リー・キット インタビュー

ザ・グレート・プリテンダー
インタビュー / アンドリュー・マークル
翻訳:ベンジャー桂|文責、協力:シュウゴアーツ
※ 本インタビューは、シュウゴアーツ独自企画の長編インタビューからの一部抜粋掲載となる。


Installation view, “Lee Kit: Not Untitled” at ShugoArts, Tokyo, 2017. Photo Shigeo Muto. All images: Unless otherwise noted © Lee Kit, courtesy ShugoArts, Tokyo.

アンドリュー・マークル(以下、AM) 芸術と政治についてはどのように考えていますか?

リー・キット(以下、LK) 僕は今ではもう民主主義の存在を信じていないんだ。そもそも現実世界において機能するとは到底思えない。だから、ものすごく怒りを覚えてしまう。だってそうでしょう? 僕をはじめ、香港の人たちはまさに「民主主義」のために今まで戦ってきたのだから。ただね、「時すでに遅し」だとしても、僕たちには民主主義以外の選択肢は残されていないということも事実で。こういう具合に、時々かなり悲観的になっている自分がいるんだ。そういうときは思わず「誰かを殺すべきだろうか?」って自分に問いかけてしまう。まぁ、できないことはないだろうけど、それが何かの解決になるとも思えない。要するに、悲観的であるということは、同時に楽観性を余儀なくされるということなんだ。そうでなければ、例え他者を殺さなくても、僕は自分自身の存在を抹消しようとするだろうね。

このように、偶然にも芸術と政治とのあいだである種の結びつきが生まれる。僕は何か新しいことに取り組むことはできるけど、それを実行する前に誰かに他言することはできない。だから最終的には「自分に何かできるか」、もしくは「自分は何をすべきか」といった課題に直面してしまうんだ。

AM 1989年6月4日はあなたにとって何を意味する日なのでしょうか?

LK 当時の香港はとても平和で、いわば黄金期とも言える時代だった。しかし同時に、香港が中国に返還されることに伴い、中国の共産党政権へ の懸念も高まっていた。香港の人々が天安門事件にあれほどに強い反応を示したのも、このような懸念が一因となっているのかもしれない。

当時11歳だった僕は両親と一緒に自宅でテレビ中継を観ていた。それは真夜中を過ぎた頃合いだったと思うけど、突然テレビの画面が真っ黒になったんだ。広場を照らすライトの電源が全て切られ、その後「ドスン、ドスン、ドスン」という音が響いたのを覚えている。装甲車が入ってきたかと思うと、発砲音が鳴り響いた。僕の耳はその音を鮮明に捉えていた。実際に誰かが殺される場面を目撃しなかったものの、ある種感覚的に察知していた。この日の経験は僕の心を強く揺さぶった 。もはや懸念や恐怖の問題ではなかったんだ。

それ以来世界各地では色々と厄介なことが起こっているし、 この事件が唯一の虐殺事件でないことはもちろん周知の事実だ。ただ、 この日は後に僕にとって非常に重要な意味を持つ日となった。事件当時はまだほんの子供だった僕も、何年かして地元のギャングとのいざこざに巻き込まれた時期があったんだ。彼らはお金のために人を殺したし、理由が何であっても人を死に至らしめることを躊躇しなかった。でも、このような殺しはまた別の話だ。彼らは権利や正義のために戦っているわけではなかったから。まさにこの時、僕は6月4日という日が自分にいかに影響を与えたかを理解したんだ。事件そのものだけでなく、それは僕に何の為に戦うべきかを示してくれた日だった。いや、「戦う」というのは適切な表現じゃないかもしれない。それは僕に「何かをすべきだ」と示唆した日だった 。

当時僕らは自分たちを中国人として認識していた。でも、今では「中国人ではなく、香港人である」と明確に区別している。言い換えるのであれば、香港が植民地化されたことにより、僕は自分を半分イギリス人で半分中国人であるとしている。中国の伝統的な価値観を共有しつつも、僕たちは中国政府の下では中国人とみなされなかった。

AM 中国政府は民族主義を引き合いに出すことで民主化運動を疎外しようとしました。抗議をするものは「西洋的な価値観」を奨励していると見なしたのです。

LK 中国政府がよく使う手だね。いわゆる戦略というか。「あいつらは間違っている。お前は間違っている。あの人は間違っている。みんな間違っている」ってね。たとえ西洋的な価値観が間違っているとしても、だからといって政府が正しいわけじゃない。彼らは人々の人権を奪っている。要するに、思想が後退しているんだよ。僕たちには前進あるのみなのに。過去が駄目だったとしたら、それはそれで、僕たちがそこに戻らなくてはいけない理由にはならない。僕たちはあの頃に戻っちゃいけないんだ。昔も今も、ある種の洗脳が行われていると言っても過言じゃない。政府は他の人がいかに間違っているかを強調し続けることで中国の人々に影響を与えようとしているけど、そんなの嘘っぱちさ。でも、これは中国に限ったことじゃない。トルコでも起こっていることだし、アメリカでも起こっている。だからドナルド・トランプ大統領なんてものが誕生したんだ。

