椹木野衣 美術と時評91:砂守勝巳 – 風景が黙示する(3)

連載目次

 


砂守勝巳「雲仙、長崎」(1993-95年)より 
All images: © Katsumi Sunamori Photography Office

 

承前)私が砂守勝巳の雲仙岳被災地をめぐる連作について知ったのは、まったくの偶然のことだった。いや、いまから思えばそれは必ずしも偶然ではなかったのかもしれない。本連載「美術と時評」も東の大震災のあと、副題に「再説・『爆心地』の芸術」と連ねて書き継いだことがあったように、2011年3月11日から現在に至るまで、批評家としての私の関心はつねに震災とともにあった。一昨年の夏に相模原市民ギャラリーで開かれた写真家、江成常夫の東の大震災をめぐる東北・三陸地方の大津波被災地を捉えた連作個展「After The TSUNAMI-東日本大震災」(2018年8月11日〜9月2日)の会期中に開かれた江成と私との公開の対談に招かれたのも、東の大震災やその延長線上に書いた私の故郷である秩父、武甲山の自然破壊をめぐる文章(笹久保伸『武甲山 未来の子供たちへ』〔キラジェンヌ、2017年〕収録)が江成の目に止まり、私的な手紙のやり取りのうえ江成の家を訪問し、被災や被爆をめぐる意見を交換したことがきっかけとなっている。

ここはその江成と公開の対談で話した内容について触れる場ではないが、そのとき会場に設けられた客席に生前、江成と面識のあった砂守の長女、砂守かずらが来場していたのである。対談終了後、彼女から声をかけられ、亡くなった父親の写真の整理をしていると自己紹介を受けた私は、家に帰ったあと、どんな写真家なのかが気になり、調べてみた。そうしたところ、その時点ではまったくの未知の名であった砂守勝巳という写真家にたどり着いたのである。しかしそれだけなら、興味の持続は終わっていたかもしれない。私がそこからさらに先に進もうと考えたのは、砂守の年譜のなかに、「1995年、長崎・雲仙普賢岳噴火の被災地を撮影した写真展『黙示の町』(銀座ニコンサロン・大阪ニコンサロン)」という項目があるのを見つけたからだ。

雲仙・普賢岳の大規模火砕流で多くの犠牲者が出たときのことが、時を経て私の記憶に強く残っていたことについては、すでにここまで書いてきたとおりだ。また、私はそのこととも関連し、2014年に突如として起こり、戦後の火山災害として最悪の58人もの犠牲者を出した御岳山の噴火をめぐる論考を含む『震美術論』(美術出版社、2017年)をすでに上梓していた。同書を通じて私は、日本列島における自然災害と美術(表現)との歴史的な並行関係について広く論じていて、雲仙岳の平成大噴火に関しても、1991年に起きた大規模火砕流の犠牲となった火山学者、モーリス・クラフト、カティア・クラフトを取り上げ、別の新書『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書、2015年)で触れていたから、当然、深い関心を抱き続けていた。砂守かずらが江成と私との対談会場に訪れたのも、これらの私の執筆に関心を寄せてくれていたからだろう。だが、火山学者でも地学者でもない私は、表現を媒介にしない限り、被災地に入る積極的な動機付けを持てずにいたし、実際、雲仙岳の噴火と被災地の様子を、報道や行政の記録ではなく、個人の表現として撮影した作品とも出会うことができずにいた。砂守勝巳という写真家は、「雲仙」の名とともに、そんななか、いささか唐突に私の前に姿を現したのである。

 


砂守勝巳「雲仙、長崎」(1993-95年)より

 

