伊東豊雄 インタビュー

社会参加を促す建築を目指して
インタビュー/アンドリュー・マークル


畠山直哉, せんだいメディアテーク, 「Under Construction」(1998-2001)より

ART iT このたび、若手建築家養成講座、小学校高学年を対象とした子ども建築塾に一般講座を加えた建築塾を設立されると伺いました。設立に至った理由や建築における教育の役割について聞かせていただけますか。

伊東豊雄(以下、TI) 僕自身は大学では客員教授や非常勤としてしか教えた経験がないんです。建築の設計にとって、現在大学で行われている教育が必ずしも適切なものだとは思えないからです。そこで、だいぶ前からプライベートな建築塾をやってみたいと感じていました。大学の教育でなにが不適切かというと、今の日本の大学の建築学科の先生は必ずしも建築家ではない。むしろ研究者が中心です。ですから、現実に建築をつくるという前提に立っていないのではないかと感じていました。これは必ずしも日本だけに限らず、現在教えられている建築は基本的にモダニズムの建築原理だと思います。一方、現実に僕らが日々考えている建築は、次の時代の建築なんですね。ですから、20世紀の教育システムが合わなくなってきているのではないでしょうか。そこで、自分はもう少し異なる方法で若い人たちといっしょに建築を考えてみたいと思っていました。

ART iT 建築家養成講座において、理論と実践のバランスはどのように考えていますか。

TI もちろん実践の機会は限られていますが、建築は実現するものだという前提に立って建築を考える場合と、理屈だけ、論理だけを追究している場合とでは、考えることが随分変わってきます。理想的には21世紀の建築はかくあるべきだという原理をこの塾で作りたいと思っています。20世紀の建築の原理は必ずしも人間のために考えられていない気がするのです。つまり、すごく抽象化してものを考える。それから、工業化して、産業として考えられてきました。異なる言い方をすれば、抽象絵画のように建築は考えられてきました。そうではなく、利用者のために建築はどうあるべきか。建築はどのような社会システムの中で作られていくべきか。建築原理を根底から作り直してみたいのです。

ART iT それでは、非モダニズムの建築教育に向かう一歩として、建築塾のカリキュラムはどのようにモダニズムからの脱出を試みますか。そして、それは実際のところ可能でしょうか。

TI 我々も半分はモダニズムの中に、もう半分はモダニズムを超えたところにあり、現在はそれらがミックスされた状態で我々が取り組んでいる建築は作られているんです。それをもう少し純粋にモダニズムを超えたところで考えられないだろうか。カリキュラムのひとつとして人間のプリミティブな行為、洋服を着るとかものを食べるとか、あるいは本を読むとか小説を書くとか、そういう建築以外の行為から建築を考える講座を作ろうと思っています。作家や料理家、そういう人たちに講師に来てもらい、それらがどのように建築と同じ問題を抱えているのかを考える。これが一般人向けの講座です。もうひとつ、養成講座の学生たちと考えるのは、僕らが展覧会で考え始めたエコロジカルユニットという単位、これはちょうど建築と都市的な空間の中間ぐらいのスケールのものです。人はそこにどう住むべきか。あるいは、そこでどんなエコロジカルな環境が考えられるか。各分野の専門家の話を聞き、リサーチをして、それをデザインにまで持ち込みたいと考えています。


畠山直哉, せんだいメディアテーク, 「Under Construction」(1998-2001)より

ART iT モダニズムによって、教育システムは制度化されました。生徒は各教育機関に入り、教育過程を経て、卒業し、建築家になる。そういったシステム構造に対するオルタナティブとして塾という教育空間が必要だと思ったのでしょうか。

