写真は抗う:志賀理江子との一日
文/アヴィーク・セン
Angry Lily (2007), from the series “Canary.” Image © and courtesy Lieko Shiga.
写真行為の構造は唯一、生と死に似た経験だったのだと思う。自らの手を汚さず、その疑似体験に身を浸していた。
—志賀理江子『カナリア門』
砂のがわに立てば、形あるものは、すべて虚しい。確実なのは、ただ、一切の形を否定する砂の流動だけである。…… この美しさは、とりもなおさず、死の領土に属するものなのだ。
—安部公房『砂の女』
I.
彼女に初めて出会ったのは、2009年、当時29歳だった彼女が国際写真センター(ICP)のインフィニティアワード新人賞の授賞式のため、ニューヨークを訪れたときのことだった。わたしにとっても、彼女にとっても、初めてのニューヨークであった。彼女の英語は完璧ではなかったし、ましてわたしの日本語はまったくゼロという状態であったが、写真的デジャヴュというか、どこか非現実的な状況を感じ取るお互いの感覚で、わたしたちふたりはすぐに仲良くなった。恥ずかしがりやで、少女のような彼女とは、朝の食堂でほんの少し話をするだけだったが、ある午後、彼女がわたしのところにやってきて、授賞式用のフォーマルな衣装をまったく持ってこなかったのだと不安そうに打ち明けた。わたしの持っていたユニセックスの民族衣装をいくつか試したが、それらはやはり彼女には大き過ぎた。この数日間で、彼女が東北に住んでいるのだという話は聞いたものの、作品についてなにかを話すことはなく、なぜならそれを聞くことはどこか彼女を不安にさせるのではないかとも感じていたからかもしれない。今回、彼女との再会で、あのニューヨークで会ったときの内気で控えめな姿を思い出し、それは彼女がその場所で始めた制作の重要な前提条件なのかもしれないと考えるようになった。
ニューヨークを発ち、コルカタに戻ると、彼女から画像が添付されたメールが送られてきた。そこには、松林を背にした海岸に、白い四角い箱のような、プレハブで建てられた彼女のスタジオが写っていた。彼女が送ってくれた写真集『Lilly』(2007)では、ベサニーという名の少女がロンドンの公営住宅に座り、カーディガンをひろげて、腹部の暗闇を見せている。ベサニーの穏やかな表情は、アンネ・フランクを想起させ、顔や体のまわりを光点の集積が飛び回り、暗闇の中に懸濁している。事務所に届いた『CANARY』(2007)は、夢も骸骨も朽ちた花々も積み込んだ、シュールレアルな船のようなもので、個人的でありながら、個人を超越した場所、物語、儀式から生じた、宇宙そのものとして在る。それを見ながら自分はまだ、そこへの鍵を手にしていないのだと感じたのだった。2011年3月、わたしは再び海岸沿いの彼女の白い箱のことを考えずにはいられなかった。信じられない高さの海が東北地方沿岸部一帯を飲み込んでいく様をコルカタの自宅のコンピュータで見ながら、微動だにできなかった。彼女にメールを送ると、携帯電話から「沢山の人が死んでしまった、今は避難所です」と返信があった。その数ヶ月後に彼女から届いたメールには、村の公民館に3万枚もの写真があること、避難所から仮設住宅へと移るところなのだとあった。印画紙が海水に反応し、そこに写る日常の風景の直中に突如炎が発生したかのような画像がそこにはあった。
「印画紙が証拠品となる」
2011年10月25日、わたしは彼女に会うために仙台へと向かっていた。同行した友人が、昨年はじめに出版された『カナリア門』(2010)の文章を簡単に英訳して聞かせてくれた。『CANARY』へと立ち戻って、再撮影された小さなプリントが、右頁に貼付けてあり、撮影時、各イメージがどのように生まれ、彼女自身の内的世界へと戻っていったのか、思慮深く振り返った文章が左頁に記されて構成されている。その文章は所々かすれていて、読みづらい。全体は薄い繭のような袋に入っていて、本を取り出すには、その袋を破かなければならない。文章を読んでくれていた友人が、ふと、読むのをやめ、ちょうど福島を通り過ぎているところだと教えてくれ、本の続きも新幹線の外の景色も気になって仕方がなかった。ふと、証拠品としての写真の物質性だけでなく、その物質性やさらには時間そのものも逃れていくイメージ固有の空間に彼女が取り組んでいるのではないかという考えが頭をよぎった。「私という死に向かう、流れる時間そのものに対し、止まった時を作る行為は祈りに似て、」と写真集『CANARY』の帯に彼女が記した言葉の意味を、彼女自身が実感したのは『カナリア門』を制作しているときではなかっただろうか。2007年と2010年、『CANARY』と『カナリア門』、証拠品としての写真と祈りとしての写真、ふたつのあいだにあるもの。彼女と話し、新作を見て、かつて彼女が生活していた場所を車で走った今回の旅を経て、わたしにもようやくわかりはじめてきた。
