ライアン・ガンダー インタビュー (4)

モビリス・イン・モビリ
インタビュー/アンドリュー・マークル

IV. 求めるものはここにある


I don’t blame you, or, When we made love you used to cry and I love you like the stars above and I’ll love you like the stars above and I’ll love you ‘til I die (2008). Image Jean Brasille, © Ryan Gander, courtesy the artist.

ART iT フィクションと想像力に話は戻りますが、フィクションを用いることでどのようなことが言えるようになるのでしょうか。

RG どんなことでも。あらゆることが言えますね。存在していないものでさえも。

ART iT これまでにフィクション内で自身を見失うようなことはありませんでしたか。

RG そういう夢をたくさんみてるので不安になりますね。目が覚めて、存在さえしていない人物のことを夢見ていたことに気がついて不安になります。しかし、私の中では制作に使う以前にフィクションは十分に現実的でなければいけませんし、自分自身を納得させるために長い時間を費やさなければなりません。それはまるで、自分が持っている秘密に関する嘘をつき、それが真実ではないかと信じてしまうほど長くその嘘をつき通したあげく、その秘密の真相を忘れてしまうことに似ています。

ART iT 自身の作品の観客をどのように想定しますか。そもそもそういう想定自体を行ないますか。もしくは、複数のキャラクターを想定するということを経て、自分こそが自身の作品の観客だと考えているのでしょうか。

RG 作品によって異なりますね。ちょうどタイトルについて三通り話したように、作品制作にも三通りの方法があります。自分自身の喜びのための作品、特定の人のための作品、そして、すべての人に向けた作品です。
毎回、すべてのものを変化させようと考えています。それは作品の物質的な形態や大きさだけでなく、制作方法もです。だからこそ、私はよく人々がそれをアートと見なさないもの、例えば、ネックレス、トラックスーツ、子ども向けの本、バー、カクテルの本といったものを制作するのです。これらはすべてアートであると同時にまた別のものでもあります。アーティストであるということは非常に素晴らしいことです。なにかを存在させたいと考えたとき、それを制作できる。そして、それが存在すべき理由もあるのです。自宅用にリートフェルトの机を制作することが出来て、それがアート作品である。もしくは、娘のためにロゴ入りネックレスを制作できて、それもまたアートである。さらに望むのであれば、マクドナルドのドライブスルーの店員の制服を新たにデザインすることも出来て、それもまたアートになりうる。なんでも出来るのです。

ART iT 「責任」という言葉を私はインタビュー前半で使いましたが、おそらくここでは「倫理」という言葉を使えるのではないかと思いますが、そのような自由を持つ上で、そこには倫理があるのでしょうか。もしくは、あなたが何を想像出来るか出来ないかという観点における限界という問題のみが行為の唯一の指針となるのでしょうか。

RG フィクションに対して倫理的になることはできません。それは現実ではないのですから。「ヒトラーはいいやつだった」というような作品を制作することは可能でしょうし、それは倫理上の問題ではありません。

ART iT しかし、自身のフィクションにどう臨むのか、それを自らに課した制約だと考えるのか、自分が常に向かうべき方向として考えるのかという点におけるエートス、価値観や信念のようなものはあるのではないでしょうか。

RG エートスとは挑戦することであり、行動することであり、フットワークを軽くしておくことであって、ほかの誰もが重きを置いていることに自分が重きを置くことではないでしょう。画家である。スコットランド出身のアーティストである。女性である。黒人である。そうしたことは重要ではありません。それらはアートとはなんら関係のないことです。私は多数の異なる人々なのである。私は同時にレズビアンであり、黒人であり、車椅子に乗り、スコットランド人なのです。なぜなら、私は多数の異なる人々なのだから。

ART iT アイデンティティの問題に加え、モダニズムを扱うアーティストも少なくありませんよね。例えば、歴史を遡ったり、再発明したり、引用したりと。そして、ときにこの歴史がまた別のある種の重さであったり、アーティストから能力を奪っているように感じるのですが。

RG もし、じっくりとアーティストに関する書籍を熟読し、モダニズムの歴史に関する制作をしているアーティストを20人特定してみたとします。おそらくそこには本当にそれに関する作品を制作しているアーティストはふたりしかいないでしょう。残りの18人はモダニズムの美を引用しているだけで、モダニズムの真理に関しては何も取り組んでいません。この世界におけるその役割であったり、エートスであったり、モダニズムが世界を変化させた方法には取り組まず、ただ見た目だけを扱うのです。あまりにも多くのアーティストが、クラフトワークのCDジャケットみたいだからといって、黒と赤と斜線を用いた作品を制作しています。彼らはロトチェンコやもしくは、ああいうアイディアが生まれたところに関する作品を制作せずに、それらを連想させたいからといって、ただ単純に見た目やスタイルを引用しているだけなのです。
何百人ものアーティストが16ミリフィルムを使用していますが、作品コンセプトからその必要性があって制作している人は滅多にいません。ビデオの方が優れている。そのことに議論の余地はないでしょう。彼らは感傷的な価値を得ようと、小手先な方法を使って、1960年代以降のコンセプチュアルアーティストとの繋がりを持ちたいと考えているのです。これらふたつの本当に馬鹿げた動機は作品に対するいっさいの価値や関心を与えることはありません。メディウムは作品のメッセージや内容によって選ばれるべきなのです。動画の歴史に関する作品を制作するのであれば、そこでは16ミリを使うことに意味があるのかもしれませんが。


