22:再説・「爆心地」の芸術(3) いわき湯本にて<1>

2011年10月30日、宮城県南三陸町のホテル観洋で開かれたシンポジウム「3.11以降の地域とアート これまでとこれから」(*)に登壇したあと、皆で立ち寄った福興市の雑踏からの帰りに、福島県のいわき湯本温泉からいらしていた「三凾座(みはこざ)リバースプロジェクト」を主宰する方々に帰路、声を掛けられた。三凾座というのは、湯本の温泉街に残る古い劇場施設の名だ。かつては、自主演劇の会場や映画館として使われていたという。その後、あてなく放置されていたこの建物を、アートによる新たな地域の活性化のために使えないかと、地元有志の方々の手で立ち上げられたのが、このプロジェクトなのだ。
 

三凾座外観

活動は順調に進んでいたかに見えた。が、3月11日の午後2時46分、この地もまた、突如としてあの大地震に見舞われた。加えて、東京電力福島第一原子力発電所で起きた建屋の爆発と大規模な放射能漏れ、そして拡散。いわき湯本温泉は原発からおよそ45キロに位置し、第二原発からはさらに近い。国からの勧告で住民はすぐに屋内退避となった。言い知れぬ不安と混乱が広がったであろうことは想像に難くない。
 
不幸中の幸いと言うべきか、湯本のあたりは風向きの加減で放射能による酷い汚染は避けられた。しかし随所にマイクロホットスポットが残り、子供たちはこの夏、海にもプールにも入れなかったと聞く。温泉街として賑わった商店街からは観光客の姿が消え、代わって、福島第一原発で復旧作業に当たる作業員のための宿泊拠点となった。三凾座も建物こそ無事であったが、大きな揺れで随所が痛み、地震直後からの混乱もあって、当然のことながらプロジェクトの継続は難しくなった。
 
そんなメンバーの方々が、南三陸町でのシンポジウムを聞き、「一度、湯本でこれからのアートについての話をしてほしい」と声を掛けて下さったのだ。僕は予定を大幅に繰り上げて、年内に時間を捻出し、いわき湯本温泉を訪ねてみることにした。津波被災地については半年にわたり各所を視てきたが、震災以後、福島県に入るのはこれが初めてだった。
 
12月3日、常磐線の特急列車「スーパーひたち」で上野から湯本を目指す。駅に着くと、どしゃ降りの雨だった。そのまま、原発の作業員の方々が泊まられていたホテルに宿に入る。簡易宿泊施設ができた現在では、一時に比べ減っているようだが、それでも作業着姿の方々を数名見かけた。すぐ近くに位置するも、ほとんど廃墟と化した三凾座を見学したあと、早速先のホテルの広間に数十人が集まり、ほぼ車座の状態でシンポジウムは始まった。集会と呼んだ方がいいかもしれない。ささやかで、手作りのイベントだ。けれども、僕らがいま迎えている事態には、むしろふさわしい気がした。結局のところ、この問題に関しては事前に用意できるような答はない。膝をつき合わせて共に話すしかなかろう。
 
与えられたシンポジウムのテーマは「負の表現を考える〜この地で、放射能をどう表現してゆくか」。メンバーは僕のほかに東京芸術大学から熊倉純子さん、アーティストの藤浩志さん、そして沖縄からスタジオ解放区共同代表の林僚児さんが参加。代わる代わる話をしているうち、予定の二時間をあっという間に超過してしまった。内容については、またどこかで触れる機会もあるだろう。それよりも、僕はこのいわき湯本温泉への訪問で、こちらから話したこと以上に実に多くのことを教えられた。学ぶ機会をもらったのは、こちらの方だったのだ。
 
なかでもいちばんの驚きは、いわきの地が近代以後、日本有数の石炭資源の拠点で、戦中・戦後は首都圏を支えるエネルギーの主要な供給元であったという事実だ。炭鉱というと即、九州の田川や北海道の夕張を思い出すことはあっても、いわきを思い出すことはなかった。けれども、自分が生まれ育った地域の産業基盤、たとえば広大な京浜工業地帯を火力で支えた、もっとも身近なエネルギー資源の所在地がいわきであったことを、自分は完全に忘れていた。自分のなかでこの歴史はなぜ消されていたのか。むろん、勉強不足と言うしかないのだが、自分の目と足で現地を歩いてみているうち、そのことには何か別の理由があるのではないかと思うようになった。
 
