六本木クロッシング2010展:アーティストが語る「芸術は可能か?」(1)

3年に一度の「日本アートの定点観測」とも呼ばれる『六本木クロッシング展。開催中の『六本木クロッシング2010展:芸術は可能か? —明日に挑む日本のアート』について、参加アーティストの20組の出展作品と、タイトルに添えられた問い「芸術は可能か?」への各作家(一部)によるコメントを紹介する。
※6月13日(日)に発表された「クロッシング・プライズ」結果は、該当作家名の右に赤字表記

展示会場撮影:木奥恵三 写真提供:森美術館

■相川勝


『CDs』2007年— カンヴァスにアクリル、ケントボード、紙にインク、CD-ROM
一見、CD店の視聴ブースのようだが、すべて作家の愛する音楽アルバムを手描きで再現したもの。ジャケットの表裏をはじめ、歌詞カードやCDの盤面まで……さらにそれを再生すると、全収録曲を歌う作家自身のアカペラが聴こえてくる。大量複製で伝搬される音楽作品の、奇妙な「1点モノ化」が投げかける問題意識とは——。

《芸術は可能か?》そうですね……「可能にしたいですね」という感じです。(相川)

■雨宮庸介


『わたしたち 2010年3月19日〜2010年7月4日』 2010年、ビデオ・インスタレーション+身体
作家本人が常駐するインタスレーション空間と、その奥に掛かる楕円状の大きな鏡。しかし鏡に写るのは実は映像であり、2つの世界はズレを生じつつ同時展開する。観衆をもその一部として取り込みながら……。作家は、「私」がどこで終わり「私たち」がどこで始まるかという命題への興味を、制作動機のひとつとして挙げる。

《芸術は可能か?》 答えてしまえる問いは優れたものではないだろうし、問いは問いのままでいけたらいいなと思います。僕ら作る側も、観て頂く方も、問いをどういうふうに自分で考えるか。(今回は)そういう機会になればいいなと思います。(雨宮)

■青山悟 《MAM賞》


シリーズ『Glitter Peaces』より 2008年- ポリエステルにメタリック糸と黒糸で刺繍
雑誌などの切り抜きイメージを旧式のミシンによる刺繍で克明に表現。選んだ記事の裏面に印刷されていた無関係なイメージをも、同様に刺繍化する。機械と身体、アートとクラフト、あるいは労働と創造の関係性を考えさせる作品群と共に、ウィリアム・モリスの言葉「労働力の浪費は終わるであろう」を縫い取った1点も提示。

《芸術は可能か?》もちろん「芸術は可能」だからやっています。ただし、芸術が持っているであろうとされている特権性や幻想は、簡単に信じてはいけないと思っています。(青山)

■Chim↑Pom 《特別賞:審査員=伊勢谷友介(俳優)》


『SHOW CAKE,××××!!』2010年、インスタレーション
悲哀がモチーフのロダン作『接吻』を模したマネキン2体が、パーティフードの残骸の中でポッキーゲームに興じる。いわゆる「高尚の美」を現代の飽食・放埒と同じ土俵に引きずり降ろす狂宴の行方は……。今回は他にも映像作品『BLACK OF DEATH』出展や、館外バナー掲示、また入口の館名を「MORI pARTy MUSEUM」に書き換えるイタズラも。

《芸術は可能か?》ま、可能。(卯城竜太)可能!可能!可能!(エリイ)

■contact Gonzo


無題 2010年 インスタレーション
コンタクト・インプロビゼーション(複数人が互いに体重を預け合う形で展開する即興の身体表現)とストリートファイトの融合? 「痛みの哲学、接触の技法」をキーワードに、街中や大自然を舞台に、彼らは身体で語り合う。今回はバラック風の建造物と、パフォーマンス映像とを組み合わせたインスタレーションを出展。また、同じく出展作家である宇治野宗輝とのコラボレーション・パフォーマンスも行った。

《芸術は可能か?》可能でも不可能でも、たぶん僕らがやることは変わらない。もしかしたら芸術ではないと言われるかもしれないし、(あるいは)後からそういう概念がついてくるほうが自然なのじゃないかと。芸術は、目的ではないと思います。(塚原)

