サイモン・スターリング アーティストトーク

仮面劇のためのプロジェクト(ヒロシマ)

 


All: Project for a Masquerade (Hiroshima), 2010–11, mixed media (6 masks, 2 bronzes, 1 hat; color video with sound, converted from 16mm film to HD video, 25 min 46 sec), installation at the Hiroshima City Museum of Contemporary Art, 2011. Courtesy the artist and the Modern Institute/Toby Webster Ltd., Glasgow. Photo Keiichi Moto (CACTUS).

 

II. アーティストトーク
トーク/サイモン・スターリング

 

私は今回、広島市現代美術館の展覧会で発表する新作、「仮面劇のためのプロジェクト(ヒロシマ)」に2年近く取り組んできました。ヘンリー・ムーアというアーティストに関係する一連の作品に関するものでそこからスタートしました。私はムーアと広島市現代美術館は深い関係にあると理解しています。この美術館の外にある、ヘンリー・ムーアによる大きなアーチは美術館を象徴するような存在にもなっていますし、この建物が設計されたときにもひとつのアイディアとなっていると伺っています。

私は若いときにはヘンリー・ムーアが嫌いでした。というのは、どこに行っても彼の作品があるからです。彼は、イギリス政府が公式に支援をしたアーティストでありますし、世界中に彼の作品が溢れているので若いときにはヘンリー・ムーアが嫌いで自動的に反発していましたが、数年前からヘンリー・ムーアが果たした役割について考えるようになりました。彼はイギリス人のアーティストとして最初にグローバルに紹介されたアーティストで、世界中に作品が展示されたイギリス人としては最初のアーティストだと思います。そして彼が政治的に一体どのような関わりを持っていたのかということについても考えるようになりました。イギリスの体制とどのように関係していたのか、そして冷戦構造とどのような関わりがあったのか。ムーアの作品は私が出掛ける先々の至る所にあり、私自身の旅や活動と重ね合わせるようになりました。サイトスペシフィックな作品、作品がそのコンテクストとどう関わるかについて考えるためにはムーアはとても有用です。

 

 

広島市現代美術館学芸課長の神谷幸江さんが私に広島で展覧会をしないかという風に言ってくれたときに、私はそれはまるで贈り物のように感じました。私はずっとヘンリー・ムーアの研究をしてきましたし、それに繋がっていくと思ったのです。そして広島市現代美術館と聞いてすぐに思い浮かんだのは、この美術館で所蔵されているヘンリー・ムーアの作品のことでした。それと同じシリーズの作品がシカゴにもあります。シカゴは最初の原子炉が作られたところですが、そのモニュメントもヘンリー・ムーアが作っていて、広島のモニュメントとも関係のあるものです。

シカゴ大学は、原子炉の初成功からの25周年を祝うためにヘンリー・ムーアに何かモニュメントを作って欲しいという依頼をしました。1963年、シカゴ大学の人々は依頼のためにイングランドにあるヘンリー・ムーアのスタジオを訪れました。ちなみに、そのシカゴの原子炉を作ったのがエンリコ・フェルミです。ムーアはシカゴ大学からそのモニュメントを作って欲しいと言われたときには非常に奇妙な感覚を持ったと思います。彼は1950年代には、核兵器廃絶運動(CND)という団体の創立に関わっています。ですから頭の中では、なんで私がシカゴ大学のモニュメントを頼まれたんだろうか、などと色々思ったかもしれませんが、ムーアは非常にビジネス感覚が鋭い人でしたので、そのような依頼があるのならばプロジェクトをやろう、と引き受ける決心をしました。そしてシカゴ大学の委員会がムーアのスタジオに来たときにはそこにはひとつのマケット(彫刻のための雛形)がありました。彼はそのマケットを、依頼を受ける数ヶ月前に、先程のCNDの1963年のキャンペーンのポスターをヒントにして作っています。F.H.K.ヘンリオンがデザインした有名なポスターで、人間の頭蓋骨とキノコ雲を組み合わせたようなポスターです。それがこのドーム型に3本の脚がついている作品に発展しました。委員会は恐らくその起源には気付いていなかったでしょうけれど、非常に興味を持ちました。それで、ヘンリー・ムーアはこのマケットを基に大きな作品を作ることに決めました。

