石内都 インタビュー (1)

ひろしま in OKINAWA ―場所の磁力を超える試み― (前半)

聞き手/やなぎみわ


佐喜眞美術館と米軍普天間基地 写真提供:佐喜眞美術館

沖縄県宜野湾市にある佐喜眞美術館は、もともと普天間基地の一部だったところに建てられた美術館である(さらに言えば現在普天間基地があるところには、もともと宜野湾の村の中心部があった)。そこで2010年6月16日から8月9日まで『ひろしま in OKINAWA 石内都展』が行われた。これは2008年夏に広島市現代美術館で行われた石内都の個展『ひろしま Strings of Time』に続く展覧会である。広島原爆資料館に収蔵されている原爆の犠牲者の遺品を撮影して制作された『ひろしま』シリーズ。広島での展覧会に出品した作品に加え、展覧会以降、資料館に加わった遺品の衣服や装飾品を新たに撮影した新作を含んだ展覧会である。併せて2010年6月20日に行われたシンポジウム「記録と記憶をめぐって おきなわ/ひろしま/ながさき」は作家石内都、司会の土屋誠一、ゲストの東松照明、比嘉豊光とで行われた。展覧会、およびシンポジウムをやなぎみわが訪れ、石内都をインタビューした。

1979 沖縄との出会い

やなぎみわ(以下YM) まず始めに、30年前の沖縄での作品展示の時のことを教えてください。『絶唱・横須賀ストーリー』の展覧会が東京で開かれたのが1977年。その2年後、1979年に『絶唱・横須賀ストーリー』を沖縄に持って来ました。それは沖縄の方から声がかかったのでしょうか?

石内都(以下IM) そうです。それまで私は沖縄には一度も行った事がなくて、初めての訪問でした。グループショーのタイトルは『ぬじゅん in 沖縄・大和』。「ぬじゅん」というのは、沖縄の言葉で、「脱がす」という意味。言葉としては「剥ぐ」に近い、割とキツイ言葉だそうです。そういうタイトルで、「ヤマトンチュとウチナーンチュが対決する」みたいな、日本人と沖縄人の同世代の人たちが企画した展覧会です。

YM その「ぬじゅん」というテーマは、どなたが決めたのですか?

IM 沖縄の作家たちの誰かでしょうね。自分たちの場所にヤマトンチュを連れてきて一緒にやろうと。出品者数は結構多くて、50人くらいかな。那覇に「ダイナハ」というデパートがあってそのワンフロア全部を使ってね。図録は残っていますが、那覇で話題になったかは知りません。その時、出てくださいと言われた時に何を出そうかと思ったら、やっぱり私には『絶唱・横須賀ストーリー』しか無いわけです。

YM 沖縄の作家や美術関係者が『絶唱・横須賀ストーリー』をご覧になって、その「石内都」だから呼んだという事ですよね?

IM いや、どうでしょう。情報だけで実際には見ていなかったと思います。ただ、自主ギャラリー同士で、東京と沖縄の交流か何かがあったんだと思う。呼ばれたのは木村伊兵衛賞を取った後だったかな。結局、出品者でヤマトンチュの女は私ひとりだった。男性は結構いたけれど、実際に沖縄まで来た人は少なかった。で、沖縄ではこうみんな待ち構えてる感じでいるわけですよ。私は沖縄に友達も親戚もいないし何も知らなかったからびっくりでした。


石内都 撮影:木村三晴
YM じゃあ全くの白紙状態で行ったと?

IM そう。でもね、私、沖縄の事はなんとなく……何も知らないくせに直感だけでわかる感触があった。

YM それはやっぱり横須賀育ちのせいですか。

IM そうです。沖縄ときちんと向きあえば、共有できる何かがあると思ってたんでしょうね。その時、実は『横須賀ストーリー』を展示してさっさと帰ろうとしてた。でも台風で帰れなくなって数日滞在したんです。その時ちょうど『連夜の街』シリーズを撮り始めていたので、沖縄の遊郭をいくつか撮りましたね。発表してないですけれど。

YM それは那覇や沖縄本島のあちこちにあったものですか?それを自主的に回ったのですか?

IM そうです。それを撮りながら、その当時はあまり沖縄を理解したいと思えなかった。豊光さんの攻撃的な言葉ばかり印象に残って、それから19年間、1998年に『main《マン》』(注1)の取材まで沖縄には来なかった。

YM でも横須賀と沖縄に共通点があると思っているのに、それでも沖縄を撮ってみようと思いませんでしたか?

IM 全然。だから基地は横須賀でたくさんなんですよ。私にとって沖縄は基地っていうイメージしか無いの。でもそれはいろんな人が撮ってるから私が撮る必要ない。

YM やっぱりそれは石内さんの中で、沖縄の事は沖縄の人に任せればいい、沖縄の人が表現すれば良い、という気持ちだったのでしょうか?

IM そうですね。私の写真の場合、個人的な関係性しか撮ってないからね。非常にプライベートなものが見出せれば何でも撮れるだろうけれど、沖縄にはそういう個人的な関係性を見出す事ができない、だから撮れない。

YM それでも赤線は撮ったのですよね?