背後に聞こえた電化製品のセールを宣伝する録音された女性の声がなければ、仙台駅で彼女を待っているのは、バーミンガムかマンチェスターのショッピングモールの入口に立っているようだった。その興奮気味の宣伝が、カッコウみたいに約15秒間隔で、終わるかと思えば、また頭からと何度も繰り返される。その声に頭がおかしくなりそうなところに、予期せぬ方向から彼女が駆けつけてきて、いたずらっぽく、力強い笑顔で挨拶をした。当日、ほぼ一日中、録っていた音源から、昼食をとったお店の呼び鈴や、人っ子一人いない村のカラスの鳴き声、砂を踏む足音、ゆっくりと近づいていった海の波音、そうしたものに混ざって、彼女の笑い声が聞こえてくる。コルカタに戻り、ほぼ百年も地震を経験していないこの土地に建てられた家で文字起こしをしていると、彼女の快活な声は、語られる話の困難さ、痛ましさに比して、こちらを戸惑わせるような軽さ、あるいは希薄さというべきか、を感じさせる。彼女の声には、残された者の想起との葛藤と、ビジュアルアーティストとしての言葉との格闘が共存していた。しかし、その声には、計り知れない喪失による奇妙で解放的な力と同時に、自身のアートをこの喪失へと帰着させはしないという非感傷的な決意も顕われていた。
II.
ヨーロッパのレジデンスを経て、三年前に帰国した彼女は、『CANARY』の制作で幾度か訪れていた宮城県に住めないかと考えていた。そこで、仙台空港に降り立ち、家を探し始めると、彼女はある地域の海岸の美しさに惹かれ、松林の立ち並ぶところまで来て、その場所と恋に落ちてしまった。そこは北釜と呼ばれる地域だった。そこで空き家がないかと尋ねて、自身を写真家であると紹介した。そんなことなど今まで一度も経験したことがなかった地域の人々は困惑し、元公民館長のところへと彼女を連れて行くと、彼は文化的なことに明るく、町内会長のもとへと彼女を連れて行った。館長はふたつの考えを話した。ひとつは、この地域にはこれまで色々な行事を記録する人がいなかったので、その記録を任せてはどうかと。そして、会長は、空き家を手配した。その家の持ち主は、好きなように使ってくれていいけど、古い家だから気をつけるようにとその提案を了承してくれた。こうして彼女は地域公認の写真家となった。それは彼女にとって、新たなアイデンティティであり、アーティストとは異なる肩書きとなった。これまでとは異なる技術が必要とされ、最初はすごく神経質になったものの、地域の暮らしや空間に慣れていくためにも、この新しい仕事が役に立った。それから約一年半の間は、地域の行事などを撮影する技術の習得に集中したり、神社の遺影の整理や古い石碑の写真をデータにしたり、自身の制作はほとんど行わなかった。写真は彼女を地域へと導き、アーティストとしての彼女は宇宙人のようだった。
自然の中で暮らした経験がなく、小さな街で育ったアーティストにとって、コミュニティ内で宇宙人として存在することは純粋に楽しいことでもあった。狂気と混沌を孕む面白さ、それはまさに誰もが彼女の生活と作品に対して思いつくことだろう。だが、即座に関係を築ける素直さを持ってしても、彼女の眼に写る、地域の人々やその変わりゆく関係性の複雑性や計り知れなさが軽減されるわけではない。彼女にとって、彼らは生活や歴史ではなくむしろ、言葉や身体を委ね始めた「語る身体」として存在している。彼女はそれに惹かれると同時に、それこそが、コミュニティで制作する倫理や感情に対する、アーティストとしての距離や自由について慎重に考えさせるものとなった。北釜の人々は、徐々に公式写真家としての緊張感から彼女を解放させようとし、彼女自身もまた内気さや恥ずかしさといったものから脱却し、カラオケを一緒にするようにもなった。「カラオケで歌うことは大事」と彼女は話してくれた。公民館での会合、夏祭りや秋祭り、敬老の日、運動会、ゲートボール、飲み会、神社の儀式、季節の花々を撮影した。