TI 建築を考えるに際して、今の社会自体は近代主義で作られていると思います。役所のシステムも経済のシステムも含めてです。従って、そこから外れたところでものを考えるということは非常に難しいと思います。だからこそ、プライベートで小さなスケールからしかスタートはできないだろうと考えました。たとえば、今、僕らが作っている建築において、機能という概念はそれほど重要ではないと思っているのですね。ところが、今、建築を作ろうとすると、コンペティションからなにからすべて、まず機能があって、その機能をどう組み合わせるかということから始まるんです。だけど、実際、今の社会において、機能はむしろ曖昧にしていったほうが、人間が楽しく、自由に過ごすことができると思います。今の大学で教えようとすると、大学の先生はみな、専門領域がはっきりとしているので、建築が分断されてしまうわけですね。ですから、そういうところとは一旦切り離して、もっと自由に発想したいと思っているのです。

ART iT つまり、大学という形の中で教授の役割はすでに理論の専門であったり、歴史の専門であったりと機能的に分かれてしまっているということでしょうか。単位、ユニットが定められていて、そこからはみ出るというか、そこを横断していくことは非常に難しいシステムになっているのかと思います。それに対して、塾というのは単位という発想自体がない場所として非常に面白いと思います。

TI 大学には素晴らしい先生がたくさんいると思うけれども、外から見るとそういう人たちが十分に力を発揮できないシステムによって硬直していると感じますね。たとえば、現実に建築を作るのであれば、経済条件は大前提なのですが、そんなことを大学では誰も教わりません。本当に当たり前のことだけれども誰も教えられていない。だから、我々のオフィスに入所してくる優秀なスタッフもお金のことなんかまったく眼中にないし、法規のことも眼中にない。ただコンセプト、コンセプトと。そのコンセプトとはなんなのかと考えると本当に不思議なものなんです。抽象絵画のように切り取られた建築の中だけでのコンセプトなんですね。その枠をもう一度取り払いたいというのが最大の目的ですね。

ART iT 先日、西沢立衛さんを取材したのですが、西沢さんはかつて伊東さんの事務所でインターンをした際にすごく影響を受け、大学で教えられていたことよりも勉強になったとおっしゃっていました。大学ではもう少し客観的なことしか教えられなかったけど、伊東さんの事務所では主観的に、個人的にどう思うかを聞かれることが多かったとのことでした。事務所内での仕事の過程において、教えるということを意識していますか。

TI もちろんうちの事務所で一緒に設計することも、教育活動のひとつにはなると思います。けれども、オフィスの中で毎日の設計をすることと大学の中で抽象的なところで建築を考えていることの間にあまりにも大きなギャップがありすぎて、その中間辺りに塾の存在があるのではないかと思います。事務所内では余裕、ゆとりがないのです。ただ、うちの事務所では何人かでチームを作り、若い人も僕らもみんなほぼ同じ立場からアイディアを出していく中で、誰かのアイディアを取り上げて、それをまたスタディをして、同じことを繰り返す。客観的に見れば、このプロセスがある種の教育になっているということはあるでしょうけれども、教育をしているというような考えはまったくないですね。

ART iT 妹島和世さん、西沢さん、さらに藤本壮介さんも伊東さんから非常に影響を受けているそうですが、今日の日本建築にある種の伊東派のようなものがあると思いますか。

TI それぞれ随分違いますよね。僕は彼らをみんな評価しているけれども、彼らの思考は抽象的過ぎるとも思っていて、社会の中で建築家がやるべきことは少し違うのではないかと思っています。藤本さんには先日対談をしたときに、あなたの建築はコンセプトとしては非常にクリアで、新しい現代の問題を掴んでいると思うけれども、唯一僕があなたの建築で問題だと思うのは、あなたはモデルを作っているのではないか、本当の建築になるためにはもう一回なにかがあるんじゃないだろうかという批評をしたのです。モデルでの提案はコンセプトはよりクリアになるけれども、それが現実の社会の中に嵌め込まれるためには曖昧な葛藤があるはずで、そこを経験していないのではないかというような批判をしました。僕にとってはそこを埋めることが建築の一番面白いところでもあるし、建築が意味を持っている部分で、そうでなければ、もはやアートとも区別がつかなくなってしまうんですね。


