表象への道はいつも…
インタビュー・文/ アンドリュー・マークル

徐震(シュー・ジェン)を中国の若手コンセプチュアルアーティストの代表のひとりとするのは誤解を招くかもしれない。1977年生まれ、上海在住の徐は上海工芸美術職業学院を1996年に卒業して以来、10年以上、マルチメディアアーティスト、そしてキュレーターとして活動してきた。1998年に影響力があるアーティストが運営する上海比翼芸術中心(BizArt Art Center)を共同設立し、1999年に上海ショッピング・モールで開催した『アート・フォー・セール』など、影響力のある展覧会を企画してきた。アーティストとしての徐は社会的な通常概念をひっくり返すことを得意としており、巨大なタンポンや、実物大の恐竜をホルムアルデヒドに浮かばせたガラスケース(ダミアン・ハーストのパロディー)といったインスタレーションを制作してきた。マルチメディア作品 「18日間」(2006)では、徐は中国の国境に行き、リモコンの戦車、飛行機、ボートを使って、隣国に軍事進攻のスペクタクルを展開した。また「動物」(2006)ではパンダのような動物が手助けされて射精している風景を録画している。
2009年、徐は個人活動を止め、アーティスト、技術者、コーディネーター10人余と「MadeIn」(メイドイン)という組織で活動すると発表。これによって徐のジャンルの多様性が大幅に広がった。MadeInの初期プロジェクトでは、現代中東アーティスト制作によるという名目で、一連の絵画や彫刻、インスタレーションを制作した。
現在、開催中の北京の長征空間の展示『不要把信仰把在壇上』(Don’t Hang Your Faith on the Wall)は有名知識人の言葉が起源で、ミニマリスト・アートとコンセプチュアルアートに対するパロディーである。
ART iTはこの展示を準備中の徐震の上海のスタジオを訪れ、観衆のパフォーマンスから中国現代美術に対する国際的な関心の高さ、芸術倫理という概念について話を聞いた。

ART iT 最近、ひとりのアーティストとしての活動はやめ、今後は自分が立ち上げた組織 MadeInで制作活動を行うと発表しましたが、その動機は。
徐震(以下XZ)これまで広いジャンルの作品やプロジェクトを制作してきたので、全部まとめてひとつの名前にした方がよいと思ったのです。 MadeInは広告代理店に似ています。私が社長で、社員に任務を命じ、提案させ、私はそれを検討し、どれがうまく行きそうか決断し、調整や追加、統合し、最初の企画とはまったく異なった形になっているかも知れない完成品を作りだします。全員がひとつのグループのために働いているので、直接にコミュニケーションし、協力し合います。アーティストふたりが協力するより、もっと簡単です。誰も自分が原作者などと主張しません。
偉大な作品というのは制作するものではなく、発見するものだという考えです。自分ひとりでは発見する内容が限られると思うのです。
ART iT MadeIn設立以後、自分ひとりで制作したことは。
XZ ありません。これまでも自分ひとりで制作したことはほとんどなかったのです。アイディアが浮かぶと、それを制作してくれる人を見つけてきたのです。例えば、コンピューターで作品を作ると、スタッフがそれに色づけしてくれました。
ART iT するとアシスタントが絵を制作している張曉剛のような人と、あなたはどう違うのですか。
XZ 中国絵画の大半は美術作品ではなく、まったく商業的な製品です。彼らが大いなる貢献をしていた時期もあったが、いまやアートという概念から逸れてしまっています。しかし、MadeInは根本的に違います。我々の作品はアート市場の風刺です。もちろん、それが市場に出回る商業的製品であることは認識しています。この点は矛盾していますが、幾つかの異なった方向性を維持することで同時に共存できることを期待しているのです。一部の作品は市場向けだし、その他はもっとアカデミックで全く売れないでしょう。プロジェクトによってこういう衝突や摩擦が存在することをなかなか気に入っているのです。