だが、砂守が雲仙についていったいどんな写真を残しているのか、その時点ではやはりまったくの未知であった。関心を持った私は江成との対談の際にもらっていた砂守かずらの連絡先にメールを入れてみた。反応はしばらくなかった。そしてもうほとんど諦めかけていたころ(本人もふだんあまり確認することのないメールアドレスであった)ふとメールボックスに返事が飛び込んできて、それを機に私は雲仙岳の被災地をめぐる砂守の写真とともに、ほかにも、決して長いとは言えない生涯を通じてひとりの写真家が残した、驚くほど多様な領域、分野、場所をめぐる写真群と出会う機会に恵まれたのである。それは到底、ひとりの写真家がすべてを撮ったとは思えないほどの範囲に及ぶものだった。しかしそれでもなお、私の関心の核心は、それらのなかでもっとも数奇で、世に出る機会を逸していた写真であった雲仙岳の大噴火をめぐる一連の被災地写真に向かっていった。そういうこともあり、私はかねてからの友人で写真に詳しく、出版社の月曜社を主宰する編集者の神林豊に声をかけ、やはり以前から雲仙岳が位置する島原半島を訪ねてみたいと考えていた砂守かずらと3人で、砂守がかつて釜ヶ崎でそうしたように機を見ながら通い、撮影していた島原の地へと、「いのりの日」をめざして訪ねることになったのである。今回で3回目に及ぶ砂守勝巳についての初回、文章の冒頭が、島原へと向かうため長崎空港に降り立ったときの描写から始まっているのは、そのためである。

空港から大村湾を横切る橋を渡り、長崎市内とは反対方向に諫早を経て南下し、島原半島の入り口から橘湾に面する有名な小浜温泉を経由して雲仙岳の周囲を突っ切るかたちで、私たちはかつての大噴火の被災地、島原方面へと向かった。その際、知っていたつもりでもあらためて確認させられることになったのは、ここ島原がかつて、島原の乱を頂点とする日本列島におけるキリスト教徒たちの一大抵抗=受難の地であり、同時にキリストの福音を伝えるためこの地に足を踏み入れた司祭たちが、熱湯が地中から噴き出すほかでもない「雲仙地獄」で拷問にかけられて殉教し、その教えを固く守った酷く貧しい農民を中心にした信者たちも責め苦の果てに改宗して(転んで)いった土地であったことだった。それでもなお信仰を捨てなかったキリスト教徒たちはその後、島原を離れ、海で隔てられて追求の手が伸びにくい五島列島へと離散していくことになるのだが、それはまた別の話だ。ここ島原の地にも天草四郎が武装のうえ最後まで籠城した原城を始め、その遺構は数多く残されている。すでに世界遺産にも登録されているので、訪れたことのある人も少なくないだろう。

しかし、それだけではない。1991年にもっとも過酷な事態を招いた雲仙岳の大噴火だが、頭に「平成の」と枕詞がつくように、過去にも同様の大規模被災の事例がないわけではなかった。それどころか、寛政四年四月一日(1792年5月21日)には、島原城下町の背後にそびえる眉山のピークであった天狗山が雲仙・普賢岳の噴火活動中に起きた地震によって大きく崩れ(流れ出した土砂の総量は眉山の1/6近くにあたる3.25億立方メートル)、山体崩壊となって麓の集落を飲み込み、さらには有明海へと一気になだれ込み、歴史的にも有数の巨大津波(熊本の河内で最大23.4メートル)となり、海に臨む集落を急襲したのだ。犠牲者の総数が1万5千人(島原城下町で5251人、島原半島南部で約3500人)にも上るこの「島原大変肥後迷惑」は、災害列島とも呼ばれる日本列島でも歴史上、最大の火山災害のひとつとされている。ここで「島原大変」に加えて「肥後迷惑」が付されるのは、津波の被害が対岸の肥後の国(熊本)の沿岸にも及び、島原に留まらない広域にわたる被害を出したことによっている。また、この時に海へと流出した土砂によって、島原半島の東半分や有明海の海底も地形が大きく様変わりした。これらは今でも歴史的な史跡として「眉山治山祈念公苑」や「秩父が浦公園」の名のもとに保存されている。

もっとも、このような「被害」はあくまで人間視点によるものであって、本来、自然はそのような動的な活動を通じて淡々と無慈悲に形成されてきた。その劇的な渦中に人の暮らしがある場合だけ、それは「災害」と呼ばれる。私たちにできることは「防災」や「減災」の名のもと、いつ起きても不思議ではない自然のならいに備え、被害を最小限に留める心構えと工夫を日頃から備えていくしかない。「皆さんや次の世代の身の上にいつ起こるかも知れぬ災害に対処できる」ことを目的に、国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所が発行する冊子『島原大変 寛政四年(1792年)の普賢岳噴火と眉山山体崩壊』(2003年)からそのまま言葉を引けば、以下のようなことになる。

