シガリット・ランダウ インタビュー

二重螺旋が描く風景
インタビュー / アンドリュー・マークル


Behold the Fire and the Wood, installation view, Maison Hermès, Tokyo, 2013. © Nacása & Partners Inc, courtesy Fondation d’enterprise Hermès.

ART iT これまでに2008年にニューヨーク近代美術館[MoMA]で発表した「プロジェクト87[Projects 87]」や、2011年にヴェネツィアビエンナーレのイスラエル館での個展を見てきましたが、それらはどちらも映像と彫刻インスタレーションで構成されていました。しかし、これまでの活動を詳しく調べてみると、ブロンズや大理石など素材の使用法から、人物彫刻、レディメイド、シュルレアリスムのオブジェといった概念まで、あなたが彫刻の様式に深く関わってきたことがわかります。ここではまず、制作における映像と彫刻のバランスについて教えてください。

シガリット・ランダウ(以下、SL) そもそも私のことを映像作家だと考えている人もいるかもしれませんね。国際展への参加にあたり、映像作品をDVDやHDDで送ることが簡単になってきて、今ではインターネット上でファイルを送り、アーティストが設置に立ち会わないことさえあるかもしれません。
当然ですが、映像と彫刻のバランスについて話すということはそこまで単純ではありません。以前、クラウス・ビーゼンバッハがMoMAのメディアアート部門の空間で展示しないかと提案してくれたときも、「私の専門と違うけど…冗談なの?」と私が訊ねると、彼は「それじゃあ、塩の彫刻もいくつか持ってこよう」と答えてきたので、「いい?映像作品に彫刻をいくつか添えるだけってわけにはいかないの。有刺鉄線を使った塩のシャンデリアの彫刻36点すべてを運び込んで、それを水面下に広がる厚い雲の群れのように配置しなければいけないの」と言い返しました。
それはともかく、MoMAの展示では観客の時間を占有することに成功したと思っています。これは物や商品の溢れるこの時代にはなかなか難しいことです。死海に螺旋状に浮かぶ西瓜の群れから私がどうやって抜け出すのかと、「死視[DeadSea]」(2005)を見る観客はなかなか立ち退かずに作品が終わるまでの10分間をその部屋で費やし、次の「Barbed Hula」(2000)は、特別な出来事が起こるわけではないけれど、作品が終わるまでの二分間、ある種の瞑想的、儀式的な効果が続きます。「Day Done」(2007)には建物の内側、窓から身を乗り出して、手の届く範囲の壁を黒く塗っていく男性が映し出されていますが、そこにはシンプルなコンセプトがあって、それは絵画というより、絵画の反転に関わっています。かつて、絵画は世界の窓や、知覚を定義づけるものとして存在していましたが、ここでは窓から身を乗り出した男性が壁にブラックホールのようなものを描いていきます。
このとき展示した映像作品はすべて円に関わるものでした。これはなんとなく東京での展示にも繋がっていますね。会場奥のインスタレーション「火と薪はあります[Behold the Fire and the Wood]」(2013)では1950年代のイスラエルの居住空間を再現しました。まず、キッチンから入ると、4人の女性がそれぞれの人生を語るサウンドインスタレーションが観客を迎え入れ、居間、その裏側へと進んでいきます。裏には叔父の日記から抜粋した文章があったり、壁から居間を覗き込めたり、この家族の秘密を読み解けるようになっている。同時に、この空間を逆側から入って、物語や歴史、各空間を反対方向から回っていくという選択肢も存在します。そこには裏舞台と表舞台、物語のふたつの側面があるのです。
もう一方の映像インスタレーション「茂みの中へ[Out in the Thicket]」(2013)は、まさに先の「火と薪はあります」で再構成を試みた「家」の黒鏡として考えられます。この映像に映し出されているのはある種の自然の状態ですが、オリーブ畑が映っているということは、その状態は自然ではなく、砂漠で生き延びようとする人間に因っているといえるでしょう。収穫機は短時間で機械的にその実を落とすために、貧弱な木々を暴力的に揺さぶります。観客は即座に比喩的なもの、身体的なものを感じ取るのではないでしょうか。このオリーブの森を歩くことで、そこにドラマが広がる場が創り出されていくのです。

