ミン・ウォン インタビュー

 

インタビュー/アンドリュー・マークル

 

ベルリンを拠点とするシンガポール人アーティスト、ミン・ウォンは、ビデオ作品やインスタレーション作品を通して言葉、アイデンティティ、パフォーマンスが交わる領域を探る。近年の作品ではワールドシネマの傑作を取り上げ、必要最小限の要素に絞り核心に迫るビデオ作品としてリメイクしている。例えば、2005年に制作したマルチチャンネルのビデオインスタレーション『Four Malay Stories(馬来四伝)』は、戦後に活動していたマレーシア人監督P・ラムリーの映画に基づいている。作中ではミン・ウォンは題材となっている映画の全登場人物を男女問わず自ら演じ、同じシーンを何テイク分も繰り返してマレーシア語の掛け合いを再現することを試みる。安っぽいかつらや小道具の起用、そして台詞のぎこちない反復は、不倫をしたために鞭で打たれる男性、娘の不穏当な恋愛を非難する母親らのメロドラマを不条理な喜劇に転換するが、同時に原作を特徴付ける価値観を強調する。他の作品ではライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』(1971)、ピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』(1968)、ウォン・カーウァイの『花様年華』(2000)などの映画を取り上げ、作中でアーティスト自身や他の俳優がそれぞれドイツ語、イタリア語、広東語に挑む。

しかしまた、初期の作品でも既にメディアと社会との間の複雑な関係を探求する姿勢が一貫して見られる。3チャンネルのビデオインスタレーション『Guess Who’s Coming to Dinner Now?』(2000)では、黒人・白人の間の緊張を描いた重要作品『招かれざる客』(1967)に登場する家族のキャストにアジア人を挿入し、原作のパフォーマンスを突き動かす不快感や不安の表現の歪んだ分析を試みる。そして言語の客観化を覆す『Whodunnit?』(2003/04)では、イギリスの邸宅で繰り広げられる類の典型的なミステリー劇場を多民族のキャストが演じる。そのキャストの大半は二世か三世のイギリス人であり、作中では子供の頃から話している標準的な発音のイギリス英語と、俳優として作り上げなければならなかった「外国人」訛りの英語との間を行き来する。

現在ますます世界的な注目を集めているミン・ウォンは、2009年ヴェネツィア・ビエンナーレのシンガポール館での個展が金獅子賞審査員による特別表彰に選ばれ、今年もビエンナーレ・オブ・シドニーや光州ビエンナーレなどの主要な展覧会に参加する。ART iTはウォンが今年の恵比寿映像祭のために東京を訪問していた際に、自作について、そしてユーモア、服装倒錯、ナショナルアイデンティティについて、多岐にわたる話を聞くことができた。

 

I. 初級編:アフリカ系カリブ人、アフリカ系黒人、インド系アジア人、東アジア人、中国人、アイルランド人、ウエールス人、東ヨーロッパ人、ユダヤ人
ミン・ウォン、初期の作品と管理的多文化主義の屈折について語る

 


Cinema billboard designed by Ming Wong, painted by Neo Chon Teck (2009), variable dimensions, acrylic emulsion on canvas.

 

ART iT あなたは、世界各国の映画のシーンを取り入れて再解釈することにより言葉のパフォーマンスを追求する映像作品を作られることで知られていますが、元々は演劇界で活動されていたのですよね。演劇の世界での体験は現在に至る過程の中で重要なものだったのでしょうか。

ミン・ウォン(以下MW) それだけではありませんね。昔、海外留学を予定していた頃、中国の伝統芸術――つまり書道、水墨画、刻印ですが――それらをまだ習得する環境にいるうちに学んでおきたくて、シンガポールの美術学校で勉強しました。でも、中国の伝統芸術は想像以上に厳しい分野で、途中で落ち着きをなくし、学校の外で、シンガポールの英語の演劇界で活動を始めました。そのときに、私が興味を持っていることのひとつである言葉についての探求を始めたわけです。平面の美術、つまり絵画の分野における経験と、演劇の分野における仕事とを組み合わせ、デジタルメディアを使い始めたのは修士課程に進むためにロンドンに引っ越してからのことでした。

