2012年 記憶に残るもの 相馬千秋

震災から一年が経過して、被災地からの距離、福島からの距離が、様々なグラデーションで見え隠れした一年だった。また、アラブの春やオキュパイ・ストリートといった抵抗運動のその後、泥沼化するシリア内戦やイスラエル軍によるガザ攻撃、東アジアを緊迫させ続ける国境問題など、未だくすぶり続ける国際情勢からも目が離せない。さらに日本のみならず世界各地で右傾化が加速し、コミュニティや世代間の分断も進行している。そのような状況の中で、表現者はどんなアンテナを張り、何を察知し、そこからどんな問いとして立てようとしているのか。そしていかなるアプローチで、その問いに対峙しているのだろうか?
私自身はフェスティバル/トーキョー(F/T)という舞台芸術フェスティバルの企画責任者であり、このような問いに対する私なりの向き合い方はフェスティバルのテーマや作品選択で体現しているつもりなので、自分にとって最も「記憶に残るもの」がF/Tで上演された作品群であることは言うまでもないとして、ここでは敢えて、F/T以外で記憶に残った二つの作品について言及したい。


Theater Hora, “Disabled Theater” Photo: Michael Bause

ジェローム・ベル&劇団HORA『Disabled Theater』
2012年5月
クンステン・フェスティバル・デザール2012、ブリュッセル
http://www.kfda.be/

フランス人振付家ジェローム・ベルの最新作。11人の出演者は18歳から51歳、ダウン症の「障碍者」であると同時に、スイスを拠点に活動する劇団HORAに所属する俳優達である。これまでも様々な舞台経験を踏んできたいわば「プロの障碍者劇団」に、ジェローム・ベルが招かれて演出をしている。舞台上手には11名のパフォーマーとは別に進行役のナレーターがおり、彼女が「Jerome Bel asked the actors to …. 」という指示を読み上げると、その「演出家ジェローム・ベルの絶対的指示」に従う形でパフォーマーたちが一人ずつアクションを起こす。「舞台上に一人ずつ登場して観客に挨拶をする」「観客に向かって自己紹介をする」「自分の障碍について話す」「ダンスを披露する」といった指示を、一つ一つ、一人一人が愚直にこなしていく。それがこの作品の内実なのだが、その与えられた至上命題を、障碍者達はそれぞれの個性としかいいようのない魅力や、意図的か無作為かは判別不能な即興によって内破していく。最初はいかにも「演出家に好きなように操られ、フリークショーのような見世物にされている可哀想な障碍者達」というありがちな展開に嫌悪感さえ感じるのだが、それはジェロームが仕掛けた罠に過ぎず、舞台が進むにつれて、個々のパフォーマーの言葉や身体から滲み出る個性やエネルギー、つまり与えられた枠組みを食破っていく「役者」としての力が、圧倒的な説得力をもって立ち現れてくる。たとえそれが「障碍者という当事者だけがやれること」であったとしても、この舞台は、客席に座っている健常者と呼ばれるマジョリティと、舞台上に立つ障碍者と呼ばれるマイノリティの間の決して埋まることのない距離を、パフォーマー自身に内在する力を引き出すことによってあくまでジョイフルに宙吊りにすることに成功していたのではないだろうか。
今、ヨーロッパの劇場やフェスティバルではで上演される作品の多くは、舞台上には移民、障碍者、子供、老人、ゲイ、といったマイノリティで、一方客席のほとんどは白人、インテリ、エリートといったマジョリティ、という構造が驚くほどスタンダードになっている。マイノリティが自らのマイノリティ性を語る。誰も文句が言えない当事者の舞台を、マジョリティがある種の罪の意識に苛まれつつも、そこにカタルシスを得る。結局、こうした舞台と客席の癒着関係によって、両者の距離は固定され、何も現実を突き動かしていかないのではないか。ジェローム・ベルの『Disabled Theater』は、最近、ヨーロッパで舞台を観る度に私が感じているこうした欺瞞に対し、強烈な一石を投じるスリリングな舞台であったことは間違いない。

リナ・サーネー&ラビア・ムルエ『33 Rounds and a few seconds』
2012年7月
アヴィニョン演劇祭2012
http://www.festival-avignon.com/