ART iT 映像作品も彫刻作品も同じ実践の中から展開してきたのでしょうか。

SL 私はインスタレーションが注目されてきた1990年代に学生時代を過ごしていて、アン・ハミルトンがニューヨークで制作した巨大なインスタレーションは決して忘れられないものです。多大な労力を要したり、空間の映画的変容をアーカイブしたりするようなインスタレーション、例えば、ポール・マッカーシーやクリスチャン・ボルタンスキーといったものに反応していました。この時期に彫刻に取り組んでいた人々はみな、世界を構築するかのように作品を配置していたといえるでしょう。ダンスや演劇も経験しましたが、それらも舞台上のインスタレーションといえるかもしれません。
一方で、イスラエルで歴史を意識せずに成長することなどありえません。遺跡などはそれ自体が小さな物語ですし、歴史博物館では古代や中世の暮らし、民間伝承、この地に移住してきた異なる文化を背景とした人々を模したジオラマがつくられ、そこにはイエメン人やロシア人の結婚式などを扱ったエリアもありました。私はこうしたガラスの陳列ケースの世界が好きで、そうしたことも、私のインスタレーションの背景の一部をなしているのではないかと思うのです。


Top: Installation view, “Projects 87,” the Museum of Modern Art, New York, 2008. Courtesy Sigalit Landau. Middle: DeadSee (2005), video, 11 min 39 sec. Bottom: Dancing for Maya (2005), video, 16 min 13 sec.

ART iT そうしたところから人物彫刻への関心も生まれてきたのですか。

SL ワックスやブロンズ、大理石で何ができるのかを見出したいと考えています。基本的にイスラエルではアートがモダニズムとともに始まったために、人物彫刻にはわずかな歴史しかありません。そもそもユダヤ教やイスラム教では肖像を描くことが許されていなかったし、ノマドとして生きる彼らは常に移動を続けたり、排除されたりしてきたので、たとえ腕のいい宝石職人たちでさえも道具や材料を保管するスタジオを維持して、発展させていく可能性はほとんどありませんでした。
最初の偉大なユダヤ人画家もしくは彫刻家はシャガールで、彼は郷愁的な雰囲気で空を飛ぶ人々を描いていますが、一方で、ある場所、観客をその身体、物質へと連れていくような場所に接続させるものも描いています。
私はさまざまな制作方法を試みていますが、それはときにどの制作方法にも傾倒していないことだとも考えられます。新年を迎えたときに、自分が何をしたいのか、その理由や場所を決めるのですが、どんな方法で制作するのかほとんど予測できません。
映像作品は光とイメージが重要です。4チャンネルの映像インスタレーションにするかどうかは大した問題ではありません。なにもない空間で、空虚とイリュージョンの間に力強い緊張感が生まれ、光によってイメージが描かれるのです。
自分自身のことを、手を動かして制作するタイプだと考えたいと思っていますが、映像に関するなにかが、なんだかどこか手軽なものになってきていると認めなければいけません。映像の場合であれば、ある意味でわかりやすいというか、誰が撮影者で、誰が何を担当しているのかがわかります。彫刻の場合は、自分が見つけ出した構造を他の5人の職人に否定してきたとき、誰もやっていないからこそ、自分自身でやらねばならず、その出来も良くなければなりません。例えば、ドクメンタ10に出品した「Resident Alien I」(1996)では、輸送コンテナをハンマーで叩いて彫刻的風景を創り出しました。
アナログの世界はどこまでもコンテナの規格で移動していて、これまでにもコンテナを使った美術作品はたくさんありましたが、あの状況で私が考えていたのは、「コンテナの床をハンマーで叩き、風景を創り出す。外観は普通に見えても、内側にはある場所の記憶が残り、そこを旅することができる。観客はコンテナの中へと入ると突如風景へと飛び込んでしまう」というものです。私は当時26歳で、あらゆることが可能だという妄想を抱いていました。

ART iT 「Resident Alien I」でコンテナをハンマーで叩き付けたり、「The Country」(2002)のインスタレーションに使われた新聞製の紙粘土を用いた彫刻を制作する労働集約的な彫刻の実践と比較すると、映像作品の場合、そのほとんどが数多くの製品と同じように、わずかな最低限の身振りしか見えませんね。

SL たしかにその通りですね。とはいえ、よく見れば、映像作品の中の人物も労働しています。なにかしらのことを行っている。優雅に見えるかもしれませんが、死海に浮かびながら片目をそこに浸すことは苦痛であり、さらに炎天下で行われている。こうしたことをほとんど見逃してはいませんか。
あれこそが私にとってのダンサーではないかと思うのです。たとえ、背骨に怪我を負っていても、その痛みを表現するのではなく、パフォーマンスのみが必要とされ、怪我の処置は後回しになる。「Dancing for Maya」(2005)では、ふたりの女性が互いに砂浜を掘り進めていくと同時に、波が彼女たちの運動の痕跡を消していきます。ここにも特別な身体性が生まれています。「Laces」(2011)では、机の下に隠れた少女が、会議中の大人たちの靴のひもをいたずらに、しかし、執拗に結んでいきます。また、この東京の会場で展示しているオリーブ畑の映像とは別に、労働者が農場で重たいメロンを収穫する姿を記録した作品もあります。そこに映し出される身振りは、彼らが日常的に行っているものであり、特別な行為でもある。それがアートだとか、ドキュメンタリーだとか言おうとしているわけでもないので、カメラがあるべきではないところに存在しているのです。状況に身を任せる映像作品にはなにかがあり、それ故にミニマルになるのです。編集したり、加工したり、映画ならではのマジックを付与しようというわけでも、技術的に無理だったり、ただ単に退屈過ぎるために演劇として発表するわけでもないけど、映像は能動的であり、なにかを喚起してくれるキャンバスなのです。