 

ART iT シンガポールではどのような演劇に関わっていたのでしょうか。

MW 主に、1990年代初頭から半ばに掛けて、アクション・シアターという劇団と関わっていました。喜劇や社会風刺劇を上演する、従来の意味での劇団です。代表的なのは『チャン&エン――ザ・ミュージカル』という、19世紀に見せ物として世界中の注目を集めていたタイ生まれの結合双生児についてのミュージカルでした。私は台本と一部の歌詞を書き、キャスティングのプロセス、俳優のトレーニング、音楽家や振付師とのコラボレーションに参加しました。また、監督の隣に座って監督の仕事を間近で見学することもできましたし、思ってみれば本当に貴重な経験でした。

 

ART iT その台本はシリアスなものでしたか、それとも喜劇的でしたか。

MW シリアスでした――全ての要素がありました。台本によって違いましたが、私はどこか狭間のような、ほろ苦くて、笑えばいいのか泣けばいいのかよく分からない、そのような領域が好きでした。

 

ART iT どの時点から一貫性をもって、演劇や演劇的な状況を、ビデオを通して捉えるようになったのでしょうか。

MW スレイド美術学校での卒業制作もかなり演劇的だったと私は思っています。ロンドンのチャイナタウンで演じられた、一人の花婿と二人の花嫁の偽の結婚式の映像インスタレーションでした。花婿役の俳優はシンガポール系とイギリス系の混血の方、一人の花嫁はイギリス人でもう一人はアジア人。一人の女優は純白のウェディングドレスを、もう一人は中国の赤いウェディングドレスを着るのですが、二人ともヴェールをかぶっているので、どちらがどちらか分からないまま何度も入れ替わる。これは1999年の作品でした。でも自分自身を俳優として監督したのは2005年の『Four Malay Stories』が初めてだったので、ある意味、その作品から私の仕事における新たな章が始まったともいえます。

 

ART iT 自ら作品に俳優として現れたきっかけは何だったのでしょうか。

MW 当時、シンガポールのエスプラナードでのマレー文化祭の一部として開催される、マレー系のアーティストでありキュレーターでもあるカイルディン・ホリとの二人展のために『Four Malay Stories』を制作していました。P・ラムリーというマレー系の監督の古いシンガポール製の映画のリメイクをするという大望を持っていたのですが、予算がありません。そこで、全ての役を自分で演じればいいと思ったのですが、ひとつのコミュニティーを歴史上のある特定の時点から表すことに対する責任を負っていたので、これはコンセプトの面でもとてもしっくりきました。そのようなわけで、私はマレー系の男性、マレー系の女性、マレー系の少年・少女、裕福なマレー、貧乏なマレー、全ての人々を演じました。その中で、一人のアーティストがひとつのコミュニティーを丸ごと体現していることが明瞭である必要がありました。厳密に言うと、これは1950年代・60年代のシンガポールにおけるマレー系のコミュニティーでした(現在はそこから発展しているので)。もしそこで例えばマレー系の俳優に演じてもらったとしたら、性差別や人種差別や年齢差別など、プロジェクトの本来のテーマを隠してしまうような他の問題がきっと現れたでしょう。

 

ART iT それはあなたにとって心地の悪いことでしたか。

MW いえ、全然。カイルディン・ホリさんと二人で、お互いに知っているP・ラムリーの映画を取り上げることに決めました。一緒に映画を観て、マレー系コミュニティーに特に影響を与えた個所――普通の会話の中でも引用されるようになった有名な台詞や、今や象徴的とさえいえるようになったジェスチャーなど――を教えてもらいました。彼の目を通して映画を観て、それらの映画があらゆる人々に対して一種の影響力を持つことを学びました。また、今では多くがタブーとされている、これらの台詞やイメージを再演するアイディアに行き着いたばかりの早い段階から、もしマレー系のイスラム教徒である彼がそのようなプロジェクトに取り組んだら弊害が生じる可能性がある、私が中国系シンガポール人だからこそできることだと彼に言われました。コミュニティーの中にいる人間と、私のように外にいる人間とでできることが異なることが明らかでした。一定の距離感があるからこそ、鑑賞者の題材への関心がより強まるのだと思います。この位置関係こそが作品を奥深いものにしました。

