連載 田中功起 質問する 6-2:林卓行さんから 1

「彫刻」と「オブジェ」の概念をめぐる問題提起をした、昨年の林さんのレクチャーを糸口とし、田中さんは第1信にて、まず彫刻における「予定調和」的な作品のうちに、制作における回避すべき問題があると指摘。さらに3つの種類に予定調和を分類しました。その分類に対する林さんの考えとは。

田中功起さんの第1信はこちら往復書簡 田中功起 目次

件名:作品の終わり

田中さま

拝復

刺激的な、そして遊び心のある企画へのお誘いに感謝します。こうして文章を介して、それも公の場所で話すのは初めてですね。ときどき会って話すときのように、率直な議論を交わしてゆければと思います。


前日の夕立で濡れた傘を、風呂場で乾かしています。バランスのよさみたいなもの
から自由になるのは簡単ではないですね。

さて、質問に答えるところからはじめましょう。まず田中さんは、林が一年ほど前のレクチャーで話したことをとりあげてくれました。あそこで言い逃したことや言いまちがったこと、言いなおしたいことはたくさんあるけれど、いまは措きます。

予定調和=「落としどころ」が見えてしまうこと

田中さんは林の展開した議論のうち、「予定調和」に照準し、そこから林が指摘したものも含め、制作において回避すべき三つの予定調和を指摘しています。田中さんの第一信からそのまま引用します:

予定調和1:統一的な完成のイメージが制作の前にある=造形感覚ベース
予定調和2:素材に対する行為がかたちを決める > 空間的なスケールが、展示空間という範囲を前提として考えられている場合がある=作品ベース(オブジェ)
予定調和3:状況・ルール・アイデアがかたちを決める > 時間的なスケールが、展覧会の期間を前提として考えられている場合がある=展覧会ベース

じつは林の考えている「予定調和」は、このうち最初の一つだけです。そしてここに二つのタイプの予定調和を含めることができる。

一つは「造形」の問題としての予定調和。これは田中さんのまとめでは「造形感覚ベース」ですね。そしてもう一つは、見る者が読み解くべきモティーフが作品の背景=文脈にあって、作品自体はその「読み」を導くよう注意深く作られている、そんな作品における予定調和。シュルレアリスムのオブジェを含む寓意的な作品のほか、田中さんの挙げた作家でいうならアローラ&カルサディージャの作品も、多くはこの範疇に入ると思います(転倒した戦車に、非戦あるいは反戦という以外の文脈を読み取るのは事実上不可能でしょう)。どちらの「予定調和」にも共通しているのは、「落としどころ」があらかじめ見えてしまっていて、だから往々にして退屈、という点です(ただしこの種の作品でもおもしろいものがありえます。「落としどころ」にもってゆく過程を徹底的に洗練させた、いわゆる「様式美」に優れた作品というのがそれです)。

では反対に「落としどころのない」作品とはどんなものか。問題のレクチャーの内容を敷衍すれば、以下のようになります。つまり、制作のさなかには着地点が見えず、手探りでの制作が最後まで持続し、そうした制作過程がそのまま完成作品からもなんとなくうかがえるような作品です。たとえば、なにかの具体的な対象を描いていて試行錯誤しているうちに、当初思っていたのとまったくちがうものを描いてしまい、でもそれはそれで納得できるのでよしとする。マティスがそんな制作体験のことを語っていますが、芸術家ならたいてい同様の経験があるはずです。カーヴィングの作品であってさえもそれは可能です。パンダを彫ろうとして途中から飛行機になり、「こっちのほうがいいか」ということはじゅうぶんありえる。その意味では、どの時代の、どんなメディウムに拠る作品だろうと、「落としどころのない」=「予定調和を逃れる」作品になることができます。

