マーク・マンダース インタビュー(3)

〈石脚〉のみがよすがとなる
インタビュー / アンドリュー・マークル
Ⅰ. Ⅱ.


Perspective Study (2012-14), offset print and acrylic on paper, wood, chicken wire, 91.5 x 60 x 4 cm. Installation view at Gallery Koyanagi, Tokyo, 2015. All images: Photo Keizo Kioku, © Mark Manders / Courtesy Zeno X Gallery, Antwerp, and Gallery Koyanagi, Tokyo.

III.

ART iT あなたの作品には「消失点」が頻繁に使われていますね。昨日、展示空間を訪れたとき、眼の端に見える範囲も含めて、全作品を一度に見渡せる場所が一カ所あることに気がつきました。

MM そう。そういうことが本当に好きで、ここでもそういう風に展示しています。ほぼ典型的なやり方で展示していますが、あらゆるものが自分の周りにあり、それがある一点でひとつになるところが好きです。

ART iT 普通、消失点とは地平線を表すものとして考えられますが、あなたにとって、それは主体でもあるということでしょうか。

MM はい。消失点とは自分がいる位置のことです。「Perspective Study」と同じです。作品のここの新聞紙がフラットではなく、後ろに反り返っているのがわかりますか。表面はまるで私たちの間に垂れ下がる皮膜のようで、その背後に空間があるという事実が好きなのです。


Unfired Clay Head (2014), painted bronze, wood, 12 x 13.6 x 20.5 cm.

ART iT 同じように、あなたは人物像に木片を突き刺したり、物体の隙間に不完全な顔部を押し込んだりと、人物像の欠損部を仄めかすために「破壊(defacement)」という行為を行なっているのではないかと思いました。

MM そうですね。これらの作品はほとんど空間を必要としないところが好きです。そこから生み出される緊張感が好きですね。それは穴をあけたり、なにかを切り出したりするような行為にも繋がっています。おそらく、どこか奇妙に聞こえるかもしれませんが、初めて木片を使って頭部をつくったとき、私は複数の木片を粘土の塊といっしょにテーブルの上に置いて、「さて、これで何がつくれるだろう」と考えました。そこで垂直に立てた板の隙間にその頭部を挟み込むという考えを思いつき、少量の粘土で頭部の欠片をつくることで、こうした垂直の構図がつくりだされ、さまざまな音を含む和音を表すようなものへと変形していったのです。こうして、いかに形が言語となり得るか、垂直の集まりが言語となり得るかといったことに私はますます傾倒していったのだと思います。

ART iT 西洋言語の場合、統語論が詩を鑑賞する上で大きな位置を占めますが、漢詩の場合、言語的特徴によって、あらゆることがはるかに圧縮されています。あなたの作品の詩を考えてみると、精巧な統語論とは対照的に、非常に具体的な方法で物事を一体化する漢詩のことを思い浮かべました。事実、私にとって、あなたの作品は(表意文字である)漢字によく似ています。その文字にさまざまな内容を含む物語が詰まっているにもかかわらず、それは個別なコンセプトとして読解することもできます。

MM 興味深いですね。漢詩は自分の作品に関係しているのではないかと思っていて、もっと勉強してみたいです。表意文字に関するあなたの意見はよくわかります。19、20歳の頃だと思いますが、バスに長時間乗っていなければならないときがあり、そこで私は頭の中で持ち運べるような作品をつくれないだろうかと思案していました。作品はかなりコンパクトになり得るので、上手くいったと思います。


Figure on Chair (2011-13), oil paint and acrylic on bronze, wood, offset print on paper, 70 x 165 x 70 cm, installation view, with Dry Clay Figure (2014) in background, at Gallery Koyanagi, Tokyo, 2015.

