畠山直哉 インタビュー (3)

III. 不意打ちの疎外感——世界を揺さぶる写真の魅力


Blast #12022, (2005), Taka Ishii Gallery.

ART iT 荒木さんのようにセンセーションを伝える写真や絶対的なものになる写真の話をしてきましたが、畠山さんは自分の写真を通して何を伝えようとしていますか。

NH センセーションというのは、つまり、感覚ですね。何かを感じ取ったり、そのことを何か身体的に表現する。例えば、「泣く」というような身体的な反応も含めての感情、感覚。それをセンセーションという言葉で表現したんですけれど、抽象的な思考以前に訪れる感情も含めた、いわば身体的な思考というのでしょうか。そういうものにも時代は鷹揚になってきているというか、アートはけっこうふくよかになって、そういうもののおもしろさも否定しなくなってきているように思うんです。

僕が伝えたいこととして最近思っているのは、写真を始めたときの時代的な影響もあったのかもしれないですけれども、自分の写真は世界から切り離されているという感覚を強調するようなものが多いんですね。僕は写真にそういう魅力を感じて撮るようになったと言ってもいい。僕が伝えたいことというより考えたいことというのは、この切り離された感じを魅力として感じるのはどうしてか、ということかもしれませんね。

日常というものは安定していますよね。その安定感を崩すような刺激、スリルと言ってもいいでしょうか。そういうものに惹かれて写真を始めたんです。僕だけではなく、戦後の美術や文学をよく知っている人であれば、あの時代に安定した主体に対する懐疑みたいなものが至るところで取り沙汰されていたことはお馴染みだったはずです。60年代頃の話でしょうか。これはスケプティシズム(懐疑主義)ではあっても、ニヒリズムとは言えません。ニヒリズムになってしまうとたぶん先細りしてしまうんですけれども、この問題は延々とここ100年くらい形を変えたり、場所を変えたりしながら続いているような気がするんです。

確かに僕は「世界から切り離されている」だの「非人間性」だの「もの」だのに惹かれて写真を始めて、それを楽しんできたんだけれども、それはなぜ可能だったのかということを今になって真剣に考えざるを得なくなってきました。過去の日本でそこら辺の問題をエレガントな形で目に見えるようにしてみせたのが、例えば「もの派」の人たちの仕事だったと思うんです。目に見えない関係みたいなものに注目して、それをなんとか形に変える。あるいは形そのものにしないで、形になりかけの状態を見せるとか、そういうきわどいことをやっていた人たちがいたでしょう。それ以前から「ものそのもの」なんてことを強調してものを作ったり、写真を撮ったりする人もいましたよね。僕の先生の大辻清司さんなんかも「ものそのもの」ってよく言っていましたね。

80年代くらいまでは、そんなふうに心に対しての疑念みたいなものがずいぶん色濃くあったと思うんです。僕はそういう時代に自己形成をしたというよりも、そういう考えが面白いと思いましたから、心を強調する人たちの話は退屈で聞いていられなかった。今の言葉で言ったら「癒される」くらい退屈なものでしょう。若い僕はそんなものより、心の外にあって、心を挑発するようなものの方が好きだったんですね。幸い大辻清司という人も、どちらかというと心に安住している人たちのことを刺激するような物言いとか表現が好きな人でした。

僕は彼に影響を受けて、今安定して見えている世界をどれだけ揺さぶることができるかというものとして、写真に関心を持っていったのです。写真は人間の心から切り離されて生まれる何かとも言えます。シャッターを切れば機械的に像が生まれるわけですからね。写真を撮っていると、僕たちが自明と思っている世界が安定感を失う瞬間を目撃することが頻繁にある。それは面白いことなんだけど、面白がっているだけではこれからどうよ?という大きな疑問が最近僕の中に生まれているということですね。それが今のところ僕が考えたいことになるでしょうか。

