ケリス・ウィン・エヴァンス インタビュー(3)

今この場において(ヒック・エト・ヌンク)——翻訳(トランスレーション)の向こう側の錯乱(デリリアム)
インタビュー / アンドリュー・マークル

 

III. 猫とのインタビュー
ケリス・ウィン・エヴァンス、マルセル・ブロータースへの賞賛と美術的ハイパーテキストについて

 


F=R=E=S=H=W=I=D=O=W (2010), 22 framed prints, each: 48.7 x 40.8 x 3.8 cm. Photo Todd-White Art Photography, © the artist, courtesy Taka Ishii Gallery and White Cube.

 

ART iT 今年、ロンドンのホワイト・キューブでの個展で発表した「F=R=E=S=H=W=I=D=O=W」(2010)という新作では、翻訳不可能なことで有名なステファヌ・マラルメの詩「Un coup de dés jamais n’abolira le hazard(骰子一擲)」(1897/1914)をグラフィック化したマルセル・ブロータースの作品(1969)を取り上げています。この作品について解説をお願いします。

ケリス・ウィン・エヴァンス(以下、CWE) マラルメは言葉を使う詩人の中でも特に偉大な例です。マルセル・ブロータースはマラルメの作品の言葉を黒く塗り潰すことによって詩そのものを前面に押し出し、その意味を絵に変換したのです。詩は実在します。探せば読むことができます。でもブロータースがしたことは——私が暗号化やモールス符号を使ったのと同じように——言葉による即時の(高度な発達を遂げて複雑化している)コミュニケーションを排除したという点で私にとって重要なのです。

ブロータースへの言及として——敬意の表しとして——それを更に発展させ、言葉を実際に切り抜いて紙を通して壁が見えるようにしました。こうすることにより、とてもウォーホル的な意味で現実の骨組みの構造材料の認識を取り戻します。つまり、私たちは血肉でできている、世界とは物質的であり、現存するものであり、はかないものである、ということです。この点については現実の帰還を取り上げる試みだったと言えます。

ブロータースの「Carte du Monde Poétique」のプリントを持っています。1960年代のベルギーの地図に書いてある海の名前を変えたり、あらゆる言葉の上に線を引いて消したりした作品です。この作品は私に大きな影響を与え、ひとつの転機に繋がりました。もうひとつ重要なのは1975年にロンドンのICAで開催されたブロータースの個展『Décor: A Conquest』でした。当時、ロンドンに行って展覧会を見たのです。まさか美術において、彼の作品のようなことをしてよいとは想像もしなかったので、この展覧会は啓示のようなものでした。それまでは、美術とは何かの絵を描くもので、描いたものに似ていればいるほど良いものなのだと思い込んでいました。その展覧会を見て、実は支配層に歯向かって問題を提起することもできるのだと気付いたのです。

 


Has the film already started? (2000), DVD, projector, CD, CD player, helium balloons, brick and string and plants, dimensions variable. Photo Stephen White, © the artist, courtesy Taka Ishii Gallery and White Cube.

 

ART iT ブロータースの『Décor』展のコンセプトで複雑なのは、その展覧会自体が『The Battle of Waterloo』(1975)という映画のセットでもあったという点で、美術のための空間に新たな意味を持たせること、あるいは空間が美術を意味付ける行為をサボタージュすることを試みていたということです。

CWE 今、デュッセルドルフ美術館で『Real Presences: Marcel Broodthaers Today』(2010/9/11–2011/1/16)という、自身の作品でブロータースの作品に言及する美術家に焦点を当てた大規模な展覧会に参加しています。かつてあの16歳の少年だった私が52歳にしてマルセル・ブロータース自身と一緒に展覧会に参加するなど思ってもみませんでした。これは私にとっては重要な功績だと思っていますし、この点については自分を誇りにさえ思っています。先程のマラルメの作品と「Has the film already started?」という新作を出品しています。この新作は何年も前に作った作品のバリエーションで、映像を投影した大きな白いヘリウム入りの風船をヒロハケンチャヤシの植木と一緒に展示するインスタレーション作品です。ヒロハケンチャヤシとはブロータースの作品の中で繰り返し現れる木です。ブロータースは私の考え方に本当に強く影響しています。彼の作品には常に新しい発見や新たな側面を見出すことができます。また、彼はとてもさりげないユーモアの持ち主でした。ベンジャミン・ブクローがブロータースの話をするとき、彼は実はかなりのひょうきん者だったということを忘れてしまいそうになります。彼は本当に素敵だったのだろうと思います。いつだって人をからかって、権力の限界を試していて。そんなところが大好きで、非常に強く影響を受けました。