一年以上、村での仕事はアーティストとしての彼女の制作とは別々に存在していたが、村の人々にとって、アートとしての写真と記録としての写真に違いはなかった。ある日、彼女のもとにひとりのおばあさんが訪ねてきて、遺影を撮ってくれないかと訪ねた。その写真を仏壇にあげておけば、家族がこの写真が遺影用の写真だとわかってくれるだろうと。おばあさんはまだまだ元気そうだったので、そうした申し出に彼女は驚いたのだが、自転車でやってきたせいで、髪の毛が乱れていたおばあさんの髪を彼女が梳かし、撮影を行った。撮影に新たな質の儀式が加わり、彼女はなにか一線を越えたように感じた。その頃から、地域公認の写真家としての仕事と自身のアートとの境界線は揺らぎはじめた。
地域の人達は、彼女の異質性を必要なものだと考えていたかもしれない。アーティストとしての彼女の倫理との関係は、人類学者や歴史家のそれとは根本から異なっている。しかし、「語る身体」との長期的な出会いは、ほとんど偶然に巡り会った場所への愛に根ざしていて、作品が彼女と地域の人々が交差する点となっている。彼らを遠ざけるのではなく、むしろ、彼女が彼らとともに作り出すアートの説明し難いものこそが、新たな関係性の基本となったのである。アーティストである彼女も、地域の人々も、イメージが何を意味し、どこからやってくるのかについて等しくわからない。これこそ、アーティストが対象と分かれるのではなく、結びつくという新しいゲームとなった。彼女が強く関心を引かれたのは、地域の人々が作品制作の各工程を楽しみながらも、決して理由を尋ねてこなかったことである。彼らはただどのように彼女が制作し、何が次に起こるのかだけに興味を抱いていた。もちろん興味を示さない人もいる。イメージ以前の世界にいる、だからこそ、誰も理由を聞いてこなかったのだろう。
III.
アートとはなにか。写真とは。自分たちや他人に起きた出来事を受け、わたしたちを写真やアートへと向かわせるもの、また、それを抑えるものはなんなのか。北釜を海へ向け走る車の中で、心や眼に浮かんだこうした最も基本的な問いを話し合うのは不可能なことだった。破壊されたものが海と空と渾然と混ざり合い、ぞっとするほどフォトジェニックな風景に囲まれていた。偉大な文学、アート、映画の記憶とともに、モダニズム、ポストモダニズムのあらゆる美が、目にしているもの、空気、光、音と静寂、感情、想像の中に見出され、喚起された。ここに訪れた写真家は、目を見張るような写真集のために十分な写真をその日の終わりに手にするかもしれない。ロバート・ポリドリや、ハリケーン・カトリーナの後のニューオーリンズを撮影したミッチ・エプスタインのように。しかし、彼女が見せ、語ってくれたものは、それらとは異なるものを必要としていた。それには、継続的な再調整や判断の微調整が必要とされ、感情や想起を倫理的、実質的、美的なものから分けられない。彼女にとって、地域は突然現れて、突然消えた。ふたつの人為の及ばないものの間で、地域の公式写真家であり、アーティストである彼女は、持ち主不明で、発見された写真の世界に立たされている。北釜に100世帯あり、各家族がそれぞれ1000枚の写真を持っているとすると、地域の人々やボランティア、自衛隊の協力のもと、瓦礫の中から公民館へと集められたおよそ3万枚の写真は、村の失われた写真の総計の30パーセントにあたる。
空港が近いために、彼女の住むこの一帯は、素早く交通整備や瓦礫の撤去が行われた。彼女にとって、震災後の北釜は3つの異なる空間が繋がった場所である。まずは、墓地、神社に隣接する公民館。彼女はそこに集められた地域の写真やそのほかの所持品を洗浄し、分類している。次に、かつて彼女のスタジオがあった海岸。最後に、地域の人々や彼女が現在住んでいる小規模の仮設住宅群。赤十字やIKEAによる家具が備え付けられた現在の住まいは、彼女の新しい「アーティストレジデンス」で、これまでで最も贅沢な環境だと彼女は言う。極限状態での冗談は、彼女がはじめて北釜に戻り、家の惨状によるショックを受け入れるのに必要だった。彼女は、ものをほとんど、もしくは何も持たずに生活することにすぐに慣れていった。
芝生が生えていた彼女のスタジオ周辺は、津波によって砂で埋もれていた。彼女はそこに、かつてのアーカイブが保存されていたハードディスクが壊れて埋もれているのを見つけた。彼女自身の作品の一部のデータは、東京のラボに保存されていた。すべてなくなってしまうことに比べれば、自分自身のデータはずいぶん残っていると彼女は感じていた。仮設住宅での生活は深刻な不確かさに覆われていて、その多くは政府の復旧に対する透明性の欠如からきている。いったい、仮設住宅からどこへ移るのか。これまで住んでいた場所なのか、それともどこか別の場所なのか。既にどれだけ被爆し、被爆し続けているのか。こうした状況下で、彼女のような若い人々は、自分たちの生活が突然、不可避的に政治的なものへと変わっていることに気がついている。