香港に限っていうのであれば、都市として若すぎることが一つの理由として上げられる。人々は2014年の香港反政府デモ(雨傘運動)を誇りに思いつつも、実際には何も起こらなかった。ましてや、命を落とす人は誰一人いなかった。革命を人生に例えるのであれば、香港なんてまだ歩き方を覚えたばかりの赤ん坊のようなもの。今まで語られてきたものはある種全てが嘘であると言ってもいい。「僕たちは明るい未来を手に入れることができる、民主主義のために戦うことができる」って言うけど、そんなの全部偽りさ。自分たちに嘘をついているだけなんだ。

民主主義という思想は独特な条件に基づいている。民主主義は私達に互いを愛すること、皆が公平であること、平和を尊重すること、そして理性的であることを強要する。それでも、今の世の中において、理性的であることはもはや理性を欠いていると言えるかもしれない。現在EU で起こっていることもまさにそうだよね。「 理性的でありたいなら勝手にそうしろ」ってね。EUの難民対策を必ずしも批判しているわけじゃないけど、理性的であることで物事がいつも上手くいくという保証はないと思うんだ。時既に遅いんだけどね。


“Lee Kit: Not Untitled” at ShugoArts, Tokyo, 2017. Photo Shigeo Muto.

AM ご自身で何か政治的な活動はしていますか?

LK 本当はもっと色々やった方が良いと思うけど、やっぱり自分には向いていないんだよね。例えば、立法評議会の選挙に立候補しても良いと思っているし、政府事業にも参加しても良いと思っている。それでも、僕は本来そういうことができる人間ではないんだ。先ず、感情をコントロールすることができない。加えて、大勢の前で話すのも苦手だ。そう考えると、自分は裏方に徹するのが性に合っているのかなって。そういうことだから、一時期はNGOを立上げようと思ったんだ。芸術のためではなく、お金や社会資本のような資源を再配分するためのね。どうやったらそのような団体を立上げることができるか、本当に真剣に考えていたんだ。現代アート業界に身を置く僕は裕福な人と出会う機会が多々ある。別にそういう人を批判しているわけじゃないよ。富を有することは悪いことではないからね。そういう人をいかに利用するかだよね。でも、やっぱり僕は人の上に立つ器ではない。NGOの創設者や運営者になれば、物事はさらに複雑化してしまう。

そんなある日、シャンタル・ウォンに一緒にアートスペースを運営しないかって声を掛けられたんだ。僕はその時「やりたい」って即答したんだけどね。特にアートスペースを作りたいわけでもなかったし、実のところそのアイディア自体には賛同していない。それでも、NGOのことを考えると、この機会を逃す手はないなと思って。僕はアートスペースを使って様々なリソースの再分配を試みることにした。特に資金調達のための申請などはしていなくて、その代わりに個人のコレクターや組織的影響力を持っている人、時には政権関係者などに支援を求めた。彼らの資源がいかに自分たちだけのものでは無いということを納得させることが重要。資金を得ても、それをどのように使っているかを報告する義務もなくて。例えば、香港の難民達の支援に使っても、詳細を資金提供者に伝えなくてもいいんだ。教えたとしてもなんてことはない。「難民達に英語を教えるためのプログラムを運営しているんだ」、「へぇ、それは素晴らしい」って具合にね。そういう細かいことはどうだっていい。少なくとも、自分たちが提供した資源が何か違うことをするために活用されているということを伝えるだけでいいんだ。僕は全ての物事に適応する方程式を持っているんだけど、そこでは「1+1=2」ではなくて、2以上の何かを生み出さないといけない。「1+1」が3、4、5になるといった具合にね。それがアートというものだよね。

AM アーティストはお金をもらい、既存のインフラに欠けているものを作ることで、芸術の手段化に対抗することができると?

LK そうだね。これが僕がアートスペースを始めた理由の一つなんだ。香港在住のアーティストでM+やPara Siteなどの美術機関を「まだまだ努力が足りない」って批判する人が多いけど、そういうのってなんだか腹が立つんだ。「問題があると思うのなら、自分で何とかしろよ」ってね。行動を起こさずに文句ばかり言ってないで、何か新しいことを始めればいいのにって思うんだ。わだかまりがあるなら、そういう人たちの資源を逆に利用してしまえばいい。それと、アートフェアについて不平不満をこぼす人がいるよね。アートフェアはアートフェアであって、それはそれでその場を上手く活用すれば良いと思う。そこは人と出会う場所であると同時に、強い意思とちゃんとしたテクニックがあれば、誰かに力になってもらえるように説得することもできる。僕たちはみんなある意味では偽善者であるかもしれないけれど、最高の偽り者になることが出来るんだ。

AM 「トラドゥットーレ、トラディトーレ(翻訳者は裏切り者)」。アーティストもある意味では裏切り者かもしれないですね。彼らはお金をもらっては、それを新たなものへと変換するのだから。