ART iT もしかしたら、この効果により、作品がそのスケールの急激な変化に対応しているのではないでしょうか。椅子を支えにした人物像が低い位置にあるので、その隣に立って人物像を見下ろしてみると、小さいという感覚を得ると思いますが、仮に隣に寝そべってみたとしたら、実際はかなり大きいことに気づくのではないでしょうか。

MM それは不思議な効果で、制作する上で非常に重要なものです。その水平性や垂直性が認識に影響しますから。スケールや水平を利用する彫刻家、まるで魔術師かのようです。

ART iT 対抗論理は現代美術の発展における重要な要素として、時代の伝統に抗った20世紀初頭のアヴァンギャルドとともに始まります。あなたがこれまでに制作を進めてくる過程で、自分がなにかに対抗しているという感覚を持ったことはありますか。

MM 私の場合、「建物としてのセルフポートレイト」というアイディアとともに、魔法みたいなことが起こったのだと思っています。最初は、アーティストになんてなれると思っていなかったので、両親も含めて他人に「私はアーティストです」とは怖くて言えませんでした。自分をアーティストだと名乗るのはとても奇妙なことです。ちょうどパレ・ド・トーキョーで『Le Bord des Mondes [At the Edge of the Worlds]』*1 という、アーティストではないが、それぞれアートとして理解し得るものを制作した人々に関する素晴らしい展覧会を観ました。本当に面白い展覧会でしたね。例えば、参加者には日本人科学者の石黒浩がいて、彼は人間そっくりのロボットをつくっています。

ART iT あなたは以前、これまでに触発されたアーティストとして、ドナルド・ジャッドを挙げていましたね。

MM ジャッドの興味深いところは、それは(ジョセフ・)コスースもそうですが、作品に終着点がないところです。素晴らしいことに、彼らは各々の方法で制作し、それがより深く考えていくための基盤となっているのです。非個性的なものや、遠く離れているようで同時に近くに存在するものを制作することに興味はありますが、必ず誰かが決断するわけで、完全に非個性的なものをつくるのは不可能です。そういう意味で、私の作品は非常に個人的に見えるかもしれませんが、ジャッドやコスースと同じ問題を扱っているわけです。

ART iT 作品を展示する理想的な場所は「建物としてのセルフポートレイト」だとおっしゃっていますが、そうした作品をギャラリーや美術館で展示することについてはどのように考えていますか。

MM 作品はどちらの場所にも同時に存在します。私は駅や店舗のような場所でも展示できますよ。それはなにか私を惹きつけるものです。そうした作品は非常にコンパクトだから、世界中どこにでも設置できるし、どこであれ機能しますね。


Unfired Clay Head on Wooden Floor (2015), painted bronze, wood, glass, 74.8 x 88.6 x 65.3 cm.

ART iT 輸送用パレットみたいな寄せ木細工の床に横たわる頭部がガラスケースに収められたこの作品は、現実の横断面や3次元写真を示唆すると同時に、文字通り陳列ケースであれ、美術館や輸送コンテナの概念であれ、「容器」という概念を喚起するものです。あのガラスケースは、時間を逃れたものを提示しているにもかかわらず、そこにはなにか一過性のもの、ある場所から別の場所へと海を渡り、構築されるにいたったものが収められています。

MM とはいえ、まさにここに行為を読み取るわけです。誰かがこの事物をつくり、ここに置き、床にワイヤーで留めた。それから黄色い断片を顔部に埋め込み、もどかしくもそれは真っすぐに埋め込まれていないけれど、傾いていること、それがすごく気に入っています。極度の緊張感や暴力性のようなものを秘めているけれど、同時に非常に穏やかなのがいいですね。この垂直の黄色い線、これは非常に形式的なものにも見えてきます。

ART iT この作品は、なぜガラスケースでなければならなかったのでしょうか。

MM もしガラスケースでなければ、あなたは立ち止まらなかったでしょう。あのガラスは、中の事物を実際以上に傷つきやすいものに見せています。実際、あれはブロンズ製で、上に乗っても壊れないくらい頑丈です。つまり、あれが傷つきやすそうに見えるのはガラスがあるからなのです。

