ネイサン・ヒルデン インタビュー(2)


Untitled (2010), acrylic, silkscreen on aluminium, 86.3 x 58.4 cm. Photo Kei Okano, courtesy Nathan Hylden and Misako & Rosen.

 

動きつづける絵画の現在
インタビュー/アンドリュー・マークル

 

II

 

ART iT ここまではオブジェとしての絵画の存在とそれに相反するステンシルの使用法について話してきましたが、あなたの絵画の表面の扱い方に関しても興味があります。もしくは表面性へのアプローチと言えばいいでしょうか。とりわけ、絵具の奥に反射面が透けて見える金属板を使用した作品が興味深いです。ある意味、これは鑑賞者が従来の絵画に求めるであろう、視線が表面へと吸収されていくという効果を生むのではなく、むしろ、表面から視線を逸らしていく方向へと向かわせますよね。

NH その通りです。それらの絵画をくまなく見ていくとき、そこには奥行きとの戯れだけでなく、絵画自体との身体的な関係があります。鑑賞者は作品に反射して映り、そのイメージを見ると同時にそのイメージを通して見るのです。それらの絵画作品はなんらかの形でそれるという感覚を備えています。そこには必ずしも没入的ではない奥行きとの戯れもあるけれど、それはおそらくエーテルかなにかになるといった感じです。

 

ART iT 自分の立ち位置がわからなくなってしまうかのようです。

NH その言い方はわかりやすいですね。なぜなら、鑑賞者は反射を通して反射を見ていて、金属製の絵具のために反射はあらゆる位置へと変化していきます。それらの作品には入り込んでいく焦点がひとつもなく、作品におけるステンシルの使用における散乱という考えとも繋がっています。そうして、各作品は決してただひとつであるのではなく、鑑賞者は次から次、そのまた次へと見続けていかねばならないのです。

 

ART iT これまでにそうした絵画作品を隣に並べて展示したことはありますか。

NH 考えてみたことはありますが、展覧会でやったことは一度もないですね。スタジオでは並べて見たこともあります。各作品間のネガポジの関係による優れた効果が生まれ、存在しているものの奇妙な視覚効果がありました。内側と外側が同時にある領域があるのです。これは私が関心を持っていることのひとつ、フレームというアイディアです。仮に作品の周辺の条件が作品を成立させているのだとしたら、フレームは作品の内側にあるものに関わっているとともに外側に留まってもいます。つまり、フレームは作品の内外に同時に存在するという二重の状態を備えているのです。

 




Top: Untitled (2009), acrylic on aluminum, 196.85 x 144.78 cm. Courtesy Richard Telles Fine Art, Los Angeles, and Misako & Rosen, Tokyo. Bottom: Untitled (2010), lacquer on stainless steel, two parts, each 147 x 98 x 147 x 128 cm. Courtesy Johann König, Berlin, and Misako & Rosen, Tokyo.

 

ART iT あなたの実践を知る上で誰か適した思想家はいますか。

NH キャンヴァスの画像を使った作品における考えのひとつは、ジル・ドゥルーズがフランシス・ベーコンについて書いた『感覚の論理』(1981)から来ています。ドゥルーズは無垢のキャンヴァスはまったく無垢ではなく、それはこれまでに描かれたあらゆる絵画に満ちている。絵画における最も基本的な慣習、白い四角でさえも既に常に歴史に満ちているのだと述べています。私はありふれた慣習ですら既に数多くの考えに満ちているのだというその思考を楽しんでいますね。

 

ART iT 形態という観点から作品について話してきましたが、自分のやっていることをフォーマリズムのひとつだと言えますか。

NH フォーマリストではないと言わねばなりませんね。なぜなら比喩的描写の使用は言うまでもなく、指標との戯れによる重要な違いがそこにはありますから。2010年のミサコ&ローゼンでの個展に出品したすべての作品は、キャンヴァスの写真を使った画像ベースの作品でした。あれらは間違いなく抽象を取り扱っていますが、抽象とは一般的にフォーマリストと対比して、曖昧性を暗示します。また、制作過程において、フォーマリスト的アプローチから曖昧性を取り除くようにしています。私にとって、フォーマリズムとは理想的に自立性や非参照性を示唆するものであり、おそらく不可能なものなのです。作品の現象学的な読みやインスタレーションに対する考察はそうしたものの外側に位置しています。それは付加的な作業方法であり、単純に主観的なもの、もしくは、調和、均衡、力学など、基本的な構成の学術的習慣に基づいた恣意的なものなのです。どんなにゆるくとも、私は常に手続き上のことから始め、そうした過程の結果はどんなものであれ作品になるのです。

 

ART iT 言うなれば、手の痕跡さえも取り去ろうとしているのでしょうか。

NH そうですね。ある意味決断することから逃れる方法として。しかし、シルクスクリーンそれ自体が身体的要素を含んでいるので手の痕跡は別の形で再び返ってきます。ステンシルは身ぶりに関する装置になるのです。しかし、そこには確実にフォーマリズムに期待するような構成に関する決断はいっさいありません。例えば、キャンヴァスのあるひとつの角にステンシルを置くというシンプルなアイディアから始めたとして、それを別の角に到達するまで繰り返す。ただその手順を繰り返し、どうなるか見てみる。その結果としての絵画に見てとるものは、予期していなかったものや、やってみるまで思いもよらなかったものなのです。その意味で、私が私とは異なる鑑賞者になるということが興味深いです。

 

ネイサン・ヒルデン インタビュー(3)

 

 


 

第19回 絵画

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