機械的に生まれる像に対して、人間はどうしても何がしかの意味を見てしまう。つまり、自然に対して「風景」を見ることと同じような状況がそこにはあるわけです。例えば、ヨーロッパでは最近まで高山への登攀の習慣というものがなかったわけですね。高山は魔物が住む場所として怖れられ遠ざけられていたと言われます。スイスのマッターホルンに最初に登ったのは、19世紀の半ば、ウィンパーというイギリス人だったというのは有名な話です。イギリス人が一種のスポーツとしてアルプスとかエベレストとかにどんどん登り始めたから、現在の高山の神話、つまり美しく崇高な高山が、僕ら一般人の目の前に現れてきたということがわかります。それを日本人の僕たちは山岳信仰の伝統もあるせいか、何千年もそのような「美」がそこにあると思って高山を眺めているんじゃないでしょうか。この感覚と史実のギャップというものはたいへんなものだとは思いませんか?

僕はそのような史実も含めて、安定した美意識だとか心だとかを揺さぶってくれる事実の方が好きなんです。だから写真は僕にぴったりなんです。もちろん、文学でも似たような実験はできるでしょうけどね。ただ、外から不意打ちのようにしてやってくる何かに遭遇したり、自分がアンテナになって信号を受信するように、受け身でいられるというのは、文学よりも写真の方に分があるんじゃないでしょうか。文学はどうしても人間が作ったものであるのに対して、写真というのは基本的に人間の外からやってくるものですからね。誰かに驚かされるというよりも、人間じゃないものに驚かされている感じがするんですよ、つまり心じゃないものに。それが僕は好きなんですね。

ART iT それも近代文学に近いような気がします。外からやってくるものを受け入れながら、自分の内面を小説に書く。アクションがほとんどない小説など、写真に近い文学が出来てきたと思いますか。

NH そうですね。まず19世紀の自然主義文学がそうなんだと思うんですよ。美しいものだけではなくて、醜いものも分け隔てなく書いてしまう。写真というメディウムが持つ、機械的で物事に公平な性格に通じるところがあります。ところでこの「自然」という言葉ですが、あの時代から自分よりも大きな存在、つまり、超越という言葉を神様に対しては使えなくなり、代わりに「自然」がクローズアップされてきたことは確かでしょう。その後、20世紀の現象学などになると、超越はやっぱり主観の中にあるかもしれない、という本当に複雑な議論になってきましたよね。そんなあれこれの哲学的議論さえ含みながら文学は展開している。その辺り、文学は時代に対する反応が早いと思います。それに少し遅れて、美術や写真が似たような構図の中を通ってきているというふうに僕には見えます。素朴な内面の吐露などという理解だけで文学を語るというのは、まぁ子どもの意見というのでしょうか。文学はそんなものではないという了解が大人の間では既に20世紀の前半くらいから出来ていたんではないでしょうかね。

付け足しになりますが、自然主義文学と写真表現の関係を考えるのも面白いでしょうね。当時の科学的研究、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』などに刺激されて自然主義は生まれたと言われていますが、そのようにして写真のことも考え直した人たちが、イギリスのピクトリアリズムという流れの中にいるんです。一見すると絵画を真似した写真のように見えるんですけれども、実際はとても科学的な考え方で行っているんです。例えば、生理学的研究から、人間の目は四方八方をすべからくパンフォーカスで見ているわけではないということが分かった。だから写真も視線が集中するところだけシャープにして、他はぼんやりとさせるのが正しい。これは一見絵画的効果に見えますけども、それをやった人は科学的理論に基づいてそれを行っているという自信があるわけです。文学と写真がパラレルな関係を持っているという例は、最近フランスなどで流行りの自分を主人公にした小説、オートフィクションの傾向と「私写真」の流行などといったものにも見ることができるでしょうね。他にも冗談のようですが「フローベールとウォーカー・エヴァンス」「ヌーヴォーロマンとプロヴォーク」「ビートとロバート・フランク」といったように、実は写真の周りは文学だらけかもしれないんです。