LK 僕たちアーティストはそのための術をいくつか持っている。例えば、ギャラリーを通じてお金を稼ぐことができるし、アートフェアの会場でギャラリーのネットワークを活用することもできる。さらに、政府から資金を調達することも可能だ。僕たちには色々なことができて、技術者、作業者、 コレクター、作家など、ありとあらゆる人にアプローチすることができるんだ。このように信じられないほど幅広く、多種多様な業種の人たちとコネクションを作ることができるのなら、自分たちの立場を活かさない手はないよね。僕たち自身がアーティストとしてある種の完成されたリソースなんだ。芸術とはまさにそういうものだからね。例えば、ここにお皿を置いたとして、文脈を変えるだけで、それを芸術へと変換することができる。あるアーティストはその皿を割って彫刻に変えてしまうかもしれない。「変換」という行為には様々な度合いやテクニックがある。こういう言い方をするととても簡単なことに聞こえてしまうかもしれないけど、現在活動しているアーティストでこの事実を真に理解している、もしくは許容している人は10%にも至らないと思う。みんなスターになりたいんだ。脚光を浴びたい。称賛されたい。マドンナ、マイケル・ジャクソン、プリンスのようになりたいと思っている。僕からすれば、それはただの自己中心的な気持ちの現れだ。僕はそうはありたくはない。それでなくても、もうすでに十分自分勝手な人間だからさ。

AM お金を何かに変えるのは容易いことでも、人を変えるのはとても難しいことかと。

LK メディアを通じて伝えられる民主主義は、ある種の洗脳のようだと思う。そう、それこそ中国で起こっていることとさほど変わりない。でも、芸術には人を変える力がある。少なくとも、僕はずっとそうであると信じているね。たとえ、それがただひとりの人間を変えることであったとしても。もし万人を洗脳するか、二人の人間を変えるかのどちらかという選択であれば、僕は絶対に後者を選ぶ。僕の芸術のみで彼らの心を開くのではなくて、そこに何か別の要因、そう、その人たち自身が用いる何かによって変化を促す。それがまた他の人々に影響を与え、そこから新たな未来の可能性が見えてくる。

ポリティカルアートとは何かを考える時、それは実際には政治的に芸術を作ったり、発表したりすることを意味しているんだ。それでも、人々は未だにこの「ポリティカルアート」という言葉の罠に陥ってしまっている。「政治的な作品を作っているから、自分自身も政治的である」もしくは「自分は政治的な人間だから、政治的な作品を作る」といったように。そんなのは馬鹿げている。「政治的である」ということは、芸術作品を政治的に作ることや何かを政治的に行うことであると僕は思っているんだ。「政治的」はあくまでも行為や手段を指すものであって、形式そのものではないんだ。


Both: Installation view, “Lee Kit: You (you),” the Hong Kong Pavilion at the 55th Venice Biennale, 2013. Photo David Levine.

AM ハンナ・アーレントは自身の著書『革命について』の中でアメリカとフランスで起きた革命の違いを比較しています。奴隷制度を導入していたにも関わらず、比較的平等だったアメリカ人は自由な社会を作り上げることに力を注ぐことができた。一方、社会的にも階級制が定着しているフランスでは、政治的自由を確立するという動向から離れ、生きる為に必要な生活必需品を人々に提供することに注意を向けなければならなかった。不平等な条件下におかれた人々は本音や感情を基に票を投じるということです。

LK いわゆるポピュリストになるということだね。大衆に訴えることはとても簡単なことだ。自分の心の声に耳を傾ける必要はなくて、ただ、自分の本音や欲望に従えばいい。アートシーンにおいては、本音というよりも欲望という意識の方が強く根付いているかもしれない。そこには、アーティストやコレクターだけでなく、携わるすべての人の欲求を継続的にかき立てる仕組みのようなものが存在するんだ。「あなたにはより明るい未来が待っている」って。ある意味、ものすごく時代遅れな考えだけどね。「懸命に働けば豊かになり、社会的地位を向上させ、階級の壁をも乗り越えられる」と謳った、数百年前のイギリス人みたいだ。

AM 今改めてこの問題を議論するとすれば、明るい未来が必ず保証されていないということは明らかです。それでも、不可能にも思えるような可能性に賭けていたからこそ、雨傘革命はアジア、さらには世界中において民主主義を促すきっかけとなったのだと思います。

LK そうだね。指導者も計略もなかったからね。それはただ起こった。雨傘革命があれ程にも大規模な運動に発展したのは、単に警察の対応が誤っていたからだと思う。彼らはデモ隊に催涙ガスを投げつけ、それに人々が反撃した。あまり綿密に計画された革命とは到底言えない。あるいは、革命とすら呼べるに値しないかもしれない。そもそも、あれば本当に革命だったのだろうか? でも、そんなことはどうでもいい。もっと重要な部分に焦点を当てると、あれは一つの手本だったんだ。一見そうでないように見えても、実際にはそうだった。だからこそ、アジアの他地域の革命の模範となり得るのかもしれない。

