私たちがデモクラシーと呼ぶもの、その干ばつ地帯のありとあらゆるところに不平不満が広がり、アートの動向や優先事項へと影響を与える地球規模で標準化された経済から、同時代文化に見られる恐ろしく均一化された意見に至るまで、私たちはかつてないほどに蔓延する文化の平準化の兆候に悩まされているにもかかわらず、広がり続ける不安の大海に多くの希望をもたらし、現代美術が無意義に陥る危機から引き戻す助けとなった、この一年の称賛すべき作品や注目に値する展覧会をいくつかここに選び出してみる。

La Triennale 2012: Intense Proximity
2012年4月20日-8月26日
パレ・ド・トーキョーほか、パリ
http://www.latriennale.org/
アーティスティックディレクター:オクウィ・エンヴェゾー
キュレーター:アブデラ・カルム、クレア・ステブラー、メラニー・ブートルー、
エミール・ルナール
このとてつもなく野心的なトリエンナーレは、その企画の前提段階から、近いものと遠いもの、見えるものと見えないもの、より精確に言えば征服者と征服されたものの間にある距離が崩壊しているという仮定の下に成り立っている。これらが基本構造となって、「Intense Proximity[極度の親密性]」が展開される。オクウィ・エンヴェゾーの言葉を借りれば、文化、社会、歴史のアイデンティティと経験における近さの度合いという文化的敵対性の誤ったラインを露呈している一方で、同じ空間を共有している。展覧会は現代美術のアーティストの作品に基づいたものであるが、その中心的かつより魅力的なキュレトリアルコンセプトは20世紀前半のフランスの文化人類学の偉大なる遺産に捧げられている。マルセル・モース、クロード・レヴィ=ストロース、ミシェル・レリス、レオポール・セダール・サンゴール、マルセル・グリオールなどの伝説的な人物について思案を重ね、この驚くべき展覧会には、アーティスト、映画監督、写真家、文筆家そして大学や美術館などの教育機関など幅広い領域および興味の対象から100人以上が参加している。全体として、「Intense Proximity[極度の親密性]」は文化人類学的な詩学と近現代美術の間で行なわれる関係と交換におけるキュレーションの考察に他ならない。差異を超え、より豊かになる文化的および政治的な移行や転移を考察する挑戦であった。
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『愛、アムール』(監督/ミヒャエル・ハネケ)
公式ウェブサイト:http://www.ai-movie.jp/
成就することのない愛について、私たちは既に数多くの映画を見て、数多くの物語を読んできたが、それでもこの映画は、命が続く限りの最後の日々の愛について私が見た初めての映画だろう。もちろんここで、ストーリーのすべてを語るつもりはない。しかし、この映画はわたしにとって、2012年において、いやここ数年においてもっとも身近に感じたものであった。『愛、アムール』はシンプルながら、深い感情に満ちた映画である。ハネケの他の映画と違い、脚本のきっかけとなったのは自伝的な出来事、彼の叔母の自殺である。主人公である、アンヌとジョルジュという80代前半の夫婦は、共に定年退職した元音楽教師で、彼らの娘は海外在住である。アンヌが心筋梗塞に倒れ、彼女の身体の片側が麻痺しまったとき、続いて起こった認知症の最終段階を迎える妻の世話を夫のジョルジュが甲斐甲斐しく続けるのを観客は見ることになる。ハネケはこの苦しみを可能な限り不屈のものとして描くことで、真の同情を確実に記録し、映し出すことに成功した。
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『Almayer’s Folly[オルメイヤーの阿房宮]』(監督/シャンタル・アケルマン)
2012年8月
アンソロジー・フィルム・アーカイブ、ニューヨーク
http://anthologyfilmarchives.org/