Above: Things I see every morning when I wake up and think of every night before I sleep. (2009), Mixed media, razor wire, approx. 84 x 84 x 84 in. Below: Widespread 5 (2009), acrylic on canvas, 68 x 112 in. Both images courtesy the artist and James Cohan Gallery, New York.
ART iT MadeInの中東アートプロジェクトでは中東関連のお決まりのイメージが利用されていましたが、これはどういう発想だったのですか。
XZ 中東アートプロジェクト全体がパフォーマンスでした。ふたつの文化が互いに見つめ合うという力学に3つ目の文化を取り入れたらどうなるかを知りたかった。つまり西洋が中国を見て、中国が中東を見て、我々が中東っぽい作品を作ったら、これは中国の観客向けなのか、それとも西洋の観客向けなのか。能動的に観るということと、客観性の関係ついてふざけて扱ったわけです。
中東シリーズを見た人は、自分の期待通りだと思う人と、そうでない人に分かれるでしょう。その反応はひとりひとりの体験によります。つまり経験によって観点が作られるという問題を取り上げることが我々の目的でした。
ART iT 一部の中国の有名なアーティストたちのキャリアを見ると、数年間一種類の作品を制作すると、3年後には全く異なった作品を制作し、両者には関連性がないように思います。つまり変化を求めて、常に変化しているように見えるのですが。
XZ 言いたいことはわかります。それは何でも許されてしまう中国の芸術制度に関係しています。なぜか。まず評論家がいません。アーティストが成熟するためのストラクチャーもありません。私のアーティストとしてのチャンスは、今20歳の人と大して違いません。批評も議論も理論も皆、一緒です。ちゃんとした慣習に対する支援がないからです。
基準がないし、どれがよくて、どれが悪いという評論家もいないから、アーティストも一時期はある種の作品を作り、次には全く異なった作品を制作することが簡単です。私と同世代のアーティストは皆、これを経験しました。
中国のコンテンポラリーアートは手法、制作、コンセプトがシンプル過ぎて、深みがないと思います。「何でも作りたいものを作ろう」という態度なのです。正直言って、問題を深く議論するための知識が欠如していることは、中国のアート全体に影響している問題だと思います。私自身の作品について言えば、全てを関連付けている明確な思想があります。
ART iT そうですね。でもこの現状を逆に見れば、決まった構造がないから、中国のアーティストには望ましい自由があるとも言えます。美術大学に行かなかったということはプラスだったと思いますか。
XZ 大学に行かなくてよかったと思います。当時、大学で教えていたことの内容が今はわかるので、少なくとも自分にはまったく適していなかったと言えます。
ART iT でも上海比翼芸術中心や小平画廊(Shopping Gallery)といったアーティスト運営スペースの設立に関わっています。キュレーターになることにはどんな魅力があるのですか。
XZ 楽しいです。アートの制作というのは作品制作に限られません。議論、展覧会のプロデューサー、出版と色々です。創造性というのはすべての分野で発展すべきです。例えばこの数年、上海比翼芸術中心を運営してきたことで、キュレーターとしてもアーティストとしても成長しました。時には作品の制作でも、物理的に制作するというより、キュレーターになったり、作品の準備をしている方がふさわしいこともあります。
キュレーターとして展覧会を準備するということは、自分のアイディアも変わるということです。 自分自身の思考過程を見直し、思考過程の異なる階層に移動するということはキュレーターとしていちばん興味深い点です。まるで大学にいるみたいに。

ART iT 徐さんは2006年、テート・リバプールでの展覧会『The Real Thing: Contemporary Art from China』に関わりました。欧米で近年開かれた中国現代美術の展覧会のなかではいちばん、フォーカスがしっかりしていたと思いますが、どんな体験でしたか。
XZ カレン・スミスとサイモン・グルームというふたりのキュレーターがいて、私はちょっと手伝っただけです。展覧会は全く単純な「カルチャー・ツーリズム」プロジェクトだったのです。私は単に推薦できるアーティストのリストを作っただけです。というのも本質的問題を取り上げるための展覧会のフレームワークがなかったので。こういう文化的展覧会というのはどうしても偏見を除去し、プロモーション的になりがちですから、私にはあまり面白くないのです。手伝うよう依頼されることは問題ありませんが。
ART iT それは欧米の中国現代アート展覧会全般についての印象ですか。
XZ その点を中東アートプロジェクトで取り上げたかったのです。世界について人にはそれぞれ事前の概念があるわけで、自分が観たいものを観て、観たいものを発見するわけです。私は中国現代美術の展覧会については以前から無関心だったし、今やまったく関心がありません。アーティストとして「幾つかの展覧会があって、これはそのひとつに過ぎないから、重要ではない」と思うわけです。
私はこういう展覧会への出品は拒否してきました。その大半に限界があるからです。それは中国内の中国現代美術の展覧会についても言えます。例えば中国の過去30年のアート展、30年の絵画展とか。そのほとんどが真剣ではありません。キュレーターたちは歴史を立証するに際して、まったく個人的なアプローチをし、客観的な観点がありません。私にはとても居心地が悪い。
ART iT 中国現代美術の歴史についてどう思いますか。すでに確立したものなのか、依然として形成されつつあるのか。
XZ すでに歴史はありますがあまり大したものではありません。最近、この状態について盛んな議論が行われています。この35年余の中国現代美術において、4、5人の重要なアーティストがいて、その各人が独自の歴史的価値観を持っていますが、それは今日に至るまで自己中心的、ドメスティックなものです。国際的な文脈で価値があったり、重要な作品を制作することなど誰も考えていません。中国は依然として発達し続けており、より広義な重要性がある作品を制作することを考えているアーティストなどほとんどいません。張曉剛みたいな商業的アーティストは1980、90年代には重要だったかも知れません。でも歴史は時代も環境も変わったのに、彼らは変化していません。または彼らの変化というのはアートを商業化したことなのかも知れません。