顔をつきあわせて直に話を聞き、翌日は地域の随所に残る炭鉱の跡地を詳しく案内していただいていると、自分がここにやってきたJR常磐線そのものが、もともと、地方から中央へと石炭を運ぶためのエネルギー・ラインであったことに否応なく気づかされる。言われてみれば、いわきから上野に至る道中には大規模な火力発電所があり、ひたちのような産業都市があり、そのベッドタウンとして栄えた取手や、ほかでもない日本の原子力産業発祥の地、東海村がある。いわきから先へと更にこの線を延ばせば、浜通りに沿って福島第一原発、第二原発が立地している。それにしても、なぜこのふたつの原発は、東北に立地しながら東北電力ではなく東京電力による施設なのか。理由はおそらく、このような歴史的な経緯と無縁ではない。今に始まったことではないのだ。この地域は近代以降ずっと、東京への電力の供給基地であった。僕が忘れていたのは、この「ずっと」の方であり、だからこそ、その忘却を不審にも思ったのだ。
 
いわき湯本温泉から少し奥に入ったところにある有名な温泉娯楽施設、「スパリゾートハワイアンズ」(旧称の「常磐ハワイアンセンター」の方がいまだ口に馴染むが)も、貿易による輸入の自由化で石炭産業が急激に斜陽化し、地域規模で廃業やむなくなるという危機に瀕して、それに取って代わる観光事業の一大拠点として作られた(このあたりは映画『フラガール』に詳しい)。エネルギーの供給から観光への一大転換——けれどもそれは、実のところ同じ地域構造の上に乗っている。首都圏からセンターへの団体客が利用するのは、またしても常磐線もしくは常磐自動車道というエネルギー・ラインなのだ。採掘にせよ発電にせよ、はたまた娯楽にせよ、この地は近代以後、紆余曲折を経ながらも、ずっと首都圏に奉仕し続け、首都に住む者はいつしかそれを忘れていた。
 

常磐ハワイアンセンター内観

このハワイアンズを見下ろし、遠く太平洋までが望める見晴らしのよい高台に登ってみた。この日は打って変わってよく晴れ、背後の山からは、激しい空っ風が吹き晒している。手元の線量計を見ると、たちまち数字が上昇し、0.78マイクロシーベルト毎時(放射線測定器はDoseRAE2、手持ち高さ)となった。街中は激しい雨のなかでも0.19ほどであったから、街中と比べると、付近の山の方がずっと汚染されているのかがわかる。曲がりくねった山道を車から眺めながら、こんな広大な森林を除染などしようがないと、あらためて痛感させられた。こんなのどかな風景なのに、目に見えない世界では刻々と放射性物質が崩壊を繰り返しているのだ。
 
かつて石炭を採掘していた労働者たちが共同で住んだ地域は、そこからほど近い場所だった。穏やかな村落のように見えても、案内してくださった当時の関係者の方からすると、暗澹とした記憶に塗り込められた土地なのだという。いったいどれほどの人が、容赦のない労働環境下での爆発、炎上、落盤事故などで無念の死を遂げたのだろう。くわしい人数さえ実はよくわかっていない。逃げる者は容赦なく連れ戻され、給金からは家賃や食事代までが差し引かれ、ほぼ生かさず殺さずの状態であったという。無縁仏が埋葬され、置き石が散乱する墓所を見ながら想像してみた。彼らにとっては、やっと手にしたわずかの金をふところに湯本の温泉街に出、ここぞとばかりに遊び倒すのが唯一の楽しみだったはずだ。先に記した三凾座は、そういう「荒くれ男」たちが集まる、気軽には近寄り難い雰囲気の場所であったという。たしかに三凾座は単なる文化遺産に留まらない、何か異様なほど野太い雰囲気が立ち込める場所だった。睨みの効いた極太の看板文字の迫力など、ほかにちょっとあるものではない。
 
湯本の宿を出るとき、清掃の中年女性から、妙にていねいに「気をつけていってらしてください」と声を掛けられた。そのとき僕は、これから沿岸の被災地に向かうため、ゴツい靴に頭から被るダウンのジャケット、黒いリュックに黄色いガイガーカウンターを持っていた。おそらく復旧作業に向かう作業員とまちがえられたのだろう。はっとした。彼女たちが毎朝、ここから被爆を避けられない仕事に向かう人たちをどのように送り出していたかがわかった気がして、とても複雑な気持になったからだった。(次回に続く)

* シンポジウムメンバー=小林康夫(司会)、開発好明、北川フラム、椹木野衣、吉川由美、吉村光宏 主宰=文化・芸術による福武地域振興財団。

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