Both: Out in the Thicket, installation view, Maison Hermès, Tokyo, 2013. © Nacása & Partners Inc, courtesy Fondation d’enterprise Hermès.

ART iT オリーブ畑で撮影した「茂みの中へ」で起こっていることについて、あの作品を制作することであなたが期待していたことや、あの作品にどういったものを見ているのか、もう少し教えてもらえないでしょうか。

SL あの作品には運動があり、魅惑的な光に関するものがあり、そのすべての暴力性が備わっています。あの作品に映っているのは実際のオリーブの収穫方法で、機械を使うことは理解できるのですが、機械がオリーブの木々を揺さぶる様子を見ていると、この行為がパニック反応や、身体の痙攣やオーガズム、常軌を逸した身体を伴う性的なものに似ていると感じるのです。
果実が落ちるという事実が私に眼差しや言葉を思い起こし、そこにあるなにかが私を圧倒してくるのです。オリーブの木は平和の象徴であるとともに、土地やその歴史の象徴でもあります。数々の衝突がオリーブ畑で起こる。それはあるひとつの風景であり、木々はそのために必要なものです。しかし、生存のための激しさも必要なもののひとつ、つまり、それは運動、尽力、木々が体験する苦のない地獄といったもののことです。
イタリア出身の人がこの作品を見て、困惑していました。イタリアでは地面に網を敷いて、オリーブの実が落ちてくるのをただ待っています。一方、イスラエルの農家は、オリーブオイルの価格が下がれば、夜も収穫しなければいけません。また、機械で収穫するのであれば当然のことですが、実を傷つけてしまうので、夜の内に絞ってしまわなければいけません。そこには不可能な実践と強い欲望のサイクルが存在しています。
死海もまた同じです。そこはほとんど真水がなく塩水しかないなので、その塩分濃度に耐えうる植物がオリーブしかないのです。これがここの農家の暮らしです。また、彼らはパレスチナから密かに連れてきた収穫作業者と共生関係にあります。パレスチナからの収穫作業者はオリーブ畑で働くことを望んでいて、作業も得意で、ノウハウも持っています。タイやベドウィンからの労働者を雇うこともできますが、彼らはヨルダン川西岸のヘブロンから来る労働者に比べると、丈夫でも効率的でもなく、組織立ってもいません。
あの作品には数多くの物語が含まれていますが、心に響いたものがふたつ。ひとつは機械の振動で生じた土埃の塊で、もうひとつはマシンガンのような機械のノイズです。銃弾が響く音かのように、オリーブが銃に見えてくるのです。


Top: Thread Waxing Space Installation (2001), installation view, Thread Waxing Space, New York. Bottom: Madonna and Child (2011), installation view. Both: Courtesy Sigalit Landau.

ART iT 彫刻を通してあらゆることに取り組もうという意思が伝わってきます。塩のシャンデリアを使ったMoMAのインスタレーションが非常に精密だった一方で、コンテナの作品は非常に身体的です。ほかにも、綿菓子機を使った「Thread Waxing Space Installation」(2001)という巨大な作品もありますね。

