19:松尾邦之助と読売アンデパンダン展(3)

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とはいうものの、残念ながら現時点で松尾が『読売アンパン』(当初は『日本アンデパンダン』)の本当の企画者であった証左は見つかっていない。
けれども、この前代未聞のアンデパンダン展が戦後まもない日本で始まろうとしていたのに先立って、松尾が読売新聞社の副主筆という地位にいながら、同時に「日本アナキスト連盟」の青年組織であった「解放青年同盟」の活動メンバーと公に接触し、アン・リネル、マックス・シュティルナー、辻潤といったアナキスト、ニヒリストの詩人や哲学者についての研究会を組織し、積極的に活動していたのは事実なのだ。そして、『読売アンパン』開幕前夜の1948年には、その流れを汲んで松尾を核に「自由クラブ」が発足している。実は、この「自由クラブ」が掲げた理念が、無鑑査・自由出品をうたった『読売アンパン』の考えと、極めて近いところにあるのだ。
 
「自由クラブ」の規則とは「無規則の規則」と呼ばれるものだった。それによると、「自由クラブは、何ものにもとらわれない、何者も尊敬しない、自己の思想の発展のために努力する全き自由の友の会である」とされている。そして「何ものにもとらわれない、何ものも尊敬しない」というのは、既成の権威による審査を排し、誰でも自由に出品することを可能にした『読売アンパン』の理念の核心に通じる考えにほかならない。
 
ちなみに戦後、この「自由クラブ」ヘと流れ込むことになる日本におけるアナキズムの思想は、すでに大正期において、『読売アンパン』の原型とも言うべき展覧会を実現している。日本における民衆美術運動の先鞭とされる「平民美術協会」を母体に、1919年頃に正式に誕生した「黒耀会」による一連の展覧会がそれである(このあたりの経緯については、小松隆二『大正自由人物語 望月桂とその周辺』、岩波書店、1988年を参照した)。この会を主宰する求心力となった東京美術学校出身の画家、望月桂は、同年の暮れ、「民衆美術宣言」と名付けられたマニフェストを打ち出す。それは以下のようなものであった。

「現代の社会に存在する芸術は、或る特殊の人々の専有物であり、又玩弄物の様な形式に依って一般に認められている。こんな芸術は何処にその存在を許しておく価値があろう。此様なものは遠慮なく打破して吾々自主的のものを獲ねばならぬ。これが此の会の生れた動機である。」
(前掲書より、119〜120頁、部分的に現代仮名づかいに改めた。)

この宣言に続く翌1920(大正9)年4月、黒耀会第1回作品展覧会が牛込区築土八幡停留所間(現新宿区築土八幡町)の骨董屋同好会で3日、4日の二日にかけて催された。出された作品が規模のわりに百数十点と多かったのは、望月の信念にもとづき「出品作は無審査ですべて展示する」方針が貫かれたからにほかならない。そのなかには、大杉栄や荒畑寒村といった思想家をはじめ、絵筆をろくに握ったことがないような労働者も多く含まれていたらしい。同時に黒耀会は機関誌『黒耀』を発刊、一号のみの短命に終わったものの、創刊号では大杉栄がロマン・ローランの『民衆芸術論』の翻訳を寄せている。
 
その後、黒耀会展は1922年の第4回展まで続いたものの、最後の会期中に当局より作品の撤去を命じられ、そのまま解散してしまう。けれども、「無審査・自由出品」の展覧会という点において、黒耀会展はまぎれもなく、読売アンパンに先立つ稀な例なのである。
 
これまで『読売アンパン』は、敗戦後の占領状態から国際社会に復帰する際、文化においても自主独立という先進フランス画壇の精神を継承するところから出発したと考えられてきた。少なくとも、公的にはそう見えたかもしれない。けれども、その内的動機には単なる自主独立を超え、むしろあらゆる権威を否定するアナキズムの美術展という理念が、黒耀会展から引き継がれるかたちで流れ込んでいた可能性はないだろうか。事実、読売新聞パリ支局時代や戦後の読売新聞社の初期体制を見回してみたとき、そこには大杉栄、辻潤、そして松尾邦之助といった、事態の推移を想定できる顔ぶれが十分に揃っている。もしかすると『読売アンパン』とは、帰国した松尾を囲んで「無規則の規則」をうたった自由クラブの面々によって戦後、新たに実現された、いわば再生された黒耀会展だったのではないか。加えて、「無規則の規則」(「自由クラブ」)で展覧会を実現しようとすれば、それはおのずと「無審査、自由出品」(『読売アンパン』)とならざるをえないことにも気づくのだ。
 
