黒という余白に
インタビュー / アンドリュー・マークル

ART iT あなたはこれまでにドキュメンタリー映画に分類されるような作品だけでなく、映像の発表形態という物質的な側面を探求するマルチメディア・インスタレーションも制作しています。とりわけ、ドキュメンタリー映画にはスコットランドの精神科医R.D.レインが繰り返し登場しますね。彼自身や彼の思考があなたの実践に与えた影響について聞かせてください。また、そうした影響は角田俊也さんとのコラボレーションを含む、そのほかのプロジェクトにも及んでいるのでしょうか。
LF 美術学校に通っていた90年代末に「経験の政治学」などの著作からレインのことを知りましたが、私自身が精神科に通うようになって初めて、彼の著作を人生や人生を放棄する体験に結びつけるようになりました。彼の文章をなんらかの形で使いたいと実感したのもその頃です。
実際には、彼のことを知る前から、スタンフォード監獄実験など心理学実験一般に対する興味はあり、60年代末に彼がロンドンに設立したキングスレイ・ホールという精神医学の社会的実験を行なうコミュニティへの関心とともに彼への関心も生まれました。私はキングスレイ・ホールを訪れて、ドキュメンタリータッチの映像作品「What You See is Where You’re At」(2001)のためのインタビューを実施しました。かつてレインとともに働いていた人々に話を聞き、セラピストのレオン・レッドラーからはビデオテープ、音声のみが記録されたビデオテープ、フィルム等のアーカイブ素材もいただきました。こうした素材を、自分が撮影したフッテージや、友人が働いていたBBCのテレビ局のアーカイブ素材と合わせて編集し、さらに、以前、この施設のより公的なドキュメンタリーを製作したプロデューサーからも映像素材を提供してもらい、あらゆる素材を使用していくなかで、異なる様式の情報が作り出す不和に対する興味が強まっていきました。一方で、施設の患者と居住者による放送を目的とする構造や恣意性を持たないDIYの映像アーカイブがあり、もう一方で、私が撮影した映像やテレビ用のフッテージにはそれぞれ意図が込められている。こうした明確な対照性に触れることで、素材間に横たわるイデオロギーの差異を認識することとなったのです。こうしたことがきっかけで、ドキュメンタリー映画の構築方法における支配的規範に対する批評性を持った映像作品をつくることへの興味が芽生えていきました。
この作品で初めてレインを扱いました。セラピストのレッドラーとは「Bogman Palmjaguar」(2007)というレイン関連ではない映像作品も制作していて、関係性は続いています。この作品には先程話したアーカイブ素材は使っておらず、イギリスの構造映画や実験映画に強い影響を受けていて、他者によるフッテージの再利用ではなく、自分自身で初めて16ミリフィルムを使って撮影しました。この作品からは独自の問題がいくつか生まれてきていて、どういうものかと言えば、もはやしゃべることのできない亡くなった人物ではなく、存命の個人を扱うことなどの問題です。その後、キングスレー・ホールの居住者で私が興味を惹かれた人物を対象にした「The Nine Monads of David Bell」(2006)、さらに、レイン三部作の最後の作品で一時間半ほどの長さの「All Divided Selves」(2011)を制作しました。必要に駆られてこの長さになったので、いわゆる劇場用の長編映画ではありません。
トシヤ(角田俊也)とのコラボレーションへのレインの影響ですが、これは私ではなく、ほかの誰かが判断するもので、意識的に取り入れているようなものはありません。
ART iT あなたはキセントス・ジョーンズの「The Way Out」(2003)やコーネリアス・カーデューの「Pilgrimage from Scattered Points」(2006)など、ミュージシャンの映像作品も制作しています。しかし、これらの映像作品はレインを扱ったものとは異なり、次の作品へと転移していくような効果は見られず、より完結したプロジェクトとして受け取りました。
LF 選んだ対象全体を繋ぎ止める筋はありますが、思想家であるレインの場合はより一貫するものがあったのでしょう。個人的にはカーデューにも共鳴するものがあると思っていますが。これらの作品がいつ結実し、ほかの作品へと展開していくのかなど、誰にもわかりません。意図的に行なうものではないということだけは確実です。ある人物や対象についてのシリーズをつくることが目的ではありませんから。レインの場合は本当に幸運な偶然で、彼を扱う作品をもっと制作するように私を駆り立て、やるべき仕事が残されていると感じされる人々のエネルギーがありました。カーデューについてもまだやるべきことがあると思っていますが、ほかの誰かが僕のバトンを継いでいるような気もするし、既にたくさんのプロジェクトが存在しています。


