艾未未[アイ・ウェイウェイ]インタビュー

具体的な自由
インタビュー/宮本真左美(埼玉大学大学院文化科学研究科)・牧陽一(埼玉大学教養学部教授)

インタビュー収録:2010年9月15日


Ai Weiwei on the day of the interview (September 15, 2010). Photo courtesy Masami Miyamoto and Yoichi Maki.

– 艾さんは1957年に生まれ、1959年には家族で新疆ウイグル自治区に移住していると伺いました。新疆ウイグルでの生活において、あなたのお父様はどんな存在でしたか?

艾未未(アイ・ウェイウェイ、以下AWW) 正確には、新疆ウイグル自治区に行ったのは1960年です。その前は東北地方に1年半いました。生まれて半年はまず北京にいて、1960年の初めに新疆ウイグル自治区に行きました。私にとって父親の影響は非常に大きいです。父は積極的に子供の教育に関わる人ではありませんでした。父が私に教育をするというよりは、父自身の生活方式、態度、感情思考といったものが私に大きな影響を与えました。彼はとても純粋な芸術家で、いつも非常に良い判断をし、良い観点を持っていました。そうしたことが私に多くの影響を与えたのです。それに加えて、父は手を動かす作業がとても好きでした。辛い生活をしていた頃は木の剪定の仕事をしていました。彼はいつも木の枝を拾って帰って来ては、表面にある沢山の節を削り取って、サンドペーパーできれいにするといったことをしていました。今になって思い返せば、私にもそれが中国古代の「如意」[注1]のようなものだと分かります。しかし、当時私は古代にそんなものがあるとは知りませんでした。父はそういうものをひとりでよく作っていました。当時、彼はとても苦しかっただろうと想像しますが、そういう作業に悦びを見いだしていただろうと私は信じています。

– それはミニマニズムにも似ているかもしれないですね。つまり、ずっと作っているとほかのことを忘れられた。

AWW そうですね。父はもの作りが得意で、非常に手先が器用でした。なので、いつも手で何か作っていたことを覚えています。

– あなたが北京電影学院に在籍していた頃は、どのような思いを抱いていましたか? 当時どのようなことを学んだのですか? 毛沢東時代と同じような教育だったのでしょうか?

AWW 電影学院は、私の時が初めての学生募集だったから入りました。入学した当時、私には真の理想なんてものはありませんでした。ただ、芸術家になりたいだけでした。当然入学してから、電影学院がそんなにいい場所ではないことが分かりました。あらゆる学校はみな同じで面白くもなんともないのです。当時の教育については、1978年以降は毛沢東時代とは違います。毛沢東時代のシステムは除かれていたものの、新しいシステムはまだ出来上がっていなかったので、基本的には何の内容もない状態でした。

– 1930年代の映画も見る機会はありましたか?

AWW 30年代の映画は、電影学院で毎週2つ上映していました。学院の外では決して上映してはいけない、内部映画というものでした。電影学院にいる我々だけが見ることができたのです。ハリウッド映画や中国映画なども見ることができました。どんな映画も電影学院にはあったのです。

– その頃は陳凱歌[注2]や張芸謀[注3]、姜文[注4]も一緒でしたか?

AWW 姜文はまだいませんでした。陳凱歌、張芸謀は一緒で、同じ一期生です。同級生はそんなに多くなくて、全部で100人くらいだから全員知っています。姜文は中央戯劇学院ですね。彼は我々より若くて、感情が豊かです。

– 姜文と知り合ったのはテレビドラマ『北京人在紐約』(以下『ニューヨークの北京人』)[注5]の撮影の際ですか? 比較的後の事だったんですね。

AWW ああ、結構遅かったんですよ。『ニューヨークの北京人』で知り合いました。

– 星星画会に加わった頃、芸術をどのように考えていたのでしょうか?

AWW 当時の私の考え方は実に単純でした。実は自分が何をしたいのかもわからなかったのです。ただ、したくないことは分かっていました。政府が提唱する政治的なものや、共産党を宣伝するような作品は作りたくありませんでした。従って、自由主義と個人の感情を表現できるものをつくりたいと思っていたのです。でも、実際には具体的に何をしたらいいかということが明確にわかっている者は私も含めて当時はいませんでした。


Both: Installation view of Field (2010) at “Art Public,” ART BASEL 41, 2010. Photo ART iT.

– ニューヨークにいた頃、あなたは泥棒から多くの盗品と思われるカメラを買って、数多くの写真を写していました。その時、撮った写真は3つの代表的メディアに掲載されています。それなのになぜ、アメリカのジャーナリスト証を取得しなかったのですか?

