フィル・コリンズ インタビュー


marxism today (prologue) (2010), HD video in color and black-andwhite, sound, 35 min. All images: Unless otherwise noted, courtesy Shady Lane Productions.

 

ポピュラリティをうつす
インタビュー/アンドリュー・マークル、大舘奈津子

 

ART iT あなたはこれまで一貫して、カラオケやニュース番組、リアリティTVなどのポップカルチャーや情報システムを通して、対象に語らせることに取り組んできました。しかし、現在継続中の「Marxism Today [今日のマルクス主義]」プロジェクトは、一見すると初期作品とは異なるアプローチを確立しているようにみえます。「Marxism Today」プロジェクトの制作の経緯について聞かせて下さい。

フィル・コリンズ(以下、PC) 私のプロジェクトの多くは、アートはいかなる出会いをもたらすことができるのか、という問いに基づいています。観客の代理、目撃者としてのアーティストと、人前で話したり、歌ったり、踊ったりする対象との出会いはどのような領域を描き出すことが出来るのでしょうか。私はしばしば自分も彼らのように行動できるくらいに肝が据わっていたらと思いますし、彼らの行為はすべて、ひたすら尊敬に値すると考えています。
テレビや映画のようなほかの商業文化的製品の制度によって制限されることがほとんどないという点で、アートは素晴らしいと思います。どういうわけか、アートは今もなお、ある程度の自立性を保っていますし、人々が普段とは異なるものに出会う覚悟をしてくる領域のひとつです。たとえそれがカラオケで歌うことであれ、ホテルの部屋で服を脱ぐことであれ、リアリティTVの被害者が自らの経験を取材陣に話していることであれ。私の作品では、たいていこうした行動は明らかに一様ではない方法で構成されています。それらは決してユートピアでも、あらゆるものが同等というわけでもなく、むしろ、なにか悪意があったり、苦しかったり、問題含みの本質を備えたものを構築しています。
私は1980年代後半から90年代前半のちょうどアシッド・ハウスを中心としてレイブが急成長してきた時代にマンチェスターの大学に通い、その後、マンチェスターとは異なる歴史的、政治的地理を持つ北アイルランドのベルファストで勉強を続けました。そのせいでしょうか、ポップカルチャーと政治はいっしょに私の中に深く埋め込まれています。その後、私はイランやパレスチナといった中東や、コソボやセルビアといった旧ユーゴスラビアで制作を始めました。ドキュメンタリーと表象が、いかに社会的に抑圧された歴史を語ることができるのかということに対する私の関心の特有な系譜から「Marxism Today」は生まれました。
旧東ドイツはその象徴的な歴史の衰退を経験していて、その歴史の大部分は統一ドイツによる再評価によって置き換えられ、その置き換えは基本的にはシュタージ(旧東ドイツの国家保安省)と旧東ドイツ政府の不正というふたつの特殊な枠組みを通じて起こりました。これは人々の社会主義下での生の経験に対する問いに答えようとしていないという問題があります。もちろん、ソ連という独裁体制がありましたが、そこには彼らの個人的な歴史の彼らによる解釈が十分には含まれていないのです。
ベルリンの壁崩壊の20周年のとき、私はベルリンにいました。アレクサンダー広場ではパンクからプロテスタント教会に反対するものまで、あらゆる人々を取り上げた大規模な展覧会が開かれていました。あの展覧会にはベルリンの壁崩壊を乗り越える瞬間が含まれていましたが、私は取り残されたものについて想いを巡らせていました。マルクス主義は西側諸国ではチェ・ゲバラや1968年といった急進的姿勢とされていますが、東ドイツやその他のソビエト連邦の衛星国ではもちろん正統的姿勢でした。東側諸国の民主化の瞬間が近づき、デモが発生し、国家が崩壊し、経済が破綻しているときに、マルクス主義を国家の正統的姿勢として教えるということは、どのようなものだったのでしょうか。あれから22年間、そうした観点にはどのように光が当てられてきたのでしょうか。「Marxism Today (prologue)[今日のマルクス主義(プロローグ)]」(2010)のために、私は60人の元教師と話をして、そのうち10人を撮影し、最終的には三人の教師を作品に使いました。それは本当に感動的なものでした。

 


Both: use! value! exchange! (2010), HD video, sound, 21 min.