普賢岳を含む雲仙火山は人間が地球上に現れる前から活発に活動を続けてきました。火山は地中から溶岩などを噴出することで山体を形成しては、侵食・崩壊を繰り返し、山麓に平野を作ります。火山の山体は急傾斜であるために、ちょっとしたきっかけで落石や崩壊が起こります。時には、大規模な山体崩壊を引き起こします。寛政四年に崩壊した眉山も、もともとは3000〜5000年前に作られた溶岩ドームでした。そうやって山体の形成と崩壊を繰り返しながら、島原半島の大地が作られてきました。

有史時代における普賢岳の噴火活動は、寛文三年(1663)、寛政四年(1792)に始まる一連の活動と平成噴火です。(『島原大変 寛政四年(1792年)の普賢岳噴火と眉山山体崩壊』、1頁、下線筆者)。

1991年に突如として起きたかに見える雲仙岳(普賢岳〜平成新山)の大火砕流は、実に寛政の「島原大変」より200年を経ていたことになる。だが、地学的で人にとって悠々な時間軸のなかでは、ごくごく間欠的に起きている地球の日々折々の生理現象のようなものなのだ。このような文字通りの自然現象のなかでは、人の営みはいかにも、あまりにも小さい。現在のような防災のための技術や減災の知恵が存在せず、広く周知もされていなかった時代では、人々はただ祈り、自然の怒りが静まるまでの時を待つしかなかった。実際、島原半島の東側沿岸の各所や有明海を挟んだ熊本地方の対岸には、方々に漂着した無残な犠牲者たちのため、当時の藩や地元の有志で建立した供養塔や、後代への警告のため大津波の痕跡(到達点)を伝える津波留石がところどころに残されている。東の大震災を経たいま、私たちはこれを虚実なかばの「昔話」としてやりすごすわけにはいかない。私たちにやれることは、実はいまでもさしたる違いなどないのではないだろうか。

こうして島原半島に足を踏み入れ、雲仙岳が形成した一種、異様な風景や災害遺構のみならず、自然が人の手を通じて大地に刻ませた、これらの小さいが心に刻まれる史跡の数々を見て回っているうち、私は、砂守の雲仙岳での被災写真は、たんなる写真家による記録(表現)というのではなく、かつてのキリスト教徒たちへの迫害や大規模自然災害によって住む地を奪われ、親しい身内や家族を失い、生活を立て直すため故郷から離散し、差別と貧困が待つ見知らぬ土地へと移っていかざるをえなかった人たちへの「黙示」を含むのではないかと感じられるようになっていた。そう、砂守の呼ぶ「黙示」とはいったいなんなのだろうか、と。

 


砂守勝巳「雲仙、長崎」(1993-95年)より

 

そもそもなぜ、砂守は雲仙の連作を「黙示の町」と名付けたのか。東の大震災で放射能汚染による核災害を余儀なくされ、人が住めなくなって無人となった街は、心ない人によってしばしば「死の町」にたとえられた。人間の活動の途絶えた被災地は、一転して生命の鼓動をいっさい感じさせない静けさに昼夜を問わず覆われる。先に「心ない」と書いたけれども、他方でそれは確かに「死」を思わせ、その意味では惨状をただただ「黙示」しているように見えるかもしれない。だが、「黙示」とは本来、『ヨハネの黙示録』で使われているように宗教的な言葉「アポカリプス(啓示)」に由来する。それなら、砂守が島原の被災地につけた「黙示の町」というタイトルにも、もしや宗教的なニュアンスが含み込まれていはしないか、とまずは振り返らずにはいられない。

砂守は、東南アジアにおけるイエズス会の布教拠点であったフィリピンの生まれの父を持つことから想像できるかもしれないが、実は洗礼名(ほかでもないヨハネ)を持つカトリック信者でもあった。砂守かずらに聞くところによれば、砂守は外で明言することこそなかったが、敬けんな信仰心を持ち、教会へのミサに参加することで心の平穏を得ることができると生前、語っていたという。また、ガンが発覚してからは幼い頃に暮らした奄美大島へと移り住み、奄美大島の各所に残る素朴極まりない教会を撮影したいと漏らしていたという。結局これは実現されることがなかったが、自分の死期を悟った砂守にとって、生涯最後に被写体として据えたかったのが奄美大島の粗末な教会(礼拝堂)であったことは、この写真家が残した仕事をいま改めて読み直すうえで、非常に重要な視点を提供する。