AWW 私はニューヨークで写真を撮っている頃は、アメリカのメディアがどのように仕事をするのかを知りたかっただけで、ジャーナリスト証明書については簡単に手に入ることがわかったら、興味がなくなってしまいました。私はジャーナリストになりたい訳ではなく、どうやってジャーナリストになれるのかを知りたかっただけだからです。だから、こうすればなれて、こうすればジャーナリスト証をとれるというのがわかった訳ですし、別にそれ自体は欲しくないから、取りに行く必要はなかったのです。証明書なんていうものは好きではありません。アメリカにいた時も、別に身分証明書など持たない不法滞在者だったのです。その後も、アメリカの公的証明書も取りませんでした。

– グリーンカードは取らなかったのですか?

AWW ええ、私は中国でもずっと身分証明書を持っていませんでした。去年ついにもらったけれども。

– どんな身分証明書を持っているのですか。芸術家だけが持てる証明書ですか?

AWW いやいや、芸術家用のではなくて、普通のです。でもこれも去年ようやくもらったのです。それまでは持っていませんでした。

– ニューヨーク時代の写真から、多くの友達と交遊があったことが分かりますが、そのころどんな生活を送っていましたか?

AWW ニューヨークにいたときは、比較的単調な生活を送っていました。することがなかったし、皆が送っているメインストリームのライフスタイルの一部分になることがいやでした。つまり、アメリカンドリーム、財産や豊かな社会的収入などそんなことに興味がなかったんです。だから、毎日のんびりすごしていました。することがないから、友達と一緒に過ごすことも多かったのです。

– アレン・ギンズバーグ[注6]の写真がありますね。彼と家が近かったようですが、彼はあなたにどんな影響を与えましたか?

AWW 当時、イーストビレッジにいた頃、日本のカメラマンが近所にいました。若い人で、ドラァグクイーンを数多く撮影していました。彼の写真はすごくよかったですね。そういういい写真を撮る人もいました。ギンズバーグとは、私が7番街で彼が12番街に住んでいて家が近かったからよく会っていました。彼の家に遊びに行ったり、彼も私のところに来たりしていました。

– ギンズバーグの考え方は面白かったですか? 仏教徒ですよね。

AWW 彼は、典型的な文化人の考え方です。チベット仏教を信仰していました。彼は、アメリカ人のある種のタイプであって、あるひとつの時代——いや、いくつかの時代にまたがって考えても代表的な知識人です。

– 当時、あなたが撮った写真はみなアンダーグランドなものばかりでした。例えばドラァグクイーンのように主流から外れた人々や、差別されている人々でした。

AWW それは当時のイーストビレッジにおける普通の生活をよく反映しているのです。下層というほどではありません。もちろんそんな生活はアップタウンのそれと比べたら、下層だと思いますが、だけど、私が住んでいた所では普通でした。

– あなたが最も興味があるのはやはりそういう人たちなのですね。

AWW そう、私は下層社会の人々をめぐる状況が好きなんです。

–『ニューヨークの北京人』では副監督を務めていますが、具体的にはどんな仕事を担当していたのでしょうか?

AWW 副監督として主に撮影の場所や人物に連絡をとっていました。あとは、色々な人に付き合ってニューヨークを回っていたりといったことです。私はニューヨークをよく知っていましたからね。

– 東村におけるパフォーマンスについてお尋ねします。張洹[注7]、馬六明[注8]などについてですが、彼らが中国現代美術に果たした意義はどんなものでしょうか。
馬六明は、すごく感謝しているふたりの芸術家がいると言っています。ひとりは日本の霜田誠二[注9]、初めて馬六明を日本に招いてくれた人です。もう1人は、艾未未だと言っています。あなたは北京東村のパフォーマンスのことを書いて、『ブラックカバー』[注10]で馬六明や、張洹や、東村のアーティストを紹介したからです。その時、馬六明は警察に捕まって、「北京晩報」という新聞は「湖北省出身の×××、馬××は卑猥なことをした」などと掲載しました。しかしあなたがブラックカバーを出版して馬六明は優れたアーティストだと紹介したから、彼はすごくあなたに感謝しているのです。

AWW ええ、彼は私にも話してくれたことがあります。当時、中国のアーティストはひどく迷っていました。アーティストはみな、何をしたらいいか分からなかったのです。だから私はアーティスト同士が話し合う場所を作りたくて本を書きました。アーティストがもっと交流できるようになるための本です。だから、張洹や、馬六明やその他にもたくさんのアーティストを載せました。朱発東[注11]や、左小祖咒[注12]や、宋冬[注13]や、早期に活躍した多くのアーティストも含めています。

– 彼らの作品はいいと思いますか?

