やなぎみわ「1924——転換期の芸術」


やなぎみわ演劇プロジェクト『1924』ポスター
All:画像提供:やなぎみわ

 

1924——転換期の芸術
インタビュー / 大舘奈津子

 

I.

 

ART iT まず『1924』を上演するに至った経緯をお聞かせください。2010年のフェスティバル・トーキョーでプロデュースした「カフェ・ロッテンマイヤー」での同タイトルの演劇作品、さらに遡れば同じ年の3月に京都芸術センターで主人となって催した「桜守の茶会」も寸劇と考えると、劇場で上演したものはひとつもありませんが、これが3本目になります。これまでの2本が現代を舞台にしているのに対して、今回は過去を舞台にしています。

やなぎみわ(以下、MY) 今回の『1924』については、京都国立近代美術館のプログラムが先に決まっていました。昨年、学芸員の河本信治さんと牧口千夏さんから美術館の展覧会予定をお知らせいただいたところ、モホイ=ナジと村山知義があったので、そのふたつを使ってひとつのテーマにならないかと思い、自主公演で演劇に取り組むことにしました。書き始めてから3月11日のことがあり、それから1ヶ月くらい脚本が止まってしまいました。そして再び書き始めたときに、やはり以前考えていたものから変化がありました。
はじめから1920年代が念頭にあったわけではなく、美術館の展覧会プログラムによるテーマ設定、そして3月11日、このふたつが非常に大きな影響を与えています。

 

ART iT 20年代を扱うことは決まっていたとはいえ、大震災が影響したとのことですが、具体的にどういう変化があったと言えるのでしょうか。

MY 正直、プロットの段階では1923年に起きた関東大震災の事は特に考えておらず、もちろんその時代であるということは認識していましたが、3・11の後に、あらためて関東大震災直後の歴史と芸術の変容に興味を持ちました。特にその後1年間に何があったかということは、築地小劇場の歴史とも重なることもあり、土方与志の伝記をはじめ、築地小劇場創設にまつわる資料を読みました。そして土方がその時にシベリア鉄道を使って東京まで帰り着くまでの間に彼の人生を左右するような出来事が起こった——それはモスクワでフセヴォロド・メイエルホリド[1]の演劇を見たことーー、それは非常に私の心に強く残りましたね。メイエルホリドの作品の記録はほとんど残っていないのですが、推測するに、それまで土方が見てきたリアリズム演劇とはまったく違う、表現主義的なもの、抽象的なものだったのではないかと思います。
興奮さめやらぬまま、シベリア鉄道の中で土方は劇場の詳細な構想を練りました。帰国したその足で大阪の小山内薫の所に行って劇場の建設を持ちかけました。日本初の近代劇場は、小山内薫以外は、みな20代の若者が作ったんですね。

 


Both:やなぎみわ演劇プロジェクト『1924』Vol. 1 “Tokyo-Berlin”(京都国立近代美術館『視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション』ならびにコレクション・ギャラリー内)2011年7月29日–30日/撮影:林口哲也

 

ART iT 今回のART iTのテーマは「革命」なのですが、直接的な意味だけではなく、誰かにとっての人生を左右する大きな出来事ということ、そしてそれに伴う表現方法の変更というところで、やなぎさんの今回の演劇作品——土方与志や村山知義という表現の「革命」を信じた人たちという部分と、ご本人の表現方法の推移、言うまでもなくこれまでのいわゆる視覚芸術である現代美術から演劇という、それも比較的オーソドックスな手法で演じている演劇への転換という部分が吻合すると思いました。

MY 震災以降、一体これまで自分が何をやってきたかということを振り返って考えるのです。どういう認識でこれまでやってきたのか、私だけではなく、各人、自分の生き方を見直しているのだと思いますが。例えば原発も何となく既存のものとして受け入れてきていました。チェルノブイリを大学生時代に経験しているので、大人になってから惨状を見ているはずなのに結局何もしていなかったということです。ここからは目を閉じることは出来ないと。もちろん目を見開くと動けなくなりそうですがそれを恐れてはいけないと。
大きな天災や人災があった後、人間の認識は変化します。ただ、そういう時に限らず、人間の認識が大きく変わる転換期というのが歴史の中に存在し、それはやはり原因があって大きく変わる。理由なくしてはありえません。太平洋戦争にしてもあれにいたるまで長い経緯があるはずなのです。日清、日露戦争を経て、長い日中戦争に入っていくまで、長い時間が経っています。そこで何が起こったのか。そういうことが急に気になりだしました。