「行為」と「対象」

ただ2000年代くらいからでしょうか、国内外でこの種の「落としどころ」のない、「予定調和」からの脱出を、とくに指向する作品が多くあらわれてきているのもたしかです。それは田中さんが以前の「往復書簡」で言及していた、「もの=物体」に深く関わりながらそのことで逆にそこから離れようとする作品のことです。いうまでもなく、そこには田中さん自身や冨井大裕さんの作品なども含まれます。ある行為や状況が必然的に導き出す物体のありようが、そのまま提示される作品といえばよいでしょうか。そこでは「もの=物体」は、それ自体が作品というよりは、ある「行為」の起点や媒介となることで、作品に関与するものとなっています。林はさきのレクチャーで、こうした作品について、「物体」としてそこにあると同時に、なんらかの行為の「対象」にもなっているものという意味で、それを「オブジェ(objet / object)」 と呼ぶことを提案しました。そしてこの「物体」と「対象」の二重性を手がかりに、デュシャンに始まり、ナウマン、セラ、ゴンサレス=トレス、そして田中さんや冨井さんたちの作品につながる系譜を考えた。

けれど田中さんは、こうした「行為」とその「対象」で完結したようになっている作品にも、「予定調和」の罠があるのではないか、といいます。たしかにそれは考えていいテーマです。でも、すくなくとも田中さんが挙げている残りの二つの予定調和についていえば、林はそれを「予定調和」であるとは思わないのです。

たとえば、田中さんのいう予定調和2について。フリードマンのスパゲッティの作品があの大きさであるのは、「予定調和」的な美的判断の結果というよりは、なにかをつなげるという「行為」と、その行為の「対象」となるスパゲッティの形態との関連が、もっとも明確に示せるのがあの大きさ、というべきなのではないでしょうか。小さすぎると、どんな行為がその対象に作用したのかが判然としない。たんにいくつかのスパゲッティが偶然につながってそのかたち、というふうにも見える。逆に大きすぎると、物理的な困難を克服してできあがったのがこの作品、というよけいな(と思いませんか?)意味を負ってしまうことになる。あるいは田中さんがいうように、その作品が「会場を越え、街に広がり、国境を越える」ことになったら、それはやっぱり「オフ・ミュージアム」とか「ボーダーレス」とか「グローバリゼーション」のメタファーであることを逃れられなくなってしまい、「行為」と「対象」の鮮やかな連関は作品から後退してしまう。そういう意味ではあの大きさは、予定調和=安定した造形やメタファーの解読を確保するためというよりは、それを逃れるための判断から来ているのだと思います。

「きり」あげること

そして予定調和3です。これについては次回の田中さんからの往信に詳述されるということですが、以下に林のほうから回答すると同時に、先制して一つ訊いておきたいと思います。

問題のレクチャーの約半年後、林にはまたべつの場所・テーマで話す機会がありました(*1)。そこでは、「リレーショナル・アート」とか「プロジェクト・ベース」と呼ばれる作品の、「終わりのなさ」を批判した。そうした作品では、なんらかの「行為」の結果や目的がなかなか得られないことと、その行為に作者以外の多くの人間(鑑賞者、子供、地域の人々…)が関わることが強調されます。まるである行為からその結果までの時間の長さと、作品に関与する人間関係(= relation)の多様性や多重性(だれかが、またべつのだれかを呼んでくる)が、そのまま作品の価値であるかのように。

なぜこうした作品が批判されなければならないのか。林が念頭に置いたのが、(例によって)マイケル・フリードが『芸術と客体性』のなかで使った、”endlessness”という概念です(*2)。これは「終わり」のなさと同時に「目的」のなさを意味します(“end”は日本語の「終わり」と「目的」の両方の意味に対応します)。林の希望的観測も加味しつつおおざっぱにいえば、ここでフリードがいっているのはつぎのようなことです。つまり、いわゆるミニマル・アートのインスタレーションのような、鑑賞者が自由に視点を移動して見ることによって完成するといわれる作品がある。けれどそういう作品は、鑑賞者が感得すべき「目的」が作品にない、あるいはついに作者はその「目的」を自分の作品に与えそこねているのに、いかにもそれがあるように見せる環境だけが調えられていて、そのとき鑑賞者あるいは制作協力者といった、作者以外の人間は、「終わりのない」弛緩した時間に拘束されるハメになる。鑑賞者には自分の作品に自由にかかわってほしい、そういいながら鑑賞者を拘束する芸術家の、どれほど傲慢なことか、と。