ただ、雨傘革命をダメにしてしまったのは香港の人々だと僕は思う。自分たちで全てを水の泡にしてしまったんだ。最終段階では、いよいよ激しい衝突の可能性が示唆された。でも、まさにそのタイミングで いわゆるリーダー的人物が「撤退」の指示を出してしまった。撤退?なんで? やっと政府が運動を脅威を感じ始めたときに限ってなぜ撤退しなければならないのか? 「もう勝ったも同然。人々の目を覚ますことができた!」って。それは違うでしょう。僕たちはただ人の目を現状に向けさせるために革命を起こしているんじゃない。何かを確実に手に入れる為に戦っているんだ。でも、撤退の発言をもって人々は戦うことをやめてしまった。誰も命を落としたくはなかったんだ。怪我をしたくなかったというか、まぁ、最初からそれを恐れている人はさほどいなかったようだけど。だから、革命は突如終結を迎えてしまったんだ。世界中を駆け巡るビッグニュースとなったし、僕もあらゆるところでそれを目にした。

だから雨傘革命は一つの手本であり、同時にそうではないと思っている。芸術でも同じことが言えるね。アートに手本なんてない。成立すれば成立するし、そこには厳密な手本や形式はないんだ。上手く成立していれば、それは新しいといえる。これがまさしく、レディメイドの概念なんだ。非常に単純なことなんだけど、香港や世界の政治情勢をレディメイドの観点から捉えると、そこにはもはや絶望的な状況が広がっていると言っても過言ではない。だって、人々は依然としてモダニズムや印象派といった、古い様式に今でも固執し続けているのだから。「以前にはこれが最適だった!」とは言っても、現在ではそうもいかない。今の僕たちにはそれ以上のものが求められているし、従来以上のものを作り出さなければならない。実際には新たなものを創造する必要もない。すでにあるものを活用することだってできるんだ。

AM 政治は純粋に倫理的なものではありません。政治は矛盾を孕んでいる。イギリスのEU離脱に関する様々な不平不満は、かなり利己的であると思います。

LK そうだね。ヨーロッパの恩恵を受ける権利があるから離脱に反対するという人がいる。でも、僕はそういう声を疑問視する。だって、将来的には恩恵とか利益だけの問題ではないでしょう? 子供たちの将来に関わることだから? じゃあ、賛成する人は子供のことを真剣に考えていないのだろうか? そんなわけない。それは単なる傲慢だし、ろくでもない考え方だ。だから僕はこういうことは信じないんだ。

AM では、あなたにとって政治の基本的な水準とはどのようなものなのでしょうか?

LK 一つ言えるとしたら、僕にとって政治とは避けることができないものであるということ。政治がどこにでも存在するとは言わないよ。だって、それってまるで「誰しもがアーティストになれる」って言っているようなものじゃない? 僕はその考えに関しては否定的だ。アーティストはアーティストであって、それ以外の何者でもない。だから、政治とはありとあらゆる場所に浸透しているものではないけれど、避けて通ることができないものなんだ。

現在、世界は最悪の状況に陥っている。僕たちは着実に第三次世界大戦へと歩み出している。それはごく最近のことではなくて、すでに数年前から始まっている。以前に台湾の友人達と呑みに行った時にこのことについて話をしたんだ。彼らは「誰も宣言しなければ、第三次世界大戦なんてありえないだろう?」と言った。宣言?  まるで何かのパーティーでも開くかのように宣言って言うけれど、戦争なんて宣言して始まるものじゃない。始まってからそれが初めて事実として受け止められるんだ。そして今、ISの問題やアメリカとロシアによるシリアの爆撃などを見ていると、僕は悲観的にならずにはいられない。

だから、政治の基本的な水準を達成するのは実際すでに難しくなっている。世界半数の人々は常に平和な生活を送ることができるけれど、その比率が上がることはない。ヨーロッパでもそれは実現されることはなかった。理想郷を実現することなんて不可能なんだ。そして今、世界は徐々に後退を始めている。

AM あえて行動を起こさないことを一種の抗議活動とする人がいますが、これに関してはどう思いますか?

LK 僕が何もしない時は単に何もしたくないからだ。ひとりの人間として、時には休息も必要だと思っている。要するに、ノン・アクション(非行動)という名の実践だね。

僕は自分の作品において、この「非行動」という行為を拡大したり、延長したり、自分自身が物事の詳細を見極めるために追究することがある。細部まで目を凝らし、何か見つけるとそこだけ切り取って更に追究を重ねる。それって果たして非行動的なことなんだろうか? 主題としては非行動的と捉えることができるかもしれないけれど、同時にそれは僕の日常生活の一環でもあるんだ。


Above: Something You Can’t Leave Behind (2017), installation view, Taragaun Museum, Kathmandu, as part of the Kathmandu Triennale 2017. Below: Installation view, “Lee Kit: A small sound in your head,” SMAK, Gent, 2017.

