【レビュー】木村こころ評「包摂とL」展

⾵景、そして抵抗としての包摂

「包摂」という⾔葉を聞いたとき、アメーバが微⽣物を⾝体に取り込む様⼦が思い浮かんだ。微⽣物の動きに合わせて、アメーバの形や顆粒の動きが変化する。⾃分の⾝体を形づくる境界と他者のそれとが⼀瞬溶け合い、互いの⾝体領域や組成が変容する。この運動を私たちの⽇常⽣活へと引き寄せるなら、包摂を実践するということは、他者との関わり合いによって、⾃⾝の思想や⾏動が絶えず変化し続けてしまうというダイナミクスに、進んで⾝を晒すことを意味するだろう。そうであるならば、本展は何をもって包摂という概念かつ運動を⽴ち上げているのだろうか。

 

ギャラリー北では、全ての作品が壁⾯に展⽰されている。個々の作品の作⾵やサイズ、素材は異なるものの、「壁⾯に展⽰する」という等価性をそれらに与えることで、⾵景らしき全体性が⽴ち上がってくる。そのうえで、個々の作品を注意深く観察してみる。⻑⾕川由貴による1940× 3240 mmのペインティングは、その⼤きさと鮮やかな⾊彩をもって、⾒る者の視線を引き寄せる。多様な植物が繁茂する様⼦に、⼀瞬ジャングルに迷い込んだのかと錯覚する。しかし、その背後に⾒えるガラス張りのような天井と壁は、ここが植物園の中であることを⽰唆している。光源の位置が定まらない照明、よく⾒えない通路、種別に区画されていない⽣育領域といった「不完全な」管理施設に住まう植物たちは、こちらを不穏にまなざすようであり、同時にこちらを守っているようでもある。しかし、これらの反応は所詮、⼈間の恣意的な判断でしかない。彼らに対して不確かな逡巡を抱くとき、植物たちが⼈間の理解を超えた⾃律的な論理をもって「⽣きて」いることに、⾒る者は気づくのである。

長谷川由貴《私たちは植物について語る言葉を持っていない》 撮影:吉本和樹

 

左に⽬を移すと、中村太⼀による川釣りを描いた⽔彩画シリーズが、作品を跨いで流れる川の⽔平に合わせて配置されている。まるで絵本のように俯瞰した視点で、等価に描かれた⼈間と動植物。ミニチュアキャラクターのような⼈間が⼭に⾜を踏み⼊れ、川に⽷を垂らす。川の中では、同じくキャラクターのような⿂が⾃由気ままに泳いでいる。都市化と、それに伴う⾷物の⽣産・加⼯・輸送技術の発展は、他種を捕獲し、加⼯し、⼈間の⾝体の⼀部になるまでの過程を分断した。このような現代において、中村の作品は、⼈間と他種の⽣命が等価に存在し、両者は互いに混ざり合いながら持続していくことを改めて可視化する。

中村 太一 撮影:吉本和樹
中村太一《雪溶ける川》 撮影:吉本和樹

 

これらの作品は本展において、東洋由来の⼭⽔思想と結びつけられているようである。本展キュレーターの⽔⽊塁も参加するコレクティブ「⼭⽔東京」によれば、東洋における⼭⽔は、「万物の流転の中に⼈間も⾃然も主客未分化なまま存在する」1ことを思想的な核とする。このような⾃然観は、包摂を実践するための姿勢、すなわち、他者による影響とそれに伴う⾃⼰の変容に⾝を晒すという積極的受動性を、⾵景論の視点から説くものである。

⼀⽅で、⽔⽊塁の《P4 (Pioneer Plants Printing Projects) #Non-native dub》は、都市における⼭⽔⾵景に焦点を絞る。この3Dプリント作品は、⼟壌が未発達な裸地にいち早く侵⼊・定着する先駆植物、アカメガシワを模している。アスファルトの隙間ですら容易に繁殖する彼らは、⼈間によって設計・管理される「都市」において、その意図から逸脱しつつ、しかしその内部で⽣の循環を維持する。結果として⼈間と彼らの間に⽣じる境界の交渉は、⼈的予測を超えた変容へと都市そのものを晒すこととなる。都市に⽣きるアカメガシワに焦点を当てる⽔⽊の作品は、都市を舞台に繰り広げられる⼈間と⾃然の境界のゆらぎ、そしてそれらの相互的な影響関係へと⽬を向けるものである。

水木塁《P⁴ (Pioneer Plants Printing Projects) #Non-native dub》 撮影:吉本和樹

 

旧明倫⼩学校舎のグラウンドを横⽬にギャラリー南へと進む。壁⾯展⽰で統⼀されていたギャラリー北から⼀転、繁殖する庭プロジェクト(⼩宮りさ⿇吏奈+鈴⽊千尋)によるインスタレーションが、ギャラリーの中央に展開されている。

映画《繁殖する庭》は、家庭(=家+庭)という熟語から「庭」を取り出すことによって、社会的に制度・規範化された「家」を問い直すと同時に、そこからこぼれ落ちる存在が⽣きる場所をつくろうとする。2⼀⽅、映像作品《オオバナミズキンバイ⽇記》は、駆除の対象となる特定外来⽣物を探して、京都の鴨川沿いを歩く視点で撮影されている。これら2作品は、特定の存在を周縁化する社会制度を⼀つずつ明らかにすることで、絶対視される「正常」が、実はさまざまな規範を組み合わせることで⼀時的に合意された仮定状態であることを浮かび上がらせる。繁殖する庭プロジェクトは、周縁化された雑草とクィアな⾝体を重ね合わせながら、社会的に構築された規範の内外を隔てる境界に⽴ち続け、そこで語り続けることを模索する。

繁殖する庭プロジェクト 撮影:吉本和樹
繁殖する庭プロジェクト 撮影:吉本和樹

 

「本展は何をもって包摂という概念かつ運動を⽴ち上げているか」という問いを冒頭で⽴ち上げた。それはおそらく、(都市における)⼭⽔思想とクィア的抵抗の交差であろう。東洋と⻄洋という異なる出⾃を持ち、遠く離れていると思っていたこれら2つの要素が、⼈間中⼼主義や異性愛中⼼主義といった「規範を問い直す」という意味で、実は似たようなエネルギーをもっていたと気づく。展⽰空間では、このようなエネルギーに沿って、作品同⼠がゆるやかにつながり合う。⾒る者は、作品同⼠の回路や、作品と⾃⼰の関係性を想像し、時にそうではないかもしれないと逡巡し、時にそうなのかもしれないと不確かに⼿を伸ばしながら、展覧会の最中において包摂を実践し始めるのである。

長谷川由貴《誰のためでもなく居るだけの》 撮影:吉本和樹


1 ⼭⽔東京「About」https://sansui.space/(最終閲覧⽇:2026年1⽉31⽇)。
2 ここにおける「庭」とは、⻄洋的な意味の“garden”ではなく、⽇本語における“place”(しばしば他の語を伴って熟して⽤いられる)を指す。

 

【展覧会情報】

包摂とL / Inclusivity and L

2025年11月8日(金)-12月21日(日)
京都芸術センターギャラリー北・南
https://www.kac.or.jp/
開館時間:10:00–20:00
展覧会URL:https://www.kac.or.jp/events/20250925/

水木塁《They dance alone / We dance alone #040925_2》 撮影:吉本和樹

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