。
殿敷は3歳の時、広島の爆心地で命を落とした父を探して入市した母の背で二次被曝し、その母も8歳の時には病死し、自身も生涯にわたって健康への不安と不調を抱えていた。旧国鉄の職員となったあとも、おのずと彼は被曝者たちが社会の中で置かれた立場や、原爆による被爆で原型をとどめず、社会の中での役割を失った廃品などへの彼ならではの視線を鍛えながら、独学で働きながら絵を身につけていった。なかでも父親の遺品となった三日月形に切られたわずかな爪は、1980年から始まる版画の連作「霊地」以降、繰り返し、かつ執拗極まりないかたちで際限なく増殖し、画面に現れるようになる。
「霊地」1980-81年頃
それらは、私が殿敷に会った頃の大規模、かつ集団的なアート・プロジェクトとは似ても似つかぬものだったが、思えば、現実の中での役割を奪われた瓦礫や廃品をもう一度、強制的に現実へと逆流させる意思(怒り)の強靭さにおいては、形こそ違えども共通している。とはいえ、私はこの頃の殿敷の作品を知った当初は、同一人物の作品だとにわかには信じられず、目を疑った。前者は、膨大な時間をかけた個人的作業の集積の中から浮かび上がってくる繊細極まりない作品であるのに対して、後期のプロジェクトは、まったく逆に多くの人を巻き込み、不特定の人がたまたま目にする社会との接点の中で、しかし一時的にだけ可視化され、写真や映像による記録でしかその大半が残らない仮設のものであったからだ。
だが、そこにこそ本当の意味での「逆流」はあったのかもしれない。かつてのように絵を描くことをやめた殿敷は晩年、遺品や失われた記憶をイメージとして絵に写し換えるのではなく、そのもととなる廃品そのものへと肉薄していくようになる。つまり、絵からインスタレーションへと「発展」したのではなく、絵から現物へと「逆流」したのだと受け取るべきなのだ。事実、90年に刊行された作品集『逆流する現実』には、絵や版画時代の作品は、ごっそりと切り落とされたようにその一切が収められていない。これはあきらかに不自然で、過去作を全否定しているように見えなくもない。あるいは殿敷は、現代美術家として再出発したいがために、演出としてそうしたのだろうか。それもなくはない気がする。けれども殿敷には、それをするにはあまりにも時間が残されていなかった。過去作の消滅は、やはりどこまでいっても模倣(ミメーシス)でしかない絵や版画が「現物への逆流」によって全面にわたって覆い尽くされ、潜伏化してしまったのだと考えるほかなかろう。
『殿敷侃:逆流の生まれるところ』展(広島市現代美術館、2017年)会場風景 撮影:花田憲一(花田写真事務所)
その意味では、ごく初期の油絵から亡くなる直前のプロジェクトの記録まで時系列に沿い、美術館の中で並べられている今回の展覧会自体が、もしかしたら殿敷の思惑に反して逆流しているのかもしれない。けれども、もしそうだとしても、この「逆流の生まれるところ」から私は、殿敷をめぐる新たな発見を数多くした。そのうち真っ先に頭によぎったのは、廃品や廃物を無造作に山積みする晩年のインスタレーションが、東日本大震災を経たあとの私たちの目からは、否応なく大津波によって海が「逆流」し、生活と現実のすべてを奪って瓦礫の山を現出させたあの「事後の風景」と酷似しているということである。
なかでも、原子力災害の被災地ともなった福島県のいわき市美術館の入り口付近で美術館へと向かう通行者を妨害するように遮蔽物(バリケード)として組まれた文字通りの「BARRICADE IWAKI」(1988年、本記事冒頭の写真)は--そう言えば、先に触れた三上晴子が飴屋法水と共同で立ち上げた展示=演劇も「バリカーデ」(1987年)だった--のちに現実のものとなる風景の破壊を予示的に先取りすることで、かねてから私が呼ぶ「事前の芸術」のひとつと考えることができる。実際、それは2011年という未来から1988年という事前の時間へと「逆流」した反・風景でもあったのだ。
また、今回の展覧会で改めて気づかされたのは、殿敷の作品に時期や方法を問わず、自動車が随所で目立つことだ。これは、晩年の自動車を丸ごと使ったり、タイヤを木に果実のように大量にぶら下げたりする作品(たとえば「タイヤの生る木(Plan 5)」、1989年)に限らず、父親の爪形の集積をスクリーンとして新聞広告を薄明下のように浮かび上がらせるシルクスクリーンによる連作(たとえば「作品4」1981年)でも見いだすことができる。
