「パラの模型 / ぼくらの空中楼閣」 パラモデル展 作品ガイド

展覧会解説

ユニットを組みながらも、作品へのアプローチは全く異なるパラモデルという二人組。それぞれが独立しつつも一つの世界を目指す藤子不二雄のような関係を目指しているという林と中野。彼らの特異な世界、あり方を、この場所の特徴を生かしながらの展示を構成した。
まず彼らの代名詞ともいえるプラレールはなしで、から出発し、それから方眼紙、ガラスブロックといったキーワードが提案された。それぞれの陣地における平行した展示、二つのタイトルをもつ個展など、ルールを出し合いながら構想が練り上げられていった。特に今回はチャレンジとして、二つの空間を持つメゾンエルメスの特性を利用したパラレルな個展形式をとっている。

 本展覧会に際し、パラモデルの二人はガラスブロックで覆われたレンゾ・ピアノの現代版クリスタルパレスへの尽きることなき興味をもとに、中野はブルーノ・タウトの「都市の冠」につながる地縁的文脈から、林は建築ユニットとして構造基盤だけでなくデザインとしても可視化された方眼から手がかりをつかんだ。さかのぼること産業革命とともに生まれたガラスの建築がもたらした二つの側面、プレハブと呼ばれる建築ユニットの近代性、それともう一つの側面、ガラス、クリスタルという素材のもつ象徴性という両側面がそれぞれパラレルに追求されてゆく。(二人のアプローチについては会場内で配布しているハンドアウトに詳しい)

林は、1月8日より滞在しながら、アルミパイプや角材、針金などを持ち込み、6人~10人のアシスタントとともに作業を開始した。『パラの図式_#001 para-graphe_#001』はアルミパイプ2700本を現場で八等分に切断し、2万本以上のユニットに仕上げ、そこに針金を通して、キューブ状の作品となった。
林が注目したのは、このビルの中に存在する方眼であり、ガラスブロックや床面といった構造、あるいはタイルのようなデザイン的なグリッドを採寸。そのグリッドがいかにこの建築の基準単位となっているかを発想とした。
『パラの図式_#001~#003/para-graph_#001~#003』 『パラの模型_#001/para-modeling_#001』と題された作品はガラスブロックと同じ45センチの建築ユニットを作成し、展示空間にその延長として増殖、侵食してゆくという形態をとる。本来であれば建築ユニットは空間を支える外枠を作ってゆく性質のものであるが、ここでは主役となって空間を埋め尽くし、プライマリーなデザインともいえる均衡を形成するに至る。
林の実家は東大阪の工場で、発泡スチロール、アルミ、木材、プラスチックなどを扱っていた経緯から、幼い頃よりこれらの素材が単位とする定型サイズになじみがあり、常に発想の基盤、表現の文法としている。今までの作品もこれらの工業規格品を意識した寸法で作品を制作してきており、それが彼の黄金比率あるいは表現単位となってきた。「たとえば日本では3×6板といわれるようなベニヤ板のサイズ、そういう単位でしか発想できない。自由なサイズになると居心地が悪いというか、別のサイズにする根拠が見当たらない。」と林はいう。林の言語や身体性は実家の工場で遊んでいた時代、また内装デザイナーとして仕事をしていたときに育まれてきているためか、同様に規格品とされるキャンバス、いわばアカデミックな美術の既存単位にはしっくりとなじむ感覚がないという。一つの型として広く提示され、日常生活に紛れ込んでいる工業ユニットや子供の身体に馴染む玩具のようなミニチュアモデル、その組み換えによって作られる疑似(ここではパラ)世界こそが林の表現である。
今回レンゾの提示したクリスタルパレスの構造単位であるガラスブロックを作品の規格と設定し、そのユニットをカスタムメイドする。本来ユニットとは工場の生産ライン化、効率に基づいた既製品であるが、林は自らのモバイル工場にて手作業にて生産するという反転をおこす。
『パラの図式_#001/paragraphe_#001』の構造は、テントなどの作りに見られるような、簡易でポータブルな形態を目指していながらも、林率いる銀座のパラモデル工場では、切り取られたパイプ一本一本に針金を通して、ひとつずつ取り付け作業が行われる。グリッドの中に出現する方眼紙もこのために特注したものであり、接着も全て手作業にて行われた。ロンドン万博のクリスタルパレスが提示した近代性のプレファブリケーションには程遠く、設営現場での試行錯誤を経て、天地を埋め尽くした蜃気楼のようなグリッドは、軽やかにまたパラドクサルにガラスブロックにつながってゆく。