 

ART iT 実際、文献を読んでいて、芸術家の決意は語られていますが、今、やなぎさんがおっしゃった認識の変換という事実は見つけることができましたか。

MY 認識の変換は難しいですね。1924年の頃は昂揚感のある時代だと思います。芸術と社会そしてそれぞれの変化が並行している。検閲など国家権力による締付けが日々強化されていくけれど、芸術家は皆、革命が起こせると信じていた。その時代、皆が若くて、勢いだけの使命感というのがあったと思います。
当時はどうも皆、頭に血が上っているので、例えば村山知義にしても、留学時に、ルネッサンスから、同時代の未来派、ドイツ表現主義、構成主義まで、すべて吸収して帰国しました。はっきり言えば留学した彼らは、受容力を遥かに超えたものを抱え、昂揚して戻ってくる。それをすべて消化できたかどうかは不明です。
それでも村山知義はマヴォイストの中では最も理論派で冷静であり、インプットしたことを全て消化しようと著書も何冊も執筆しています。しかし、それでも彼は美術家としてではなく——そのあたりの評価は様々だと思いますが——演劇活動家としてのキャリアの方が有名です。そうした美術から徐々に距離を取っていく姿にも共感を覚えます。彼は美術の曖昧さ、原始的な部分が受け入れられなかったのでしょうね。自分が吸収したものを全部総括して畳んで行き、表現主義にせよ構成主義にせよ、最後は「それらの限局を見た」と終わらせる。そうやって畳んで行くともう作るものが無くなってしまいます。結局、構成主義については自分の左翼思想のために賞賛するという矛盾に行き着きますが。最後まで絵本作家であって、30年代からアニメも作り、漫画も描き、小説も赤旗に寄稿するなど非常に器用な人でした。よく昭和のダ・ヴィンチなどと言われますが、詩人の小熊秀雄も村山を「エネルギッシュな千手観音」と語ってます。絵を描くのは上手かったのでしょうが、美術にではなく、思想に惹かれていた。美術の持っている、思想と芸術の間をないがしろにしていくアヴァンギャルドに彼は飽きてしまったのかもしれません。そこに有効性を見出せなかった。

 

ART iT では、村山と同じように、美術から距離を置きつつあるやなぎさんにとって、演劇活動をすることは、ひとつの消化の方法と言えるのでしょうか。そしてそれは美術作品を制作する過程ではなし得なかったことなのでしょうか。

MY 消化をしている、というのはそうですね。そして美術でできなかったかどうかはわかりませんが、現代美術につきまとうホワイトキューブを出奔しなければわからないこと、というのはあったと思います。もちろん現実的なスペースのことというよりは美術の制度全体のことですが、枠から出ないとわからないことがあったと思います。単純な対比ということだけでなく、意外とよくわかることが多いのです。

 


Both:やなぎみわ演劇プロジェクト『1924』Vol. 1 “Tokyo-Berlin”(京都国立近代美術館『視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション』ならびにコレクション・ギャラリー内)2011年7月29日–30日/撮影:林口哲也

 

ART iT 一方で、演劇というのは制約もあるようにも思えます。例えば言語の問題です。これまで海外の展覧会で作品を見せる機会も多く、視覚芸術では可能であった言語を必要としない鑑賞者の理解というのは難しくなりませんか。

MY いえ、言語についてはどうにかなると思っています。その点はあまり気にしていませんし、言語がある方が好きなのです。外国で上演する際は字幕をつければよいと思いますし、そして物語というのは言語が違っても世界共通です。言語というのは制約のように思われがちですが、私は逆だと思っています。言葉があって、物語があるから、誰にでもわかってもらえるのです。ただ、制約ということでいえば、演劇は美術よりもはるかに「身重」な表現ですよ。何と言っても人間の肉体がくっついていきますから。

 