畠山直哉, せんだいメディアテーク, 「Under Construction」(1998-2001)より

ART iT アートと建築は違うということですね。伊東さん自身、建築家としての成長過程で、そうしたことに気付くきっかけはありましたか。

TI ありましたね。やはり、せんだいメディアテークがいろんなことを僕に教えてくれたました。それ以前は僕もどこかで建築は美しくなければならないと思っていました。何故なら建築家としての自分は社会に位置づけられていないし、社会から必要な存在だと思われていないと勝手に考えていました。そういう状況では、ひたすらきれいなものを作るしかないと思っていたんですね。せんだいメディアテークのコンペティションでも同じような考え方を持っていました。しかし、5年から6年の間、一般市民、内部でいろいろなシステムを作っていく人、役所の人たち、いろんな人たちとの間で今までしたことのない様々な議論が繰り返されて、その過程で僕の考えが変わっていったのです。美しさよりも社会にとっていかに役に立つ建築であるべきかが見えてきたというか、徐々に自分が社会にとって必要な存在であり得るのだと思い始めました。実際にメディアテークがオープンしてからは、新しいチャレンジをしても、社会の人々から受け入れられる建築を作ることができるのだということを自分自身初めて感じたわけです。それから、なにか新しいことをやることと、それが社会にとって、人々にとって今までの建築よりも自由になれる、あるいはそこでリラックスできる、そういう建築を作ることが可能だと思い始めました。そこから自分の建築が大きく変わった気がします。

ART iT ところで、建築塾のカリキュラムを決めるためにバウハウスやブラック・マウンテン・カレッジのようなこれまでにあった教育施設のことを参考にしたのでしょうか。

TI 今回、特にそのための勉強はしていませんが、今までの僕の知識の範囲で言えば、あの時代は本当におもしろい時代だったと思います。20年代から30年代頃、それは建築が他のアートと同じように新しい原理を作って、しかもそれが社会を変えていくと信じることができたという点ですばらしい時代だったと思います。けれども、逆に今はもう少しアートと建築は違うんだということを主張する時代になっているのではないでしょうか。そうでなければ建築は相変わらず社会からあまり受け入れられないと思いますし、受け入れられない建築家たちはますますアート寄りに、抽象化していく傾向がある。今、美術館の中で建築家はすごく評価されているけれども、それには非常に疑問を持っていて、建築家はやはり美術館の外へ出なければだめだと思います。

ART iT それでは、建築はどのくらい社会に影響を与えられると思いますか。

TI そのためには建築の新しい論理を作らないとだめだと僕は思っています。もうひとつの例として、アートポリスという熊本県で主として公共のプロジェクトを建築家にコミッションするプログラムがあります。ここでは特に若い建築家を育てるために特定のコミッショナーを設けています。今は経済も悪いので本当に小さなプロジェクトしかありませんが。ここ4年くらいは僕がコミッショナーをしていて、たとえば西沢さんに駅前の広場のデザインをお願いしたり、佐藤光彦さんにも駅の反対側の広場を依頼したりしました。これはコンペティションですけれども、僕らだけで設計者も推薦して、その範囲で行いますから、若い優秀な建築家だけが集まっています。現在、広場の一部分が出来つつありますが、それを見ると日本のどこを探してもないくらい新鮮なのです。こうやって小さな例でも少しずつ実現していくことで、熊本県民の間でこういう建築の存在が少しずつ理解され始めています。ただ、一般的にいえば、建築家が考えるいい建築と、特に熊本のような地方都市に行ったときにそこの人が考えるいい建築との間にはものすごく大きなギャップがあります。その間をどうしたら埋めていくことができるだろうかということをコミッショナーをやりながら常に考えています。両者を近づける論理を作らないと、これから建築家は日本の社会で生きていけないという危機感があります。でも、極端に言えば、日本も大きな組織によって若い建築家の芽が摘み取られて、なかなか社会参加が難しい時代になっていますから、それをなんとかしていかないと、せっかく優秀な人たちが大勢いるのにもったいないですね。

