連載 田中功起 質問する 6-3:林卓行さんへ 2

リレーショナル・アートやプロジェクト・ベースの作品における「終わり/目的」の有無について問いを投げかけた林さん。田中さんの第2信では、これに応えるかたちで、終わりのない(オープン・エンド)作品を分析し、さらに自身の作品についても言及していきます。

林卓行さんの第1信はこちら往復書簡 田中功起 目次

件名:文字通りの終わり、理念的な終わり

林卓行さま

お返事ありがとうございます。この前の日本滞在では何かとご一緒していただきとても楽しかったです。前日や当日に連絡してなんとなく都合がつけられるというのは都市生活の醍醐味ですね。LAではどうしても車での移動なので、それが心理的にも影響して、瞬発的な機動性が損なわれ、こちらではだいたい家にこもっています。


ロサンゼルス動物園のチケット売り場に貼られていた注意書き。「暑くて動物は隠れていて見つけるのが難しいですよ」、下の方に小さく「払い戻しはできません」。

さて、予定調和の話に入る前に、まずは林さんのリクエストにお答えして「終わりのなさ」についてぼくがどのように捉えているのか、そこから始めてみましょう。「終わりのなさ」やプロジェクトのオープン・エンドへの評価は、ぼく自身の最近の制作にも絡めて考えられる問題です。先に結論だけを書いてしまえば、僕は「文字通り」の終わりのないプロジェクトにはあまり感心せず、むしろ完結した作品の中に「理念的」に終わりのなさが含まれているものを肯定的に見ています。

文字通りの切りのなさ

「文字通りの終わりのなさ」とは、林さんが否定的に書かれていたワークショップやプロジェクト型の作品が基盤とするオープン・エンドなあり方です。プロジェクトは完結せず常に進行形で見せられる。そこには複数の人たちが関係するため、誰も全体像を把握することができない。それは継続した体験が連続しているようなものです。「全体が把握できない」という作品のあり方は、その外見が開かれているように見えて、ある一点において、実際はとても閉じられている。それは暗黙の内に誰かによる批評や分析を封じているからです。ぼくらが何を言っても全体像に到達しない。作品の全体が把握できないということは、そもそも作品の「質」を問うことができない。言ってみれば、他者の言葉が閉め出されている状態にあるとも言えます。

日本における地域活性化や都市の再開発・再利用にも親和性の高いプロジェクト・ベースの制作は、一見、楽観的で素朴に見えます。実情としても、関わる人たちやアーティストはみないい人たちばかりです。でも、本人たちの善良さとは別に、そうした活動の根底には批評への拒否、あるいは、批評の機能があらかじめ脱臼されている。これは何を意味するのか。

プロジェクトがどのようなものであれ社会に関係しているということはそれだけでなぜかアートの中ではアドバンテージがあります。例えば地域の活性化が目的な場合はなおさらで、それに合致すればある意味ではなんでもよい。結果がどのようなものであれ、社会に関わりをもったことが免罪符として機能してしまう。もちろんそれによって人びとが覚醒される場合もあるでしょう。しかしそれが気にくわない人がいたとして、彼・彼女はいったい何に対してその抗議の声をあげればいいのでしょうか。作り手も作品も継続性と拡散性の中で、他者の声を受け止める責任の所在がはっきりしない。

プロジェクト・ベースの活動は、社会と芸術の接点を生産的に・批評的に生み出す活動のはずです。そこでは芸術にとっての他者である社会との関係が、芸術においても社会においても決定的なものであるべきです。ならば活動の責任はどこまでも追及されるべきであり、批評という他者をも受け入れる素地を持つべきです。社会と芸術のなれ合いを引きはがすというのは、まさにクレア・ビショップが「敵対と関係性の美学」(*1)で分析していた問題です。社会と芸術の「終わりなき」なれ合い、共犯関係をどうすればいいのか。林さんはその共犯関係に「批評」が暴力的に介入し評価を下すことで、作品を終わらせる。そのことが必要だと書いていました(*2)。終わりが訪れることでぼくらは反省することができる。クレア・ビショップは芸術と社会の距離をそのまま保存し、その距離を可視化する作品のあり方を肯定的に書いていました(*3)

理念としての切りのなさ 理念的なオープン・エンド

しかし「終わらなさ」とは何もそうした文字通りのものだけではありません。林さんが触れた拙文(*4)木村友紀さんの作品について書いたものですが、実はあのテキストではひとつ重要なことが抜け落ちています。当初ぼくは木村さんのあるひとつの作品について書いていたのですが、その作品記述の部分を諸事情で削除し、書き換えることになりました。その作品とはヒゲの男をめぐるインスタレーション(「Pictures of a man」、2007年)で、似たようなヒゲのある男の複数の写真(それぞれは蚤の市などで偶然見つけられたもの)、その写真の中に写っているガーデン・テーブルとゴミ箱の再現、関連づけられる写真やオブジェなどを組み合わせたものでした。たまたま見出されたものが関連づけられ、あるまとまりを持つことでこの作品はできあがっています。つまりヒゲの男をめぐる連想とその物語がこの作品の主な構造です。