 

ART iT 題材に対しては、どの程度の共感を持たれていたのでしょうか。ビデオを観ていると喜劇として伝わってきますが、それは意図されていたことなのでしょうか。

MW ユーモアは有効な手段です。観客がすきを見せているときに精神を直撃することができます。題材に対してどれくらいセンシティブであるか。私は色んな人にとって意味のある作品を作りたかったのです。マレー系の人もマレー系でない人も、元の映画を覚えている年上の世代もP・ラムレーを知らない若い世代も、そして題材への接点の一切ない外国人も。だからこの作品は多層的に機能します。元の映画や題材について知識のある人は更なる層、あるいは次元を見出すことができるかもしれませんが、ストーリーも登場人物も普遍的です。
この作品を作る際、今だからこそ意味を持ち得ること――価値観の変化を表す瞬間、特にシンガポール、そしてマレー系コミュニティーのそれをピックアップすることを心掛けました。例えば、今ではマレー系の女優が胸元を露にすることは決してありませんが、これらの映画ではよくあることでした。これはシンガポール人でも、マレー系でもない人でも理解できることだと思います。誰かがマレー系の女性を演じ、胸元を露にして性的な話をする。これはある意味新しいけれど、同時に全く新しいことではない――それが大事なところでした。また、現在忘れられつつあるシンガポール映画の黄金時代を掲げたいという気持ちも、この作品を作るもうひとつの動因でした。

 


Video still from Whodunnit (2003/04).

 

ART iT とても興味深いことに、それ以前の作品、例えばイギリスの邸宅を舞台とした典型的なミステリーを多民族的なキャストで再演する『Whodunnit?』(2003/04)などはイギリスのアイデンティティ政治から発展しているように見えますが、『Four Malay Stories』は固有性と普遍性との間の橋渡しを示唆しています。

MW 元々、アイデンティティに関する問題に興味がありました。大学で中国の伝統芸術を勉強するのは当時も流行らないことでしたが、私にとって必要な自分探しの旅となりました。出身地がシンガポールであるというのは不思議なことです。特定の分類に当てはまらない。かつてはそれを不利だと思っていましたが、実は考えようによっては有利なのです。部外者ならではの視点から、立国やアイデンティティ政治における管理策のメカニズムを見ることができるので。
ロンドンでの滞在はちょうどイギリス当局が文化的多様性の受け入れを推進していた時期と重なっており、芸術においてはこれらの政策はアーティスト、特にイギリス人ではないアーティストに対する人々のイメージに影響を及ぼしました。『Whodunnit?』では、カテゴリーに基づいた「管理的多文化主義」から発生した諸問題のいくつかに直接触れていました。
その頃、資金援助の申請書には必ず文化的多様性モニタリング書式というものが付いてきて、申請者は案件があらゆる人種にとって意味を持つものか、あるいはそれらの人々を雇用するのかについての質問事項にチェックマークを付けて答えなければなりませんでした。その「あらゆる人種」というのが、文字通り「黒人、白人、ほか」というカテゴリーで記されていました。私がロンドンに滞在した十年間のうちに、アフリカ系カリブ人、アフリカ系黒人、インド系アジア人、東アジア人、中国人、アイルランド人、ウエールス人、東ヨーロッパ人、ユダヤ人、そして白人+アフリカ・カリブ系黒人、白人+アフリカ系黒人、白人+アジア人などの混血の組み合わせが延々と並べられるようになりました。
この政策は本当に馬鹿げた、酷いものでした。資金援助を求める機関や個人が、これらの要求に答えるために「異民族」の人を雇って表に出てもらい、実際の体制をその陰で維持するようになりました。あるいは、異文化の芸術のためのプログラムを別途企画しました。例えば、ロイヤル・バレエ団が若いダンサーのための通常のプログラムと並行して、若いアジア系のダンサーがアジア風のダンスを踊ったり、ブラジル系のダンサーがブラジル風のダンスを踊ったりするプログラムを別途実施する。文化的多様性の実際的な複雑さを想定していない、極めて短絡的な政策でした。
そこで私は人種のカテゴリーのリストを基に、それらのカテゴリーに合わせてキャスティングをしました。申請書では全ての項目にチェックマークを付けて、プロジェクトを実行するための資金を得ました。これは作品そのもののひとつの大きな要素で、その文化的多様性モニタリング書式をインスタレーションの一部として使いました。