そして林もこのフリードの尻馬に乗っていったのです。リレーショナル・アートとかプロジェクト・ベースの作品について、それが“open-end”であることを評価する人たちがいる。けれどそういう作品の多くは、結局目的の提示や実現を先延ばしにしながら、アーティストとその周辺に集まった人間が、いつまでも微温的な関係を続けるためにあるだけなのではないか。そこではみんなでなんらかの終わり/目的の共有を目指すといわれるが、じっさいにはその絶えざる先送りだけが行われる(あるいは、その目的を遂行することの意義や価値の絶えざる先送りだけが)。そういう作品には、作品のend=終わり/目的を強制的にでも設けた上で、その後自己によるものでも第三者によるものでもかまわないから、いったん批評や評価にさらしてみてはどうなのか、と。

たしかに現在の芸術がおかれた状況のもとでは、「可能なかぎり多くの人間がいっしょにアートに関われるしくみ」=プラットフォームづくりこそ喫緊の課題なのかもしれません。そのときはプロジェクト=作品にはっきりとした「終わり/目的」など、むしろないほうがいいのかもしれない。リレーションやプロジェクトを延々と続けられますからね。でもこうしたことを企てる人々が望むように、そこにどれほど多様な価値観を持った人間が集まったとしても、目的がなかったり、あるいはそれがあいまいであったり、そしてさらにそんな目的の不在やあいまいさが、「これはアートだから」という理由で正当化されるのだとすれば、じつはそこで人々はたがいに正しく衝突することもない。そして、それこそはまさに「予定調和」だと思うのです。

だからそういう作品に「終わり/目的」を持ち込むことを考えなければならない。さもなければその作品は、リレーションやプロジェクトの外にいる人にとって、ほんとうの意味で見るに値するものにはならないでしょう。そのかぎりで、林は田中さんのいう「時間的な」終わりを、「予定調和」どころかむしろそれを阻むもの、あるいは断ち切るものとして積極的に考えたい。そう、日本語に「きり」ということばがありますね。「きり」のいい、とか「きり」あげるとかいうときの「きり」です。endという英語に最終的だったり決定的だったりする「終わり」の含意が強いとすれば、それよりはいくぶん暫定的に聞こえる、「きり」という語を使うのが適当かもしれません。

この「end=終わり/目的」と「endlessness=終わり/目的のなさ」、あるいは「きりあげる」と「きりのなさ」のことを、田中さんに訊いてみたい。というのも、今回の田中さんの個展(*3)の中心となっている映像作品「someone’s junk is someone else’s tresure」には、まさに「終わり」が鮮やかに訪れていました。いっぽうで展覧会全体はそのつど展示が変わる=endlessであることが企てられていたり、田中さんの作品には、終わり/目的がはっきりしているものと、そうでないものが併存している。さらに田中さんは、木村友紀さんの作品集に寄せた文章で、「きりのなさ」について肯定的に述べてもいます。そうした作品を制作し、文章を書く田中さんは、作品における「終わり/目的」についてどんなことを考えているのでしょうか。ついでにいえば、かつてループによる映像作品で名をはせた田中さんが、こうした「終わり」を持つ作品を作るようになったことも、おもしろいところだと思っています。

以上、長くかつ少々ラフな議論になってしまいましたが、この調子に流されて、田中さんが不意にたいせつななにかを口走ってしまうことなど期待しつつ、最初の返信の筆を措くことにします。

とりいそぎ

2011年盛夏
林 卓行 拝

  1. 拙論「芸術批評とその公共性」、美学芸術論研究会編、『カリスタKALLISTA』 No.17, 2011, pp.102-107. (2010年12月における同研究会主催シンポジウムの報告)

  2. Michael Fried, “Art and Objecthood”, 1967. reprinted in Fried, Art and Objecthood: Essays and Reviews, University of Chicago Press, 1998.

  3. 『田中功起 : 雪玉と石のあいだにある場所で』、2011年7月16日〜8月20日、青山|目黒(東京)

はやし・たかゆき(美術批評)
1969年東京生まれ。東京芸術大学美術研究科博士課程在学満期退学(美学)。現在玉川大学芸術学部ビジュアル・アーツ学科准教授。著書に『ウォーホル』(西洋絵画の巨匠9)、小学館、2006年。

近況:この返信の内容を考えているあいだ、一時帰国した田中さんにかつてないほど頻繁にお会いする機会に恵まれました。が、そのとき本稿の遅れについて繰り返し話したことはあっても、その内容について話したことはいっさいありません。

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