一方、中野はブルーノ・タウトの「都市の冠」に示されている純粋な建築の持つ象徴性を工事用養生メッシュシートという素材を用いてビルの中に出現させる。ここでいう「純粋」な建築とは、具体的な衣食住といった日常に結びつく用途を持たない、宗教建築のドーム部分のようなシンボリックな存在である。
『巨大な少年の建設計画』と題された一連の作品は、メゾンエルメスのビルの中から少年の身体が都市の冠として突き抜けていくようなイメージから制作された。ここで選ばれた少年の身体は、ゆるぎなき(同時にはかない)永遠性を内包する器官であり、純粋なかたちを求める中野の思いが託されている。
展示空間には巨大な少年の頭部が青焼きのメッシュシートの立方体となって天に向かい、またその少年の腕部や脚部、臍といった身体が分解され、白いメッシュシートに出力されて点在している。ここで目の前に立ちはだかる頭部は『冠』であり、正面、側面、背面に分かれて描かれている。その少年の頭上には更なる冠としてのクリスタル宮があり、各面に車輪や片脚のない犬が現われ、啓示を思わせる言葉の断片が痕跡を残す。曼荼羅ともいえるその宇宙には、片言のような言葉と共に、幾何学的な模様とも何ものかの現れともとれる事柄が描かれている。全貌を把握しかねる大きさ故、我々の身体は描かれているメッセージを部分的に受け取りながら、おそるおそる作品と向かい合う。
展示室内には、マスキングテープの点線、方眼のトレーシングペーパーにかかれた鉛筆絵、青焼き、壁面に記された言葉など巨大な少年の実行計画の時間が視覚化されている。
建築の外側にあるはずの仮囲いが、ビルの内部(展示室や廊下)に置かれることで、空間の内外の反転を示唆していることは林の空間の反転と奇妙につながってゆく面白さだけでなく、ここで半透過性のあるシートの中が、少年の計画で満ちていながらも、全くの空洞であることに注目したい。タウトの「究極の建築は、空であり純であり、すなわち「死」であって、いつの時代も静寂であり、日常の些事に全くかかわることがない。」という言葉をここで引用するまでもないだろう。現代においての純粋な建築を本展示に求めた中野がここで、仮囲いシートのみの構造物に建設計画(完成に向かい、決して完成しない)を出力したことは、彼が先達の思想の断片をどのようにパラモデル化していったかを良く物語っている。
中野は図書館でアルバイトをするほどに本が好きで、今回の制作にあたり、ブルーノ・タウト、稲垣足穂、アントナン・アルトー、パガヴァッド・ギーダーなど数えきれない書物や思考が引用されている。彼は、自身が書物と接する態度を次のように表現する。「僕らの作品は生成を繰り返して増殖してゆく。ものが増えると部屋が埋め尽くされたり狭くなって気づくけれど、頭の中もどんどんものが増えていっている。見えないだけで、イマジネーションは常に繁殖している。文字の中には無限の世界がある。」
クリスタル建築とのつながりから発想源としたブルーノ・タウトであるが、そもそもは桂離宮や生駒山山嶺小都市計画といったタウトの関わった土地と中野が拠点を構えた地との地縁的関係から出発している。冠をのせた永遠の少年もしかり、古代の美術家や少年愛好者を背景としながらも俊徳丸という八尾に残る伝説が下敷きとなっている。中野の身体を通じて古の物語や土地の記憶がこの銀座の地につながり、未完に終わった建築計画が幻影のように立ち上がっている。その姿は広がり続ける脳内のスクリーンに映る幻燈を思わせる。

両者の異なるアプローチが、一見正反対な着眼点からパラレルに始まっているにもかかわらず、最終的に二人とも空間の転位をおこし、両者の間では不思議な同期を起こしていることは、非常に興味深い。二人のメインの作品はそれぞれ天地を貫くサイズであり、両者とも展示スペースを超えたビル内外への直接的な指向性を持つ。偶然にも展示している作品数は同じ数であった。     
林の造形が構造そのものに着眼し、穴に紐を通すという図式によって完成し、あるいはその上に透明パイプや玩具といった既存品によってドローイングがなされる時、その形は都市の細胞や素粒子の新たな単位や形態を思わせる。中野のキメラ型超人称である少年は、至上の宮殿を目指し、地縁の深みに沈み、私たちを地球や星たちの彼方、ダークマターを髣髴とさせる次元へといざなう。宇宙の構成要素であるミクロマクロの交差はここで不可分となり、パラモデル二人の(あるいは人称を超えた)世界となるのだ。

また、二人の制作における「範(モデル)」の求め方にも特筆すべきことはある。
あくまでグラフィカルなフォルム、既存の形態、単位に興味を持ち、工業規格品の面白さや素材、玩具や日常品などに見られる模型的あるいは擬似的な表現に「モデル」を求める林は、工場のように多くのチームを抱えながら、人と連結しながら日々生産を続ける。
一方、中野は先達たちの書物や思想などに範を求め、それぞれの表現物(書物や絵画など)を通じてつながり、しかし一人で製図台に向かって作業をし、時にテンプレートといった型を使い、工業的な方法(今回の場合は工事用養生シートにインクジェット出力)で作品として可視化させてゆくという方法論だ。
また、彼らが同時に求めている生成過程とともにある展示(展覧会とは、その運動を一時的に移動させてきているに過ぎない)に関しても、林はサイトに1ヶ月以上滞在しながら制作をし、また会場内に『モバイルファクトリー/mobile_factory』を設置し、公開制作を行うことでフィジカルな現場、また不在による存在を作り出す。一方、中野は、少年の計画を、段階で見せとることで、予感を閉じ込め、永遠に完成しないことを目指すのではなく、永遠に遊び続けることを夢見る少年のかたちを我々に提示する。それは憧憬という名のひとつの心の状態であり、パラに託された永遠の運動である。

最後に、並行に掲げられた二つのタイトルが、最終的に入れ替わっているかのような印象を与えるとき、(「パラの模型」は中野のメッシュシートの計画図を示唆し、「ぼくらの空中楼閣」は林のみんなの手によるガラスブロックに直結する立体を想像させるように)パラモデルが相互的に存在することを強く実感するに至るのだ。
ユニットという表現形式をとりながら、その単位をさらに重複、拡張し、時に亀裂すら恐れない運動体、パラモデリアでの模型遊びはこれからも続いてゆく。

「パラの模型 / ぼくらの空中楼閣」 パラモデル展

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