 

ART iT 当局はあなたがシステムを操っていることを認識していたのでしょうか。

MW 多分、していたと思います。でも当局の仕組みを考えてみてください。彼らは「文化的多様性専門家」を雇って、そこで終わる。組織を運用している人たちには何の関係もないのです。自分たちの役目を果たしたら、そこで完結します。

 

ART iT 正にシンガポールでもありそうな話ですね。

MW それで興味を持ったのだと思います。シンガポールでは4つのカテゴリーがあります: CMIO、つまり中国系(Chinese)、マレー系(Malay)、インド系(Indian)、ほか(Others)。それらは元々、イギリス人の植民地管理者が人種間の対立を緩和するために人口を区分した分割統治のコンセプトに由来します。多分、多くのシンガポール人はまだ自らのアイデンティティをこれらの狭いカテゴリーを通して捉えているのではないかと思います。
『Whodunnit?』では特に発音というものを取り上げていました。作中で俳優たちの英語の発音がクラシックな容認発音(1930年代のBBCを思い浮かべてください)、偽物のイギリス訛り、そして偽物の外国訛りとの間で移り変わります。キャストの大半は二世か三世のイギリス人だったので、外国人のアクセントを演じるためには祖父母や親の話し方を真似るか、想像を基に作り上げるかのどちらかしかありませんでした。例えば、中国系の俳優、ジョナサン・チャン=ペンズレーは、南アフリカで育った後にエセックスに引っ越したのですが、プロの俳優として頼まれる仕事は大抵中国語を話すウェイターや暴力団員のような役ばかりで、アメリカのハリウッド映画を基にした偽物の中国人のアクセントを作り上げる羽目になりました。中東系のカテゴリーを埋めた俳優のウィリアム・エル=ガディはエジプト系の混血の方でアラブ語はほんの少ししか分からないのですが、一緒に仕事をしていた頃はちょうどポスト9・11 で、アラブ系のアクセントの悪者の役を演じる仕事が次々と入ってきていました。彼らは皆、プロのイギリス人俳優ですから、シェイクスピアも素晴しく演じ切ることができるのに、外見故に特定のスキルを取得しなければなりませんでした。『Whodunnit?』はこの状況や、ポピュラーカルチャー産業の仕組みを露呈していると思います。

All images courtesy the artist.

 


ミン・ウォン インタビュー
反復がもたらすシネマへの提案

I. 初級編:アフリカ系カリブ人、アフリカ系黒人、インド系アジア人、東アジア人、中国人、アイルランド人、ウエールス人、東ヨーロッパ人、ユダヤ人

II. 中級編: アップレーゲン、アオフレーゲン、アオスレーゲン、ベレーゲン、バイレーゲン、ダールレーゲン、アインレーゲン、エアレーゲン

III. 上級編:Yishmór, Tishmór, Tishmór, Tishmrí, Eshmór, Yishmrú, Tishmórna, Tishmrú, Tishmórna, Nishmór

第3号 シネマ

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