リクリット・ティラヴァニ インタビュー (1)


Installation view of Untitled 2001/2012 at Gallery Side 2, Tokyo. All images: Courtesy Rirkrit Tiravanija and Gallery Side 2, Tokyo.

 

学問の厳密さについて
インタビュー/アンドリュー・マークル

 

I.

 

ART iT 私は最近、写真について考えています。今回のインタビューにあたって、あなたの過去の作品をリサーチする中で興味深かったのが、あなたの立体や複製可能なメディアの使い方です。作品に立体を用いるとき、どんなことを考えていますか?立体をイメージとして捉えているようなところがあるのでしょうか?

RT 私がアーティストとして活動をはじめた頃は、どちらかというと写真をメインに制作していました。それから徐々に、写真から遠のいていきました。イメージもしくはイメージの不在をどう扱うかという点に関しては、イメージは常に変化していてほしいと思っています。私は仲間たちとよく、アートは映画のようだと話しています。「関係性の美学」が、イメージはあからさまに表出していなくても存在していると述べているのと似ています。私たちが作品を作るときは、ナラティブにこだわるのではなく、シナリオやいくつかの瞬間を想定して、映画的に思考しています。
イメージが固定化することに慎重なのは、作品のイメージが固まってしまうと、見る人の鑑賞体験も固定化してしまうからです。そこの所は、常にうごめいていて、変化し続けてほしいと思っています。そうすることで、見る人が自分なりの解釈や意味を引き出せる。同じ作品でも、みんな違う思いでアプローチして、みんな違う思いを抱いて帰っていく。
一方で、シナリオは動くイメージのようなものなので、何らかの枠組みは必要になってきます。そこで私は、空間や建築、場合によっては一本の木などを、シナリオが立ち上がる足場になるものとして用いるのです。もちろん、見る人が展示空間の中に立つと、何らかの空間的な関係性を見出して、特定のイメージを見はじめるわけですが、理想は、できるだけ私の方から物事を固めてしまわないということです。それは、見る人と時間や空間との関係の問題、および、私が大切だと思っているので、作品にもたびたび登場するいくつかの疑問と深く関わっています。

 

ART iT 映画の話が出てきたのが興味深いです。あなたの過去の作品や展覧会を見ていて、市川崑が谷崎潤一郎の小説をもとにして撮った『鍵』(1959年)を思い出したからです。同作は、中年夫婦とその娘、医者である彼女の婚約者の4人をめぐる愛憎物語で、愛する妻との性生活の衰えを恐れた夫が、娘の婚約者を家に招いて宴会をし、そこで酩酊した妻が風呂に入って気を失ったところを婚約者が救助するという筋書きを思いつきます。妻の意識のない中で、夫または娘の婚約者との間に何かが起こればという思いからです。この関係性は、作品の中で何度か繰り返されるフレームです。ディテールや中心となる人物は毎回少しずつ違いますが、登場人物は、このフレームの中で入れ替わり立ち代りしています。この点が、あなたの作品にも通低する、実体のない彫刻について考えさせてくれます。

RT フランツ・ヴェストの過去の作品で、『Passstücke』というシリーズがあります。見る人は、展示されている複数のオブジェの間を通って鑑賞するのですが、その通り方はさまざまです。作品と関わるためには、オブジェクトの構造を逸脱しなければいけないというところが面白いと思います。私はシステム批判に興味を持っています。システムとは、何らかの構造を持っていて、その構造が、ほとんどの人はしないけれども、解体できるものであれば、大きなものからパーソナルなレベルまでいろいろあります。それらの構造を、遊びやゲーム的な筋書きを通じて弱体化させようと試みることが大切だと思っています。

 

ART iT 「関係性の美学」への言及、および、あなたの料理プロジェクトをはじめとする作品は、ある種「ポジティブ」なコミュニティーを形成しています。先ほどの映画の話が示唆しているのは、作品が最初から特定の価値を持っている必要がないということです。

RT 「ポジティブ」であるべきだと思って作品を制作したことはありません。そう言ってもらえるのは、見た人が、私の作品をそういう風に意味づけしたい、彼らの作品との関わりを、ある意味正当化したいと考えているからだと思います。私自身はそう考えてはいません。私は、見る人が追い込まれて、居心地が悪くなる状況が好ましいと思っています。対象が既知のものであっても戸惑うことがあります。ときに、最もよく知っていると思っているものが、とても強い戸惑いを生むことがあります。知っていると思いすぎているからです。その繰り返しだと思うのです。

 


Installation view of Untitled 2001/2012 at Gallery Side 2, Tokyo.

 

ART iT 室内の展示の場合はどうですか?あなたの作品は、明らかに一過性のものであることが多いと思うのですが。つまり、見る側も、作品が 恒久的なものではないことを理解していないと関われないような。

RT 室内での展示はいつも難しいです。しかし、その困難さは私の作品の要素でもあるのです。ここでも、固着した構造が問題になってきます。今回のギャラリー・サイド2での展示では、車がギャラリー内に停めてあるのがいいと思っています。車が展示空間の中と外を自在に行き来できて、「展覧会場」に乗り入れることができる。そこには、時間性も関係してきます。
一方で、そのことが悩みの種でもあります。空間の真ん中に何かを掛けたり、置いたりするのは、あまり好きではないからです。扉の近くなどに置いておいて、見る人が少し考えてはじめて作品と気がつく方がいいです。展示室の空間がニュートラルであるという問題と関係があると思います。私は、受身であることが嫌いです。私の作品は、アグレッシブでもないし、受身でいることについても直接的には言及していませんが、見る人に当たり前のように何かを提示することはしません。いつも、どうしたら見る人が自ら働きかけるようになるかを考えています。

 

ART iT 一部の批評家は、あなたの作品がある意味「受動的である」と述べていますが。

RT 私はそうは思いません。でも、どう思うかは、見る人次第だと思います。どう解釈するべきかを、人が自分で考えなければならないということに興味があります。その意味で、作品が開かれていることが、見る人が自ら意味を見出すことができる場を創出すると。人はその気にさえなれば、自分の考えを見出す性質を持っていると思います。そして同じ所にはとどまっていない。人はいつも変化し続けていて、変化は経験を通して起こるのです。

 

リクリット・ティラヴァニ インタビュー (2)

 

 


 

リクリット・ティラヴァニ インタビュー
Part I|Part IIPart III

関連記事
フォトレポート Rirkrit Tiravanija: Untitled 2001/2012 @ GALLERY SIDE 2(2012/03/07)

Copyrighted Image