■ダムタイプ


『S/N』パフォーマンス風景より 1995年 Courtesy the artists
『S/N』は、1984年に京都で結成されたグループによる伝説的パフォーマンス。オリジナルメンバー、古橋悌二のHIV感染告白を機に生まれた作品で、今回はその記録映像が上映される。1994年初演、翌95年に古橋は敗血症で世を去る。古橋はじめ様々なマイノリティ的属性を持つ人々の告白が、美術、音楽、映像、ダンス、演劇などを内包した舞台の中で普遍性を帯びて語り始める。

■HITOTZUKI [Kami + Sasu]


『The Firmament』2010年 壁画
スケーター、グラフィティ・アーティストとして活動してきたKamiと、やはりグラフィティシーンで表現を行う女性アーティスト、Sasuによるユニット。今回は館内の壁面と特設ランプ(スケートボードの滑車斜面)に描画した。「日と月」(HITOTZUKI)が描く「空」(Firmament)。作品を使い、スケーターによるセッションも行われた。

《芸術は可能か?》自分たちのしていることが芸術かどうかは、僕にも全然わからなくて。ただ、好きなことを突き詰めることで芸術に近いエネルギーを放つ瞬間はあると思っている。そういう表現ができて、それを人の心に残せればいいと思っています。(Kami)
芸術は、私にとってはある意味「奇跡」という感じがします。今回は携わった人間もほとんどスケートボードの仲間だし、ノアの方舟のように、次の時代に向けて皆で「私たちは可能であるのか」を試したいという実験ですね。(Sasu)

■加藤翼 《特別賞:審査員=隈 研吾(建築家)》


『H.H.H.H. (ホーム・ホテルズ・ハルニャン・ハウス)』ほか展示風景
木製の巨大構造物を、無数のロープを用いて集団で「引き起こす/引き倒す」。もっともらしい意義を離れ、シンプルな身体的協働による達成感・高揚感を支えになされる行為。作家はこれを「ハードコア・コミュニケーション」と呼ぶ。会場では構造体の実物と各地での実施映像(館近くの六本木高校での最新版含む)を展示。

《芸術は可能か?》いつの時代も、どの地域にも、芸術は確実にある。それは未来にもあるはずだし、それがPeaceですよね、やっぱり(笑)。芸術が不可能になると「それほど人類は切羽詰まってるのか」じゃないけれど……人のゆとりが芸術を生むのだと思っていて、だからぜひ可能であって欲しいですね。平和のために。(加藤)

■小金沢健人


『CANBEREAD』2010年 映像インスタレーション
ビデオ表現を感情の伝達媒体のように扱う彼の作品の多くは、時空の単純な「動き」を見つめ、ときにそこへ(やはり単純な)操作を加えることで生まれる。ここではグラス・ハープの音色とそれを奏でる指の動きが空間を満たすが、その後に新たな「動き」が登場する。

《芸術は可能か?》芸術そのものを作った人はいないので「不可能」なのですが、出来事としての芸術は人の心の中にある。人間の営みというか……。誰もが芸術の種は持っているけれど、「外側」には芸術そのものはないんですよね。(小金沢)

■森村泰昌


『なにものかへのレクイエム(独裁者を笑え スキゾフレニック)』2008年 2チャンネル・ビデオ
セルフポートレートを用いて対象になりきり、絵画史や大衆文化に言及する森村。出展作では、ヒトラー(及びチャップリンが演じた『独裁者』)をモチーフに、2つの映像を併置・置換しつつ、現代型の独裁について示唆する。自身を形成した20世紀の歴史に焦点を当てるシリーズ作のひとつ。

《芸術は可能か?》芸術というのは神様と同じだと思うのです。神様というのは、それを信じる人にとっては「在る」んですね。信じない人とっては存在しない。芸術も同じです。私は芸術家ですから、芸術というのはあると信じています。芸術は存在する。従って、芸術は可能だと思っています。(森村)

》 続き(アーティストが語る「芸術は可能か?」(2))

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展覧会情報
六本木クロッシング2010:芸術は可能か? —明日に挑む日本のアート—
3月20(土)〜7月4日(日)
森美術館
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※上記コメントを含む作家メッセージ動画は森美術館サイトの「音声/動画コンテンツ」で参照可能

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