AM こういうところにあなたのデュシャン的な感性が現れる。実際のところ、デュシャンは何年も非アーティストであり続けました。

LK 言いたいことはわかるけど、僕たちのアプローチは異なっていると思う。もちろん、他の多くの学生がそうであるように、僕も若い頃はデュシャンの影響を受けた。でも、彼は僕よりもずっと賢い人間だ。僕にとってのレディメイド・オブジェクト(既製品)はまさしく、それそのものなんだ。例えば、僕がここに皿を置き、それをアートですといったとしよう。でもそれは、もっとましな見せ方を思いつかなかっただけのことに過ぎない。皿を絵画として描くことは出来るけれど、陽だまりの中に置かれた時の美しさをいかに表現できるだろうか? 最善策として、そこに皿を置いて陽の光が当たるのを単に待つことができる。もしくは、その光景を写真に収めたっていい。そこに 後ろ盾となるコンセプトやアイディアはない。ただ単により良い表現方法が考えられなかったら。僕は何においても時間をかけないと気が済まない性分で。関係性を築くのと同じようなものだね。関係を築くのに時間が必要であれば、それ相応の時間を費やすしかない。

AM あなたの「何事も起こらなかった 」という言葉も、デュシャン的な発想のように思います。

LK 僕は単にふりをしているんだ。何事もなかったふりをね。それが僕の夢なんだ。僕には自分の選んだ場所で平和な生活を送る権利がある。それは僕に限ったことではない。誰しもその権利を持っているし、だから何事もないようにしている。でも、そんなことはもちろん不可能だ。なぜなら、政治や必然性といった要素が介入してくるから。じゃあ、僕は何かすべきなのだろうか? 実際、僕は何かをしている。でも、そのために自分の夢を諦めてしまわなくてはいけないのだろうか? 何事もなかったかのように? 僕だってそんなことは出来ない。だから、何事もなかったかのようなふりをするのさ。

AM 何事も無い時にも常に何かが起こっている。

LK 例えば、僕はかなり色々な場所に旅をする。そういう時、いつも自分を騙して楽しむ方法を見出そうとするんだ。機内食を楽しむ方法、空港のラウンジを楽しむ方法、狭苦しいホテルも、高級なホテルの部屋も楽しむ方法。何事もないかのようなふりをすることで、これら全てを楽しむ方法を見出そうとするんだ。でも、嫌なことや煩わしいことはありとあらゆる場所で起こりうる。僕はよくアメリカの税関職員に呼び止められては、意味の無い様な質問を訊かれることがある。実際にはなんてことないし、何事もなかった。表面だけ捉えるとデュシャン的に見えるかもしれない。それは否定しないよ。単に否定しないからこそ、同意できるとも言えるけど。

「ふりをする」というのはある種のテクニックなんだよ。何事もなかったかのように偽ることは、何事も起こるべきではないという考えがあってのものなんだ。僕がやっていることや他の人がやっていることは将来的には何でもなくなってしまうだろう。僕が最も好ましいと思うのは老夫婦のような関係だ。良い夫婦であれば、共に平和に暮らし、お互いを愛し続けることができる。何故だと思う? それは、何事も起こらないからだ。彼らは毎日喧嘩することもなければ、しょっちゅう「愛している」なんて言い合ったりしない。そんなことする必要はないんだ。もうお互いの愛を身に染みて感じているからね。まさに心が充実した状態であると言える。すべてが二人のことであると同時に、その関係には何の影響も無い。ありとあらゆることが起こると同時に、何事もない。何かが起こったとしても、それはどうってことないから、問題なんてない。僕はこれが最も重要なポイントだと思っている。何かが起こったとしても、何事も起こらないんだ。

AM 「何事も起こらない」という原理ですが、これはあなた自身の作品でも用いたり、逆にそれに対して挑んだりすることはありますか?

LK いずれにせよ、あまり考えないようにしているかな。何も起こらないようにしたいとは思わないけれど、だからと言って、それがそうなることを阻止しようとも思わない。あまり深く考えすぎると、僕自身が圧倒されてしまうから。例えば、僕があなたに対する憎しみにかられるとしたら、きっといつまでもあなたのことを考え続けるでしょう。そして、忘れようとすればするほど、あなたの名前は僕の脳裏に焼き付く。だから自分にできる最善のことは、それを受け入れることだと思うんだ。「何事も起こらない」という概念は常にそこに存在しているけれど、それによって自分を突き放さないようにしている。賛同もしないし、反論もしない。だって「何事も起こらない」ということが「何かが起こる」起爆剤になるべきだと思っているから。それこそが僕の展覧会さ。僕はもしかしたら待ち続けているのかもしれない。その「何かが起こる」瞬間が訪れるのを。

言い換えるのであれば、僕は自分の作品についてあまり深く考えない。いや、ほとんど考えないと言ってもいいかもしれない。何故なら、色々と考えを巡らせ始めると、何か間違ったものを作り出してしまう。僕は失敗することは恐れていないけれど、間違ったものを作りたくはないんだ。プロジェクターをどのように配置するとか、壁のどこに何を設置するとか、そういう実用的なことしか考えない。僕は考えないが故に、コンセプチュアル・アーティストではないんだ。

AM 「考えない」ということ自体がコンセプトだとすると、それはすでに概念的であると言えますね。

LK しまった! そう言われると逃げ場が無いな。よし、じゃあこれからは考えるようにした方がいいかもね。


Above: Sunday afternoon: picnic with friends and hand-painted cloth at Yuna Shu O, Saw Kung (2013), acrylic on fabric, photo document. Below: 1st of July: demonstration with friends and hand-painted cloth (2004), acrylic on fabric, photo document. Photo: Jasper Lay Kim Wah.