あるいは、砂守がスキャンダルを追うゴシップ・カメラマンから身を洗ったあと、たまたま仕事で訪れた島原が数々の受難の土地であり、結果的に繰り返し通うことになったのは、たんにカメラマンとしてというのではなく、神の前に立つひとりの人間として、根底に流れる信仰との直面があったのではないだろうか。たとえば、島原の雲仙岳災害記念館の展示室には、大火砕流で落命した写真週刊誌『フォーカス』の契約カメラマン、土谷忠臣が死の間際まで着けていたロレックスの腕時計が残されている。砂守もおそらくはそれを見たであろう。果たして砂守は、そこにかつての自分を見出さなかっただろうか。あるいは、写真週刊誌のカメラマンを続けていれば、運命の日にそこにいて、落命したのが自分でもまったくおかしくなかったことへの数奇な巡り合わせを思いはしなかっただろうか。さらに言えば、そうして神の思し召しで生き残った写真家としての自分に、雲仙被災地の姿を写真を通じて後へと残す使命があるとは考えなかっただろうか。

また、地理的・時間的な視野をより広げると、島原半島のうち南島原に位置する口之津港は、その地形から古くより遠来の船が停泊する港として栄え、16世紀後半には南蛮船の来航地として、近代以降は財閥、三井三池が九州で採掘する石炭の輸出中継港として、日本でも歴史上で有数の賑わいを見せていた。だが反面、労働力の確保のため与論島を始めとする南の島から集団移住が進み、故郷を離れて過酷な環境で暮らすことを余儀なくされてもいた。砂守の故郷、奄美大島もその一端を担っていたに違いない。そのなかには、暮らしを支えるため、石炭輸出の輸送船の船底に身を潜め、親元を遠く離れてシンガポールやマレーシアに身売りする「からゆきさん」も含まれていた。口之津港にほど近い「口之津歴史民俗資料館 海の資料館(旧長崎税関口之津支署庁舎)」には、これにまつわる資料も展示されている(「島原の子守唄」はこの「からゆきさん」を唄った哀歌である)。

そこには、幼くして父が姿を消し、母も病で他界し、ようやくたどり着いたボクサーの道も断念し、カメラを習得して働きながら広島の被爆者を撮り、釜ヶ崎の日雇い労働者の「太陽(カマ・ティダ)」にまでたどり着いた砂守の目撃してきた世界と同様の過酷な由来が、濃密に凝縮され、随所に横たわっていたはずだ。そして、島原を経て奄美を伝い、沖縄からフィリピンへと至る海の道は、まさしく「からゆきさん」が身を売って二度と故郷へは戻れない一方通行の航路でもあった。そう、ここに至って砂守の来歴は、もはや彼だけのものではなかった。それはおそらく、かつて夢見ていたようなかたちではなかったにせよ、父サベロンとの再会という目標を達成したあとで、砂守のなかでますます大きなものとなり、死に至るまでの行動を奥底から突き動かしていたに違いない。砂守の残した写真を見ていて、ごく自然に私はそのように思う。

 


砂守勝巳「雲仙、長崎」(1993-95年)より

 

だが、そこにはかんたんに割り切れない気持ちもあったはずだ。砂守の信仰が父サベロン以降、キリストという苦しむ万人にとっての父へと上昇し、より普遍的な心の拠りどころになればなるほど、他方では火山という人格神を軽々と超えた自然の天地創造者、というよりも天地の破壊者が容赦なく行使する地上への無残な一撃や、それに対してなんの施しもしようとしない神の沈黙への問いも生まれていったであろう。もはやそれは神学的な難題だが、古代より連綿と受け継がれてきた問いでもあり、信仰を持つ者なら真摯であればいっそう強く抱いておかしくない性質のものだ。自然災害の被災者だけではない。加害者からなんの保証も与えられず理不尽に苦しむ在日朝鮮人被爆者や、釜ヶ崎の路上で凍えて息絶える日雇い労働者、さらにはかつて雲仙「地獄」から吹き出す煮え湯を全身に浴びせられ改宗を迫られたキリスト教信徒や、親元から引き剥がされ船底に閉じ込めらて見知らぬ土地に売られていった女たちの存在――そこにはいったいどのような福音があったのか。それとも、神の福音もかれらの存在も、巨大な自然を前にしてはまったくの無に等しいのか。そこにわずかでも救済の道筋はつけられていなかったのか、そんな気持ちを抱いたとしても不思議はない。そして砂守にできることは、それを太陽の鉛筆(カマ・ティダ)を使って写真に撮影することしかなかった。