Above: Installation view of 8848-1.86 (2005). Below: Still from 8848-1.86 (2005), mixed-media installation with single-channel DVD video with sound. Courtesy the artist and ShanghArt Gallery, Shanghai.
ART iT では、海外も含めた国際的な現代美術の動きはどう思いますか。
徐震 海外の現代美術の動きにはフラストレーションを感じます。リレーショナルアートからマルチメディアアートも含めてアイザック・ジュリアンのような人でさえ皆、比較的古いコンセプトをよみがえらせているように見える。ジュリアンが中国で録画した新しいインスタレーション「Ten Thousand Waves」の香格納画廊(ShanghArt Gallery)でのオープニングの後、私は他のアーティストたちとディナーに行きました。我々全員がこの作品はとてもメインストリームで「正しい」ものだと感じました。
ART iT 『Ten Thousand Waves』の印象を説明してください。
XZ 私の第一印象は中国のイメージの使い方が非常に表面的だというものでした。でもアイザックのようなアーティストがこんなに表面的であるはずがないと思ったのです。全部見終わった後、作品自体ではなく、アイザックが議論したがっている問題が単純化されているとわかりました。移民とか人々が生計を求める過程で生じる問題、現実や生活、歴史、社会改革といった問題-これらは今日の中国でいちばん、緊急で、矛盾した問題です。ですからアイザックは自分のストーリーを伝える手法は発見したが、そのストーリーがちょっと単純すぎるというのが私の個人的な感想です。
ART iT 最近の作品が風刺だと言いましたが、風刺も商業的や単純なもの同様に表面的になることがあります。徐さんの作品は表層と深さに対してどういう関係にあるのでしょうか。
XZ 関係は常に変化しています。時には観客という比較的、具体的な問題、また時には制度上の問題、時にはその制度的問題は実際の現実に起因していたり、美術制度に起因するものだったりするわけです。現在、 MadeIn でこれらの問題をアート化することが可能になっています。それが効果的かどうか、が相違点となるのです。我々の最大の懸念は、これらの問題をどれだけ取り上げることができるか、どう表現できるか、なぜ表現したいかという点です。
ART iT 時を経て作品は変わりましたか。大体、3つの時期に区別できるように思われますが。
XZ すべての作品が全く異なります。初期の作品は主に直観的でした。中期のも直観的でしたが、同時に製造について伝える手法がありました。インスタレーションとビデオ「8848‐1.68」(2005)はエベレスト山の頂点から1.86m、削り取る遠征に関するものでしたが、これがそれに相当します。ちょっとした直観から始まって、「事実」をどう信じるかという社会的問題に関連するものになったわけです。それとは対照的に、MadeInは内容ではなく手法を表しています。もちろん、手法の中に内容を挿入することも可能ですが。以前だと作品は内容関連で、手法は内容のために存在したわけです。

ART iT ソロアーティストとして最後の作品のひとつであるインスタレーション、北京の長征空間での「スーダンの飢饉」(The Starving of Sudan)(2008)は、フォトジャーナリストのケヴィン・カーターがピュリツアー賞を受賞したスーダンの飢餓状態の幼児をハゲワシが襲おうとつきまとっている作品を再現したもので、生きている子供を使いました。これはどういう動機から作ったのですか。
XZ この作品は中東アート・シリーズを予期したものだったのです。観客に自分の知識を利用して、判断を下してもらうことが狙いだった。つまり長征空間の観客はケヴィン・カーターと同じ役割を果たすということです。展覧会に行き、自分たちのカメラを取り出し、写真を撮り、きっとエキサイティングだと思ったことでしょう。その後、私のことを判断するわけです。「このアーティストはダメだ」とか。これはケヴィン・カーターが死んだ時、世界中から非難され、大変なプレッシャーを感じていたことと一致します。何かを非難する時、世界中がその非難する何かと同じことをしているのです。
ART iT アーティストとして自分独自の倫理やモラルはありますか。
XZ あると思います。どこにあるかわからないが、あるべきだと思います。倫理は経験と共に進化する。経験を積むに従って、自分に影響を与えたと思う問題に新しいパースペクティブを発見するわけです。ケヴィン・カーターの作品のように。人々は自分の観点を決定しなくてはならない。私自身は観客の一員だろうか。ケヴィン・カーターに同感を抱いているだろうか。スーダンの人々の観点から見ているだろうか。実際はそのどれでもありません。しかし、そういう状況を作り出すことで、観客は自分自身の倫理を熟考するチャンスを与えられるわけです。根本的価値観ということではないが、倫理観の性質に疑問を投じるもので、こういうアプローチは私の性分に合っています。
ART iT 現代美術に今の中国社会で果たす役割はあると思いますか。
XZ 現代美術は多くの面でまだ欧米における発展に依存しているので、中国には現代美術の場所がありません。でも、マーケットができつつあり、社会問題も増えているので、アートと社会が近いものになりました。10年前よりずっと近づいています。
ART iT 中国における現代美術の将来の可能性をどう考えていますか。
XZ とても潜在的可能性があると思います。なければ私はアートの制作はやめているでしょう。
(翻訳 池原麻里子)