AM 意味と無意味の関係性にも類似性を見出すことができますね。布地に描かれた柄は抽象的なのか、それとも意味を持たないのか?

LK 少なくとも、僕が何かを見てそれを明確に言葉にできるのであれば、それをもはや作品にする理由はない。完成した作品は簡単に説明したり、読み解いたりできるものであってはいけないと思っているんだ。それと自分に問いかけることもあるよね。僕は人に見てもらうために何かを作るほど偉いのかってね。ある意味傲慢だよね。僕がいかに良い絵を描いてそれを気に入っていても、だからといって、何で他の人がそれを見る必要があるのだろうか? これは常に抱き続けている疑問なんだ。僕は今では以前にも増して作品を取り上げてもらっているし、他のアーティストよりも発表の機会が多いのも事実だ。でもだからと言って、人々が僕の作品を見なくてはいけないということにはならない。とすると、僕は何をもたらすことが出来るのだろうか?

僕は自分が様々な場所で展覧会を行う活動を、コンサートに例えることを最近思いついたんだ。過去数年の僕の展覧会は記録化が困難であるため、人々は実際に会場に足を運ばないと作品を見ることができない。それは、いわばコンサートのようなものだと思っている。コンサートの演奏を録音することはできても、そこにはその場からにじみ出るいきいきとしたエネルギーも感じられないし、失敗もない。だから同じとは言えないんだ。僕は展覧会で多くの失敗をするけれど、それは結果として展覧会をより良いものにしてくれる。僕が展覧会を行うのはそれを見に来る人と同じ理由で、それそのものがパフォーマンスだからだ。もはや芸術とすらみなされないかもしれない。それはまさに自分自身を投影する行為と言えるよね。例えば、コンサートで演奏を聴いて突然心動かされたとして、その感情的な反応は曲の内容のみよるものではない。その曲によって呼び起こされる記憶や、曲そのものが孕む歴史、そして聴く人がどのような心持ちで聴いているかも起因している。人々の反応は投影の投影のそのまた投影と言っても過言ではないわけで。僕は実際に展覧会でプロジェクションを用いた作品を発表しているので、さらにこの構図が複雑化する。投影の投影のそのまた投影という行為。でも、それこそが僕が作品を作る理由の一つでもあるんだ。でなければ、何か他の仕事に就けばいい。僕は実はアーティストになりたいと思ったことは一度たりとも無いんだ。

AM ではなぜ美術学校に?

LK 得意だったからさ。僕はドローイングもペインティングも、とにかく絵を描くのが上手かった。あの頃は若くて傲慢だったし、他の人を見下すのが好きだった。「え、 ひどいね、そんな下手な絵なんて描いてんの?ホント、 終わってるね」って。僕は芸術を学ぶことが大好きで、芸術そのものも大好きだった。ただ、アーティストにはなりたいとは思わなかった。美大では誰しもが形式張った感じで芸術の話をした。パク・シュウン・チュエン[白雙全]といった僕のクラスメートたちも、どうすればプロのアーティストになれるか、どうすれば芸術一筋で食べていけるかを語り合っていた。当時の僕は「フルタイムのアーティストってなんだろう?」って思ったんだ。そうすると、「とてもシンプルなことだから、議論しようよ」って。議論すべき事柄でもないと思うんだけど。じゃあさ、フルタイムの男性って?フルタイムの女性って何? もはや不合理とすら言えないよね。明らかに奇妙だし、馬鹿馬鹿しいし 、不自然に聞こえる。だから僕はアーティストにはなりたくなかったんだ。

もちろん、プロでないにしてもアーティストになれることはできたし、今はたまたプロのアーティストとして活動している。まぁ、メールの返信だけはプロらしくないけどね。僕は今ではアーティストになるべき主な理由を理解している。先ず、今までに取り上げてきた政治的な問題を考えると、アーティストは何かアクションを起こせる立場にいると言える。ほんの少しだけれどね。誰も世界を丸々変えることはできないわけだから。何もヒーロー的なことはできないけれど、アート業界にアーティストとして足を踏み入れることはできると思ったんだ。また、僕は展覧会を作り上げるのが好きだし、展覧会を開催して人と交流することによって、自分の理解が及ばないものごととの出会いを見出すことができる。

最近アメリカのミネアポリスにあるウォーカー・アート・センターで展覧会を開催した際、そこで講演も行ったんだ。講演後にキュレーターと僕の彼女に言われたのが、「あなたがしゃべっている時に会場が静まり返っていたのは、あなたがトークをしていなかったからよ」って。もちろんトークはしていたけれど、彼女らが言おうとしていたのは、僕が自分自身に、まるで独り言のように話しかけていたということだ。