こんなふうに物事を詳しく見ていくと、僕たちが普段使っている言葉や思考がいかに粗雑なものかと反省させられます。しかも、物事は詳しく見れば見るほど、何かが明らかになってくるというより、見るべき事項の数がどんどん増えてくるという、ドツボみたいなことになってくる。そんなあれこれの考えや言葉は、それこそ「文学的」とでも一蹴して、手を動かしていた方がよっぽどプロダクティブかもしれません。でも、写真を撮るということも結局は世界を詳しく見るために行われていることでしょうから、これは止めるわけにはいかない。できるだけやらなければならないんでしょう。


Blast #12023, (2005), Taka Ishii Gallery.

ART iT 文学の話に戻りますが、畠山さんが最近個人的に読んでおもしろかったものはありますか。

NH サルトルの『嘔吐』の新訳。鈴木道彦さんの訳です。これは60年ぶりの新訳なんですけど、すごい変化なんですよ。例えば、「何も記すことなし。実存した。」という1日の日記の部分があるんですけれど、その「実存」という言葉が新訳ではすべて「存在」に変わりました。僕は長い間、この「実存」という言葉が飲み込めなくて、この作品を今ひとつ受け取れなかったんですが、新訳を読んだらするすると読めるようになった。そういう面白いことが言葉の世界には起こりますね。英語で言ったらbe動詞とexistの違いがあって、敢えて「exist」を使いたいときがあるわけですよ。存在の哲学のヒューマニズム的発展形としての実存主義哲学が、戦後の日本人にたいへんなインパクトを与えたことは聞いているのですが、正直言って今の僕らにとって「実存した」という台詞はその時代を感じさせる符牒のようにしか聞こえない。「存在した」の方が、今後の作品の命も長くなるような気がしますね。

最近もう1冊買ったのはイタロ・カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』。これは戦争に行って、体が縦に半分になってしまった男の話です。物語の後半になってもう一方の半分が戻ってきて、半分と半分で決闘するというたいへんなお話ですね。読み方によっては、カルヴィーノの二元論批判ですけどね。ディティールの埋め方というか、シーンの作り方というのはやっぱりちょっと普通の人には考えつかないようなものです。これは『嘔吐』なんかと違って、はっきりとした筋がある物語ですけれど、面白い物語は面白い乗り物みたいに時間的/空間的な跳躍感を味わえるので好きですね。

ART iT カルヴィーノの『レ・コスミコミケ』という短編集は宇宙の歴史を使ってストーリーを作っているんです。例えば、宇宙がただ1点の中にある時代を設定し、その中でストーリーを作る。登場人物はみんな同じ点の中に入っている。先程、詩の話をしているときにカルヴィーノの想像するストーリーのようだと思いました。

NH 彼は「ものがない」という状態に対するセンスがずば抜けていると思います。何かを描くときに、それがない状態を描くことで、その何かがありありと浮かび上がってくるという、そこら辺がとても上手な人ですよね。不在を通じて存在を描く。それは写真のありように近いことのようにも思われますね。

インタビュー中に出てくる文献

ボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』蒼馬一彰訳、1981年、サンリオSF文庫(現在、絶版。)
ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』朝比奈弘治訳、1997年、岩波文庫
ジャン・ポール・サルトル『嘔吐』鈴木道彦訳、2010年、人文書院
イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』川島英昭訳、1997年、晶文社
イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』米川良夫、2004年、早川書房

現在、個展『Scales』がロンドンのDaiwa Foundation Japan Houseにて、2010年12月15日まで開催されている。
http://www.dajf.org.uk/event_page.asp?Section=Eventssec&ID=499

近年の講演、講義を纏めた最新刊『話す写真 見えないものに向かって』が小学館より出版されている。
http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784093881128

畠山直哉 インタビュー
物事のはじまり——言葉と写真

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