自動車については、東日本大震災の大津波が太平洋沿岸を一斉に襲う様がテレビを通じて中継された時、誰もが驚きのもと目を釘付けにされたはずだ。逃げ遅れた人を乗せたまま、あるいは不在のまま区別もつかず、まるで淀みに集積する駒のようになされるがままに車が浮遊する信じがたい場面や、ガソリン不足で避難する人が乗り捨てた自動車が道や駅に「廃物」のように延々と列をなして置かれた様である。それがいまとなっては、まるで過去から再訪した殿敷のインスタレーションのようでもあり、時間を逆流して脳裏に焼き付いたまま離れない。実際、一般には「見に行くことができない」帰還困難区域の中では、置き去りにされた自動車が依然、駐車場などにそのまま残されて「現実に逆流」し続けている。
それにしてもなぜ、殿敷はことのほか自動車に関心を寄せたのだろうか。その一方で、殿敷がかつて職員であった国鉄から連想される鉄道的な要素は、自動車に比較したとき、ほとんど見当たらない。では、鉄道と自動車との違いはなんだろうか。それは前者が時刻表に象徴される組織的な管理とシステムの運用の産物であるのに対し、後者が極めてプライベートな移動手段であり、好きなときに好きなところへと好きなだけ向かうことができる自由さを備えていることかもしれない。殿敷がそれゆえ鉄道よりも自動車に関心を寄せて作品を作っていたと積極的に考える材料はいまのところない。だが、車のように自由であることは、その代償として自分の意思ですべてを決定しなければならない危機の局面をつねにはらんでいる。あるいは殿敷が自動車に込めたものは、自由よりもかえってこの危機の方であったかもしれない。自分の死期を常に意識せざるをえなかった殿敷は、鉄道的な「時刻」などに左右されることなく、いつ断たれるかもしれない現実から逆流して活動する自由を「円環」する車(タイヤの群れ)によってつかのま、誰にも気兼ねせず得ていたとも言える。むろん、その自由は限られた「時限」だからこそ成り立つものであり、おのずとそれゆえの終着地とその臨界をいずれあらわにせざるをえない(ゆえに鉄道事故よりも自動車事故の方がはるかに頻度が高いのは言うまでもない)。
もっとも、「逆流の生まれるところ」展を見て、私の目が殿敷の中の自動車という存在の両義性に向かったのは、ある意味、「風に逆流して」とも読める「Don’t Follow the Wind」展を通じて「グランギニョル未来」が福島県の帰還困難区域で展示している作品が、広島に本拠地を置くマツダ社製の自動車を一時廃車にして作った「デミオ福島501」という作品であることにもよる。もしも殿敷が生きていたら、帰還困難区域の中でいまこの時も刻々と被曝しながら「現実に逆流」し続けている私たちの自動車についてどう思ったか、再会などともったいぶることなく、時間に糸目などつけず、話をしてみたいものだ。記憶の中の殿敷の人懐っこいが、少しはにかんだような笑顔を久しぶりに思い出して、いま広島と福島のあいだにある東京で、そんなふうに感じている。
付記:本論を脱稿後、2014年に書かれた論文、中村有丞「殿敷侃:絵画からインスタレーションへの展開」に目を通す機会を得た。筆者の過去の著作への参照が各所であり、殿敷の晩年のインスタレーションと東日本大震災以後の風景との関係についても触れられており興味深い視点を提供しているが、これについてはまたの機会としたい。
『殿敷侃:逆流の生まれるところ』展は2016年 3月18日〜5月21日、広島市現代美術館にて開催。
https://www.hiroshima-moca.jp/
著者近況:
『羽永光利 一〇〇〇』刊行記念トークイベントに、松本弦人、青山秀樹と登壇予定。2017年5月29日、蔦屋書店(代官山)。
http://real.tsite.jp/daikanyama/event/2017/04/post-315.html
「アート体験の歴史」を語る企画『HISTORY OF ART EXPERIENCE』に緑川雄太郎(アートディレクター)と登壇予定。2017年6月17日、YADOKA(大阪)。
http://www.y-o-d-o-y-a.com/HISTORY-OF-ART-ECPERIENCE.html