アケルマンの『Almayer’s Folly[オルメイヤーの阿房宮]』は、ジョセフ・コンラッドの知られざる同名デビュー小説とゆるやかに繋がっている。思慮深いことで知られる彼女の眼差しを通して、植民地主義から人種差別やアイデンティティまで、数えきれないほどのアイディアがこの映画で扱われている。寡黙で難解な作品にもかかわらず、彼女は最初から最後まで観客の注意を引き付ける。それでもなお、彼女のこの偉大な新作は、陰鬱な物語の禁断の恋といった複雑なメロドラマというよりも、息苦しい精神的環境に陥るものである。たとえ、登場人物たちの体験に近づいたり、それを理解できなくとも、認識することと曖昧なこととの間で生じる緊張が、観客をオルメイヤーの狂気や無意識が働いているであろう場所へと接近させていく。
『Ends of the Earth: Land Art to 1974』
2012年5月27日-9月3日
ロサンゼルス現代美術館
※ハウス・デア・クンスト(ミュンヘン)へ巡回
http://www.moca.org/
キュレーター:フィリップ・カイザー、ミウォン・クォン
実際の風景で作用するアートの展覧会を提案するということ自体が挑発的な試みなのだが、この展覧会は従来考えられてきたランドアートへの私たちの理解を拡張するものであった。この展覧会では、マイケル・ハイザーやロバート・スミッソン、ウォルター・デ・マリアの象徴的な作品に代表されてきたアメリカの独占的な領域を越えて、ランドアートを自然や土地といった考えの周囲に分節され、急増していた、さらには日本や南米、ヨーロッパにも関連する作品が見られる、より国際的に展開した異質多様で実験的な一連の実践として紹介していた。主要な作品が1974年以前に制作されているという理由からか、デ・マリアとハイザーは展覧会に含まれてさえいない。いくつかの事例を提示しつつ、キュレーター陣はランドアートが美術館やギャラリーを基盤とした現象であったという刺激的な考えの検討を行い、その一方で広範囲かつ国際的な包括的展望で主題に迫るという卓越した展覧会を構築していた。

ピエール・ユイグ「Untitled」
ドクメンタ13(カールスアウエ公園)
2012年6月9日-9月16日
http://d13.documenta.de/
大麻草の発見、衰弱した犬のカップルが静かにあなたの横を大股に通り過ぎる。人は無関心でありながら用心深い……。そこではこの世界/コンポストがどの段階で終わるのかは見えない。ピエール・ユイグの環境の創出はひとつの発見を促す旅であり、タルコフスキーの映画と同じような継続する幻覚である。外に向かって広がりながら、あなたをがっちりと捕まえ、当惑させる。ユイグは、分散され、ほとんどばらばらであったドクメンタ13の主要なエリアのひとつ、おそらく私が一番好きだった場所であるカールスアウエ公園の環境下で、(薮や、ミツバチの巣、蟻塚、倒れたボイスの樫の木を使って)場所[site]全体を作り上げた。ユイグのその場所[site]は比較的広くて、「生きている物と動かないもの、作られたものと作られてないもの」との個々の関わりを通してその場所を経験しながら、複層的な意味と読解が展開されていた。
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ララ・アルマルセーギ『Madrid Subterráneo』
2012年6月28日-10月28日
セントロ・デ・アルテ・ドス・デ・マヨ(CA2M)、マドリッド
http://www.ca2m.org/
キュレーター:マヌエル・セガデ
アルマルセルギーニは都市の再生と崩壊の境界を扱い、私たちの注意や、さらには意識からも逃れるものを可視化するプロジェクトを考案してきた。彼女は1990年代半ばより、都市と自然の秩序が接触する暫定的な空間を観察、研究している。例えば、都市計画の過程や、経済的、社会的、政治的な関心事や変化によって引き起こされる都市周辺の荒廃地の変容といったもの。同時に、私たちがほとんど気づかなかったり、ほとんど考慮に入れないような都市や建築的ランドマーク、特徴を分析している。私たちの過去と未来の関係を特徴付ける繋がりを明らかにして、都市のリアリティの複雑さの内にある周縁的な要素や領域に焦点を合わせようと、彼女は現在に対する考古学者のように動き、フィールドリサーチを実施しながら、手引書や地図、カタログという形で自身の調査を記録している。