僕はその時「他人行儀な愛」について話をしていたんだ。それはキュレーターにすら話したことがないことだった。彼女は後から「他人行儀な愛って何?」という感じだったけれど。そう、僕はこの展覧会のテーマが「他人行儀な愛」だってことに気付いたんだ。講演会場の客席からは「他人行儀な愛って何?」ってひそひそと聞こえてきたけれど、誰一人それについて僕に問いかける人はいなかった。だから僕はひたすら説明もせずにずっと話し続けたんだ。「他人行儀な愛とは、例えば、母親の写真や妻の写真を見る時に感じるもの。自分の奥さんだから毎晩隣で寝ているし、非常に馴染みのある人なんだけど、同時に何となく馴染みのない感じがする。これが他人行儀な愛なんだ。他人行儀とは非人道的という意味ではないんだ。ものすごく人間的で、個人的なことなんだけど、それでいながら客観性も秘めているんだ。こういうところで人々は間違いを犯すんだと思うんだ。政治家が自分たちの治める都市や国の報告書を見てある種の他人行儀な愛を感じるのであれば、彼らは間違いを犯すかもしれない。バーで呑んでいて、あなたを自分の家に連れて帰りたいという女性がいるとする。一瞬妻の写真を見たとしても、次の瞬間には簡単に彼女のことを忘れ、何かしら過ちを犯してしまう可能性だってある。要するに、そういうことなんだ。

僕はこの瞬間をしっかりと捉えることができると気付いたんだ。そして、それが政治的であるということにも気付いた。個人的であると同時に、政治的である。特にこれら二つの要素を表立って組み合わせたいと思ってはいない。自分のアイディアに基づいたとしてもね。だって、それは「僕」のアイディアではないんだから。自分の中にあるものだとしても、それは普遍的なものなんだ。今でもはっきりと説明することが出来ないんだけど、僕は確かにある種の発見をしたんだ。そしてそれがしっくり来たんだ。

AM この「他人行儀な愛」という概念を認識したとして、あなたはそれにどのように対応するのでしょうか?

LK 僕は自分の気持ちに従って行動する。自分自身に嘘はつくべきじゃないからね。もし本当に妻を愛していないとして、他に真に愛する女性に出会ったのならば、僕は自分に正直でなければいけない。自分に嘘をついてはいけないんだ。妻を愛していないとして、他に真に愛する女性に出会ったのならば、僕は自分の気持ちに正直であるべきだ。だとしたら、僕は間違ったことをしていないのかもしれない。それはみんなにとって良いことかもしれないし、美しい過ちかもしれない。もちろん、仮定の話だけどね。

AM では、それが政治家の場合は?

LK それは、大惨事になるよ! でも少なくとも僕の場合そのレベルの責任があるとしたら、例えば、ものすごく責任を要するポジションではなくて、どこかの会社の社長やアートスペースのオーナーといった具合の責任があるとして、僕は自分が置かれた立ち位置や担うべき役割を理解し、それに応じて様々な決断を下すだろう。でもこの程度のことはすでにみんな子供の頃に親から教わることだ。ごく普通のことだし、誰しもが理解していることだ。そうすると、僕はなんでこんなにも普通で一般的なことを発見して、こんなにも心躍らされるのだろうか。でも最終的にはそこには何かしらの違いがあるんだ。


I Can’t Help Falling in Love (2012), installation view in “Lee Kit: Hold your breath, dance slowly,” at the Walker Art Center, Minneapolis, 2016.

AM 儒教哲学の重要な概念には、慈悲深さを意味する「仁」、そして親孝行を意味する「孝」がありますが、これらは「恋愛」とは無縁の愛であり、「自我」の無い愛とすら言えるでしょう。東洋的な文脈においては伝統的なヒエラルキーを強要するものとして批判されることもありますが、西洋の新たな自由主義的価値観との関連で考えると非常に革新的かもしれません。

LK 実際にロマンチックだよね。だって50年経っても共に寄り添い続けるんでしょ?  互いを愛してもいないのに? それこそまさにロマンスだよ。まるで僕の両親みたいだ! 儒教や西洋における愛や人間関係の考え方は、全てそこに存在しているんだ。僕たちにはこれらのものが全て混在している。もちろん、興味を惹かれる対象や度合いは異なるけれどね。これらはすべてアイディアだ。

自分のことを民主主義支持者だという人がいる。ということは、民主主義的な部分では無いところもあるというわけで。僕たちはアイディアについて語り合うとき、 話が極端になり過ぎて、最終的には愛や政治について2つや3つの選択肢に絞りがちだ。でも実際には僕たちはみんなハイブリッドなんだ。全ての人には、愛、生命、政治への様々なアプローチに対する感情やアイディアが混在している。これら二つの真っ向から異なる考えの違いを一つ上げるとすれば、それは支配や秩序に対するアプローチだ。いわゆるアジア側はより直接的な管理制度に重点を置いている。西洋側は制度そのものを疑問視する。「何故そのようなものが必要なのか?」ってね。でもいずれも価値観にさほどの相違はない。

誰も「仁」の正確な性質を決めつけることは出来ない。だって、それは常に変化していて、解釈が開かれている。僕にとっての「仁」は、「人を裏切らないこと。良い人であるよう務めること。」では、何故良い人になろうとしなければいけないのか? つまり、他人に迷惑をかけるような過ちは犯さないということ。それは基本的には人を愛することを意味する。したがって、価値観の内容は非常に基本的であるとしても、問題はそれをどのように適応するかなんだ。1日、2日の話じゃなくて、生涯にわたって従事しなくてはいけないことだからね。僕たちは決断を下すたびに常にそれについて自分自身の中で疑問を抱かなければならず、他の人にもその問いを投げかけなければならない。

AM 他人行儀な愛とはこの枠組みの外に存在するのでしょうか?

