クリスチャン・ボルタンスキー インタビュー

消えゆく記憶の融解点
インタビュー/アンドリュー・マークル


Christian Boltanski, French Pavilion, “Chance”. Photo by Didier Plowy

クリスチャン・ボルタンスキーは2010年7月19日から行われている瀬戸内国際芸術祭において、新作「心臓音のアーカイブ」という作品を見せている。豊島の、瀬戸内海に面した場所に作られたこの作品は、ボルタンスキーが2005年より収集をはじめて以来、越後妻有トリエンナーレやモニュメンタ2010など、展覧会で観客に呼びかけ集めてきた心臓音を使ったインスタレーション作品である。ボルタンスキーのインスタレーションが設置された小さな小屋に入ると、受付から最初の部屋で心臓音を提供した人のサインが残されたノートが陳列ケースに展示されており、反対側の壁に設置されたモニターで現在流れている心臓音のデーターどこで、いつ採取されたかなどーを見ることができる。さらにそこから奥の扉をあけると、大きく心臓音が響き渡る、薄暗く廊下のように細長い部屋に入る。天井からはランプがひとつ吊り下げられ、心臓音に呼応するかのように明滅する。両側の壁には黒く塗りつぶされた絵とも写真ともとれる様々なサイズの長方形の黒いアクリル板が掛けられている。鑑賞者は他人の心臓音を聞きながら自分の心臓音を感じ、黒い板に自分の、もしくは自分の家族や友人のイメージを想像する。

ボルタンスキーはこれまで、写真や古着といった人の痕跡が残る物体を集積することによって、人々の共通の記憶を刺激する作品を作り続けてきた。共通する記憶であるにも関わらず、それは観客の個人の記憶に回帰する。共通=一様ではなく共通=多様な記憶を呼び起こす。

ART iT編集部はそうした集積したアーカイブと、インターネットの共通性と差異について、また彼にとっての共通の記憶とは何を意味するかについて、話を聞いた。


Christian Boltanski, French Pavilion, “Chance”. Photo by Didier Plowy

ART iT: あなたの作品はアーカイブという概念に取り組んでいます。インターネットが世界的なアーカイブになりつつある現在、あなたの作品に何か影響を与えましたか。

CB: 私が思うにインターネットは未来にとって非常に重要ですが、この情報過剰とも言える状態はすこし危険だとも思っています。たとえば「心臓音のアーカイブ」をインターネット上にのせるとしたら、それはとても簡単なことですが、私はこの作品を豊島に設置することを望みました。そうすると、人々は作品を体験するために豊島まで時間をかけて行かなければなりません。そうした時間を考えると、自分たちが聞く心臓音かどんなものか豊島に向かいながら想像するかもしれません。
インターネットの良さは数多くの人たちと繋がることができることと、ふたつの場所に同時にいることができることです。実際、私はこのインターネットの特性をつかって、フランスの自分のスタジオからタスマニアにいるコレクターのデイヴィット・ウォルシュへビデオストリーミングを見せるプロジェクトをおこなっています。自分のスタジオにいながらにして、観客が新しい作品を制作中の私を見に来るような展覧会ができないかとずっと考えていました。作品はギャラリーにないけれどもギャラリーでの展覧会です。そして、たとえばある人がクリスチャン・ボルタンスキーの人生の一時間を買うことできて、私はその時間で何かをするのです。
でも、アーカイブとしてのインターネットに関して言えば、たとえば「クリスチャン・ボルタンスキー」を検索すると2万件(注:実際は17万2000件)もの結果が出てくるとします。当然のことながら誰もそれを全部読むこともできなければ、すべて理解することもできません。しかも半分程度は間違っているにも関わらず、どれが正しくてどれが間違っているかも判断できないわけで、全く馬鹿げていると言えます。

ART iT: それは誰にもアクセスできない情報で溢れかえっているビスケット缶を使った、あなたのインスタレーション作品にも存在する不信と同じ装置ではないでしょうか?

CB: その作品のコンセプトは何かを隠すことでした。つまり情報を隠すこと。観客は情報がそこにあることは分かりますが、情報自体は見えないのです。インターネットと違うのは、インターネットでは隠されているものはなく、すべてが開示されていることです。それが美点でもありますが、もしかしたら、謎がないというのはすこし危険かもしれません。

ART iT: あなたは作品に収集した写真を使っていますが、インターネットはイメージとの関係をどう変化させましたか?特にインターネットでは写真がもはや実体を持っていない状態ですが。