そう考えたとき、砂守がプロボクサーとして西日本新人王となる機をつかむまで頭角を現しながら、子供の頃から喧嘩が嫌で、人を殴ることができなかったことの背景に、キリスト者として、殴る側よりいっそ殴られる側にいたい、すなわち、「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ」(マタイによる福音書)という気持ちがなかっただろうか。実際、砂守かずらによる論文にも、「当時を知る中学校の同級生、大田宏は当時のことを『非常にテクニシャンでスタミナもあったのですが、優しい彼としては、憎しみを込めて人を殴ることができなかったので、嫌になったのだと思います』と語る。また、砂守の妻仁美も、『例えスポーツだったとしても人を殴ることが辛かったと言っていた』と語る」(「写真家砂守勝巳が見つめた釜ヶ崎の太陽」より、下線筆者)という一節がある。果たしてこれは、砂守がたんに性格上「優しかった」からだけだろうか。そうではなく、砂守は同じ天から与えられた強靭な肉体や相手の肉体を破壊するに足る技術や才覚、言い換えれば相手のプライバシーを破壊し、社会的に葬り去るようなカットを撮影する写真家としての技術を持った「自然の力」を備えた自分と、それを根本から否定し、万人に救いと平穏をもたらす倫理的使命を自覚した「心の安寧」を求める気持ちとのあいだで、つねに揺れ動き、それが彼の写真の持つ極度の接近と冷徹な俯瞰という性質のあいだを往還させる結果になったのではないだろうか。

そこから私は、砂守と同じ在日クリスチャンとして、自然を超越した創造者としてのイエス・キリストのなす絶対的な善への理念的な信念と、すべてが自然に内包され、人知を超えた力を森羅万象に見出さざるをえない日本列島の民としての具体的な感情とのあいだで激しく引き裂かれる内面を作品に託した小説家、遠藤周作の文学が思い浮かんでくる。遠藤もまた、代表作『沈黙』を通じて、長崎の各地に潜伏し、肉体の極限で責めを受け、自然のなかに埋没するように殉教していった農民のキリスト教徒たちや、かれらの犠牲を見過ごせずとうとう「踏み絵」を踏み、神を裏切ることで己の信念との整合性を保とうとしたポルトガルからの宣教師たちの窺い知れぬ内面の葛藤を描いた。そこでは、西洋のようにかんたんには「善か悪か」を決めることができない。そういえば本作を同名で映画化したマーティン・スコセッシ監督作品も、その冒頭は雲仙の「地獄」で煮え湯攻めにされるキリスト教信者たちだった。そしてそのタイトル「沈黙」もまた、黙示録の「黙示」というより、「神が沈黙」のままなんの施しも行おうとしないことへの根源的な疑いを象徴する言葉であった。

破壊され尽くした島原の雲仙火山の被災地を、砂守は余計な感情を捨て、淡々と距離を置きながら撮り、多くを語らぬまま示そうとした。そこには、釜ヶ崎で暮らすすべての労務者に太陽の光を当てようとした『カマ・ティダ』の姿勢とは、似て非なるものがある。そういえば砂守が「彼らに、レンズの光を通して、せめて『太陽の光』をあたえたかった」と語るとき、彼は同時に「光明」という言葉も使っていた。考えてみれば「光明」とは、ずいぶんと宗教的な響きを持つ言葉ではないだろうか。反対に「黙示の町」の「黙示」という語には、はたして遠藤による「沈黙」に近いものがありはしないだろうか。遠藤は、信仰の逆境を耐え忍ぶ信徒が虫けらのように捻りつぶされ、瞬時にして処刑されてなお、なんの変化も見せようとしない世界を目撃したときの宣教師の内面について、次のように書いていた。

彼が混乱しているのは突然起こった事件のことではなかった。理解できないのは、この中庭の静けさと蝉の声、蠅の羽音だった。一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったかのように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片目の百姓が――あなたのために――死んだと言うことを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ。蠅の音、卑劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが……耐えられない。(遠藤周作『沈黙』新潮文庫、1966年、187頁、よみがなは省略した〔以下同〕)