彼女が北釜に移り住んだとき、町内会長が一年に数ヶ月しか使用しない町営プールの更衣室を簡易のアトリエにしたらどうかと提案してくれた。かつて、彼女のスタジオがあり、今は折れた松が並ぶ砂浜を歩いて辿り着いたプールは、青く、どこか夢のようで、水と砂と魚が溜まっていて、更衣室は消えてなくなっていた。彼女は毎日ここに制作にきている。彼女は砂の上に同心円を描き、撮影用の小道具として折れた松を黒いビニールに包み、「プライベートビーチとプールみたい」と笑っていた。海まで数メートルの距離、右手の福島の方角へと延びる古い防波堤は、まるでリチャード・セラの作品のようでもある。破壊された車や放置された船が点々と並ぶ様は、ジョン・チェンバレンやアンゼルム・キーファー。沈んだ突堤はロバート・スミッソン。山を背にして、海に向かい合うということは、アメリカに向かいあうということ。冬には海岸がしばしば雪に覆われる。月光のもとで、雪の海岸と海は、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ。そして、北斎。その景色はどこでもないと彼女は言う。「どこでもあり得るし、どこでもあり得ない。ある場所へ行き、デジャヴュを感じる。そう、ニューヨークで感じたような、この街を知っているという感覚。でも、ここに来たときに、デジャヴュは感じられなかった。それはわたしにとって、まったく新しく、なにもない」。
しかし、この奇妙な極限における軽さは、公民館に着くと消えていった。公民館はもはやドアや窓ガラスはなく、時計は津波の達した時刻を指したままだった。何人かの家族が避難用に使ったのであろう、鉄製のハシゴが屋根に掛けられていた。入口のところに彼女の電話番号が記されていて、所持品を取りにきたい人や、見つけた物を置いておきたい人が彼女に連絡をとれるようになっていた。あまり広くはないが、ステージ付きのメインホールには、傷ついた家族アルバムや一枚一枚の写真が積まれたテーブルがある。床から彼女の手が届く限りの高さまで、壁伝いに紐が張り巡らされ、洗浄を済ませた写真が乾燥のためにクリップで留められている。天井は不安定な様子で、なにかの破片や埃がテーブルの上の写真の上に層を成し、埃を払い続ける必要があった。人々の生活の非常に個人的で大切な瞬間が、公的な廃墟空間と限りなく非情で、限りなく愛に溢れたものの静寂の空間に放り出され、ある種の畏怖すべき展覧会のようだった。その他の部屋には、救い出された人形、テディベア、おもちゃ、ランドセル、賞状、仏像、記念品、時計、カメラなどが、机の上や箱の中にきれいに仕分けられている。地域で一番強固な垂直の構造物だと証明された墓石が並ぶ墓地や神社が、窓ガラスが粉々に砕けた大きな窓にフレーミングされている。
いくつかの部屋にあるすべてのものは、救出されていると同時に、廃棄され、処分されていて、そしてまた、計り知れない価値を持っている。最も平凡なものでさえも、不思議で耐え難い意味に溢れている。これらの部屋で、アートについてしきりに考えている自分に気付き、何度もそれを恥じた。彼女にとって、こうした復旧作業は常に判断が要求された。この廃墟から、何を選び出し、何を処分するかなど、いったい誰が決められるだろう。いつまでこのまま保管していられるだろう。放棄されたものをどう扱えばいいのだろう。確かなことなどあるのだろうか。彼女は地域の大多数を知っていて、洗浄し、乾燥させた写真に写るのが誰なのかなんとなくわかった。写っている人々を認識するだけでなく、これらの写真を扱うことで、人々の背後にある時間の回廊が彼女の前に切り拓かれた。「写真を通して、家族の記憶や人生を『再経験』することになり、しかもそれを大量に経験し、まるで100年分生きたように感じた」と彼女は語った。彼女は仮設住宅で誰かの思い出話をよく聞いていて、ときに、彼らが話す出来事を既に写真で「経験」していたことを思い出し、それを告げるといっしょに笑った。フィルムを扱う会社がアルバムを提供してくれて、その他の援助も提案してくれた。その多くを彼女は喜んで受け入れたが、この状況が企業PRのために利用されないようにと慎重にならなければいけなかった。
「一枚の写真の価値は変化し続ける。写真はすべてに抗う。しかし、同時に写真は何にでもなりうる」と、彼女は話した。
IV.