CB: ええ、もし私がブエノスアイレスの写真を欲しいと思ったら、以前は見つけるのが難しかったですが、今ならすぐ手に入ります。インターネットで画像を探すのはとても簡単ですので、何に使いたいのか予めわかっている必要があります。
私は現在、来年のヴェネツィア・ビエンナーレのフランス館での展示にインターネットを使うことを計画しています。大きな世界地図を作り、各都市に赤と青のライトを点すのです。人が死亡したときには青いライトを、生まれたときには赤いライトを、その場所に点灯させる地図です。しかし、数秒の間にふたり死に、4人生まれたりすることもあり継続的に地図が点灯してしまうので、作成は不可能でした。最近、私は世界で何人の人が死ぬのかを数えているウェブサイトを見つけました。1秒ごとに数が増えていくのですーそれはすごい早さで。もちろんそれらは統計上の数を反映したもので、実際の死者の数ではないのですが、いまだ、ヴェネツィアの展示で、生と死をテーマした作品ができないかどうか考えています。

ART iT: その意味において、あなたの作品はしばしばー時には直接的に、時には間接的にーホロコーストについて言及していますね。

CB: それは正しいとも言えるし、違うとも言えます。個人的にホロコーストは非常に重要だったこと、また考えられないほど多数の死者を出したという点で重要です。奇妙なのは、1000人の死は想像できますが、600万人の死は想像できません。これは広島など他のところでも同じことが言えるのではないかと思います。

ART iT: しかし、もし我々が死をメタファーとして捉えるのであれば、テクノロジーをもって想像も及ばない膨大な数量を生成するという点では、ホロコーストはインターネットを予期するものであったとも言えるのではないでしょうか。

CB: 言っていることは非常に面白いと思います。なぜなら数量というのは私にとって極めて重要な事柄だからです。例えばパリのグランパレでのモニュメンタプロジェクト「Personnes」(2010)では、古着の山を作りました。誰かを殺すのはもちろんあってはならないことですが、人の名前を消すのはさらに残酷なことです。ナチスの強制収容所にいた捕虜たちは名前を奪われ、番号で呼ばれていました。私はそれこそがホロコーストの恐ろしく残酷なところだと思います。
もうひとつ、インターネットに関係があると言える作品があります。「Les Abonnés du Téléphone」 (2000)は世界中から電話帳を集め、小さな部屋に展示したものです。ここでは60万人ほどの名前が集められました。もちろん、現在ではこうした情報はインターネットにあるわけですから、電話帳とはまったく時代遅れなものですが。それでも私はこの作品をある時点において世界に住んでいるすべての人々の名前の図書館のようなものとして考えました。
私の作品では常に、この大量における唯一性ということを考えています。したがって、もし私がこの「心臓音のアーカイブ」で世界中のすべての心臓音を集めることができるなら、それぞれが唯一のものであり、たとえすべての心臓音が非常に似ていたとしても、なにかしらこうした集合体のなかで個体を識別できるものがあるのです。


Christian Boltanski, French Pavilion, “Chance”. Photo by Didier Plowy

ART iT: あなたの子供の頃を再構成する初期の作品や、郵便物を使ったプロジェクトなどはもっと個人的で親密なものでした。いつ頃から、こうした壮大なスケールで作品制作を考えるようになったのでしょうか。

CB: 私は常に消滅ということについて関心を持っていました。最初は私の子供時代が消え行くことについて、次に共通の記憶について考えていたのです。そして現在、第3段階としてまた自分の記憶へと戻って行っています。
いずれの場合も、私の目標は記憶を保護することですが、常に失敗しています。インターネットでは、無限の資料を手に入れることができますが、それらを実際の人間に統合することはできません。私がしていることも、インターネットが試みていることもある意味では神に対する抵抗だとも言えますが、それは実現不可能なことなのです。