その上に、建物、その他のランドマークや構造物が取り壊されるとき、そうした建物が理路整然としない剥き出しの素材からなることを示したり、それらが再利用製品を使用し、建物自体も回りまわって最終的には再利用製品となり、私たちを本質的なエントロピーに近づかせるのをあらわにすることで、私たちの居住に対する理解を明らかにする。究極的には、彼女のそうした作品は内と外、また知識の弁証法的プロセスにおける内部とそれ自体への意識を繋いでいく。マドリッドの展覧会では、普通は都市計画者や建築家以外は知らない、歴史的、考古学的レイヤーや、交通網、送電網、水道や電線のネットワークなど、この都市の根底にあるものを明らかにする出版物を全体の一部として加えていた。
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『メランコリア』(監督/ラース・フォン・トリアー)
公式ウェブサイト:http://melancholia.jp/ ※リンク切れ(http://www.melancholiathemovie.com/ 英語版)
友人の多くがこの映画はなんの魅力の欠片もなく退屈なだけだと捉えていることは認めねばならないが、残念ながら私の意見は異なる。たとえこの終末論的なシナリオに入り込めなくとも、この映画の劇的かつ挑発的で人目を引くような想像力を否定すべきではない。私たちが常に商業映画を容認する度に経験する常套句が引き起こす、うんざりするような退屈の真っ只中で、これこそが既に私にとっては成果なのである。大袈裟だとか「偽もの」だとかは関係ない。いったいどれだけの現代美術の作品がこうした判断から逃れているのか。おそらくこの映画はフォン・トリアー自身が最も低俗な映画趣味とするロマン主義に屈している。しかし、究極的には、この作品は残酷な絶望に取り組む、「地球は悪だ」と信じ込む、精神を病んだ男の優れた作品である。おそらくあなたは物理学とこの映画の脚本の信じ難さをまじまじと見つめるだろうが、私を虜にするこの映画の魔法を解くものは何もない。
エイム・デュエル・ラスキー『Residual Images』
2012年10月25日−2013年1月13日
ビレイラ・イメージセンター
http://lavirreina.bcn.cat/
キュレーター:アリエラ・アズーレイ
エイム・デュエル・ラスキーは1970年以降数々の異なるカメラを発明している。各カメラは任意の状況もしくはある具体的な瞬間を記録するために特別に設計されている。「私の制作は伝統的な写真家というよりも画家に近い」とイスラエルの巨匠写真家は述べる。彼にとって、現実を記録するということは機械的なプロセスではなく、ありとあらゆる状況がそれぞれ異なったアプローチを求めるがために、30以上ものカメラをこれまでに制作している。ある具体的な状況に対する最適な道具とはなにか、今日のイスラエルの生活同様、とらえ所なく比較不能な現実に全身で傾倒し、そこにいたという確かさを鑑賞者に伝えるには何を使うべきなのか。これらのカメラは彼が撮影するまさにその瞬間に脳裏をよぎるそうした問いに答える手助けとなる。この展覧会は私にとってこの一年の予期せぬ収穫のひとつとなった。

Kader Attia The Repair from Occident to Extra-Occidental Cultures (2012) at dOCUMENTA13. 2012
カデル・アッティア「Repair」
ドクメンタ13(フリデリチアヌム美術館)
2012年6月9日-9月16日
http://d13.documenta.de/
カデル・アッティアは、歴史家、考古学者、民族誌学者そして人類学者としての役割を果たしつつ、オブジェ、道具、彫刻、資料および映像のコレクションを作り上げ、どのように複数の社会と文化が生き残り、再建し、変容するのかを示す一方で、それらが互いに学ぶその過程でお互いに係合し、応答し、関係していくのかを提示していた。
