ネイサン・ヒルデン インタビュー(3)


Untitled (2010), acrylic, silkscreen on aluminium, 86.3 x 58.4 cm. Photo Kei Okano, courtesy Nathan Hylden and Misako & Rosen.

 

動きつづける絵画の現在
インタビュー/アンドリュー・マークル

 

III

 

ART iT 現在、あなたの関心を惹いているアーティストがいれば教えてください。

NH 何人かいますが、誰かあげろといわれれば、現時点では河原温でしょうか。彼は本当に素晴らしいアーティストです。彼の作品には絵画の実践における本質的な分析が存在しており、それは私が自分自身の実践に見出したいと考えているものなのです。彼の作品の簡潔さにより、それは私にとって非常に複雑なものになっています。絵画が時間の中に存在すると言うことは、絵画の本質的な特徴のひとつで、それ故に、ある時間の中で描くという行為にはなにか重要なものがあり、河原温の絵画はこの行為のとても特殊な記録なのです。

トニー・コンラッドの「黄色い映画」(1973)という、白い絵具が時間とともに退色するかのように、徐々に黄色く変化していく作品も、私にとって重要な作品のひとつです。

河原温とコンラッドをいっしょにしたら素晴らしいでしょうね。彼らは事物は常に時間の内にあるという考えを共有しています。絵画はただ単純にそこにあるのではなく、常にスイッチが入れられ、その存在を投影している効力を持つという考え方を以前からずっと面白いと考えています。私の作品のパターンでさえ、その視覚的振動は絵画がオンの状態であるという感覚を与えます。おそらくこれこそが、私たちが絵画という事物を言い表すのにペインティング(painting)という現在時制の動詞を使う理由なのかもしれません。私が最も関心を抱くのは、時間という次元を探究している絵画です。

 

ART iT コンラッドの「黄色い映画」と同じように、あなたの金属板を使用した絵画を見ると、あなたもそこに写真の現像過程を連想させるようなある種の化学反応が起こるという考えているのではないかと思うのですが、そうしたことは考えていましたか。

NH いいえ。しかし、面白い連想ですね。私は金属の表面の平面性や硬直性を気に入っていて、その反射性も基盤となる素材としてそのままの状態で放っておけることも面白いです。私は工業用の場所から金属板を購入して、通常工場で付くあらゆる擦り傷もそのまま残しています。その事物の存在感という点において、各素材には基本的な要素があるのです。例えば、キャンヴァスはザラザラしているとか、金属には金属の質感があるとか。

それが私がたくさんの工業用素材を使用する理由です。それは加工されたある種の表面をもたらし、ある意味では、表面に対するある感覚が備わります。おそらく、それはコラージュや、構築と破壊が同時に起こるという考えにさえも関連しているでしょう。

実際は、そうしたものをキャンヴァスに見出すことが増えています。明度に関する色彩の使用法、それはある面において、絵画の表面を見難くしたり、それ自体の光のようなものを投影したりします。それから、特殊な絵具を用いることで、鑑賞者が作品の周りを歩くと作品の色が変化したり、表面の局所性の奇妙なズレを引き起こしたりしています。また、似ているけれども違うやり方で、金属板の作品も表面がどこに位置しているのかという局所性の探究への興味は持続しています。絵画の表面を視覚的にどこに置くのかというやりとりは前々からありますし、従来の支持体の画像を印刷することで増幅していきます。

 




Top: Installation view of the exhibition “Still Now Again” at Johann König, Berlin, 2008. Courtesy Johann König, Berlin, and Misako & Rosen, Tokyo. Bottom: (Left) Installlation view of the exhibition “Starting to an End” at Misako & Rosen, Tokyo, 2007. Photo Kei Okano; (Right) November 8, 2007-2 (2007), collage and paint on paper, 27.9 x 21.6 cm; both images courtesy Misako & Rosen, Tokyo.

 

ART iT これからもキャンヴァスと金属板の両方を使い続けますか。

NH 近年私が行なっているのは、キャンヴァスと金属板を組み合わせることです。最初に金属板にキャンヴァス作品の画像を印刷して発表したときは、キャンヴァス作品といっしょに展示したいと思いました。そうすることで、金属板に印刷された画像が写された実物とまったく同じ大きさに印刷されて、1:1の関係にあることをわからせたかったのです。大きさを複製することで参照項との1:1の関係性を可視化するという考えが面白いと思ったのです。

 

ART iT もし、あなたのすべての作品が外部の参照項を持つならば、それは作品を物語的なものにすると思いますか。それとも非物語的なものにすると思いますか。

NH 私は自分の作品を物語的なものとして考えないようにしています。なぜならそれは、私がどこか特定の場所へ向かおうとしていないにも関わらず、明確な目的地を獲得することになります。ロバート・ライマンも私が好きな画家ですが、彼は鑑賞者に作品を具体的なものとして見てもらい、画像として見てもらいたくないために正面から大きなボルトで絵画を固定します。このように現在の制作を続けること自体はすばらしく、やりがいがあることではありますが、と同時にこうした事実がすでに確立されてしまったということを考えると、作品をさらに複雑に、反駁したりする必要があります。

画像を使用する一方で存在という概念についても考えるということに内在する矛盾があります。ライマンの作品には歴史を見渡し、彼の絵画がもはや画像ではなくオブジェであるという物理的事実に向かっている連続を見るという明確な物語的側面があります。しかし、絵画を非絵画化することは従来の絵画に本来備わっているわけで、それ自体が矛盾しているのです。いまや、絵画は物理的に存在し、かつその外部を指しているなにかを備えられる、このような表象ともの性が同時に起こる場所をもっと活用しています。しかし、私の作品の場合、その指し示すものは外部ではなくその作品自体へ、もしくは別の絵画へと向かうように循環します。もしくは別の絵画へと向かいます。そういうわけで、私の作品は非物語的であり、その循環はどの方向へも向かうことはありません。

 

ART iT しかし、あなたの個々の作品は個々の存在を物語っているとは言えませんか。イタロ・カルヴィーノは空間や時間といったもののない、世界の存在以前、例えば、宇宙全体がただ一点の中にあるときに起きた何編かをまとめた『レ・コスミコミケ』で、ひとつのパラレルを表しています。

NH 作品を制作することにより残された目に見える痕跡はなんらかの形でその存在を物語りますよね。過程がその作品内に存在するかどうかについて、過去に議論したことがあります。議論相手は作品の自立性に対してはっきりとした感覚を持っており、目の前にあるものがその作品のすべてであるというのが彼の考えでした。私はその考えをどうしても受け入れ難いのですが。私は目に見える過程の痕跡が表象のひとつの形であるという考え方に関心があります。あなたはその跡を見ることができ、それらが正確に何であるのかはわかる必要はないけれど、でも、それらは今あなたが見ているものの生産過程のひとつの表象になるのです。これは象徴の一形式としての指標という記号論の概念とも一致しています。そういう意味では、それぞれの作品に付随する局所的な物語のようなものを持つことができるのです。おそらく物書きにとっては、直線的な物語という概念は、挑戦すべき関心事のひとつであり、ひとつの物語が含むものに応じたさまざまなアプローチについて考えることであり、連続の論理の外側へと移動する方法なのでしょう。私自身の作品にとってのより大きな物語として考えていたものは、必ずしも明確な目標へと向かう展開ではなく、あるものと別のものとにある差異は単純に差異でしかないということです。なんらかの理由であるものがそれ以前のものよりも優れているとかといったことではなく、それはただ単純に差異なのです。

 

 


 

第19回 絵画

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