 

ART iT 若い頃にブロータースを知り、その後ますます尊敬するようになったのはとても興味深いです。16歳の頃の憧れの対象というのは、大人になって視点が変わるにつれ憧憬が薄れていくことが多々あります。

CWE そうですね。16歳の頃に聴いていた音楽で今ではもう全然聴かないものについては話したくもありません。例外的に生涯残っていくものもあります。ただそこにあり続けるのです。そしてインスピレーションを与えてくれます。でも言葉とその意味や可能性の過激な探究の話をするならば、ブロータースは私が参考にする人物の中でも最も重要な一人であることは間違いありません。

 


Cleave 00 (2000), mirror ball, lamp, shutter, computer, text by William Blake, plants, dimensions variable. Photo Stephen White, © the artist, courtesy Taka Ishii Gallery and White Cube.

 

ART iT ブロータースについてもうひとつだけ質問しますが、彼がヤシの木を使ったときにはベルギーによるコンゴの植民地化への直接的な言及でした。あなたがその同じヤシの木を作品に使うとき、どのような意味を持つのでしょうか?

CWE 私の作品では——まだこの話はしていませんでしたが、インタビューを締めくくるのにうってつけの話題ですね——ある意味、一種のハイパーテキストになっていると言えると思います。マルセル・ブロータースによる別の状況への言及への言及。私にはベルギーのコンゴにおける文化帝国主義への彼の批判を自分のものにするための直接的な理解は得ることができません。これは芸術のための芸術というわけです。でも実際のところ——物凄く恥ずかしい響きですが——これは私にとってコスプレに近いものです。本当ですよ。

 

ART iT では、言及の複雑な関係性を意識した上で取り入れているのでしょうか?

CWE はい。そうでないと恥をかきますからね。自分のものにする権利を獲るためにはそれなりの人生を送る必要があると言えます。その主観的な領域に真に収まろうと必死になっている学生や美術家をこれまで何人も見てきました。ここまで来たこと、ある程度認められていてこのようにいくらかの自信と権威——本当に「いくらか」でしかありませんが——を持って話せるようになったのは運が良かったのだと思います。傲慢だと思われたくはありませんが、これまで何年もの間、実に多くの生徒が自らのことを正真正銘の美術家とみなすための認定を私からもらうことができると信じたがりました。多分、多くの人は金持ちになって成功する願望を持っているという問題が蔓延しているのだと思います。年月を重ねるにつれて、富と名声を得ることは必ずしも良い美術家だということではないと考えるようになりました。

 


Cleave 03 (Transmission: Visions of the Sleeping Poet) (2003), World War II search light, shutter, computer, Morse code controlling, device, text by Ellis Wynne, dimensions variable. Photo Polly Braden, © the artist, courtesy of Taka Ishii Gallery and White Cube.

 

ART iT それがハイパーテキストと引用との違いでしょうか?

CWE いいえ、そうは言えません。ハイパーテキストとは自己認識のある引用です。いや、私も自分が何を言っているのかよく分かっていないので、ただひたすらマイクに向かって話しているだけになってしまいます。私はまだ生きていてその答えをまだ探している、だからここでもうやめておきます。全ての答えを知っているわけではありません。むしろ、答えは何一つ知らないのかもしれません。それこそが意識的であるということ、美術家であるということ、探究するということです。それを続けるためには、ときには凄まじい肉体的・身体的な努力が必要になります。私は今も新しいものを作ろうとしている、そしてそのためのプロセスに向けて今も自分の気持ちを盛り上げようとしている。だからこそ今も自分を殺さないでいようとし続けているのです。

 


ケリス・ウィン・エヴァンス インタビュー
今この場において(ヒック・エト・ヌンク)——翻訳(トランスレーション)の向こう側の錯乱(デリリアム)
I. われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを | II. 座せる王妃 | III. 不意打ちの疎外感

第5号 文学

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