ART iT 建築がアートと違うとすれば、実際に建てられた建築は市民とどれくらいコミュニケーションすることができると思いますか。

TI 先程話したせんだいメディアテークがオープンしたとき、こんなに簡単に市民とコミュニケーションがとれるのだと思いました。利用する人たちが自然に、好意的に建築を使い始めていました。建築家と市民との間のいい建築に対するギャップというものは、あるようでいて意外にないのかもしれない。メディアテークの場合は機能という概念が非常に曖昧なんですね。その結果、お年寄りと若い人が壁のないところで隣り合ってそれぞれの作業をしていたり、子どもがその間を走っていたりという、そういうことがどれだけ楽しいかということに、利用者自身が気づいてくれた。そうすると機能という概念はむしろ管理する側の発想で、利用者の立場からすれば機能なんていう言葉はそんなに重要ではないんだということがわかってきました。


畠山直哉, せんだいメディアテーク, 「Under Construction」(1998-2001)より

ART iT 民衆的な空間と独裁的な空間という概念に取り組むという点で、建築と教育はよく似ていると言えるかもしれません。

TI そう思います。特に今は世界中すごい大きな経済によって社会が動かされています。そして、世界でポピュラーな建築家のほとんどはそうした経済の波に従って動いている。たとえば、ドバイに巨大なお金が集まっているといえば、建築家もみなそこに集まり、見えない資本を形にするのが建築家の役割かのようになっています。ある程度、経済と建築は分離出来ないけれども、もう少しなにか、受け入れる社会や受け入れる人々との間のコミュニケーションを建築自体がとらないと、もう本当に建築家は滅亡してしまいますよ。こうしたことを伝えなければいけないと思っていますが、どこまでやれるでしょうか。建築塾では一日中その討論だけをしてもいいのではないでしょうか。

ART iT 以前、伊東さんは情報消費社会の中の建築について論文を書かれていましたが、同じく情報消費社会の中でどのように教育が変化していくと考えていますか。

TI いったんは消費ということを受け入れないと建築は成り立たないと考えています。モダニズムの教育はそういうことがほとんど視野に入っていない。そのことが問題で、実は建築塾の同僚である鈴木明さんと一緒にやろうとしていることに、子どもの建築塾というもうひとつの大きな柱があります。小学生高学年くらいの子どもに良い建築とは何かをどうやって教えられるだろうかと考えています。これは若い建築学生よりももっと難しいかもしれない。子どもからは建築に見えないかもしれないものを、なぜこれがいい建築なのかと伝えることは非常に難しいと思いますが、逆に考えればすごく面白いことだとも思います。自分を鍛え直さないといい建築だと彼らに言えないですからね。小学生くらいの子どもにどういう言葉で建築を語ることができるか、すごく楽しみです。

ART iT そこではなにがいい建築かを教えるつもりですか。それとも建築の見方を教えながら、生徒たちが自分なりにいい建築を決めることができるツールを渡すということを目指しているのでしょうか。

TI やってみないと僕もわからないのですけど、建築家のデザインした住宅を10人なり15人の小学生が見に行って感じることがあると思います。それを言葉にしてみたり、絵にしたり、どういうところが面白かったか、どういうところが変だったかというような感想を僕らが受け止める。子どもが変だと直感的に感じることの中には、建築家が気付いていなかったこともあるのではないかと思います。それを話し合ってみることはとても意味のあることで、子どもたちに彼らが一番いいと思う家の絵を描いてと言ったときに、どういう絵を描くか。既に社会化されていて、高級マンションみたいなものがいい住宅だと思い込んでいる子もいるでしょう。そういうことにその場その場で考えながら対応していくしかなく、そこに一般論はありません。

ART iT ウェブサイトに記載されている養成講座と子どもの建築塾のカリキュラムには、都市の成り立ちについて考えるものがあります。このような複雑な問題を子どもたちにどのように教えていこうと思いますか。