この作品は完結したインスタレーションであるにも関わらず、構造的には拡張可能です。ヒゲの男の物語を広げることもできるだろうし、新たに見出されたヒゲの男の写真をこの作品に関係づけることもできます。アーティストによる追加でないにしても、見る側がこの作品を拡張してもいい。誰か別のアーティストの作品との関連やたまたま見た映画の一場面や小説の一節、ぼくらはこの木村さんのヒゲの男を思い出し、作品がぼくらの中で拡張する、ということもありえるかもしれない。そしてこの営みには切りがありません。

作品としては完結しているにもかかわらず、様々なレファレンスを通して作品は拡大する可能性に開かれています。終わっているにもかかわらず参照項に対して開かれている。それを僕はあえて「進行形の作品」と呼んだのでした。木村さんの作品の完結性をいわば解体するために、作品構造の「進行形」的側面を強調したのでした。おそらく誰も木村友紀さんの作品を見て、オープン・エンドであるとは思わないだろう、と踏んだからこその、その一方的な見方を変えるためのぼくの作戦でした。でもこれは上記の作品記述の差し替えによって失敗したのですが。

もう一度くり返せば、例えば絵画や彫刻であっても、その中に「切りのなさ」を見出すことができる。参照項が無数に膨れていく過程が「可能性」として作品に含まれているかぎり、そのような完成した作品のあり方もあるだろうと思ったのです。そのとき作品は理念的にオープン・エンドです。

展覧会の時空間に見る予定調和

さて、では予定調和2と3の問題ですが、ここで問題にしたかったのは「展覧会」の時間と空間から作品は自由でありえるのか、という点です。例えば自律した作品として捉えられる近代絵画は基本的には展覧会という制限からは自由なものです。そうした個別の文脈を越えて作品が作品として存在する。でも現代の作品は、展覧会という場所でなければ作品として完成しないものもたくさんあります。このように書くこともできます。プロジェクト・ベースのアーティストは、マーケット・ベースのアーティストとは違って(彼らはだいたいスタジオで作品を完成させます)、スタジオの外、たとえば、都市の中、社会の中、人びとの中で作られる。しかし、そのプロジェクトが展覧会という期限とは無関係に作られることは、実はそれほど多くありません。リクリット・ティラヴァーニャがタイカレーを自宅で友人に振る舞うのと、展覧会の枠組み(時空間)の中で、作品として振る舞うのには違いがあります。つまりオープン・エンドとして評価されるプロジェクトも、実際には期間限定の閉じられたイベントでしかない。またワークショップはそれに参加していることが必須であり、仮にワークショップの記録が展示してあってもそれはワークショップそのものと同じようには機能しません。実はとても狭い客層をねらった活動です。

そこで、改めて設定する問いはふたつ。

問い1:展覧会の枠の中に閉じられているプロジェクトを、文字通り本当にオープン・エンドにした場合どうなるのか。

真にオープン・エンドであるためには無限を相手にしなければならなくなります。無限の時間と無限の参加者を招き入れるプロジェクト。たとえばそれは100年でも足りないのです。無限に続くものとしてプロジェクトを文字通り捉え直してみてはどうだろうか。もちろん中途半端なものは批評のくさびによって解体されればいいかもしれませんが、真にオープン・エンドなものも見てみたいとも思います。

問い2:展覧会の時空間とは別の、作品そのものが必要とする時空間の中で制作はされるべきではないだろうか。

展覧会の時空間を「与えられた締めきり」とすれば、こうパラフレーズできると思います。与えられた締めきりに従うのか、それとも作品にとって必要な時間をかけるのか。自ら締めきりを設定することはなかなか難しいものです。でも、時に制作においては、作品にとって必須の時間をかけ、それを踏まえた締めきりを設けることも必要なのではないかとも思うのです。オープン・エンドに締めきりを延ばすのではなく、必要とされる締めきりを設定する。ぼくが考えていたのはそういうことでした。

例えば作品の「落としどころのなさ」というのは、展覧会の締めきりによる外圧によって獲得するのではなく、意識的な操作によって獲得することはできないのだろうか。そのようにも言えるかもしれません。造形感覚による予定調和と一緒で、アーティストに任せてしまうかぎり、自身の都合のいいようなものになってしまう危険性ももちろんあるとは思いますが。