ART iT レイン、ジョーンズ、カーデュー。彼らを現在に呼び起こすなんらかの動機があったのでしょうか。
LF 彼らが忘れ去られていたとは思いません。私の作品の背後にいかなる包括的な計画もありません。それに、私は汚名を着せられたり、異端者とみなされた「拒絶された人々」の名誉回復に取り組んでいるわけではありません。ことはそんなに単純ではありません。作品の背後にはまず自分の人生における作品制作以外で起きていることと、それが私自身の人生や考え方に与える影響があります。それに、彼らの通俗的な表象にはなにか物足りないところもあるし、彼らの偉業を再考する際に為すべきことがたくさんあると思ったのです。
ART iT ドキュメンタリー映画の制作から、2008年の横浜トリエンナーレで発表した「フラッター・スクリーンのためのコンポジション[A Composition for Flutter Screen]」のようなインスタレーションに取り組みはじめるきっかけはありましたか。
LF あの作品の場合は単純にトシヤとの出会いがきっかけです。転換点はあの作品自体だと言えるかもしれません。おそらく、私の全作品を繋ぐものは、ただ独りで制作するのではなく、ほかの人々との恊働を頻繁に行なうということなのかもしれません。私自身のアイディアはありますが、恊働する人々のアイディアが私自身のアイディアに疑問を投げかけてくるのです。
この作品以前にも題材のない短編ドキュメンタリーをいくつか制作していましたが、この作品は初期の16ミリフィルムの実作の中で最も包括的で成功した作品になりました。ふたりにとってこの作品がこれほど重要になったのは、互いの領域から生まれたアイディアを別の領域へと試したことが原因ではないかと。彼がフィールドレコーディングから得たものを映像に適用し、私は映像から得たものを音響に適用しました。これは「A Grammar For Listening」(2009)の三部作でも共通しています。これらの作品では、トシヤのほかにも、サウンド・アーティストのリー・パターソンやエリック・ラ・カーサと制作しています。彼らのアプローチはそれぞれ三者三様で、私はそれぞれとのコラボレーションを繋ぎ止める軸となり、それらを素直に受け入れることで、彼らの欲望や方向性が作品に残るのです。
ART iT あなたの作品制作において、ドキュメンタリーの題材として繰り返されるのがR.D.レインだとすれば、継続的にコラボレーションを行なう人物は角田さんですね。彼とのコラボレーションを続けることに、どのような意味があるのでしょうか。
LF まずなによりも彼の考え方が好きなんです。彼のレコーディング作品に惹き付けられて、彼が複数のサウンド・インスタレーションを出品していたスコットランドの野外彫刻展アーガイル(2007年)で出会い、本当に素晴らしい人物だと知ったのです。彼は本当に面白い男で、映画が好きなんです。私たちはタルコフスキーとか小津の話をして、それから、コンセプチュアル・アートの話、私たちには共通することがたくさんあったし、彼はハンネ・ダルボーフェンとかにも興味を持っていました。実際、彼は私が知らなかったコンセプチュアル・アートやミニマルアートの作家を教えてもくれました。
彼の制作への態度は私の気分を一新するものでした。完全にアートワールドの外側にも関わらず、彼は展覧会のマニフェストである最終結果を十分に承知していました。作品における彫刻的要素にも意識的でしたね。彼とのコラボレーションはお互いの人間性にとって、アートにおいても、知的な側面においても、実り豊かなものですね。


ART iT 角田さんの彫刻的感性という話がでましたが、タカ・イシイギャラリーで発表した新作「Leader as Gutter」(2013)も彫刻的な存在感を強く放つものですね。透明な板を積み重ねたスタックに16ミリフィルムの映像が投影され、イメージが現れたり、歪んだりしている。この展示ではフィルムの持つ彫刻的要素を探求していたのでしょうか。
LF 「フラッター・スクリーンのためのコンポジション」のときから、当初のアイディアは映画の発表形態の問題、映画の環境における受動的消費についてでした。あの作品で試みたのは「なにが映画か」という古い構造にひびを入れることで、そのために相互に解消することなく作用する異なる物体の複雑さを備えた、生き生きとしたダイナミックな構成を制作しました。それはまるで完成することのないパズルのようなものでした。そこには物質の形態における特徴という導入部はあれど、作品をより遠くへと導くようなテーマやプロットは存在しません。作品をより遠くへと導くのは、目の前で起きていることに対する観客自身の心や意識で、観客の身体と空間の体験とに生み出すリンク、イメージや音、環境による総体的な相互作用なのです。