AWW 実は作品自体がいいのではなく、彼らの作品はその時期の中国の状態を反映しているのです。作品がアーティストの存在する時代の真の状態を反映できるとき、その作品の誠実さは社会にとって意義があるのです。だから、私はアーティストの作品は、社会に意義を与えるべきだと考えています。そうすれば、当然それらの意義は多くのアーティストに影響するのです。彼らはただ、絵を描いて、美術館に展示したいだけではなく、社会に影響を与えたいと思っているのです。

– 死体派と呼ばれる作家たちが登場しますが、死体を扱うということはどう考えますか?例えば上海で行ったグループ展『不合作方式 Fuck Off』展(以下ファックオフ展)[注14]はいかがでしょう。

AWW そうそう、ファックオフ展では、朱昱[注15]が赤ん坊を食べる作品がありました。この作品を初めて出版したのがファックオフ展のカタログです。彼が作品を持ってきたとき、もうカタログの印刷が始まっていたから、カタログの最後のページに挟みこんだことをよく覚えています。
ファックオフ展のキュレーターとして私は死体派が正しいかどうかの批評はしません。ただ、作品そのものを論じるとすれば、この作品は中国社会の命や死についての認識を反映したと思います。その意味で言えば、最近私が作った記録映画は、猫を食べることについての記録映画[注16]です。毎日一万にものぼる猫が盗まれて広州に運ばれ食べられているんです。


Both: Installation view of Fairy Tale (2007) at “Art Parcours,” ART BASEL 42, 2011. Photo ART iT.

– カッセルのドクメンタ12で発表した『童話』(2007)について、何か思いもよらない場面はありましたか?

AWW そこにはたくさんの意味があり、重要な作品だと思っています。構想にしても作品の完成度にしても社会に対する影響力の持続にしても、それらは他の作品と替えることが出来ない大きな特徴を持っています。もちろん予想外の事は作品を風が吹き倒したことです。でも吹き倒されたままそのまま展示しました。

– 北京国家体育場「鳥の巣」の中国側の顧問として、北京オリンピックの開幕式はどうご覧になりましたか?

AWW 鳥の巣の中国側の顧問と鳥の巣で行った開会式というだけです(笑)。私は中国側の顧問ではありません。中国側の顧問と誤解されているようですが、私は鳥の巣でスイス側の顧問です。中国側はこれまで私に鳥の巣について何かを依頼したことはありません。

– そうですね。2003年頃、鳥の巣についてどうして中国政府を助けるのかと私も尋ねました。

AWW 私は建築自体に関わりましたが、スイス人建築家のヘルツォーク&デ・ムーロンを助けて建築物を作ったというのが事実で、鳥の巣での開幕式のことなどについては、私は実はそんなに考えませんでした。ただ、そんな盛大なパーティーに中国人を参加させない、民衆が参加していないことを知りました。それでは楽しくないし、酷いことだと思いました。高級幹部は上から見ていて、すごくナチス的なやり方に思えました。

– 上海万博の人魚姫について詳しく教えてください。

AWW デンマーク館の人魚姫だね。「人魚姫」は、デンマークからの依頼です。デンマークが人魚姫を上海万博に持ってくることが、デンマーク国内で大きな論争となった。だから、私がそこに人魚姫のかわりの作品をひとつ作って、人魚姫を運ぶ。だけど、実際には人魚姫が中国に来ても、中国側は全然報道せず、語らなかったのです。CCTVの放送では私の名前を除くばかりかその事情についても取り上げませんでした。だから、この社会が如何に肝っ玉が小さくて怖がりだか分かるでしょう?朝から晩まで自分がどんなに強いかわめいているくせに、実は小さなことにもすごく恐れているのです。毅然としていないと思いませんか?誠実でもありません。中国はずっと日本があれやこれや公表しないと非難しつつ、中国も自らをこれまで語らない。文化大革命も公表しないし、6・4天安門事件も、5・12四川大地震も公表できない。真相を公表する勇気がないんです。

– 建築についてお尋ねします。施主は建築において快適を好むとされていますが、設計に当たって何が最も重要でしょうか。

AWW 建築に必要なのは快適という要素だけでなく、その他にも多くの必要な要素があります。我々は、建築に必ず快適を求めます。建築の内部で送る生活は人によって様々で、寝るときは気持ち良い枕がほしいし、あるいは心地良いベッドや椅子といったものを必要とするかもしれません。建築が実現することはひとつではありませんが、あるものは質素なもので十分だったり、狭くてもいいものだったり、その逆にとても大きな事務所が必要であるかもしれません。もし、建築に快適さのみを求めるなら、それはそれなりのものになります。私自身は、「建築」とは異なる機能を満たすものだと思っています。快適は整った機能のひとつに過ぎません。


Installation view of Study of Perspective (1995–2003) at “Staging Action: Performance in Photography since 1960, Museum of Modern Art, 2011. Photo ART iT.