ART iT: あなた自身とインターネットを比較しているのですか。

CB: ある意味では、そうです。私は記憶を保護し、蓄積していきたいのです。例えば、私は「Archive of the Carnegie International 1896–1991」(1991)という、人の名前だけを使った作品を制作しました。私のスタジオには大量の資料、例えば約7000枚のスイス人の死者の写真があり、豊島でもすでに16000人の心臓音の録音があります。しかし、私が実際に持っているものは精神でしかなく、実際の人々ではありません。結局、私は誰も守ることができないのです。そういう意味で私の作品の動機のひとつは、私たちは何も守ることができない、という事実です。世の中にはこんなにたくさんの情報があり、さらに情報を加え続けていくけれども、生命は守れないのです。誰かについての情報を聞けば聞くほど、その人物の不在を感じることになります。これが数量に関わる問題です。
パリにいても東京にいても、街ではたくさんの人々を見ますが、その人たちにも各々の生活や物語があり、それぞれの人について知るのは非常に素晴らしいことかもしれません。しかしそれは不可能です。それだけの時間がありません。数年前に作った作品「Prendre la Parole」(2005)では、人に似せたベニヤの板に洋服を着せました。40点ほどのそれらに、音の出る装置をつけました。一人が「私は幸せ」というと他は「私はたくさん働いている」とか「私は賢い」とか、それぞれ違うことを言います。それが私の興味をもったことです。それぞれの見かけは似ているけれども、ひとりひとり皆違うのです。
インターネットによってさらにそれは進められます。例えば、ある日私はビデオカメラで女の子と話しができるウェブサイトを見つけました。もちろんそれは間接的なものだと分かっていますが、おそらく何万人にもなる女の子たちがいて、もし少しだけ余計に支払えば—そこまではしてみませんでしたが—あなたが頼むことをしてくれる。何が面白いかと思ったかというと、彼女たちが実際どこにいるのかがわからないことにあります。もしかして、朝は中国、夜はアルゼンチンにいるのかもしれない。でも彼女たちを特定する方法がありません。従って、彼女たちと話すことはできると同時に彼女たちについて何も知らないのです。それはとても面白いと思いました。
そして、そこから私が想像したのは、誰かがある女の子と恋に落ち、彼女がこの世のどこかに存在していることは知っているけれども、決して見つけることができないという状況です。毎日この女の子に会い、恋していながらも、彼女に近づくことができないというのはとても美しいことではないかと想像してみるのです。そして時折、彼女に言います。「どうやら君がいるところは今日は晴れているようだね。後ろの窓を見るとわかる」、「暗いからそちらはもう夜だろう」などと。こうしたことを私はとても素晴らしいと思って、どうにかしてこれを作品にしたいと思いましたが、結局これを現実化する方法が見つかりませんでした。そして、今となっては、私が話をしていた同じ女性を見つけることができないのです。不可能です、完全に失われました。

ART iT: インターネット上のポルノの数については驚くほどです。死の数とポルノの数の多さを考えたとき、あなたの古写真を使った作品を思い起こしました。まったくわからないほど大きな数の氷山の一角を見せているという意味で、無名の写真はコンセプチュアルな彫刻とも言えるのではないでしょうか。

CB: 実際、長い間、私は死者の身体、写真と洋服を同じように見ていました。これらはすべて不在の主体に関連した物体たちです。あなたが誰かの写真を持っているとき、あなたはそれを手に取ることができます。物体だからです。もし古着のコートを持っていれば、これも不在の主体に関連した物体です。それが死体だとしても、それもまた不在の主体に関連した物体なのです。


Christian Boltanski, French Pavilion, “Chance”. Photo by Didier Plowy

ART iT: では、より正確には不明な数量ではなくて、負の数量だということでしょうか。

CB: ええ、心臓音のような、といってもよいと思います。そこには誰かが存在した、そして私たちは今、形のある物体を持っていて、それを破壊することもできる。なぜならそれは物体でしかないからです。もちろん破壊したければの話ですが。そしてホロコーストにたとえると、ナチスは常に人々ではなくて物体として人を扱っていました。例えば「今日は20トン到着した」というように。それは決して「1000人」ではなく、「○○トン」と言われていました。それがナチスの専門用語だったのです。私にとって主体と物体の関係は、名前と人との関係と同様に非常に重要です。たとえば誰かが「戦争に行くけれども、それほど酷い状況にはならないはずです。たった1000人が死ぬだけでそれほど多くありせん」と言うことを想像してみるのです。でもそれは1000人ではなく、スパゲッティが好きだった人がひとり、ガールフレンドがいた人がひとり、サッカーが好きだった人がひとり、常にひとり+ひとり+ひとりなのです。民主主義それ自体はひとりの集合体であるべきで、グループを一括して数えることは非常に危険なことだと思います。私は、すべての人が重要でありながらとても壊れやすいので、2世代、3世代経て行くことによって、すべての人が忘れられるかもしれないということを心配しているのです。
私の作品で表しているのは、何かを完全に保護することなどできない、ということなのです。現在、私が死んでいくという事実を話し、私が死んで行くという事実を受け入れる、ということをタスマニアの作品で行っています。コレクターのデイヴィッド・ウォルシュはある意味コンピューターの役割をしています。実際、彼はコンピューターより早く計算をすることができるかもしれません。なぜなら彼は自分が負けると思っていないからです。この作品の本当のコンセプトは、言ってみれば、もちろん私も勝つことを望みますが、もしかしたら負けるかもしれないということです。これは単に時間の問題なのです。街で赤ちゃんを見かけたとしたら、その赤ちゃんだって、いつかは死ぬのです。私にとって死について話すことはとても重要で、反駁することはありません。もし私が生き残ったとしたら、ウォルシュは私をスタジオで撮影をするでしょう。私はだんだん歳をとり、階段が必要になり、もしかしたら誰か階段の上まで運んでくれる人が必要になるかもしれません。それが人生というものです。

瀬戸内国際芸術祭2010は10月31日まで瀬戸内海各地にて開催中。

瀬戸内国際芸術祭2010開幕についてのニュースはこちら。

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