その日の終わりに、彼女の仮設住宅でお茶を飲みながら、わたしたちはみな一日でずいぶん歳をとった気分だった。その日見たことや聞いたことは簡単なことではなく、彼女が言ったように、「とても尊く、とても重いもの」である。そうしたこととアートとの関係性をなんとかしなくてはならないが、殊に簡単なことではない。心暖まる人情話を求めるジャーナリストとして、彼女のもとを訪れたのなら、事はもっと単純だっただろうか。さまざまな所持品とともに、カメラを失ってしまった彼女が、別のカメラを手に入れるひとつの手段として、新聞社に打診して、プレスバッチとともにカメラを工面してもらう方法があった。しかし、もし彼女がそうしてしまったら、地域の人々との間に間違った距離が生まれてしまっただろうから、彼女にとってそれはあり得ない選択肢だった。けれども、彼女をその地域のコミュニティの一員として見たところで、彼女が、地域に入り、人々とともに制作した作品を、身体的にも、知的にも、形式的にも、どのように発表するのかについて、なんら容易になることはない。「交差する点」という考えは、彼女にとって未だに決定的なことである。しかし、アーティストと世界との交差する点として見えてくるのは、もはや写真家ではなく、写真そのものなのだ。彼女にとって、写真家と写真との最も直接的な関係とは、その物質性を通したものである。印画紙、その脆弱性や皮膜に抗う力である。彼女が展覧会という公共空間において、さまざまな方法で捉えようとしているものこそ、この身体性なのである。しかし、この親密性を伝えようとする彼女のどんな試みも、これまでうまくいっていないと彼女は言う。彼女にとって、イメージを額装し、壁にかけることは、現時点では納得のいかない選択肢のようで、額装していない写真を壁に立てかけて並べた展示の、墓石のように垂直に立ち並ぶイメージを気に入っていた。壁に斜めに立てかけられる彼女の作品はシンプルすぎるかもしれなかったが、彼女は、作品を観ている人々に、彼らの身体の垂直性を疑ってほしいと考えていた。垂直に写真を置く振舞いはどこか、遺影撮影のために訪ねてきた小柄なあのおばあさんの振舞いにも似ている。
皮肉にも彼女は汚れ、傷ついた写真をデータへと復元する作業に多大な時間を費やしているわけだが、写真と彼女との関係における身体性にもかかわらず、彼女はその写真の物質性が単純に時間と結びつくことを拒んでいる。「写真を撮るということは、時間の存在しない空間を作り出すことである。そこには、過去も、現在も、未来もない。その時間の存在しない空間を作り出していくことは、わたしにとって儀式のようなものである。だけど同時に、自分が時間を求めていることもわかっている。時間から逃れることはできない。それがわたしの人生であり、運命だ。でも、この写真に写る女性、わたしは彼女を知っている。彼女は見えない目でわたしを見つめ、わたしは彼女を見つめる。彼女が何処から来たのかわからない。わたしにとって、それは謎のまま。彼女は未来からわたしを見ているのかもしれない。とあるところから見ているのだろうけど、そこがどこなのかわたしにはわからない。それでも、わたしは知りたい、そしてその空間に行ってみたい」。
その時間の存在しない空間に込められた知識の形態は、彼女にとって、イメージを凌ぐ、世界へ向けたより複雑な提示法を必要としている。彼女は、地域で制作した作品を展覧会用の写真としてではなく、一連のレクチャーの中で見せている。そのレクチャーは、彼女自身の物語や、文化人類学的な意味での村に関する話を超えた、写真における儀式的空間への広い理解へ向かう彼女の作品に関するものである。それらのレクチャーのひとつには、「写真は抗う」というタイトルが付けられている。展覧会はこの一連のレクチャーの後に控えている。北釜に関する本は、レクチャー、写真、そして、なんらかの言葉の本の3部からなるだろうと彼女は考えている。なんらかの言葉の本という選択肢は、わたしたちだけでなく、彼女自身も予期せぬものだったかもしれない。フィクションをアーカイブへと混在させることで初めて、彼女は地域で失い、見つけたものの深く、大きく、混沌とした真実の全貌を掴み始めるのかもしれない。
写真は抗う:志賀理江子との一日
文/アヴィーク・セン