LK いや、それはその枠組みの中に存在している。僕はそれを抽象的に視覚化することができる。それはある種の基盤なんだ。他人行儀な愛とはこのテーブルのように、消して避けることのできないものだ。それは他人行儀な愛に限らず、罪悪感に関しても言えることなんだ。罪悪感とは、夜中に突如目が覚めて感じるようなものだ。ただただ空っぽな気持ちで、罪悪感を感じる。例え悪いことをしていないとしても、罪悪感を感じるというのは人間の本能に近いものだと言えるだろう。目が覚めると、ただただ不安定さと罪悪感に苛まれる。普通だったらこれを一種の感情であると表現するのだろうけど、僕にとっては自分たちが孤独だということを理解するためのきっかけとなるんだ。僕たちがいかに救いようがないってことをね。そういう時人は自害すべきか頑張り続けるべきかを考えるわけだけど、生き続けることを選択すれば、実に多くのことに考えを巡らせなければならない。

また、他人行儀な愛とはそれ自体を理解するためのきっかけであるとも言えるんだ。というより、それがただ単に一つの基盤であるということをきちんと理解していないと、大きな過ちを犯しかねない。でなければ、物事を間違った方向へと誘ってしまうかもしれない。女性の誘いを断る前に妻の写真を見たからといって、必ずしも妻を愛しているとは言えない。ただ単に僕がその瞬間にそうしようと思っただけで。その後の出来事は意味を成すものだけど、その瞬間は違う。他人行儀な愛では何事も起こりえないんだ。

AM モチベーションのない行動ということでしょうか?

LK ある意味ね。その基盤を手にしているということを理解して初めて、意欲が湧いてくる。モチベーションが基盤にかかわるものではなくて、基盤が無ければモチベーションも生まれないということさ。だからここで言う愛とは「あなたを愛している」とか「彼を」とか「僕の妻を」とか特定の対象に宛てたものではない。それは普遍的な愛なのかもしれない。だから僕はこの「すべてを包み込むような大きな愛」に 逆らっていると先に述べたんだ。より良く理解する必要性があると思うんだ。ある意味宗教的とも言えると思う。「みんなを愛さなければならない」って言われても、僕はみんなを愛してはいない。僕には指が10本ある。嫌いなやつだったら中指を立ててやるさ。中国には「10本の指は全て長さが違う」ということわざみたいなものがあるんだけど、僕たちには誰しも優先順位と限界がある。大いなる愛なんて存在しないんだ。そんなものがあるとしたら、僕たちにはたくさんの指がひつようだ。あまりにも多くの指がね。

AM ということは、お互いがどのように関わりあうかということを言っているんですね?

LK そうだね。 家にいて何もしていなくても、それすらも作品の一部なんだ。例えそれが展示しなくても良いものであってもね。僕はいつもそういう時間の中にいるんだ。イエスかノーで答えられるような質問ではないんだけど、それから逃れることもできない。自分がコンセプチュアル・アーティストであるか否か、画家であるか否かといった概念からは逃れることができるけれど、このきっかけというか、枠組みからは逃れることができない。僕はその瞬間に近づきたいんだ。それは僕が本当に正直でいられる瞬間なんだ。純粋に正直であるということではなくて、理屈として正直になれるということだけどね。

それこそがパフォーマンスなんだ。偽り者としてのね。フレディ・マーキュリーだってそうだった。彼が歌った曲に『ザ・グレート・プリテンダー』という曲があるけれど、それは実際には彼の曲ではない。まさしく、かれは素晴らしい「プリテンダー」(偽り者)だったんだ。

リー・キット|Lee Kit
1978年香港生まれ。香港中文大学芸術学部卒業。絵画や映像、ファウンド・オブジェなどを繊細に扱いながら、自身を取り巻く環境や個人的な経験に深く根差した実践を試みる。社会・政治的状況を明示的に扱うことはないが、不安や孤独、存在/不在、ノスタルジーなどの捉えがたさが反映された展示空間は、しばしば同時代の社会・政治的な状況との緊張関係を観客に意識させる。
2013年には第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ香港館で個展を開催。同年、第1回ヒューゴ・ボス・アジア・アート賞にノミネートされる。その後も2015年には、資生堂ギャラリーで個展『The voice behind me』を開催。第12回シャルジャ・ビエンナーレ、『ふぞろいなハーモニー』(広島市現代美術館)などに出品。昨年はウォーカー・アートセンターやゲント現代美術館(S.M.A.K.)で個展を同時開催。2017年に入り、『All Watched Over by Machines of Loving Grace』(パレ・ド・トーキョー)、カトマンズやパリでのレジデンスなど、連続性を持った展示を展開している。
現在、シュウゴアーツにて個展『Not untitled』を開催中。いくつもの壁によって寸断し、断片化した展示空間を「プロジェクター絵画」を使って繋ぎ直すインスタレーションを発表している。
Not untitled
2017年4月15日(土)-5月20日(土)
シュウゴアーツ
http://shugoarts.com/

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