ART iT スケールや縮尺といった考えは動きに関係していると思っています。縮尺88%の彫刻を制作することで、作品に観客との動的な関係をつくり、見るものと見られるものの間に動的な距離をつくりだす。そして、それは事物をよりはっきりと見ることに関係しているのでしょうか。

MM どちらとも言えますね。ドクメンタ11のとき、縮尺88%の巨大なインスタレーションを制作しました。この展覧会の実際の出来事に関する記録や写真をたくさん展示されそうだとわかっていたので、それに応答してみたら面白いだろうと考えていました。どこか別の場所に存在するものの複製をつくり、88%に縮小したさまざまな部屋をつくろうと決めていました。そう、それらの部屋は実際の部屋ではなく、部屋の複製です。また、メンタルイメージよりも実際の事物が小さく見えるので、自分自身が少しだけ大きくなったように感じるでしょう。身体的に考えると、88%に縮小されたものの前に立つのはかなり面白い。ちょっとだけ背が高くなったみたいで、なんともいいがたく、人ではないなにかになるのです。


Installation view of solo exhibition by Mark Manders at Gallery Koyanagi, Tokyo, 2015.

ART iT 一方で、ご自身の出版社ローマ・パブリケーションズ*2 を通じて、10万部から15万部を印刷した新聞のプロジェクトや、1ページにつき5つの関連するドイツ語の単語を印刷した「32544 Assoziative Wortkörper」という108巻もある出版物などを制作していますね。もちろん、それらは完全に異なるメディアなのですが、彫刻におけるスケールというアイディアと、印刷物の大量生産との間になんらかの関係性はあるのでしょうか。

MM 新聞のプロジェクトに関して、私は5つの関連するものを見つけるためだけに町を訪れ、そこに住む人とはまったく違う視点から町を見て、5つの関連するものだけで新聞をつくる目標を立てました。しかし、新聞をつくるのであれば、大量の部数を刷らねばいけません。全住民が手に入れられるように家から家へと拡散したのがとても興味深く、まるで、公共事業のようでした。それは小さな町でしたが、大きな都市でもつくれたらすばらしいですね。面白いことに、あの新聞は私の作品制作において機能するだけでなく、この世界に対しても機能しています。私にとって、あの新聞もまた彫刻です。ひとつのオブジェであり、椅子なんかと同じく、人間がつくりだすオブジェですね。


*1 『Le Bord des Mondes』パレ・ド・トーキョー、2015年2月18日-2015年5月17日

*2 ローマ・パブリケーションズ[Roma Publications]:グラフィックデザイナーのロジャー・ウィレムスと、アーティストのマーク・マンダース、マルク・ナフトザームが1988年に設立した独立系出版社。

マーク・マンダース|Mark Manders
1968年フォルケル(オランダ)生まれ。現在はロンセ(ベルギー)とアーネム(オランダ)を拠点に制作活動を行なう。86年に「建物としてのセルフポートレイト」という認識を得た瞬間のもと、一貫した制作を続ける。詩や言語への関心に基づき、彫刻や家具、日用品や建築部材などを用いて、抽象的かつ個人的な思考や感情を視覚化したインスタレーションを発表する。これまでに、サンパウロ・ビエンナーレ(1998)やドクメンタ11(2002)をはじめ数多くの国際展や企画展に参加。2000年代後半にはハノーバーやゲント、チューリッヒを自身初の回顧展が巡回した。2013年には第55回ヴェネツィア・ビエンナーレにオランダ館代表で参加。また、日本国内では『テリトリー:オランダの現代美術』(東京オペラシティアートギャラリー、2000)や『人間は自由なんだから:ゲント現代美術館コレクションより』(金沢21世紀美術館、2006)といった企画展に出品している。
今回、ギャラリー小柳では、ひび割れ朽ちかけた粘土彫刻に見えるブロンズ像やマンダースによる偽の新聞を用いた平面作品「Perspective Study」を展示空間にあわせて構成した。

マーク・マンダース
2015年4月14日(火)-6月13日(土)
ギャラリー小柳
http://www.gallerykoyanagi.com/

Copyrighted Image