モビリス・イン・モビリ
インタビュー/アンドリュー・マークル
I. ありふれた風景に潜むもの

ART iT インターネットはわたしたちの知識との関係性をどのように変えてきたのでしょうか。現在では、すべてではないけれども、かなりたくさんの知識に簡単に接することができます。ある意味、それは知識を自明なもの、あるいは平凡な風景に隠れたものにします。このような状況とあなたの作品の機能の仕方の間には、似たようなものがあるのではないでしょうか。例えば、あなたの作品の多くは、明確ながら必ずしも自明とは限らない方法で、さまざまな形式の知識を再分配する。また、鑑賞者は各作品との関係性において、どこまで深く関係性を築いていくか選択していく。あなたが制作において意識的に取り組んでいるのは、このような自明性のメカニズムなのでしょうか。
ライアン・ガンダー(以下、RG) それは興味深い指摘です。わたしには、実際に人々がインターネットで情報を発見しているとは思えないのです。インターネットは編集されているわけではないので、最終的に興味のない、関連性のないものを大量に手にしてしまうこともあります。それに加えて、ある事柄からまた別の事柄へと飛んでいくハイパーリンクという概念は、リサーチに対して反作用するもので、あなた自身もある事柄からまた別の事柄へと絶えず移らされてしまう。わたしは、会話やコミュニケーション、人間の本能的な情報伝達方法を通して、人々は情報を得ているのだと感じています。物語、例えば、バーで友人と会ったときに聞くような、そうした物語を通して人々はある概念に興味を持ち、それから、それを確認したり、拡げたりするのにインターネットを使うのです。インターネット上のすべてのものは必ずしも真実である必要がないので、確認したものもまた曖昧だったりしますが。
そういう意味では、“ありふれた風景に潜む”という考え方は、わたしの作品を上手く捉えていますね。わたしの作品はそのようなバーの会話に似ています。面白い物語を背景に持つ考えや事柄に鑑賞者を引き合わせておきながら、彼らを常に自分でその背景を調べるよう取り残す。それ自身で語るような作品を作っても仕方がありません。なぜならそれは単なる図解であって、アートではないからです。
ART iT あなたの作品の中のフィクションとノンフィクションとの衝突における参照性や引用、関連性についてはどうでしょうか。
RG アーティストには、必ずしも真実を言う必要はないという特権があります。ニンジンを描いて、これはオレンジだと言うこともできます。想像力を用いる自由、これもまたひとつの特権です。まるで、子どもがベッドを海に浮かぶいかだだと、床に転がる靴下をサメだと空想するようなものです。普通、わたしたち大人はそんなことはできませんよね。
ART iT そうだとすれば、作品によって再分布される知識に対し、アーティストに責任はないのでしょうか。例えば、あなたはテオ・ファン・ドースブルフやピエト・モンドリアンといった実在した人物を引用したり、彼らの作品の要素を盗用したりしていますよね。例えば、イケアのテーブルを積み上げた「Samson’s push, or No VI / Composition No. II」(2011)や、幾何収差を取り入れた色彩設計を組み込んだプレキシグラスを配置した「Your present time orientation (Second Act) – Random abstraction」(2011)があります。
RG 例えば、J・G・バラードのサイエンス・フィクションを読むときにその内容を知識として捉えるでしょうか。そうはしませんよね。なぜなら、それはフィクションだからです。わたしの作品も同じです。彼が20世紀を代表するような小説を執筆していたとき、そうした知識に対する責任のようなものを感じていたとは思いません。わたしは歴史を図解しているわけではありません。わたしが制作しているのはアートであって、それは真実でなければいけないなんてことはありません。
事実に基づく知識や証拠、そしてドキュメンタリー写真、自伝、図解のような事実に基づく実践といったノンフィクション。コンテンポラリーアートや小説といったフィクション。それらに対してわたしが現在手に入れようと挑戦しているのは、ノンフィクションとフィクションが混ざり合う平行可能的世界と言えます。作品内において、リアルだけれど人間ではないミッキーマウス、リアルだけれども既に亡くなっているモンドリアン、そしてわたしの父親の全員が同じ部屋で互いに出会えるのです。フィクションとノンフィクションのあらゆる領域のコラージュを手にして、なにがリアルでなにがリアルではないのかを決めるのは、鑑賞者の自由なのです。制作するわたしの立ち位置からすれば、すべてがリアルです。わたしの想像においてですがね。