こうしたことは「Ridges on the Horizontal Plane」(2011)にも継続されています。これら最初の二作品では、映像だけが作品を駆動させる唯一の要因ではなく、音響、音楽、そのほかの側面のどれかひとつが唯一の要因となることはありませんでした。事前に録音したサウンドトラックを使わない映像作品をつくりたかったので、その空間にあるもので音を作り出し、そこにダイナミックなエネルギーを持たせるために、例えば、「Ridges on the Horizontal Plane」では弦に風を当てることで持続的な響きを生み出したり、「フラッター・スクリーンのためのコンポジション」では時計仕掛けのモーターで振動するワイヤーを使ったり、時計仕掛けの送風機や照明なども使ったりして、名作映画を観る歓びを阻害していました。
このような関心は今回の作品にも継続されていますが、トシヤが提案したあのスタックには、彼の鉱物への思慮や岩石の質、水晶の層に歴史的に刻まれた幽霊水晶というアイディアが含まれています。そうして、あの映像はスタックの各層に囚われた「幽霊水晶」となる。
トシヤは、日本の歴史は1930年代以来変わっていないこと、資本主義という信奉に抑制されていること、日本文化に対する西洋の眼差しについて話してくれましたが、彼が日本の歴史を振り返ることに興味があるように、私も歴史的な思考や回想、未来への問いを立てることに興味があるんです。
だから、この映像作品に選んだ本は地図作製に関するもので、トシヤの作品とも共鳴するところがあります。それに、本を構成するページもまた、スタックを思わせる物体としての質を備えています。誰かが本を執筆するとき、そこには明らかに思考の展開があり、一枚一枚のページ、垣間見える文字、その物質の層に囚われた光の間に、フィードバックの回路が存在するのです。

ART iT ほとんど解決不能な難題に出会した気分でした。ひとつの立ち位置からでは作品全体を経験することは不可能であると。投影されたものの断片としての光が壁に映し出され、投影された残りの部分を見ようとスタックに目をやる。とはいえ、映像を上からも、横からも、どこからでも見ることができ、それぞれに各々の質がある。イメージ全体を見ることへの切望が浮き彫りになってきました。まずスタックに映るイメージを見て、それから全体を繋ぎ合わせようと試みるのですが、こうしたことを諦める。それによって作品の別の側面を経験することができました。
LF 「なぜ、こんなことをしているのだろう」と「Grammar for Listening」を制作しているときにトシヤに訪ねたことがありますが、彼はいつも「理由なんてわからないし、欲望に委ねているだけだよ」と。私たちは作品には厳密な解釈があるとするタイプのアーティストではないし、作品にはオープンエンドの可能性があるんだよ。作品の意味するものを結論づけようとする欲望や方向性に従うことはないけど、そこには私たち自身や私たちのアイディアが共鳴するなにかがある。そして、私たちは鑑賞者の作品経験や作品の意味を決定づけたくないと考えています。私にとって、内在的な質を保持しているものの、あるひとつの解釈に鑑賞者を閉じ込めることがないのが理想的なアート作品です。それは作品を解釈する人物を必要としたり、作品説明のプレスリリースを必要とするような、犯人探しに興ずるミステリー作品のような質とは違い、鑑賞者が複数の視点や複数のアイディアの世界とのあらゆる共鳴から作品について思索し、経験へと誘うものなのです。
ルーク・ファウラー|Luke Fowler
1978年グラスゴー生まれ。同地在住。一般的な伝記映画やドキュメンタリー映画の慣習にとらわれず、インタビュー、写真、音響、アーカイブ映像のモンタージュを駆使した映像制作へのアプローチで知られる。『引き裂かれた自己』や『自己と他者』などの著作で知られる精神科医であり思想家のR.D.レインを題材とした三部作などの映像作品により、2008年には第1回ジャーマン賞を受賞、2012年のターナー賞の最終候補に選出されている。これまでにICA(2012年)、サーペンタイン・ギャラリー(2009年)、クンストハレ・チューリヒ(2008年)などで個展を開催している。また、サウンドクリエイターの角田俊也とは2008年の横浜トリエンナーレでの発表した「Composition For Flutter Screen」で恊働し、その後も「Ridges on the Horizontal Plane」(2011)、そして、今年の夏にタカ・イシイギャラリーの展覧会で発表した「LEADER AS GUTTER」の三作品を制作、発表している。