 

 

ムーアがそのマケットを作ったときにはその作品を「アトム・ピース[Atom Piece]」と呼んでいたのですが、シカゴから来た委員会は「piece」[部分、小片、この場合は作品]という言葉を同じ発音の「peace」[平和]と間違われないかと心配しました。言うまでもなく、原子爆弾を連想させる意味合いが生まれます。それで、何かもっとポジティブな、もっと肯定的な題名に変えてもらいたいとムーアに頼むわけです。シカゴの委員会が提案した「ニュークリア・エナジー[Nuclear Energy]」という題名をムーアは受け入れますが、ムーア個人はその作品を生涯「アトム・ピース」と呼び続けました。そのモニュメントのための小さな試作を作ったのですが、それが今回この展覧会にも出展されています。今でも「アトム・ピース」と呼ばれるその作品はムーアが1980年代の晩年にこの広島の美術館に売却しました。ここではもちろんシカゴとは全く違う意味合いを持つ作品となっています。美術館がその作品を購入したときにはシカゴの作品との関係がはっきりしていなかったため、後に論争を引き起こしたようなことを聞いています。その話がこの複雑な作品の出発点となったのです。

そしてムーアは、自分が作っていた「アトム・ピース」を——これはCND、核兵器廃絶運動というところから最初は始まっているのですが——CNDから離れたものにすることによって政治的な意味合いをなくすという意図もあって、マケットは既にできていたのですが、その横に象の頭蓋骨を置き、象の頭蓋骨を見ながらその雛形を作っているふりをして写真家に写真を撮らせています。そうすることで、これは核廃絶のものではないのだということを表してシカゴの委員会にとって受け入れやすいものにしたのです。だからこの彫刻自体が変装をしているというか、まるで仮面をかぶったような感じだということで、その「仮面」というヒントから仮面劇を連想しました。

 


下段・左から: 三条の吉次——金売商売人/ジェームズ・ボンド、烏帽子屋の妻/アンソニー・ブラント、烏帽子屋の亭主/ヘンリー・ムーア、宿の亭主/カーネル・サンダース、盗賊/オッドジョブ、牛若丸/アトム・ピース&ニュークリア・エナジー、熊坂長範/ジョセフ・ハーシュホン、盗賊/楯を持った兵士。画面外: 六波羅の早打/エンリコ・フェルミ。仮面はないが地謡はバック・オブ・ザ・ヤード・ボーイズが演じる

 

仮面劇といえば、日本では能が代表的なものではないでしょうか。私は色々な能をリサーチする中で、『烏帽子折』という演目に出会いました。この『烏帽子折』のストーリーが一種のアイデンティティの二重性に繋がると感じました。ヘンリー・ムーアの彫刻も過去から逃げ出して新しい生活の場に行ったように、『烏帽子折』の中に出てくる登場人物にも二重性があるというのでこの能を選んだわけです。そしてその能に出てくるキャストとして、ヘンリー・ムーアを中心に冷戦時代の様々な人物像を重ね合わせて人選をしました。そして見市泰男さんという、素晴らしい能面師の方が大阪にいるのですが、彼にこのような能面を作っていただきました。ここにある殆どのお面はこの見市さんが作ったものです。能面の言語体系やテクニックを使っていながらも、ヨーロッパの一種のカリカチュアや肖像といったものと併せている、奇妙なハイブリッドの仮面のキャスティングと言えると思います。