オープン・エンド

最後に自作についても触れておきます。個展「雪玉と石のあいだにある場所で」のなかで展示を数回に分けて変化させたのは、展示が進行中で終わりがないということを示すことではありませんでした(展示されている作品リストは最初と最後で同じです。その同じ作品が5回ほど、配置換えをされただけなので「終わりがない」こととはほど遠いかもしれません)。例えば1ミリ単位で作品の設置にこだわる展示の仕方もあります。でもここではその反対を示してみたかったのです。こだわる展示の反対は単にラフな展示ではありません。複数の展示可能性を並列することです。いわば展示のバリエーションをできるだけ見せることに重点がありました。どこに何を展示するのかと考え出すと、そのバリエーションは無数にあるものです。その内のいくつかは甲乙がつけられない。ならばそれらをいっぺんに見せられないだろうか。

また展覧会とは、実際の展示よりも、記録として見られることの方が結果的に多くなる、という事実もあります(ぼくらはヴィト・アコンチの1972年の「seedbed」の展示を記録でしか見ることができません)。そのため記録を作品と併置することで、展示を見た人と、後から記録を見た人の経験の差をできるかぎり等価にできないだろうかとも考えていました(*5)。展示のバリエーションの中に記録が挟み込まれるため、結果として展示方法がより流動的にもなりましたね。

もう一点、「someone’s Junk is someone else’s treasure」というプロジェクトもオープン・エンドなのかと問われれば違うかもしれません。なぜならそれは映像作品として撮影されることを前提としたもの、つまりひとつの特異な状況に対する人びとの反応を記録したものでした。範囲が広く設定されているにせよ、目的が事前に決定されている。フリーマーケットでヤシの葉(=無用なもの)を売る、その日の出来事を記録する。その出来事自体をパフォーマンスと捉えるのかと言われればそうかもしれません。でもその場でヤシの葉を売っている僕と話しをすることと、映像を見るのとでは決定的な違いがあります。なぜなら映像では複数の反応を比べて見ることができるからです。最後の主催者による撤去命令も含めて、オーディエンスは一連の様々な反応をいっぺんに見ることができるわけです。あの日、その場にいた人たちは自分以外の反応を知るよしもない。つまりこの映像はパフォーマンス(=作品)を記録した二次的なものではなく、記録形式を利用したひとつの作品なわけです。

例えば仮に自分がその場にいたらどのような反応をするだろう、と考える人もいるかもしれません。このように事後的に、そして仮想的に参加者になることも可能です。この点に限れば、それは参加(の想像)に関してオープン・エンドであるとは言えるかもしれません。「もし仮に~」と考えることは切りがないわけですから。

前回最後に挙げたアーティストたちについては特に触れませんでしたが、このままの方向で議論を進めた方が良いのではと思ったので、林さんへの応答を中心に書いてみました。どこまでご期待に添って口がすべった(?)かどうかわかりませんが、次回の返信もとても楽しみにしております。

田中功起 2011年9月 ロサンゼルスより

  1. クレア・ビショップ(星野太訳)「敵対と関係性の美学」『表象05』(月曜社、2011年)pp. 75-113

  2. 林卓行「芸術批評とその公共性」、美学芸術論研究会編、『カリスタKALLISTA』 No.17, 2011, pp.102-107. (2010年12月における同研究会主催シンポジウムの報告)

  3. あるいは個人の活動・評価に集約できない活動もここに加えてもいいのかもしれません。林さんにも紹介したジュン・ヤンがきっかけを作ったアーティスト・キュレイター・アソシエーションとしての台北コンテンポラリー・アート・センターをここに具体的として上げられるでしょう。台湾で初めてのインディペンデントなアートセンターを立ち上げ、その存在自体が台北のアートシーンにとって批評的に機能しているという事実。いわばそれが台風の目となることで他の美術館、オルタナティブ・スペース、ギャラリーを含む、シーンの配置図が変化していました。この成果がジュンひとりのものでないのはいうまでもありません。このアソシエーション全体の成果なわけです。

  4. 田中功起「切りがないこと、ぼくらが最後に立つところ」、『Daiwa Press Vewing Room Vo.9』大和プレス、pp. 150-151

  5. 本題とはずれますが、日本には実作を見ないとわからないというある種の経験至上主義が根強くあります。でももし経験至上主義を徹底するのならば、日本にいるかぎりほとんど何も見れていないことになってしまいます。西洋美術にしてもアジア美術にしてもなんでもいいですが、相対的には海外にあるアートの方が多いわけですから。僕らは基本的に作品の記録を見て、ああでもないとかこうでもないとか考えているわけです。映画でもテキストでも翻訳されたものを見たり読んで物事を考えています。ということはそもそも二次的なものを経験しているにすぎないわけです。でも二次的なことを経験するってことと実作を経験することの差はどれほどなのでしょうか。

近況:「ヨコハマトリエンナーレ2011 OUR MAGIC HOUR」(横浜美術館ほか)、「画像進化論 サルからヒトへ、そしてスペクタクルの社会」(栃木県立美術館)に現在参加中。そろそろ来年の二つの展覧会に向けて新作を制作しはじめます。

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