ケリス・ウィン・エヴァンス インタビュー(2)

今この場において(ヒック・エト・ヌンク)——翻訳(トランスレーション)の向こう側の錯乱(デリリアム)
インタビュー / アンドリュー・マークル

 

II. 座せる王妃
ケリス・ウィン・エヴァンス、poetical(詩的)とpolitical(政治的)の狭間について

 


Installation view of “Bubble Peddler” at Kunsthaus Graz, Austria, 2007. Photo Lackner, © the artist, courtesy Kunsthaus Graz, Austria.

 

ART iT 翻訳というものがあなたの思考において果たす役割、そして東京での言わば「畏敬的」な不理解の経験の話をしました。あなたが作品で文章をモールス符号に置き換える行為は、翻訳なのでしょうか? それとも単に情報の伝達なのでしょうか?

ケリス・ウィン・エヴァンス(以下、CWE) 意図的かつ屈折した行為であります。モールス符号とは言葉を暗号化するひとつの方法で、言ってみれば、シャンデリアの文章を実際にそのまま読んでもらいたいわけではなかったようにも思えます。元の文章を非常に忠実に捉えられている方々が私のやっていることに対して異議を申し立てるという状況もありましたが、私にとってそれらの文章の役割とは、一定量の情報を(メディアマティックなかたちで)伝達することです。モールス符号は、要するにアルファベットの文字を一連の点と線に置き換える2進法の電子信号システムです。現在のコンピューターの多くが使う2進法と大差ありません。他にもっと良い言い方があるのではないかとは思いますが、鑑賞者の思考において想像力を解放するための試みとして故意の無意味とも呼べる領域に入るというのはとても興味深いことでした。鑑賞者——作品を体験している人——にテキストの解釈のあらゆる可能性を提示できるような度量の広さを心掛けました。新たな空間を切り開くのです。また、unheimlich[訳註:翻訳不可能なことで有名なドイツ語の単語。不気味、ぞっとする、不穏、不快など]なことについて考えさせられる側面もあります: 何かが伝えられている。人間の一生涯を超越できる声もあるのかもしれない——それはもちろん文学にできることですね——幽霊は本当にいるのかもしれない。

 


‘Against Nature’ by J.K Huysmans (1884) (trans, 1959) (2003), 4 Boalum lamps, flat screen monitor, Morse code unit and computer, dimensions variable. Photo Stephen White, © the artist, courtesy Taka Ishii Gallery and White Cube.

 

ART iT ヒーローやヒロインが星座として永久化され、イメージの中に物語が内在する一種の表意文字となる古代の神話も思い出します。

CWE 全く同感です。もうひとつ、目からうろこが落ちるような体験となったのは南半球から夜空を眺めることでした。私たちが知っているものと全く異なる、深く、根本的な重要性を持つ神話的な宇宙論が存在することを改めて思い知らされます。

昔、何年も前にカシオペア座にまつわる作品を作ったことがあります。カシオペア座とは「W」のような形をしている、オリオン座というまた別のいわゆる「星群システム」の研究において非常に興味深い星座です。これは欧州原子核研究機構(CERN)との議論の中で挙がった話題でした。宇宙論に関しては、物質物理学者もいれば、より伝統的な電波天文学のシステムに近い人もいます。観測者の視点を元にしたカシオペア座の群化という概念自体が非常に面白いです。私たちは言語という作用を通して上空の「W」として読むのですが、もしアルキメデス的な視点から見ることができたとしたら、「W」として見ているその形は実は何十億光年もの間に広がっているのだということに気付くでしょう。星座の認識とは言語の一番最初の原型なのではないかと思います。古代言語学について決して詳しくありませんが、星座を多くの人にとって認識可能かつ共有可能な上空の語彙目録と捉えることは間違いなく可能ですし、それこそが言葉の初期的な形態、もしくは言語以前の言葉なのかもしれません。

 


Still from Firework Text (Pasolini) (1998), Super 16 mm film, duration 15 min. Photo © the artist, courtesy Taka Ishii Gallery and White Cube.

 

ART iT 「Firework Text (Pasolini)」(1998)など、テキストを使う他の作品も『シャンデリア』シリーズと同じような言葉との関わりを持っているのでしょうか? それともまた違う問題を扱っているのでしょうか?