Left: I am broken (2011), customized IKEA Lack shelves, ivy plants. An artwork made to the same proportions as a small “stack” work by Donald Judd (1928-94), made entirely from the world’s most popular prefabricated LACK shelving system from the Swedish company IKEA, roughly cut to size with a hand saw. Right: The futility in drawing something that is moving (2011), ink on paper: An artwork in the form of a poem that describes another artwork, written by Marcel Broodthaers as imagined in 2019, age 96 years. Displayed as if discarded on the floor of the gallery. Both: Installation view at Le Forum, Maison Hermès, Tokyo. Photo © Keizo Kioku.
ART iT それでは、そこには批評がある。つまり、イケアの家具をモンドリアンとファン・ドースブルフに対する言及やドナルド・ジャッドの彫刻のレプリカへと変容させる批評が必然的に組み込まれているということでしょうか。
RG それが批評かどうかということは問題ではありません。鑑賞者がそれを批評かどうかを考えることが重要なのです。わたしが常に作品のそばにいて、そのような質問に答えるわけではないのだから。批評を意図しているときもあれば、言及のときもあるし、引用のときもあって、作品によって常に異なります。そこには特別な政治的メッセージや動機はありません。色彩と戯れる画家のように、純粋に歴史と戯れているのです。
もちろんわたしにも意見はあります。かつてモンドリアンが制作しているときに、彼はイケアができるなんて知りもしなかったはずですよね。イケアはある意味では彼の研究の終着点で、モンドリアンの影響がこんな形ですべての人々に及んだなどと知ったら、彼は当惑するでしょうし、おそらく気に入らないと思います。でも、これはわたしの憶測でしかなくて、作品内に存在する情報ではありません。
ART iT 素材として歴史を扱い続けるのはなぜでしょうか。
RG 歴史だけを取り上げているわけではありません。色彩、建築、デザイン、未来予想、貨幣という概念、それに用途、価値、機能、作者、所有、コストといった概念——あらゆるものを扱っています。なにかを題材として見なすことはとても簡単ですが、分類できないような装置や言語のようなものも、わたしにとっては題材となります。A4サイズの紙についての作品がありますが、そこでは作品のフォーマットがコンテンツとなっています。その紙は空白なので、なにもコンテンツがないと思うかもしれませんし、ただの紙じゃないかと思う人もいるでしょう。しかし、事実、目の前にあるのは、具体的な歴史的理由から、210×297ミリとなったA4サイズの紙なのです。このように、あらゆるものがコンテンツなのです。
ART iT では、あらゆるものはシステムでもあると言えますか。
RG わたしにとって、システムもまたコンテンツです。あらゆるものはシステムで、そのシステムもコンテンツであると言えば、わかりやすいかもしれませんね。目の前にあるグラスのデザインもシステムです。高価なエルメスのグラスであるという点に貨幣価値が付属し、このグラスのために選び抜かれた淡い緑色という点に美的価値が付属し、手に完璧に馴染むように人間工学が施され、握りやすいように畝がつけられ、手からすり抜けず、さらに保管するときに積み重ねやすいように、下部が小さく、上部が幅広いデザインになっています。あらゆるものはシステムです。そこの信号が変わったとき、皇居の辺りでなにかが起こるかもしれない。ある車が停まり、その後の車も、そのまた後の車も停まって、遠くの方で、最後尾の車が停車する。ある女性が歩きながら、なにかを目にしたきっかけで、母親に電話しなければと思い出して、電話をかける。あらゆるものはシステムで、あらゆるものは相互に繋がっているのです。


ART iT それでは、そのシステムの一要素を作品の題材として分離したとき、どのようなことが起こるのでしょうか。
RG 分離はできませんよね。できるのは強調することだけでしょう。美術空間における働きの利点とは、どんなものでもそこに置くことで強調することができることです。美術空間は、“展示”されているものが持つなにかを増幅しますが、すべてのシステムは繋がっているので、実際にはそこにあらゆるものが存在します。わたしたちが今いるこの部屋にあるなんの変哲もないグラスを、仮にギャラリーの床に置いてみるとしましょう。ここにあるものとまったく変わらないにも関わらず、鑑賞者にそのグラスに目を留めさせ、より深く考えさせる独特ななにかを得るのです。だから、制作する上で、あるものを残りの世界のシステムから分離するのではなく、ただ、その声が大きくなるように再文脈化しているだけなのです。
ライアン・ガンダー インタビュー
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