 


砂守勝巳「雲仙、長崎」(1993-95年)より

 

このような理不尽な静寂、すなわち神の「沈黙」について、遠藤は別の箇所で「凄まじい夜の静寂」とも呼び、「夜の静寂とはかすかな物音もたたぬということではなかった。闇が木立をかすめる風のように、死の怖ろしさを突然、司祭の心に運んできた」(いずれも同、253頁)と呼び換えている。この沈黙、静寂こそ、砂守が雲仙の被災地で見た「黙示」と同質の矛盾に満ちた無音の景色なのではなかったか。ふたたび、砂守かずらの論文より引いておく。

噴火から2年後の1993年4月から、沈静化をみせていた普賢岳の火山活動は再び火砕流と土石流を起こし、普賢岳に降る雨が堆積物を巻き込んで大土石流となった。水の中に含まれた泥が水よりも比重の大きい液体の流れとなり、水無川は土砂が溢れ出し、押し流された自動車や巨岩が下流を襲ったのだ。砂守の写真は、人間が生活していた場所が破壊され放置された3年後の場所を撮影している。誰もいなくなった町は静寂に包まれ町には音があるという先入観が覆される違和感が余計に不安感を掻き立てる。そこには長い間人間が生活していた気配が、残された家や道具などの痕跡に漂っている。

廃墟を花や雑草などの自然が旺盛に覆い人の痕跡は灰をかぶり埋もれ粉々に砕けて風化していく。火砕流の熱風はあたりを一瞬にして焼き焦がし、変容し、時が停止したままの3年間が静寂の中にあるのだ。農家や民家は一階部分が土石流で埋まっているが、太陽は規則正しく日の出と日の入りを繰り返している。かろうじて形の残った遺物も少しずつ滅んでいき、まるで風葬のようだ。とすると、ここは聖域なのだろうか

(いずれも砂守かずら「雲仙・普賢岳災害写真から読み解く砂守勝巳のリアリズム」より、下線筆者、改行部分は省略のうえ引用した)

砂守かずらの文はいずれも、彼女が砂守の写真を観察してその印象を描写したものだが、そこにもまた、遠藤が呼ぶひとりの人間が処刑されてなお蝿の音だけが耳に届く「凄まじい静寂」と同質の容赦なさ、神なき自然の運行が、不気味に顔を出していないか。もしそうなら、それこそが砂守が雲仙の連作写真「黙示の町」を通じ、あえて「沈黙」でもなく「静寂」でもなく、逆説的に「黙示」と呼んだものではなかったか。そこでは、神の存在が召喚されつつ、同時に退けられている。ポルトガルの宣教師、司祭たちが想像だにしなかった恐るべき火の試練は、それほどまでに凄まじい。その畏怖を受け継ぎ、日本列島の一角に生を紡がざるをえないひとりの生身の人間として、私は砂守の捉えた雲仙の町の風景を、東の大震災のあとを受けていま、新たに「黙示する風景」と呼んでみたいのだ。

 

*参考文献については、本論考第1回の末尾を参照。


筆者近況:ゲスト・キュレーターを務めた「砂守勝巳 黙示する風景」展が原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市)で2020年2月22日から5月10日まで開催(会期延長)。ただし4月9日より当面の間、臨時休館。新型コロナ感染症の影響による臨時休館を経て6月9日から再開、同展は8月30日まで会期を再延長。アーツ前橋での「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」展にて、作家とのトークイベントに登壇予定(会期が4月24日~6月28日に、トークは6月27日に変更)。なお砂守については「砂守勝巳写真展 CONTACT ZONE」も開催予定(ニコンプラザ新宿 、ニコンプラザ大阪。ただし現在、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため臨時休館中ゆえ、詳細は今後の公式発表を参照のこと)。

*上記、筆者近況情報を更新しました(2020/06/22)
*上記、筆者近況情報を更新しました(2020/04/13)
*上記、筆者近況情報を更新しました(2020/03/31)
*昨今の新型コロナウイルス感染症対応をめぐり、展覧会、イベント等も各所で一時閉鎖や延期・中止となるケースが少なからず生じています。最新情報については公式サイト等でご確認ください(編集部)。

 

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