CWE 違う問題を扱っていたのだと思います。というのは、『Firework Texts』のシリーズ——「Firework Text (Pasolini)」以外にもいくつか作りました——はある意味もっと政治的でした。偉大なる美術家マルセル・ブロータースの言葉に「Carte du monde politique(政治的な、つまり国境を示した世界地図)」ではなく「Carte du monde poétique(詩的な世界地図)」というのがあります。Poetics(詩学)とpolitics(政治)との間にはほんの少ししか差異がありません——そのことをお忘れなく。でも『Firework Texts』は特にピエル・パオロ・パゾリーニと関係があった作品だと思います。パゾリーニの殺人事件は大々的に隠蔽されたのではないかという気がしてならなかったのですが、実際、パゾリーニの殺人犯として有罪判決を受けた男が供述を撤回したため2005年に調査が再開されました。
私は当時、パゾリーニの人生に魅了されていました。イギリス人映画監督デレク・ジャーマンにパゾリーニの作品を紹介してもらってから、その世界にどんどん深く関わるようになっていきました。幸運なことに、ローマで俳優のフランコ・チッティや映画監督のセルジョ・チッティなど、パゾリーニととても親しかった人たちに会う機会もありました。

パゾリーニ関連の作品は、ループする暗喩、もしくは比喩の一種のつもりでした。何かを実際の場所にマッピングしたかったのです。仮想と現実との概念の話を始めたくはありませんが、これはパゾリーニの人生のある瞬間を呼び起こすかのような行為でした。さて、ここから話が少し複雑になります。パゾリーニはやや自己陶酔的にオイディプスの神話に自分を重ね合わせていました。ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』を映画化したとき、パゾリーニはオイディプスの出生地をリヴェンツァ川沿いのフリウーリ、つまり自身の出生地に設定したのです。

ここがモールス符号の作品と異なるわけですが、この神話との自己陶酔的な共感を彼の殺人現場というおぞましい場所、ローマ近郊のオスティアの砂浜に刻み直すような行為にこそ意味があるのではないかと考えていました。そういう意味ではパゾリーニへのオマージュ、あるいは奉納供物としての作品なのです。

 


Before the Flowers of Friendship Faded Friendship Faded (After Gertrude Stein) (2000), firework text supported by wooden frame, 1375 x 30.5 cm. Photo Stephen White, © the artist, courtesy Taka Ishii Gallery and White Cube.

 

ART iT では、politics(政治)とpoetics(詩学)との違いに関しては、この作品の政治的な意味はいうなれば文字どおりのslip of the tongue(言い間違い)だったのでしょうか。

CWE 文字どおりのslip of the tongue(言い間違い)など可能なのでしょうか? 文学の話をするなら、件の翻訳の問題に戻ります。何故かというと、文学において意味は当然中心的な役割を担っているので、その翻訳はひとつの意味のあり方とまた別のあり方との間のslippage(ずれ)を探索する行為以外の何物でもありません。例えば、ウェールズ人によるとウェールズ語には他の言語に翻訳することは不可能な言葉もあります。日本の文化における例を考えてみましょう——日本人たる者の本質的な何か、例えば「わび・さび」の概念。このような概念は本質的にある種の翻訳不可能性と関わっています。何かに対する直感的な感覚であり、うまくいけばその感覚を伝えることはできます。でも伝え得るかたちは実に様々です。

 

ART iT 他にもこのようなpoetics(詩学)とpolitics(政治)とのslippage(ずれ)のある作品は作っているのでしょうか?

CWE 私にとって全てのことがそれにあたります。何もかも、全く全てのことです。私たちは常に愛されたい気持ちと愛したい気持ちとの狭間にいると言えます。思いやり、愛情、心配りを示すことができるのはpolitical(政治的)であるということ。愛されることができるのは、まぁ、poetical(詩的)なのではないでしょうか。なんて、私は一体何を言っているのでしょう。今日はよっぽど機嫌が良いんですかね。

 


ケリス・ウィン・エヴァンス インタビュー
今この場において(ヒック・エト・ヌンク)——翻訳(トランスレーション)の向こう側の錯乱(デリリアム)
I. われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを | II. 座せる王妃 | III. 不意打ちの疎外感

第5号 文学

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