ここで前回、少し心に留めておいてほしいと記した松尾の船上演説について思い起こしていただきたい。その言い回しが、第一回『日本アンデパンダン展』(1949年2月)の目録冒頭に印刷された文章の口調と、そっくりだからなのだ。ここに両者を改めて並べ、比較してみよう。

「われわれ日本人が、無分別な戦争に踏みきり、今日見るようなみじめな不幸な敗戦をもたらしたのは、われわれ同胞が、迷信と宗教を混同する封建人であり、個人としての独立精神も、批判精神もなく、考え方がいつも絶対で、全体主義であったという弱さが根本にあり、それが権力者にとって巧みに利用されてしまったのです。とにかく、この戦争は、権力者が天皇の名で仕組んだものであり、庶民大衆のものでもなく、そこに自然発生的な何者もなかったということに、根本的なエラーがあったのです。国民は騙され、他方、少数権力者が言論の自由を圧殺し、非合理な惟神(かんながら)政治を喧伝強制し、正直な歴史研究者の説を歪曲させたばかりか、教育によって思想を統制し、国民を騙しつづけてきたのです。」
(松尾邦之助『無頼記者、戦後日本を撃つ』、社会評論社、2006年、66頁)

「わが美術界現在の状況は各派団体の乱立、展覧会氾濫の多彩な裏には依然として封建性、情実因縁、功利、政策等がいり乱れておよそ民主化とは縁遠い複雑、微妙の府といわれているが、これを打開粛正して最も高い芸術的創造の清新の気を吹きこむには一切の行きがかりを捨てて、完全な自由競争の形による最も民主的な展覧会方式とされているアンデパンダン展をおいて他にはありません。専門たると非専門的たるとを問わず、また有名、無名を問わず全ての人に美術の門を無制限に開放し、これによってはじめて制作と鑑賞の自由が得られるものであります。
 この故にこそ本社があらゆる困難と犠牲を忍び、わが国最初のこの展覧会を開催しもって美術革命を敢行した次第で、ここには如何なる党派も因縁も情実、垣根もなく、あるものはただ実力と創造であり、無制限に発揮される最も高い芸術への情熱であります。本社はこの企てが真の民主化を望む皆さんの共感を得ることを確信するものであります。」
(赤瀬川原平『反芸術アンパン』、ちくま文庫、51頁を参照、下線筆者に加え、全体に現代仮名づかいに改めた。)

両者の思想的背景と時代に由来すると思しき熱の共有は、もうあきらかだろう。とりわけ後者を一読して気づくのは、そこに多用された「無の思想」とも言うべきアナキズムの黒い薫りにほかならない。「一切の行きがかりを捨て」「完全な自由競争の形」「非専門」「無名」「無制限に開放」「如何なる党派も因縁も情実、垣根もなく」「無制限に発揮」−−−これらはみな、「無規則の規則」がそのまま美術展に適用された結果そのものだ。やはり『読売アンパン』は、実際にはフランスの画壇ゆずりの自主独立展の日本への移入などという代物ではなかった。もっと遥かに過激な思想を最初から秘めていたのだ。それは「美術における無政府主義状態」と言うべきもので、「アンデパンダン」という形式は、この「美術革命」を実現するために必要な選択肢であったにすぎない。
 
残念ながら先の宣言文を起草した当事者が本当に松尾であるか否かは現在、わかっていない。けれども私は、これまで書いてきた歴史的経緯や思想的背景から考えて、これを直接、松尾が記したか、もしくは松尾の考えのもとに書かれたことを疑わない。
したがって、『読売アンパン』が初期においては、いわゆる「アンデパンダン展」の体裁を保っていたにもかかわらず、次第に予期せぬラディカルな参入者たちによって当初の秩序を失い、ついには制御不可能な無政府主義状態に陥り中止を余儀なくされたという従来の通説を私は採用しない。『読売アンパン』とは、最初からそのような無政府主義状態を想定して創案された「無規則の規則」展にほかならなかった。1960年代の「反芸術」運動は、その宣言文に眠っていた遺伝子のプログラムを、時代の熱に乗って一気に解放したにすぎない。
 
ひょっとすると『読売アンデパンダン展』とは、松尾邦之助によって再興された「黒耀会展」であると同時に、大杉栄に代表される大正期アナキズムの精神が、敗戦後の前衛美術を舞台に狂い咲いた、ひときわ「黒い」最後の炎だったのかもしれないのだ。(了)

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