– 牧先生は、あなたの作品はもともとの機能や既成概念を取り除き、我々を自由に解き放ってくれる、といいますが、私はあなたの作品から自由と背中合わせの責任というものを強く感じます。自由と責任についてどうお考えですか?

AWW 私は自由とはとても大きな概念だと思っています。誰でもほしいことのひとつであることは確かです。つまり私たちの魂は、肉体の束縛から抜け出したいのです。魂というものは無限で、肉体はただ限りある私たちの肉体にしか過ぎません。生まれてから死ぬまで、病気、家族、生きていくこと、文字を書くなど、これらはみんな具体的な事柄です。しかし自由は、その上にあり、生命価値、世界に対してもっと広い考え方です。そしてそれは、誰もが憧れるものだと思います。だから、芸術作品あるいは社会での論争は、政治、芸術にかかわらず最終的にはすべて自由と関わっています。生命を害するものに反対し、人権と意志の束縛や制限に反対します。もっと出来る限り公平な自由の発展が必要なのです。自由の発展の意味は、あなたが1と言えば1を得るべき、2と言えば2が得られるということです。手に入れたいものはそれぞれ同じではないはずです。これが自由というものなのです。

– 長い間、中国には自由はありませんでした。それが責任という意識を薄れさせたとは言えないでしょうか?

AWW 自由は必ず責任と関係があります。なぜなら「天下没有免費的午餐的」(この世にただの飯はない)という言葉がありますね。この世界でどんな大きな自由を授かって、実際、あなたがどのくらいの責任を負うか、そういうことも自由のひとつです。責任を負ってこそ、自由は意義を持ちます。でなければ、何が自由だと言うのでしょう?自由は自由を勝ち取る努力のことです。他人からもらった自由は自由と呼べません。そんなものは、何の意味もないのです。自分の知恵、技術、そして努力で自由を獲得してこそ、この自由はあなたという人にとって意義があります。理想だけではなくて、それは自由を追求するときに感じる本当の意義です。だから抽象的な自由なんか存在しません。自由とは具体的なものなのです。

– 以前サイトで見たことがありますが、あなたは魯迅の文を読んで今の中国の問題と変わっていないと言いました。変わっていないのはどんなところでしょうか?

AWW 不幸にもそうなのです。中国は今日、世界第2位の経済大国になりました。いろいろな面において、全世界が中国に対してとても注目している様で、なかにはとても感心する人さえもいます。しかし、中国社会のある部分はまだ全く変わっていません。最も変わっていないのは、民衆の自覚です。中国人はずっと教育を受けていないのです。世界文化体系の中で団結のないバラバラの民衆は原始人だけです。
原始人というのは、文明がないということです。この国の文明は本当の発展を得られていません。そんな情況の中で文明のない、野蛮な政権が生まれているのです。
人の自由や発展の可能性を規制することを基礎にして政権を保っている。そしたら当然法を犯したり、暴力的に奪い取ったりすることができます。こんなことは相変わらず魯迅の時代から何の変化もありません。

– 人と動物の関係についてはどう考えますか?

AWW 動物に関しては人も動物であるし、我々は動物に感謝すべきだと思っています。動物は人に対して物惜しみせず、一緒に生存することを許可したにも関わらず、我々はあらゆる資源を占領しています。故に、人間は動物の天敵になってしまいました。人間は殺したいなら殺し、飼いたいなら飼う。動物には基本的には大したチャンスも与えられていません。そういう思いも含めて記録映画にしてDVDにしています。

艾未未工作室制作 DVD/CD目録

注1 如意(にょい)は、僧が読経や説法の際などに手に持つ道具。孫の手のような形状をしており、笏と同様に権威や威儀を正すために用いられるようになった。「如意」とは「思いのまま」の意味。

注2 陳 凱歌(チェン・カイコー、1952年生まれ)は中国第五世代の映画監督。『さらば、わが愛/覇王別姫』はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール受賞。そのほか代表作は『花の影』『キリング・ミー・ソフトリー』『始皇帝暗殺』『北京ヴァイオリン』など。