一方で、私たちは植民地化という痛烈な攻撃や帝国主義的戦争機構、そしてその経験と文化の流用を目にし、こうした混乱した遭遇からそれ自体を修復する方法に向き合うことになる。また一方では、私たちはこの展示を見ることで、ヨーロッパの大戦の残酷な効果や、”機能再生”や整形手術といった近代の進歩を観察する。結果は異なる文脈の集合というだけではなく、人間の根本的に違うふたつの例の提示でもある。これらの並置とばらばらで類似した現実の邂逅を通して、アッティアは、変化や回復、生存のための方法と手段における私たちへの影響や交換、複製、流用の複雑性を露呈する関係性と関連性の物語を作り上げた。彼は「西洋の歴史の残酷もしくは栄光という象徴的な時代における、西洋とそれ以外の世界との直接の出会い」の可能性を作り上げることに寄与する野心的な作品を展開した。しかし、彼がステレオタイプの「西洋とそれ以外の世界の両極の対決」として理解する代わりに、作品はこうした並置を超えて、普遍性を通して存在の解釈を提示することを希求していた。
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『Rise and Fall of Apartheid: Photography and the Bureaucracy of Everyday Life』
2012年9月14日-2013年1月6日
国際写真センター(ICP)、ニューヨーク
http://www.icp.org/
キュレーター:オクウィ・エンヴェゾー、ローリー・ベスター
たとえ私たちが数多くの南アフリカの写真家、例えば、デヴィッド・ゴールドブラット、ガイ・ティリム、サントゥ・モフォケン、ロジャー・バレンといった名声が確立した写真家や、ピーター・マグベイン、ジョージ・ハレット、アーネスト・コール、ギオデン・メンデルを含む南アフリカのフォトジャーナリスト、伝説的な雑誌『Drum』に参加していた写真家について、既によく知っているということを考慮に入れたとしても、この膨大で歴史的視点を有した驚異的な展覧会は、アパルトヘイトの後遺症と南アフリカにおける抑圧と抵抗の歴史に重点を絞った非常に優れた研究、調査を実施し、アパルトヘイト時代の残虐行為や不条理を記録しており、過去のいかなる南アフリカ写真の展示もはるかに凌駕している。この記念碑的な展覧会は、500点近い写真、フィルム、雑誌、関連印刷物を通じて、1948年のアパルトヘイト政策制定以後、とりわけ南アフリカ各都市の闘争空間において、いかに写真を用いた印刷物が急増し、また、南アフリカ写真がいかに素早く民俗学的実践から政治や社会に積極的に関与したアクティビスト的なものへと変容したのかを実証している。ときに大胆に、ときに圧倒的に、この極めて面白い展覧会は、南アフリカの写真家の卓越した功績を讃えつつ、写真に対する複合的理解やドキュメンタリーという形式の美学的な力を詳細に解説している。この展覧会には、アパルトヘイトという不正を顕在化させ、国際的な闘争を支える手助けとなったハンス・ハーケやエイドリアン・パイパーら、南アフリカ外部のアーティストによる作品も展示されている。
オクタビオ・ザヤ|Octavio Zaya
キュレーター、エディター、ライター。1978年より現在までニューヨーク在住。2013年の第55回ヴェネツィア・ビエンナーレではスペイン館キュレーターを務める。
現在はカスティーリャ・ レオン現代美術館[MUSAC](レオン、スペイン)のキュレーター、セントロ・アトランティコ・デ・アルテ・モデルノ[CAAM](ラス・パルマス、スペイン)のゲスト・キュレーター及び同美術館が発行するバイリンガル季刊誌「Atlántica」のディレクターを務める。そのほか、「Perfoma」(ニューヨーク)の顧問委員会のメンバーであり、「Nka Journal of Contemporary African Art」の編集委員、「Flash Art」の編集を務め、e-flux「Agenda」への執筆も行なう。これまでに、ドクメンタ11(カッセル、2002)のオクウィ・エンヴェゾーのキュレトリアル・チーム、第1回、第2回のヨハネスブルク・ビエンナーレ(1995, 97)でキュレーターを務めている。国際的な美術館での企画展や著作、カタログへの執筆も多数。
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