Photo: Chiaki Soma
今やレバノンのみならずアラブ世界における同時代表現の代表的存在となったレバノンのアーティスト、リナ・サーネーとラビア・ムルエの最新作。今年のドクメンタのオープニングでは、シリア内戦時に撮影されたYouTubeの映像を用いたレクチャー・パフォーマンス『The Pixlated Revolution』も上演され、すっかり現代美術の文脈にも定着した感のある彼らだが、もともと豊かな演劇的英知を蓄えた劇作家・演出家であり、また素晴らしい俳優でもある。そんな彼らが、ついに舞台上から一切のパフォーマーを消し去った演劇作品を発表した。「33回転と数秒間」とでも訳されるこの作品は、ひとりの架空のアクティビスト・革命家・アーティストの謎の自殺を巡る、「ソーシャル・メディア・ネットワーク」パフォーマンスである。舞台上は自殺した主人公の書斎と思われる部屋が再現されており、パソコンの画面には本人のアカウントでログインしたままのFacebookのフィールドがリアルタイムに更新され続け、携帯電話には彼の死を知らない友人からのSMSが次々と入り、さらに留守番電話には彼に告白を続ける女性からの音声メッセージが断続的に流れ続ける。つまり本人は死んでしまっても、彼が使っていたコミュニケーション・メディアは彼を語り続けるのである。スクリーンに投射されるFacebookのフィールドには、次々と彼の死を悼む人々からのメッセージが投稿されるのだが、やがてそこは謎の死を巡る議論の場となり、さらには右派や左派、様々な宗派や人種、芸術的価値観を持つ人々が好き放題に言い合うコメントの応酬が繰り広げられていく。議論は拡散し、陳腐化し、やがて忘れ去られていく。そして自殺した当事者の、声なき声、圧倒的な不在が再び去来する。そこはソーシャル・メディアの普及によって実現したと言われる「アラブの春」を経てなお、まだどこにも着地していないアラブ世界のもう一つの現実をあぶり出すかのようだ。生身の人間が一切登場せずメディアだけが声高に語るこの作品は、極めて巧妙なドラマトゥルギーに支えられ、「アラブの春」後の世界を最も批評的に捉えた秀作ではないだろうか。

という訳で、私がF/T以外で最も記憶に残った舞台作品は上記の二つであるが、他にも年間を通じていくつかの舞台との出会いがあった。日本の作家のもので印象深かったものとしては、チェルフィッチュの『現在地』(作・演出:岡田利規、KAAT 神奈川芸術劇場)、快快の『アントン、猫、クリ』(作・演出:篠田千明、nitehi works)の二作が挙げられる。前者は震災から一年を経て、作者自身が感じ取った変化を正直に受け入れつつ、日常に去来する制御不能なものへの私たちの不安や心の揺らぎを、不自然なまでに距離感のある言葉に変換してフィクションとして提示していた点で、私自身が当時抱えていた問題意識とも化学反応を起こして、強く心に響いた。快快の『アントン、猫、クリ』は、パフォーマー達のとにかくエネルギー過剰で個性的なパフォーマンスに魅了されつつも、ある他愛もない日常の一瞬を、無限に微分するような奥行きのある演出にとても興奮した。また今年はダンス・トリエンナーレ・トーキョーが三年ぶりに開催され、これまでになく野心的な作品がバランス良く紹介されていたと思う。劇場での海外招聘ダンス公演の質も数も年々減少していることを実感する中で、アラン・プラテルの『OUT OF CONTEXT – FOR PINA』(青山円形劇場)や、ヤスミン・ゴデールの『LOVE FIRE』(スパイラルホール)といった、観る者にダンスそのものの快楽と開かれた問いを同時に投げかける、名実ともに一流の作品を日本で観られる機会はとても貴重なものである。今後もこのダンス・フェスティバルが青山円形劇場の閉鎖にも負けず(あるいは閉鎖の決定を覆し)継続することを切に願う。

相馬千秋|Chiaki Soma
1975年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フランス・リヨン大学院で文化政策およびアーツマネジメントを専攻。2002年よりNPO法人アートネットワーク・ジャパン所属。主な活動に東京国際芸術祭「中東シリーズ04-07」、横浜の芸術創造拠点「急な坂スタジオ」設立およびディレクション (06-10年)など。2009年 F/T創設から現在に至るまで、F/T全企画のディレクションを行っている。2012年度文化庁文化審議会文化政策部会委員。
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