注3 張 芸謀(チャン・イーモウ、1951年生まれ)は中国の映画監督。また、撮影監督、映画主演もしている。1985年西安映画製作所に配属されチェン・カイコー監督の撮影を務めた。1986年呉天明監督の映画『古井戸』で主演を。1987年に『紅いコーリャン』で監督デビューし、またこの作品でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した。1992年の『秋菊の物語』と1997年の『あの子を探して』では2度、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞に輝いた。他に『初恋のきた道』、『至福のとき』、さらに『HERO』、『LOVERS』などの作品を製作した。2002年、第13回福岡アジア文化賞大賞を受賞する。2008年、北京オリンピック開会式・閉会式、北京パラリンピック開会式の演出を務める。艾未未はオリンピックへの協力を批判している。

注4 姜文(チアン・ウェンまたはジャン・ウェンとも表記、Jiang Wen、1963年生まれ)は、中国出身の俳優・映画監督。1986年劉暁慶[リウ・シャオチン]と『芙蓉鎮』で共演。さらに第38回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した『紅いコーリャン』(張芸謀監督)では主演を務めた。また、中国国内では1992年に出演した連続テレビドラマ『ニューヨークの北京人』(原題『北京人在紐約』)によって人気俳優の座を確かなものにした。1994年、初監督作となる『太陽の少年』を発表。ヴェネツィア国際映画祭主演男優賞、金馬奨作品賞・監督賞などを受賞した。2000年の『鬼が来た!』で第53回カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した。

注5 1992年の連続テレビドラマ『ニューヨークの北京人』(原題『北京人在紐約』)は姜文主演、ニューヨークで奮闘する北京人の暮らしを描いた大ヒット作。後に「東京の上海人」という二番煎じのドラマまで制作された。主人公の住む地下のアパートは艾未未が住んでいた場所。

注6 アーウィン・アレン・ギンズバーグ(Irwin Allen Ginsberg, 1926–1997)は、アメリカの詩人。ジャック・ケルアックとともにビート文学の代表者のひとり。代表作に、「吠える」。

注7 張洹(ジャン・ホワン、Zhang Huan、1965年生まれ)は安陽出身、北京東村のアーティスト。作品に「65kg」「12㎡」(1994)など。

注8 馬六明(マー・リウミン、Ma Liuming、1969年生まれ)は湖北省黄石出身、北京東村のアーティスト。作品に「芬・馬六明シリーズ」(1993/94)。1996年二パフ(次項参照)に参加。

注9 霜田誠二はパフォーマンス・アーティスト。1953年長野市生まれ。1993年から「日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(ニパフ)」を開始。

注10 艾未未らが出版した地下美術雑誌。『ブラックカバー』(1994)、『ホワイトカバー』(1995)、『グレーカバー』(1997)。多くの若いアーティストの作品を紹介した。また欧米の現代アートについても基本的な情報を提供した。

注11 朱発東(ジュー・ファートン)は1960年雲南省昆明生まれ。1994年、体に「此人出售,価格面議」(この人を売ります、値段は応相談)と書いて歩くパフォーマンスなどで注目された。

注12 左小祖咒(ズオシアオズージョウ、Zuoxiaozuzhou、1970年生まれ)は現代中国の代表的ミュージシャン。1993年北京東村に加わる。95年「为无名山增高一米」」(無名の山のために1メートル高くする)に参加。アルバムには《你知道东方在哪一边》《美国》《我不能悲伤地坐在你身旁》《庙会之旅》《左小祖咒在地安门》(日本でも発売)など。2009年艾未未作品《4851—5·12遇难学生名录》《老妈蹄花》2010年《花好月圆》《三花》《一个孤僻的人》《美好生活》の音楽を担当。ここ数年艾未未との交流は頻繁で艾未未が2009年8月、成都警察に殴打された事件《老妈蹄花》にも同行している。

注13 宋冬(ソン・ドン、Song Dong)は1966年北京生まれ。アーティスト。作品には「街を食べる」1996など。妻はアーティストの尹秀珍(イン・シウジェン、Yin Xiuzhen)。

注14 『不合作方式Fuck Off』は2000年艾未未が馮博一、華天雪とともにキュレーターを務めたグループ展。上海ビエンナーレにぶつけるように上海市内で開催した。この展覧会は、人間の本物の死体を用いた作品を作るアーティストが登場した。

注15 朱昱(ジュー・ユー、Zhu Yu)は1970年四川省成都生まれ。胎児を食べるパフォーマンスなどショッキングな作品で論争を起こした。

注16 「三花」艾未未工作室2010年6月16日制作。野良猫が捕まえられて広東に売られ、料理される様を追ったドキュメンタリー。

艾未未[アイ・ウェイウェイ]インタビュー
具体的な自由

第11号 地域性

Copyrighted Image