『烏帽子折』の中心的な人物は——これは私の冷戦バージョンの方ですが——ここにある「アトム・ピース」です。皆様方の政治的なスタンスによってこれは人間の頭蓋骨にも、象の頭蓋骨にも見えるかもしれません。『烏帽子折』には牛若丸という人物が出てきますが、その中心人物をこの「アトム・ピース」と重ね合わせています。牛若丸は源義朝の息子で、義朝が殺された後、鞍馬山に行かなければならなくなり、そこのお寺で過ごすようになります。しかしながら、牛若丸はそういった過去を置いて新しい人生を歩み出したいと考えました。そういったところを「アトム・ピース」と重ね合わせたわけです。牛若丸について行くのは金売りの吉次ですが、これは1964年の映画『007ゴールドフィンガー』に出てくるジェームズ・ボンドをあてています。イアン・フレミングの小説を基にしたこの映画で、ジェームズ・ボンドはオーリック・ゴールドフィンガーという悪党に近づくためにゴールドディーラーになりすますので、吉次はこのジェームズ・ボンドにしました。

 


下段・手前: 六波羅の早打/エンリコ・フェルミ

 

牛若丸が逃げたというので、鞍馬寺から牛若丸を探す早打というメッセンジャーが来るわけですが、このメッセンジャーにはエンリコ・フェルミをあてました。メッセンジャーが来て自分が探されていることを知った牛若丸は、なんとかそこから逃れるために変装をしないといけないと考えます。そこで、烏帽子屋に行って烏帽子を作ってもらい、それをかぶって潜伏することになります。その左折りの烏帽子というのは源氏方というか、東の国の人がかぶるものだったので、そのような烏帽子を作ってもらうように頼みます。烏帽子屋は高貴な少年のために烏帽子を作り、それを渡す。そして代わりに少年は烏帽子屋に刀を渡す、といったストーリーになっています。烏帽子屋がその少年の二重性、変装に力を貸している、というわけで烏帽子屋にはヘンリー・ムーアをあてました。そしてそのお礼に烏帽子屋に渡した刀ですが、烏帽子屋がそれを自分の妻に見せると、妻は突然泣き出してしまいます。この妻には、それまでに秘密の人生があったということがそこで暴露されるわけです。この烏帽子屋の妻は、元は牛若丸の父親に仕えた人で、牛若丸の父親からこの刀を預かって、牛若丸の母親に渡した人だったのです。そして、この妻の役ですが、その妻の秘密の人生に掛けてアンソニー・ブラントにしました。アンソニー・ブラントは美術評論家ですが、当時のソ連のスパイでもあったという二重性があるのです。なぜ男性かと思われるかもしれませんが、能は原則として男性によって演じられるので、女性も男性によって演じられます。

このストーリーのクライマックスですが、吉次とその兄弟と牛若の三人が宿に泊まると、そこの亭主から熊坂という日和見主義の盗賊に彼らが持ち運んでいる金が狙われていると忠告されます。その宿の亭主にはカーネル・サンダースをあてています。これは実は見市さんが住む大阪の、阪神タイガースの球場の外に立っていたカーネル・サンダース像を基にしています。このカーネル・サンダースはランディ・バースという野球選手に少し似ているがために四半世紀を川の中で過ごしました。バースは1980年代に阪神タイガースに入団するために来日して、殆ど単独で日本シリーズを優勝に導きました。——あるいは少なくとも、そういう話です。そのとき、勝利を祝うファンが球場の外のケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダース像を盗んで道頓堀川に投げ込みました。その二十数年後に川から引き上げられたので、このように緑青づけされた、乱れた外見になっています。熊坂の仮面はハーシュホン博物館で知られるアメリカ人の企業家でコレクターのジョセフ・ハーシュホンの肖像が基になっています。非常に精力的なコレクターで、ヘンリー・ムーアの作品も50点ほど所蔵していましたが、その財産は冷戦時代のウラン鉱業で築いたのです。彼は「私の名前は機会[opportunity]だ」と宣言していて、機会さえあれば金儲けをしてその金で作品を買うという、手に負えないほどの資本主義者でした。

 

サイモン・スターリングによるアーティストトークより一部抜粋して編集。2011年1月22日、広島市現代美術館にて。
協力: 広島市現代美術館、小泉直子(通訳)

 

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広島市現代美術館 サイモン・スターリング展 特設ウェブサイト
http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/simon/index.html

 

 


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仮面劇のためのプロジェクト(ヒロシマ)
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第15号 2011年 回顧

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