IM 赤線は別に沖縄だろうが、東京だろうが、京都だろうが、同じなんですよ。

YM 1979年。まだ60年代を追いかける人も多くて熱があった頃でしょうね。沖縄は復帰してまだ7年ですか。

IM 当時、私は横須賀を撮り終わって、アパートも撮り終わったくらい。最初期の頃です。自分が別に写真家になりたいとか、これから写真で生きていくとか全くそれが曖昧な時期だった。

YM まだ会社員の頃でしょうか?

IM そうです。会社勤めしながらの写真制作。だから沖縄に来たときに、彼らの真剣さに当てられてしまいました。彼らはとにかく沖縄へのこだわりがあった。私の場合、横須賀はこだわりというより吐き出すみたいな感じで撮っていて、早くさっさとお別れしたい、という気持ちがあった。そういう意味で沖縄の作家は私とは全く逆方向でやってるなと思いました。その発見は面白かったです。

当事者と非当事者の間

YM 1979年の沖縄の人たちから石内さんの作品に対しての評価は? 個人的な視点に対して何か意見がありましたか?

IM 覚えてない(笑)。覚えているのは、攻撃されて、あとはとにかく一緒にお酒を飲んだことだけ。沖縄に呼んで一緒に飲むって事が大事だったんじゃない? 作品についての議論とかあまり無かった気がする。だからここではお酒飲めないとダメなの。飲めなきゃ負け。負けずに飲む。皆、若かったっていうのもあるけれど、沖縄の作家の日本に対する怒りはあらわで、日本人の写真なんか絶対ほめなかったですよ。

YM 昨日も比嘉さんは、沖縄人は日本人が嫌いだとハッキリ言ってましたけれども。

IM 昔は、向こうもこちらも余裕がなくてね。私も受け止めることができなくて、「お前何言ってんだ、逆差別だよ」と言うしかなかった。比嘉豊光は展覧会、『ぬじゅん in 沖縄・大和」の親分だったと思うんですが、彼がよくわからない言葉で、ガッガッガッガって怒鳴るわけですよ。そのストレートな印象が深くてね。そこから比嘉豊光とは、長い付き合いが始まりました。

YM 昨日のシンポジウム、始めは比嘉さんがヤマトンチュに喧嘩をふっかけて「取り付く島もない当事者の重み」を見せつけるので、私も「当事者が経験を持ち出して語りだすとハナシが進まない」という苛立を感じました。でも最終的に石内作品に歩み寄る発言をされた。
「当事者には撮れないカッコいい写真と展示だよね」と皮肉りながら、「まあ、こういうのもアリでいいか」と。比嘉さんはシンポジウムの過程で大きく自己矛盾を起こしつつ、その矛盾をみんなの前で明らかにすることによって、問題提起をするという役割を担っている。それによって石内作品、東松作品、芸術を造る者、観る者、全てに対して、芸術の自由や自律性を試していて、もうこれは分かっているのだろうなという気がしました。
比嘉さんがヤマトンチュの事を「日本人」って表現しましたよね。それに対して石内さんが「なによ、最近、ヤマトンチュのことを日本人って言うようになったの?」と指摘して、比嘉さんが「少しは日本語も話せるようになった」というと、石内さんが「へえ、『大人』になったんだねえ」って。

IM (笑)

YM あの時、私は一瞬ヒヤリとした。でもね、その後、比嘉さんは笑顔で流しましたよね。あのユルさが、救いになるような気がしたんですよ。もちろん都合の良い甘い見方かもしれないけれども、突き詰めない遊びの部分がないと対話不可能でしょう。

IM 豊光さんは真面目だから、当事者でないと撮れないという信念もあるけれど、その分、ジレンマもある。いつも攻撃ばかりだったのが、私の写真をちょっとだけ認め始めたのかもしれない。それは重大な事だと思う。彼の抱えるジレンマに、私は平気で突っ込んでいけるから。

YM それはすごい。

IM まぁね、付き合いは長いわけですよ。30年前に怒鳴られて、でもそれから東京などでも結構会ってたから。当事者と非当事者の違いは当たり前なわけで、問題の解決はつかないですよ。

YM でも決裂せずに長い対話があったんですね。当事者意識、経験者の語る言葉に対して、非当事者の語る、理論的なまたは思弁的な語りっていうのがあって、それはどうやっても相容れないです。言説的なシステムが違うから。でもそれを言ってしまうと、永久に平行線をたどる。だけれども、そこで何らかの翻訳作業が行われることによって、もしかしたらそこでゲートが開くかもしれない。アートなどの個人的な表現、または言葉以外の表現がそこの翻訳作業を果たすんじゃないかと、私は期待してしまうんです。

(注1)写真雑誌『main《マン》』は1996年に楢橋朝子とともに創刊し、2000年10号で完結。

ひろしま in OKINAWA ―場所の磁力を超える試み― (後半)

2010年6月21日 慰霊の日の前々日 沖縄・恩納村にて
佐喜眞美術館 http://www.sakima.jp/

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