TI 子どもの建築塾は前半が家について、後半は街についてと大きくふたつに分けようと思っています。後半部分ではみんなでいっしょに街を歩いてみて、街がどういうエレメントで作られているか、そのなかで自分が興味を持つのはどういうものなのか。公園でも、ひとつの建築でもいいのです。それぞれが着目したものについて、それがなぜ興味を引くのかを、それぞれ絵にするなり、文章にするなりして、いっしょに考えてみる。15人いれば、15人が違うものをピックアップしてくるかもしれない。道路が面白いという子がいるかもしれないし、地下鉄の入り口が面白いという子がいるかもしれない。それらを組み合わせながら、街はどのようにして成り立っているのだろうかを考えてみたいのです。

ART iT 先程は熊本のプロジェクトを通して現代の日本社会における建築家と市民のコミュニケーションについてお話しされましたが、どうすればもう少し積極的にお互いにコミュニケーションできると思いますか。子どもの建築塾を通して、たとえ彼らが建築家にならなかったとしても、次の世代はもう少し積極的に都市について考えられる、それに対する意見を表現できるようになればいいですよね。そういう意味で、未来に対する政治的な可能性も含んでいると思います。

TI 本当にそう思います。子どもに親が付き添って興味を持つかもしれないし、本当に小さな試みですが、少しずつ浸透していくのではないかと期待しています。


畠山直哉, せんだいメディアテーク, 「Under Construction」(1998-2001)より

ART iT 日本は世界中に建築の国として知られ、戦後次々に才能のある日本人建築家が出てきていることを踏まえると、今回のような養成講座の必要性が少し不思議に思われるかもしれません。日本人建築家の成功は社会や教育体制、日本が独特に持っている要素と関係していると言えないのでしょうか。

TI ひとつは伝統的に、ものを美しく作る繊細な能力がある。これは建築家というより施工者の、あるいは職人の能力です。僕も海外に行って建築を作りますが、海外と比較すると日本の職人はこんなに優秀なのかと驚くくらい精度の高いものを作ってくれます。もちろんそれを統括している日本の建築会社もきわめて優秀ですね。短期間にすばらしいものを作る。そういう能力によって、たとえば、海外であれば30センチの厚さのコンクリートの壁しか出来ないところが、地震がある国なのに20センチで出来たりします。しかも、本当に美しい壁です。日本の建築家はそういう恩恵をずいぶん授かっていると思います。海外では僕らでもなかなかいい建築を作るのは難しいです。やっぱりここまでしかできないだろうという制約と、デザインにおいても、海外だからこれ以上難しいことを要求しても無理だろうと事前に決めてしまうんですね。だから、現在日本の建築家の評価の半分以上は、日本の環境に拠っていると思います。また、そうしたものが社会に受け入れられているかというと、必ずしもそうではなく、日本ではクライアントがあまり建築に興味がなくても、問題がなければ作らせてくれるんですね。だから、実は建築が作りやすい国なんです。その代わり、出来たものにもそれほど興味を持っていない。こうした隙間を縫って建築が出来ています。それを海外の人が写真を見ただけで、すばらしくきれいな建築だと評価しますね。僕の経験ではヨーロッパなどでは、本当にクライアントと一緒に長い時間をかけて議論をしながら作っていくので、ひとつのものが出来たときの充実した気持ちははるかに大きいですね。
ただ、日本の建築家は抽象的に作る能力はすごくあるかもしれません。いろんなものを洗練して、削ぎ落とし、ミニマルとまではいかなくても、抽象能力の高い建築を作ることは得意かもしれません。その代わり、それによって使いやすさとか断熱性とかそういうことはずいぶんスポイルされていると思います。

ART iT 最後の質問になりますが、建築塾が開かれる神谷町の建物は改装されますか。

TI ビル全体としては再開発を待っている建物ですが、僕らが借りた空間の内装だけは最低限子どもが来てもみすぼらしいと思わないくらいきれいにはしました。教育空間の設計として、とりたてていい空間だというほどではないですね。でも、将来はふさわしい建築を作りたいと思っています。

伊東建築塾|これからの建築を考える:http://www.itoschool.or.jp/


伊東豊雄. 伊東豊雄建築設計事務所にて Photo ART iT.

2011年3月9日収録

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