ART iT ではやはり制度の問題でしょうか。

MY 海外で多くの美しいホワイトキューブ空間を持つ美術館も見ましたが、自分にとってはあくまでも対象物でしたね。身体化できるのは、もっと猥雑なもののようです。
ミニマルな空間は非常に好きなのですが、私自身の血肉にならない、一体化できないという違和感は残った。でも、いま演劇空間にいると、ブラックボックスの中からなら、美術も美術館も素直に愛せる気がして嬉しいですよ。
もちろん最近は、美術も既製の空間にこだわらない傾向だと思いますし、作品を存在させる空間や時間を作る試みもたくさんあって緩やかなのでしょうね。

 

ART iT 東日本大震災の際、言葉は悪いかもしれませんが、誰もが当事者意識の下、大きく昂揚したのではないかと思います。関東大震災の時も同様だったのでしょうか。

MY 今よりもずっと大きいものだったかもしれません。明治から続く近代国家形成に対して、そろそろ皆つらいなと思っていたところであり、明治天皇から大正天皇へ、デモクラシーが盛んになりつつあったところだったにも関わらず、それも天災によって崩壊してしまった。10万人以上が亡くなり、異常なデマゴーグも出回って、凄惨なことが起きているわけですが、でもそこで芸術家たちが活性化しているような気がします。元々それまで平和で穏やかな日常を送っていたわけでもありませんから、余計に突き動かされるものがあったのでしょう。

 

ART iT 今回、大震災にあたって「自分に何ができるか」、特に芸術家が感じ、口にした無力感と「芸術に何ができるか」ということも当時の芸術家も考えたということでしょうか。

MY それよりは寧ろこれまで縛られてきたものからの解放感、産業化社会への期待感の方が強かったのではないでしょうか。従って震災の翌年は非常にたくさんの作品が生み出されました。特にマヴォはかなり活発な活動を展開しました。復興のために建築法が緩んだこともあり、バラック形式の芝居小屋が生まれています。美術家が建ててしまったものもあり、築地小劇場もそれに便乗して建てられたものです。そういう意味で、社会も芸術もひたすら復興成長の上昇志向だった。そういう同時多発的、越境的で意気盛んな状態がそれから数年は続きます。しかし1928年以降の急激な変わりよう、30年代以降の揺り戻しは、国からの締め付けではない何かが存在し、文化を急速に衰退させている気がします。

 

ART iT 1988年に東京都美術館で行われた『1920年代日本』展を見ると、20年代というのは非常にモダンな時代だったということが窺えます。その一方で、今回の震災以降、何か進取の精神に富んだものが生まれるとは正直考えにくいです。

MY 震災以前の日常がまったく違うものだったからでしょうね。当時は前近代的共同体や国家権力の締め付けからの解放感がやはり大きかったのではないでしょうか。我々は、平和でまったりとした日常から揺さぶられ、目が覚めた状態です。どちらかというとこういう状況になってしまったことへ、自らの無作為な過去を恥じて懺悔する気持ちでしょう。ただし、震災が起こったことによって、物事が明快に見えるようになりました。もちろんこれは原発に起因するところが大きいとは思います。阪神大震災のときは、悲惨なことも多かったけれど復興の気運というのは立ち上がっていました。が、今回は経験したことのない複雑さを抱えています。

 


Both:やなぎみわ演劇プロジェクト『1924』Vol. 1 “Tokyo-Berlin”(京都国立近代美術館『視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション』ならびにコレクション・ギャラリー内)2011年7月29日–30日/撮影:林口哲也

 

ART iT 史実を元にしているが故に、史実に基づき、芸術家の人生の顛末を知った上で脚本を執筆するということについて、つらくはないのでしょうか。つまり人生において誰でもが経験する転向や間違いといったことが、理想化された芸術家の人生においても当然起こっていることが、リサーチなり何なりでわかる。それを自らに置き換えたときに、自らにも到来する間違いの瞬間が存在する、もしくはするだろうということを知ってしまう。