 

ART iT とりわけドイツの観客にとって、幾分郷愁を含んだ非常に複雑な感情や連想が混ざり合うものがあったでしょう。2010年の第6回ベルリン・ビエンナーレで「Marxism Today (prologue)」を観ましたが、観客からも大きな反応があったように見えました。

PC 郷愁というよりもむしろ、この作品にはある種の共感を受けたさまざまな声があったと考えています。実際には三人の教師は複雑な人たちでしたが。私は彼らの複雑さをありのままに出そうと試みました。彼らが好むと好まざるとに関わらず、彼らが持つ矛盾や個性を入れようとしましたが、彼らはみな強力なナラティブ・アークを持っていました。
二作目の作品「use! value! exchange![使用!価値!交換!]」(2010)では、その三人の教師に、かつて彼らが教えていた学校で現代経済学を学んでいる生徒に、壁崩壊以前にしていたようにマルクス経済学の講義をしてほしいと頼みました。信じられないことに、ひとりの女性教師は二個のリンゴと一個のオレンジの喩えだけで、『資本論』の第一巻の要素を教えることが出来たのです。
『資本論』の興味深いところは、それが革命のためのプログラムではないというところです。それは資本主義、消費、消費対象の分析なのです。つまり、貿易とは何を意味しているのか、使用価値とはなんなのか、交換価値とはなんなのかといったことです。マルクスによる資本主義の解釈。また、エンゲルスは彼自身の情報をすべてマルクスへ提供しており、22年間マンチェスターで父親の工場を経営していました。彼は、昼は資本主義者、夜は急進主義者だったのです。ふたりの全ての研究はエンゲルスの工場を基になされています。工場がまわる仕組みや貨幣が流通する仕組みなど。ふたりとも非常に複雑な性格の持ち主です。彼らは国家社会主義によって、ひとつの統一された見解に要約されますが、しかし、ともにそれぞれの人生において戦略的で、想像されるような急進的運動者ではなく、ふたりの経歴はまったく一致しません。
「Marxism Today」シリーズの続編のアイディアは、教師たちがマンチェスターにある学校でマルクス主義を教える作品の制作です。なぜマンチェスターかというと、ひとつにはエンゲルスとの関連であり、もうひとつはマンチェスターが世界で初めて工業化された都市だからです。産業革命によって、マンチェスターはこの世の地獄へと転換したのみならず、資本がなりうる進歩的で精巧な形態へと変わりました。マンチェスターは、産業革命の誕生の地であり、その抵抗の地でもあり、以来、インドや中国のような場所へと向かっていく工場制度が形成された場所でもあるのです。
しかし、これはドイツで行なうべき非常に興味深いプロジェクトだったのです。なぜなら、このプロジェクトは人々が話すことと話さないことの断層に触れるもので、そして、歴史の形態が不明瞭になり、タブーとなる、もしくはそれは定期的に議論されるものなのです。

 


Top: shady lane productions (2006), production company and research office, installation view, Turner Prize 2006, Tate Britain, London. Photo Sam Drake & Mark Heathcote. Courtesy Shady Lane Productions & Tate Britain. Bottom: the world won’t listen (2004-07), installation view, Marabouparken, Sunbyberg, Sweden, 2011. Photo Jean-Baptiste Béranger, courtesy Shady Lane Productions and Marabouparken.