Styling out of fatigue – Georgia, (age 8) (2011), oil on canvas, pine wood, acrylic paint, mirrors, plants, approx 80 x 150 x 150 cm. Installation view at Johnen Galerie, Berlin, photo ART iT.

ART iT しかし、歴史的な対象や参照が魅力的であるほかの理由に、アーティストがそのシステムを理解したという感覚を得られるということもあるのではないでしょうか。

RG そうですね。それはほとんどアーティストがそのシステムを理解できるということを観客に対して正当化するという試みですね。私にはそうしたアーティストがそのシステムを本当に理解しているとは思えませんが。ある美を理解することやそれがエルメスまたは富裕層を連想させることを理解すること、もしくはそれが美しいと理解することはひとつではあるけれど、それはある事柄に関するすべてのこと、その形式的な質、神秘的な力を理解することとはまったく異なります。ある事物をあらゆる視点から見て、それに関する無数の質問を尋ねなければ、その事物を真に理解することはありません。例えば、あるグラスに関して幾千もの問うべき質問があり、それらすべての質問に対する答えがそのグラスを理解するために重要であるとしたら、あなたが誰かにそのグラスに関する質問をひとつだけ考えてくれと頼んでも、結局は何も思い付かないかもしれません。

ART iT 私たちは私たち自身のシステムを理解する能力を過大評価していると思いますか。また、モダニズムやそれ以外のあり得るシステムや対象に対して事後的に位置していることに対して自分たちを買いかぶっていると思いますか。

RG 思いますね。最新のヴェネツィア・ビエンナーレよりもイケアの方がよりモダニズムに近いというのはとても奇妙なことです。どの家にもイケアの家具があり、それらは積み重ねられ、掃除しやすく、単純に出来ているために分解も容易い。その形体や色だけでなく、これこそがモダニズムでしょう。私たちがモダニズムだと考えるもの具体例であるために、私たちはイケアの家具をかっこいいと思うのです。しかし、モダニズムはそういうものではなく、“日常”なのです。それは私たちが暮らしやすさを求めてたどり着いた地点なのです。

ART iT あなたは自分自身が操作しているシステムの外部に出ていく方法を打ち出しているのでしょうか。

RG いい質問ですね。現在存在しているものについて話すことは簡単ですが、オルタナティブをもたらすのは本当に困難なことです。もしそれが自分に出来れば本当に素晴らしいのですが。


Locked Room Scenario (2011), installation view. Image Julian Abrams, © Ryan Gander, courtesy the artist and Art Angel, London.

ART iT ここで前半の質問を繰り返しますが、私たちがモダニズムというシステムのある部分を強調することで何が起こるのでしょうか。

RG そのシステムがあらゆるものの仕組みに存在していることを知ったり、それがどこから来ているのかを理解することに越したことはありません。私はそのシステムをある生き方として提示しているわけではありませんが、いくつかの視点から物事を見る能力を鍛えることができれば、宝探しをしているかのようで、より深くこの世界に関与することが出来るのだと知っているのです。

ART iT 自分自身に対する意識に対して、どれくらいあなた自身を信用していますか。

RG 変化に関する作品を制作する客観的な姿勢を持つことは、自身をそれまでとは異なる立ち位置に置き、異なる作品制作をするためにとてもいいことです。私はよく作品というよりも練習課題のようなことをしています。例えば、駄目な小説家が自身の小説の登場人物を展開させているように、あるキャラクターについて考える。アニッシュ・カプーアのロンドンオリンピックのためのコミッションワークの彫刻、そして、彼がそのプロジェクトのための巨額な資金を受け取ったことを聞き、自分自身に実際に送るわけではない企画を考えるという課題を設定し、自分であれば、そのようなプラットフォーム、予算をどう使うのかと考えてみます。トラファルガー広場の第4の台座も同じですね。そして、それが警察署の待合室であれ、気になる空間を見つけては、20分ほど紙切れを手にその空間で何が出来るかやその空間の社会的な問題を考えることもあります。または、ディナーを考案し、そのディナーが続いていくための食事を考案したりもします。こうした練習課題によって、思考を続けたり、各課題を通して異なる精神的空間に自分自身を置いてみたりします。そしてまた、こうした課題が実際に制作したいと考えている物事に気がつくための一歩となるのです。

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第17号 彫刻

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