MY それは、正直なところ辛いですね。村山知義や土方与志の人生後半の苦境、そして、それ以上に重いのは、彼らの戦いの場が芸術ではなくなっていく事ですね。先日、菊畑茂久馬さんにお会いして、その著作を読みましたが、「運動が潰え、組織が消えたあとに、個が残る」というような一文がありました。まあ、その真逆のことが、村山や土方の人生で起こるわけで、そこにはどうしても触れなければならない。彼らの選択は、時代のことを考えれば当然であり、間違いではないのですが、でもやはり、日本の前衛とは何だったのかと考えますね。演劇の利点というのはフィクションであるということですが、これについてはフィクションという手はないですから。

 

ART iT 最後にやなぎさん自身が登場して、上演作の解説を行ったのは少々サービスがすぎるのではないかと感じました。

MY どうしてですか?多くの人が見に来るならアフタートークでも前口上でも何でもやります。次回の神奈川芸術劇場での公演でもプレレクチャーを2度もしますし、ワークショップもあります。より深く理解して楽しんでもらうため、より多くの人に見てもらうためのオプションです。そういうことで作品本体は何ら変わらないですよ。

 

ART iT 私は逆に、河本さんがやなぎさんとの対談[]で「何かを知るために古本屋に行くくらいの努力はしてほしい」と言ったことに対して共感を覚えましたが。

MY 私は古書が趣味のようになってますが、私の舞台を見る人が古本屋に行かなくても構いません(笑)。もちろん見た後で行きたくなる作品が出来ればと思いますが。とにかく誰もが毎日芸術のことを考えて生きていませんし、それができない人に見てほしいと切に願っています。
演劇に関して言えば、観客を増やすためのことであれば、スターを呼び、劇場が大きくなり、商業演劇の傾向が強くなることには何の抵抗もありません。ただ、所帯が大きくなり、完全分業化し、自分でコントロールできることが少なくなって当然個人性は欠けていきます。いずれにしてもまだその段階は遥か遠くそのときはそのときということで、今はどうやって客を増やすかを考えていますよ。
美術において、もちろん展覧会の質を落としてわかりやすくしろ、と言っているのではありません。展覧会をわかりやすく説明する努力をもっとしてもよいのだろうと思うのです。それはボーダーライン上にいる特に若い人たちが沢山いて、もう少し背中を押すと、美術に興味を持つ鑑賞者が確実に増え、層がずいぶん厚くなるのにという忸怩たる思いがあります。演劇にも現代美術同様、難解な演劇が存在します。既存を逸脱し、新しいことを行おうとすると、美術と同じく、物語は解体され、具象性は消え、発語発話も無くなり、虚実はさらに混同し、始まりと終わりもはっきりしない。それでもエンターテインメントです。そうした難解な演劇の演出家ほど、観客サービスへの努力を怠っていませんね。

 

ART iT 現代美術においても、作品理解に向けての努力を怠っているとは思いません。最近の美術館は、良し悪しは別として、なるべくわかりやすい展覧会や展示を心がけており、その方向を目指しているのではないでしょうか。そして、おそらく多くのアーティストも、作品を作ったら見てほしい、読み解いてほしいと思っていると思います。

MY 演劇に観客がひとりでも多く必要なのは、美術と違って舞台は一期一会なので必死で「種」を残そうとするからでしょうね。美術は少数の理解者がいればモノが長らえていくという安心もあります。
演者と観客という生身の人間が直に向きあうと、てきめん人は感動したり不快に感じたり、反射のように強い反応が返ってきます。人がモノに歩み寄って理解を試みる美術よりもずっと観客との対峙は厳しい気がします。

 


 

[1] フセヴォロド・メイエルホリド(1874−1940)ロシアの脚本家および演出家。実験的な演劇を数多く上演。1917年のロシア革命を、革新的な演劇への好機と捉え、共産党に入党するなど、革命に積極的に参加、革命後は党の演劇部門を率いる。

[2] 「鑑賞者の側も、展覧会に行けばネットで検索できる程度の解説が出てくることにあまり慣れ過ぎないほうがいいのではないかとも思います。自分の疑問に対して、古本屋で立ち読みして調べる程度の、身体的、時間的な努力はあったほうがいいのではないかなと思っています」(河本信治 『マイ・フェイバリット』展 関連企画 やなぎみわ×河本信治 対談 (2) パブリックスペースとしての美術館:美術館は開かれるべきかより)

 


 

やなぎみわ インタビュー(2)

 

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