SL 「Resident Alien I」から新作まで、20年間にわたる制作の話になってきましたね。「Thread Waxing Space Installation」では、変形について探究したのですが、身体の外見を扱うのではなく、栄養学のシステムや食料、摂食、地域社会における飢え、砂糖、マンハッタン、ソーホーのギャラリー地区の一角について取り組みました。実は、パリでバーバパパ(※フランスでは綿菓子という意味もある)の物語を見ているときに、素材としての砂糖がどれだけ繊細かを実感しました。身体にとてもいいものではありませんが、砂糖は湿気を含むとかさぶた状になり、膨らむと陶酔的な「ポップ」状態にもなります。ほかには、ソーホー地区の匂い、特に屋台のピーナッツやアーモンドの焼いた匂いは、作品に対してたくさんの連想をもたらしました。冬のニューヨークは、室内はとても暖かくTシャツで過ごせるのですが、窓を開けるとその向こうは気温が全然違います。とはいえ、砂糖はいい相棒でした。しかし、不幸な恋愛関係のように、いつかは別れなければいけないと覚悟していて、これが砂糖のこと、砂糖でイグルー(ドーム状の建物)を作ろうとしていたことについて言えることで、ひと冬を乗り切ることができないけれども、あの作品にはたくさんのメタファーが潜んでいました。当時は、何をしているのかと人に聞かれたとき、砂糖でイグルーを作り、それをサハラ砂漠に移すつもりだと答えていましたが、結局、イグルーはニューヨークのままで、いつもその4トンの重さでクレーター状に崩れていたので、無駄な話でしたが。とはいえ、理論上、砂漠のような場所なら、そのイグルーは崩れなかったと思っています。
あなたと話をしている内に気がついたのですが、結果的に私はその砂糖のイグルーを後にして、塩の待っている砂漠へと戻っていったわけです。常により大きな物語があり、人生を知る前に決断していくのです。
時々、こうして移動し続けることに悩まされることもあります。どうして大理石で授乳用クッション[「Madonna and Child」(2011)]を制作したのだろうかと。別に大理石でなにかを作りたかったのではありません。もはや遅かったかもしれないけれど、数年前に母親になることにしました。授乳クッションは初めて母親になるときにもらう一般的な贈りものです。クッションを腰に巻き付け、その上で赤ちゃんを休ませる。あなたは支えられつつ、支えている。本当は母親であることも、授乳することも素晴らしいと思っていますが、このヘンリー・ムーアの彫刻のようなものに囲まれるなんて、なかなか落ち着くことができません。成功に対するある種のフラストレーションも抱えていたのでしょう。女性であること、アーティストであること、イスラエル人であること、それ以外にもいろいろと。そういうこともあって、心地よくない授乳クッションを作ろうとしたのかもしれません。ひたすらに詰め込んで、型を取り、職人のもとへと送りました。自分自身でやることもできたけど、それに人生を費やすことはありませんでした。ルイス・ブルジョアと同じです。ブロンズでつくることもできたけれど、大理石とブロンズは正反対なので、作品が同じ意味を持つことはなかったでしょう。大理石は地球の一部です。妊娠すると、自分がまるで孵卵器か地球の一部であるかのように感じられ、なにかがあなたの中でどんどんと成長していく。その未知なる存在。やはり、大理石でなければなりませんでした。

ART iT 実践において、ファウンド・オブジェをありのままに提示することと、オブジェに付随する象徴的な意味を操作することの絶妙なバランスをどのように維持しているのでしょうか。

SL 大切なのは見ることですね。アートとは、見ることです。とはいえ、それだけではありません。連想に関わる数多くの引き出しを持っていますが、それは言葉や言語によるものです。ここには古代文化との繋がりがあるのではないかと考えているのですが。言葉のなかにあるもの、DNA。あなたも「見ている」、けれどもそれはたくさんのフィルター越しに。そして、それはあなたが見るものに影響を及ぼしているのです。

ART iT それでは、制作によって、そうしたフィルターを再加工しているのでしょうか。

SL ほかの人々がより明確に「見る」ために分節していく。整理整頓のように。この世界は混沌としていて、アーティストは外に出ていき、痛みや美、その両方を併せ持つものや矛盾を示します。それ故に人は感動するのです。アーティストが望んでいるものにもよりますが、私は人々に感じてほしいと思っています。表現主義的なアーティストでなければならない必要性はなく、自分がやっていることの中に、謙虚なもの、禁欲的なもの、受容できるものがあり、それを手に入れるためにこうして必死に制作しているのです。

シガリット・ランダウ|Sigalit Landau
1969年エルサレム生まれ。現在はテルアビブを拠点に活動している。パフォーマンスを用いて、故郷イスラエルの風景を変容させる彫刻、映像作品で知られる。90年代半ばより、イスラエル国内を中心に発表を続け、その後、ニューヨーク近代美術館(MoMA Projects)や国立ソフィア王妃芸術センター、ベルリンのクンストヴェルケ現代美術センター(KW)での個展、ドクメンタ10(1997年)、2011年には第54回ヴェネツィアビエンナーレ・イスラエル館で個展など数多くの国際展や企画展に参加している。日本国内では2001年に埼玉県立近代美術館で開催された『イスラエル美術の現在:新千年紀へのメッセージ』に参加、ヨコハマトリエンナーレ2011では「Cycle Spun」シリーズから映像作品「死視」と彫刻作品「Barbed Salt Lamps」の二作品を発表。2013年にはメゾンエルメスで個展『ウルの牡山羊』(2013年5月17日-8月18日)を開催し、「火と薪はあります」(2013年)と「茂みの中へ」(2013年)のふたつのインスタレーションを発表している。

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