 

ART iT あなたの作品の多くは自己言及的側面を持っています。例えば、記者会見自体は「shady lane productions」(2006)のプロジェクトの一部で、舞台そのものが舞台化されています。「Marxism Today」シリーズにも同じような仕組みを採用したのでしょうか。

PC いいえ、「Marxism Today」は異なります。大半のプロジェクトは見返りを要求してはいません。報道陣に対してリアリティTVによる酷い扱いについて話したところで、何も解決しません。これを利用したら、ドイツの観客にとっては「Marxism Today」における質問が面白いものになるであろうことはわかりますが、同時に話す人を見つけるのが難しいでしょう。私は女性誌や社会主義系の新聞や地方の小さな新聞に広告を載せましたが、それは単に挑発しているわけではなく、相互的な関心のひとつの形式だったのです。その他のプロジェクトにおいても、ときには、受け渡しの美しさによって出会いによる痛みが消えることもありました。「the world won’t listen」(2004-07)では、ザ・スミスの曲の入ったカラオケの機械をコロンビアやトルコ、インドネシアに持っていきましたが、歌い手との約束の条件を決めるのに非常に難航しました。しかし、ひとたびカラオケが英国人気質もしくは英国ポップカルチャーへの誤解にまつわるなにかに変わると、それはもはやなにか滑稽なものではなく、なにかより高貴なものになります。そしてもちろん、そこには国民性それ自体に関するなにかパフォーマティヴなものがあります。英国人は紅茶を飲むたびに英国人気質を遂行するのです。
しかし、生徒へ講義を行う「use! value! exchange!」には、明確に舞台化された状況があり、より実験的もしくは歴史上の出来事の再現となっていると思います。再現というよりも再分節化であるということが素晴らしいのです。なぜなら、仮にマルクス主義の言語が20年間使用されなかったら、それはどれくらい滑らかに話されるのか、もしくは、どれほどの説得力を持つのか、もしくは、教師と生徒の間に断絶はあるのだろうか、ということを私は知りたいのです。

 

ART iT 今日、私たちが利用可能な情報の急増に伴い、まるで歴史の再発見というアイディアの考古学的な考え方はかつてないほど切迫しているかのように感じられます。現在支配的であるもの以上に、歴史の異なる位相に生きていた誰かのまだ自由に使用可能なアイディアと、それを誰が再現することが出来るのかといったことに惹き付けられます。そして、ベルリンで経済学を学んでいる誰もがその魅力を感じるのではないでしょうか。他の作品にもこうした考古学的側面を持つ作品はありますか。

PC 私自身は人々と仕事をするときに考古学的な方法をとっているとは思いません。作品は常に気づくことや問うことや、私が必然的に選んでしまう人々とは対照的な無名の人々を見つけようとすることに関係しています。私は問いを立てて、その問いが完全に理解されるための仕組みに一生懸命取り組みます。世の中に大勢の人々がいて、誰かがあなたの問いを想像もできない方法や望んでいなかった方法で答えてくれる可能性があるときに、自分自身の内省を求めたり、自身の友人とともに制作したりする現代美術に対して、多くの場合、私は批判的です。パレスチナのディスコのダンサーはどんな感じで、彼らは8時間踊り続けるとどうなってしまうのか。ザ・スミスの有名な歌やあまり有名ではない歌、忘れ去られた歌をカラオケで歌うように頼んだらどうなるか。私にとって、それは出来事そのものに出来る限り接近する試みなのです。出来事の表象でも、再秩序化でも、出来事に対する提案でも身ぶりでも憶測でもなく、社会の中でその事が作用しているそのままの状態に近づきたいのです。誰かをカラオケに誘い、再生ボタンを押したら、その機械もほかのどのカラオケの機械とも同じように動きます。私はフィクションではなく、むしろ実験の瞬間について考えようとしているのです。そうした瞬間は大抵の場合、モダニストの戦略を探究していない点で大衆的です。それはアート作品だと認識されないアート作品、もしくはアート作品と見られることを求めないアート作品であり、参加者によって広く理解されるべき作品なのです。

 

フィル・コリンズ インタビュー(2)

 


 

フィル・コリンズ インタビュー
ポピュラリティをうつす

Part I | Part II

第20回 サーキュレーション

Copyrighted Image